「っ!!」
それはまるで墜落のような覚醒であった。
意識を暗雲の彼方へ飛ばされたかと思えば、次の瞬間には現実という地表へ蹴り落とされる。
現実、現在状況。己が実体の肉体は、固い地面で落下重力によって押し潰されるようなことはなく、暖かな床の中にあった。
そして身体を包むものは座敷牢に敷かれた布団ではない。ベッドシーツとスプリングの埋まったマットレス、たっぷりと空気を蓄えた羽毛布団。
居所は古風な洋室だった。
紅い壁。紅い天井。カーテンすら暗く紅。まるで血を塗り込めたかの深紅が部屋中を彩る。
暴力的色彩が眼球を滅多刺す。刺し貫き、視覚に相応の負荷を強いるだろうこの空間は。
静謐だった。無音という意味合いにおいてこれほど完璧な静けさはそうあるまい。あるいは、かの地下牢をすらも凌ぐ。
静かな……静かなだけ、なのか。
違和を覚えた。名状し難い違和感。これは。
「ここは……」
「紅魔館ですわ」
意図せず口をついた言葉に期せず、柔らかな応えがあった。
ひどく近く、己が横たわるベッドの傍らから、その声音同様に
純銀のボブヘア、両頬で三つ編みと飾りリボンが揺れる。
可憐と瀟洒の化身のような少女が、完璧を体現したかの少女が、十六夜咲夜が己を見下ろしていた。
うっとり、と。滴る蜜のように蕩けた目で。
「何故」
「森の奥の、あの廃棄された牢獄から連れ出しました。見付けるのはそれほど難しくありませんでしたわ。所詮は妖獣の浅知恵。あぁいえ半獣人だったわね。そういう人ならぬケダモノの巣を暴き出すのは得意なの。これも昔取った杵柄かしら」
「牢……彼女は、上白沢さんは、どうされましたか」
「…………」
纏わり粘り、あるいは抱擁するようだった眼差しが、ナイフのように尖るのを見た。
銀製の視線。暖かみを失くし、ただ鋭痛ばかりを湛える色彩。
怒りではなかった。そんな熱を持ってはいなかった。ただ純粋に、認め得ぬものと定めて。存在を許さぬという意志。
かみしらさわ、この口がそう発音することすら許さぬ。
蒼銀の少女の瞳は冷たくそう物語った。
しかし、それに尻込みして問わぬという訳にはいかぬ。問い質し、なんとなれば誤りを正さねばならぬ。
俺は、取るべき責めを置いてきた。
彼女ともっと、語らわねばならなかった。彼女の行為、あの仕儀へと至ってしまった思い……想いに、なにがしかの解答を導き、提出せねばならなかったのだ。
「家政長殿、いえ……十六夜さん。ありがとうございました。あの場から助け出していただけたこと。このような無様に成り果て、運ぶだけでもさぞご苦労をお掛けしたことでしょう。このようにして尊館の一室を占拠させてまで、匿ってくださった。重ね重ね感謝に堪えません」
「当たり前のことをしたまでです。私の願望を実行した。ただ、それだけ」
「ご恩を賜った。事実であり、それは己が自覚すべき当然でもあります」
「……恩に着てくださるの?」
「無論」
「なら、そのお返しを求めてもいいのかしら。意地汚いと、お笑いになる?」
「そのようなことがあろう筈もない。この報恩は必ずや、全霊を以て果たさせていただく」
この役立たずの身体に、受けた感謝に見合うだけの価値を果たしてどれほど創出できるものか。絶望的と言って差し支えない。
しかしそんな手前の実情など関わりなく、彼女に対する恩返しは己の生命の巨大な使途となった。必ずやの言に断じて偽りはない。
だが、しかし、今は。
「今少し、この身にお時間をください」
「……」
「上白沢さん、そして魔理沙さん、射命丸さんに、己は釈明をせねばなりません。その御心を騒がせたこと。その末に無用の諍いを招いたこと。己に……この俺にっ、そんな価値は断じて! 断じてありはしないのだとッ!」
なんとしてでも彼女らに理解させなければならない。
大腿骨折と膝蓋骨の粉砕によって動かぬ両脚。幾日も寝たきりだった為に土嚢の如く鈍重な肉体。
もはや無力無能の二語を冠して憚らぬ。
ならば這ってでも行く。行かねばならぬ。もとより果報を寝て待つ分際にないのだから。
