楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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※原作キャラに対する性的描写(R15相当)が含まれます。ご留意くだされば幸い。





解(了)

「執着って感覚が私には解らなかった。何かひとつに心を縛られる。そのひとつだけを求めて、縋って、自分だけのものにしたいなんて、下らないと思った。独占(わたしだけのもの)っていうものが私にはなかった。うん、だから、その……えっと、ね……あんたが初めて。『欲しい』も『独り占め』も、あんたが最初で、あんただけ、そして……きっとあんたが最後。燻りはあったの。そう、出会ったときから。知らない感情だった。居ても立ってもいられないような、くすぐったいような。あんたと暮らして、同じ時間を過ごすことが、なんだか堪らなかった。平静でいられなくて、なんでもない小さなことに一喜一憂して。でもそれが……なぜか嫌じゃない。戸惑ってはいたけど、その変化を止めようとしなかったのは私の消極的な怠慢だったのかな。それとも、願望だったのかな……どっちにしたって、私はあんたとの今を選んだ。あんたがいる家、あんたと囲むご飯、あんたが私の面倒を見てくれることが恥ずかしくて、嬉しかった。幸せ、だった……けど、それは同時に恐怖の始まりでもあった。あんたとの日々が幸せで幸せで幸せなほど、失うのが怖くなった。堪らなくおそろしかった。想像するだけで体が震えるの。胸の奥が潰れそうになる。それで理解した。ああこれが執着なんだ。依存なんだ。私はもうあんたなしじゃ生きていけなくなったんだって。だから」

「……だから、こうした、と」

「うん! ()()したの」

 

 少女は言って、晴れやかに笑った。

 居間に少女と二人、膝を突き合わせて座っている。

 縁側から望む庭木から、褪せた葉が一枚、ひらりと落ちた。

 

「山頂から麓まで、山ごと空間を閉じて時間を封じたから、もう誰も入って来れない。萃香の霞も、紫の目でも届かない。ここは狭間の一番底だから」

 

 それはあたかも夏休みの課題である自由工作の出来栄えを誇るような純真さだった。

 

「二人っきりだよ」

 

 そしてまた、今度は蕩けるように笑う。取って置きのサプライズを。贈り物を差し出すかの。

 

「……」

 

 訊ねるべきことがある筈だった。それこそ山のように。

 眼前の少女の、一息に発した言葉の数々。満足に理解しているとは言い難い。いや、恥を捨てて言えば、己の脳髄の理解能力の遥か外側、地平彼方を飛翔した事柄であると断言できる。

 それでもどうにか散乱する事象から事実のみを抜き出すならば、現在ここ博麗神社は外界と隔絶されている。

 空間を閉じた、という。壁か膜か、イメージを働かせるなら何かしらの遮蔽物で土地全体に覆いをしたということだろうか。

 時間を封じた……そこに至ってはもはや想像することも困難だった。字義から類推したところで、それが到底正解とも思えなかった。

 

「……神社を出るな、そう仰いましたね」

「うん」

「つまり、この措置は、その為に……」

「そう。あんたと……」

 

 ふと恥じらうように彼女の頬が仄かに赤らむ。一度逸らされた目が、またこちらを捉える。

 伏し目がちに、少女は言った。

 

「あんたと私だけの世界が欲しくなったの。誰の邪魔も入らない。誰もあんたを奪えない。そういう場所」

「奪う、など。誰がそのような……」

「妹紅、慧音、幽香、阿求、聖、咲夜、棒手振りの娘、酒屋の女中、茶屋の店員、寺子屋の年長。ここ三月の内に、あんたに会いに来た面子。違う?」

「……は?」

 

 反問のような体裁であったが、それはただの間の抜けた呻き声だった。

 彼女が今、指折り数え上げた名前は、確かにごく最近対面する機会のあった人々である。彼女の言に、何の間違いもありはしない。

 間違いのないことがおかしかったのだ。

 

「いつ」

「だから、勘だってば」

「……………………」

 

 いくらなんでも、と。言い募ることさえ出来ない。

 そうなのだろう。彼女の言に嘘はない。まるで見てきたかのような精確さで、彼女は己の動向を完璧に把握していた。

 しかし……しかし堪えきれない反駁というものがある。

 