掛け布団を払い除け、上体を起こす。たったそれだけの動作を終えるだけで体力と時間を蕩尽する。先が思いやられるとはこのことだ。
鼓動が早まり増勢する血流が耳孔に喧しく響く。
寝台で息を荒げる己はさぞ滑稽だろう。己のその無様を、瀟洒な彼女は見詰めていた。
微笑。
ひどく優しげな面持ちだった。眉尻がややも下がり、蒼い瞳はともすれば滲み、潤んでさえ。
曰く言い表し難い、そんな
ああ、いや。これは、そうだ。知っている。見たことがある。忘れられるものか。この俺がそれを忘れてよい道理などない。
病床。消毒液の臭い。白い白い部屋。青白く血管の浮いた細面。痩せ細り弱り果てた────母が。
最期に浮かべた顔。あの表情を。
憐憫。
俺はこの少女に、憐れまれていた。痛ましいまでに。涙を流させるほど。
どうして。
そんな問いを口にしようとした、その瞬間。
彼女はそっとそれを掲げた。
細い鎖が腰元から伸び、それの頂点の
銀時計。華奢な少女の掌に納まるような、小振りな懐中時計だった。
「時間を」
「は」
「時間をあげる。貴方の望み通りに。けれど、あげられるのは“これ”だけよ。それ以外は、駄目。もう駄目なの」
首を左右して、刹那、彼女は目を伏せる。恥じ入るように、乙女の頬が赤らむ。
「貴方に捧げる、この“
「それは、如何なる」
「ふふ、こういうこと」
少女の手が握られる。握り、その指先は躊躇いなく懐中時計を、文字盤の硝子を砕いた。
自然の仕儀、割れた破片が白い指を切り裂く。紅い血潮が銀を曇らせる。滴り、袖口を黒く汚す。
「なっ、なにを!?」
悠長に驚愕の声を上げる己を無視して、いや依然として、慈悲深いその蒼い瞳は見詰め続けている。抱擁のような視線が、己の姿を撫でていく。
彼女は割れた時計の文字盤から、それを摘まみ出した。
黒い針。先端が
「この部屋に貴方を閉じ込める。それだけで満足できると思っていた。お嬢様のお許しを……言祝ぎを、頂戴して、もうそれだけで十分、十分過ぎるくらい幸せだって……でも」
彼女が身を乗り出す。その
花の香。甘く可憐な。どうしてか、それは官能的に記憶野を引っ掻く。いつか、どこかで嗅いだ覚えのある、ような。それに脳髄が陶酔しかける。
戸惑いは喉奥の反問すら霧散させた。
「初めて会った日から感じてた。貴方と私は似てる、って」
「貴女と……?」
この身が? 十六夜咲夜に?
まさか。
価値の有無については論外のこととしても、この少女と我が身にほんの一欠片ばかりの相似があるとも思えぬ。罷り間違い思うことすら、身の程を知らぬ妄念。
いったいどこが、いやなにが。己のなにをして、そのような。
「至上の価値を、自己ではなく外に置いている。私の主への忠節が、生命霊魂よりも高い、自己存在の頭上にあるように。貴方は自己以外を尊び、慈しみ……自己の無価値を妄信している」
身体を包むその細い腕に、力が篭った。
「
お嬢様。レミリアお嬢様が、私の全てを捧げる対象であるというその事実さえあれば。
「いい、と……思っていたのに……」
吐息が震えている。肌身を通して、少女の鼓動の高鳴りを覚えた。
「貴方は認めた。私を、私の価値を、認めてしまった」
触れることを躊躇うほどに少女の体は小さく、軽く、儚い。
しかし己にひしと縋る、その懸命さが、必死さが、なによりも健気で。
到底、振り払えるものではなかった。
「単なる肯定でも、まして否定でもない。認めて、心から尊んでくれた。主従という在り方に身命を尽くす、その様を」
「……貴女の直向きな忠心に否定の余地などありましょうか」
「そう言ってくれる人が、心からそれを思ってくれる人が、他にいる?」
「居らぬ筈が」
「いなかったの。そして貴方は、初めての人」
「これから先、理解者が現れるやもしれません。むしろ今の今まで貴女の前にそうした者が現れなかったことこそが数奇だったのです」
それこそ、己のような外来の、数多の価値観を培った誰かが。
己などよりもっと叡哲で、思慮深い誰かが。
彼女の忠誠の真なるを語ってくれよう。己は所詮、その真価に偶さか行き会ったに過ぎぬ下人だ。
手代として紅魔館の外商を任され、少なくない機会、彼女の家政長としての、貴人に仕える従者としての振舞いを目の当たりにしてきた。
主人を仰ぐ少女の背には純一の忠義心が宿る。卑屈も僭称もなく、ただ直向きにレミリア・スカーレット貴嬢を
ただ後ろ暗い過去に怯み、ただ劣悪な自己を嫌悪するばかりの卑劣漢たる己が、彼女に畏敬を覚えるのはただただ
「そうね。いるのかもしれない。そんな誰かも」
「っ、ならば」
「でももう駄目。言ったでしょう? もう駄目なの。貴方でないと駄目なの」
俺は俺の愚劣を、無価値を疑わぬ。
そして俺は、この、瀟洒で完璧で、幼気でいじらしい少女の尊さを知っている。ただ、誰かに褒められることに馴れていない。そんな愛らしい少女の、純な心の価値を。
その事実はもとより不動。己でなくてもよいのだ。彼女は敬われるべき人物であり、その当然はいずれ、世の人々、誰も彼もの知るところとなる。そう確信できる。
「貴方がいいの」
己なぞの出る幕はない。ないのだ。
「私を正しく見止めてくれたことが嬉しかった。私の在り方の、味方になってくれて、嬉しかった。自分自身を差し置いてでも大切にしたいものがこの世にはある。それを理解してくれたことが、嬉しかった」
「俺はただ、憎いだけだ……俺が存在することが厭わしいのだ……利他精神などはその欺瞞に過ぎない」
上白沢さん、かの御人がそれを知らしめてくれた。
「貴女の
「それがいいの」
「共感ですらない! 同情にも値しない! 俺と貴女はまったく違う!」
「いいえ」
驚くほどに淀みなく、ともすれば事も無げに、彼女は己の精一杯の反論を否定してみせた。
そっと、少女は身を離す。二人分の醸成された熱が解け、消える。その名残を惜しむ我が内心を自覚し、ひどく羞恥した。
彼女と相対する。
虚無のような蒼と、相対する。少女の瞳のあまりの深さに、腹の底から慄いて。
にっこりと花開くように少女は、笑った。
笑っていたのだ。慈母の如き憐れみの貌で。
「自分の死を糧にしてくれる誰かを欲し求める貴方。自分の血を糧に君臨する主を奉じ愛する私。ほら、こんなに似てる。こんなにも度し難い。こんなに愚かで、滑稽で、まるで病のよう。ふふふふふふふ」
「…………」
「けれど、私の方が貴方よりもずっと欲深だった。お嬢様に全て捧げる筈だったこの血を……私は、どうしても」
血。鮮やかな血潮は未だ、少女の白い手から流れ出、伝い落ちている。
今も、その一滴が、床へ。ぽたりと。
ぽたり、と。
落ちて────いない。
少女の手を離れた血の滴は小さな球形を為し、そのまま中空に静止した。
「!?」
「貴方に捧げずにいられなかった」
すとん、と。何程の抵抗もなく。
それは胸骨の合間、鳩尾よりやや下方から体内へ侵入した。
手にした時計の針を、少女は刺し込んだのだ。己の心臓へ。
「が、はっ」
「時軸の針と私の血。これで貴方の時は止まる。厳密には、時間流の外に追い遣られる。もう戻れない。もう
「いざ、よい、さ」
「これで……貴方は咲夜の虜です。“咲夜の時間”の虜囚になった」
遠ざかる。全ての色が、音が、事象が、世界が。
俺を置いてゆく。俺一人を置き去りにして往く。
灰色に脱色していく視界、己以外の全てが停止した光景。運河のように強烈に己が身を押し流していた“力”、ただ身を任せるだけでよかった揺り籠から弾き出され、居所を失う。
想像を絶する喪失感と孤独感。
時間に取り残されるという絶望。
しかし、その手は差し伸べられていた。嫋やかな、精緻な芸術品めいて、美しい手。
「大丈夫。私がいます」
美しい少女は、とても憐れみ深い微笑を湛えながら、言った。
「私だけが、貴方を見ることができる。私だけが、貴方と話ができる。私だけが、貴方に触れられる。そして……貴方が見られるのも、声を言葉を交わせるのも、触れられるのも、私だけ」
月並みですけれど。少女はそう、まるでとっておきの冗句を口ずさむように。
「この永遠の時の中で、貴方を放しはしないわ」
主人公の状態をざっくり言うと、キングクリムゾン発動したまま解除も外界への干渉も不能な感じ。