「確かに、御縁あって面識の叶った方々です。御世話をお掛けし、少なくない御厚意も賜りました。ですが、それ以上のものもまたないのです」

「今は、ね」

 

 またしても、両瞳に虚穴が空く。しかしそれが、激情のみが生んだ混濁の色でないことを知った。

 不安だと、おそろしいと、少女は己に全霊で訴えている。

 ならば、否、であればこそ。

 

「……博麗さん。貴女が自分を……必要と、自分などと過ごす日々を幸福だと、そう仰ってくださること、本当に嬉しく思います」

「! よかった……」

 

 表情に安堵は満ち、瞳には喜びの色が滲む。

 

「ですが」

 

 それが曇ることを覚悟の上で、己は首を左右した。

 

「これは、承服致しかねます」

「……」

 

 石を吐く思いで発したこちらの回答に、しかして少女は即時反応を示さなかった。あるいは激昂されることもあらんやと、身構えていた肩を透かされる心地。

 少女はひどく落ち着いていた。

 

「……どうして?」

「貴女は博麗の巫女です。現世から居所を逐われた幻想達の最後の楽園、その守護者ではありませんか。貴女には、務めがある。とても重要な務めが。それを投げ出されるお心算(つもり)か」

 

 それだけはあってはならない。この地こそ人妖、神魔の理想郷。安住の地に他ならない。

 しかしそれも、彼女が、博麗の巫女がその均衡を保てばこそ成り立つのだ。彼女が居なくなれば途端にその存続は危うくなろう。

 あってはならない。

 何よりも、こんな芥のような男がその銃爪になろうなどと、まさしく悪夢である。

 

「大丈夫だよ、錨は打ってあるから」

「錨……?」

 

 朗らかに少女は言う。

 

「今、幻想郷は固定されてる。この神社を使ってね」

「?? それは、一体」

「うーんとね。現世は謂わば大きな湖なの。そして幻想郷はその上を漂う泡。いつ漣に飲まれるかもわからない儚い場所。その泡を保護してるのが博麗大結界。まあ、泡が風船になる程度だけど」

 

 唇に人差し指を添えて虚空を見る。言葉通りの光景を頭の内に思い描いているのかもしれない。

 指が宙を弾く。湖に浮かんだ風船を爪弾いたのか。

 この世界そのものを。

 

「幻想を否定する現実が波になって襲ってくる。幻想郷はただそれに耐えるだけだった。ゆらゆら押し流されながら、現世と幽世の間をぷかぷか頼りなく浮いてる。今までは、ね? でも今はもう違う」

 

 指先が畳の目に這わされた。当然ながら指し示されているのは畳でも床板でもないのだろう。

 

「博麗神社、もっと言うとこの神社が建立してる山を()()にしたの。風船の紐の先に結わえるようにして。だから今、幻想郷は嘗てないほど安定している。たとえ一つ二つ異変が起きたとしても、大結界が揺らぐことだけはない」

「…………」

「ふふ、心配事は消えた?」

 

 少女は小首を傾げる。余裕すら浮かんだ笑みで。

 そんな彼女に比して己の精神は平静から益々に遠ざかっていく。

 

「し、しかし……しかし! 残された方々は!? 幻想郷には、貴女を慕う多くの方々がおられる!」

「ふーん、そんな奇矯なのがいたかしら?」

「はい、間違いなく」

 

 断言する。

 この地には博麗霊夢を慕う、否、愛する人々がいる。それは人間であり、妖怪であり、悪魔であり、神にさえ、確実に、深く深く彼女は愛されている。

 彼女のその、孤高にして空なる在り方に惹かれた者は、何も己だけではないのだ。己のみがその魅力に気付けたなどという妄想こそ思い上がりも甚だしい。

 

「彼ら、彼女らの想い。親愛を絶ってしまわれるなど、あってはならぬことです」

「どうして?」

「――は? ど、どう、とは」

「どうしてダメなの?」

 

 ひどく朴訥として少女は問うた。それはさながら幼児の口ぶり。大人が咄嗟の答えに窮する、純真に過ぎる疑問の発露。

 叡哲から遠く対極に立つ俺は、呆然と返す言葉を失くした。

 

「もう、要らない……師も、腐れ縁も、戯れの友も。あんただけでいい。あんただけが、私の“欲しい”だから。あんただけが私を……愛してくれるから」

「違う」

「何が違うの?」

「……違うのです、博麗さん」

 

 違う、とまた繰り返す。要領を得なかった。酔漢の戯言に近しい何かだった。

 けれど少女は柔く笑み、ゆったりとしてその続きを待っていた。慈母の抱擁を思わせる。ああそれこそ永遠にでも、待ってくれるに違いない。

 故に否定せねばならない。彼女の、間違い。勘違いを。

 

「自分は……俺には、貴女の執心を受ける資格などない。俺は、俺は貴女を……貴女のことを……」

「……」

 

 先の反駁など比較にもならぬ躊躇。その一言を口にするのが恐ろしくて堪らない。己の醜悪さを、この少女に知られることが、ただ恥ずかしかった。身震いする。震えがいずれ肉体を粉にしてしまうのではと愚昧な想像が浮かぶほど。

 ――――なればこそ。

 だからこそ言おう。そうすれば、彼女は屹度思い直す。この男がそのような想いを寄せるに値しない卑小な人間なのだと、真に叡哲な彼女ならば理解できる。今まで己が己自身に施していた欺瞞を看破し、齎された失望がその正気を取り戻す。そしてあるべき正しい嫌悪を、この身に呉れることだろう。

 

「俺は貴女を――――愛してなどいない」

「……」

 

 架空の石は食道を掻き毟り、遂に血反吐が喉を破裂させる……無論、幻覚である。そのあまりの怖気が、有りもしない愚想を呼んだのだ。

 しかし現実に、舌には鉄錆の味が広まっていた。どうやら無意識に頬の裏側を噛み切っていたらしい。

 皮肉を噛み潰し、言を紡ぐ。あるいは血反吐よりも汚らわしいそれを。

 

「俺は、貴女に、同情をしたのです」

 

 そう。それこそ己が彼女に、博麗霊夢に出会い、最初に抱いた感情。

 

「俺は貴女を憐れんだ。孤高であると同時に、どうしようもなく孤独な貴女に、共感し、同情を抱き……ああこの少女はなんて可哀想な人だろうと憐れんだのです!」

 

 楽園の巫女。泡沫のような幻想と津波のような現実を采配する均衡の女神(ユースティティア)

 凶悪な妖怪を、悪鬼を、荒御霊すら鎮め、退ける超人。それが博麗霊夢だった。条理を超えた高きところに坐す人だった。

 けれど。けれど同時に、彼女は……どうしようもなく孤独な人だった。高みに在るが故に? いや、現実はもう少しだけ悲愴であった。

 少女には家族がなかった。友は有ったが、友“人”と呼べる人間は殆どなかった。

 同じ種族である筈の人間達、幻想郷では格段に数も少ない彼ら彼女らは、一様に博麗の巫女を畏れていた。あるいは、彼ら彼女らにとっての脅威である妖怪と同一視する嫌いさえ見せて。その脅威から人間を護っているのは誰あろうかの少女であるにもかかわらず。

 山の頂に建つ古めかしい神社の一室で、独り座する少女の姿。

 誰とも交わらず、親しまず、何にも執着しないその生き様はとても美しい。優雅であり、風雅である。なるほど感嘆の吐息を禁じ得ない。

 ――――しかしその様は、どこまでもうら寂しかった。

 彼女がもっと、非人間的な、尋常の世界などに興味を持たない超然とした人であったなら、こんな感想は抱かなかったろう。浮世を捨てた仙人の有様をして、清貧と呼ばわりこそすれ貧婁(ひんる)とは看做さぬように。

 だが現実はどうだ。実体の彼女は……ただの少女だった。日常の些末事に一喜一憂し、家の灯に安堵を浮かべ、暖かな夕餉に心を綻ばせる。ただの、人だった。

 己と同じ、孤独という虚穴を胸に抱えた人――――

 

「クフッ、ハハハ、ハハハハハハッ、そんな願望を抱いたのです。貴女が、孤独で、可哀想な人であって欲しいと、俺は願ったのです! 俺と同じっ! 同じ……」

 

 同病相憐れむ。

 同じ痛みと寂寥と孤独、それを持つ誰かを己は求めた。現世での己の人生、その先に横たわる独りの人生が、あまりにも恐ろしくて、辛くて、惨めだったから。だから、現実を否定した。目を背け、逃げ込んだ。この幻想郷へ。

 そして、見付けてしまった。この少女を。

 乾いた笑声が漏れ出てくる。自己嫌悪が極まり、精神が()()したのやもしれない。もしくは何処かしらの理性(ネジ)が飛んだのやもしれない。

 

「……博麗さん、貴女の目の前にいる男とはそういう者です。自己の不幸を呪い、同等の不幸なる誰かの存在を願い、憐れみ、また憐れまれたいと(こいねが)う。そんな、ただの卑劣漢です」

「……」

「断じて、貴女の好意を受ける資格などない。唾棄すべき人間です」

「…………」

 

 静かな眼差しを彼女はこちらに注ぐ。

 身の置き所がなかった。今すぐにでも消え去りたかった。生きていることが無上なる恥であった。

 それでも、その視線を見返す。傲岸不遜に、厚顔無恥に、居直り開き直る。今この時この場だけは、それが正しい有様であるから。

 黒々と深い色をした瞳は、風のない湖面と同様の静謐を湛えている。

 ああ、理解してくれたのだ、この男の醜悪さを。彼女の聡明さあらばそれこそ自然。少しだけ時間は掛かってしまったが、全ては己の浅ましき妄念が招いたこと――――

 

「知ってたよ」

「…………………………え」

 

 間抜けに一音、そう口から零れて落ちた。

 目の前で、少女の顔が微笑で彩られていく。

 

「知ってたの。あんたが私に何を向けてるか。何を想ってたか。私が何を、望まれてるのか」

「――――」

「『何故』?」

 

 彼女は先んじて、己が口にしようとした文言を形にした。

 まあ実際のところ己はただぱくぱくと魚のように口唇を開閉していただけだが。それ以外に出来ることがなかったのだ。

 醜態を晒す己を、少女は依然優しげに見守って。

 

「嬉しかったから。憐れんでくれるのが。可哀想な子だって、優しくしてくれるのが。それが、私の望みだったから。同じ痛みに病んでる人と同じ痛みを労りあって、慰め合って、患ったところを舐め合うのが……そしてあんたは心から、全身全霊で同情してくれた! 辛かったね、苦しかったね、寂しかったねって!」

「……」

「それがどうしようもなく、本当に……嬉しかったぁ……!」

 

 語尾が滲む。その語気と同様に、少女の細い肩が震えている。目尻には珠玉のような涙の光が浮いていた。

 それを厭うように少女は俯き、膝の上で組んだ手の甲を見詰める。

 

「……私は博麗の巫女。それ以外の生き方は知らないし、知る必要もなかった。疑問すら持たなかったわ。迷いもなかった。誰の指図も受けない。何ものにも縛られない。空を翔ぶようにただ在るがままに在る。自由だった……でも同じくらい、空虚だった」

 

 面差しに陰が射す。闇と、言い換えて差し支えないほど、穿たれた無明は底が見えない。

 少女は苦笑していた。

 

「気付いてなかっただけなの。それを感じる為の器官をずっと眠らせてたの。孤独と自由をごちゃ混ぜにして、自分の胸に空いた虚しさを無いものみたいに扱ってきた……あんたが気付かせてくれた」

「……ち、違う」

「私はこんなに痛くて、苦しくて、寂しかったんだって。わかってくれるのはあんただけ。私と同じ(ところ)を病んだ、あんただけ」

「だ、駄目だっ!」

 

 悲鳴が聞こえる。慌てふためき狼狽えた震え声。今にも指を差して嘲笑いたくなる滑稽さだ。

 この情けない声の主は一体誰だ。この、愚か者は。

 それは俺だった。これは俺の声だった。

 俺は、幼児のように嫌々と首を振った。己自身にしてからが何を厭うているのか半分と理解せぬまま。

 

「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ、駄目だ駄目だ、駄目だ。それは、それは、それは駄目だ」

「ダメなんかじゃない」

「あってはならぬことだ!! 貴女が、俺如きの所為でっ!!」

「あんたのお蔭」

 

 そっと身を乗り出して、少女の微笑が近く寄る。

 反して己は身を仰け反り、そこから逃れた。

 美しく(かんばせ)を彩っていたものは安らぎだった。悦びだった。香り立つような幸福だった。己が望んで止まなかった博麗霊夢の幸福、安寧の表情が、それが今眼前にある。

 考え得る限り、最低最悪の方途を辿って。

 その笑顔を齎したのは、純正の善意からは程遠い、卑しく醜く邪なる我が身の偽善、独善だった。俺の欲望だった。

 それが、少女の在り方に決定的な歪みを生んだ。

 

「俺、が……?」

 

 博麗霊夢を、病に()けたのだ。

 不治の死病、名を孤独。独りではもはや生きられない。また、同病の罹患者を巻き添えにその生と有様を変質させる。

 楽園の巫女は自ら幻想郷(エデン)を捨てようとしている。美しい理想郷を過去に、この小さな箱庭の今へ全てを封じ込めようとしている。

 

「一緒に、いて」

 

 声音を震わせているのは何も己ばかりではない。

 少女とておそろしいのだ。その瞳の奥には、狂おしいほどの情熱と同じほどに強く、不安が渦を巻いている。己に拒絶されるのではないか、そんな恐怖を押し殺して、少女はその一言を口にしたのだ。

 切なる願い。あまりにも細やかな願い。そのいじらしさは容易くこの胸を潰した。罪悪の念は鋭く喉笛を射貫き、正常な呼吸を阻害する。

 ほんの一言でいい。ほんの一言、(うん)と口にするだけで目の前の少女の安堵の笑顔を見ることが出来る。いや言葉すらも不要。首を縦に振るだけでもいい。顎を数寸引くだけで、この少女の喜ぶ顔が見られる。それはなんて素晴らしいことだろう。この身に実現可能な最上至上の善行があるとすれば正しくそれだ。それ以外には無い。

 肯と、応えれば、彼女の幸せを――――あらゆる可能性を剥奪することになる。

 

「――――どうか許してください。どうか……どうか……」

 

 だから、断じて、出来ない。

 両手と両膝を揃え、頭を垂れる。少女の無垢な瞳から逃げ去る。

 この一事実は重過ぎる。楽園から巫女を奪い取るなど、この身には、その罪はあまりにも、重く、深い。両肩を圧し潰し背骨を粉砕し魂を破砕してなお余る。

 なにより、少女の、手にする筈だった数多の幸福を摘み取ってしまうことが。

 俺には、出来ない。

 彼女の自由を奪うことなど出来ない。その多様性に満ちた幸福の道を塞いでなるものか。そして、いつまでも、その瞳に幻想郷の未来を映し続けて欲しい。

 だから。

 俺に、出来ることは。

 

「……貴女の御多幸を、心の底よりお祈りしております」

 

 それ以外に、もはや望むものなどない。

 

「博麗さん、貴女は、貴女に相応しい明日を生きてください」

「!」

 

 その場を立ち退く。

 決意、というほどの気負いもなかった。ただそれ以外の選択肢を俺は俺自身に許せなかった。

 だから俺は、俺に相応しい末路を辿ろうと思う。

 方法設定――差し当たり舌を噛み切ることにした。

 現在己は無手。刃物か鈍器に類する物があればその使用も考慮の内であったが無いものは仕方がない。

 目的設定――自害。

 逃避。責任の放棄。あるいは妨害工作とも表現できる。少女の、一つの願いの成就を、否定するのだから。

 行動の端緒は実に衝動的であったが、頭は意外なほどに冴えている。思考に淀みはなく、目的達成の為の必要行動を瞬時に発想した。

 舌を噛んでの自害は、現実的にいって実現困難である。あくまでフィクションにおいて展開上の演出として用いられることの多い自殺方法であり、実例は過度に少ない。

 しかし、絶無(ゼロ)ではなかった。そして絶無でないなら不可能でもない。

 舌の切断から考えられる死因。その一つが、切断された舌の筋肉が激しい痛みによって痙攣を起こし、喉の奥、延いては気道を塞ぐ為に起こる呼吸困難であり、窒息であるという。

 喉を異物で詰める。実行は容易と言えた。食料品である餅でも蒟蒻でも人は窒息死できるのだから。

 容易ならぬのはやはり、切断工程であろう。

 繊維の塊である舌筋を噛み切る為に相応の咬合力を必要とするのは謂わずもがなであるが。なによりも、神経の束である舌を噛み千切る際に走る激痛は肉体に強い防御反応を起こさせるだろう。

 凡愚並の精神力しか持たぬ己では、肉体の本能を捩じ伏せることなど能うまい。

 工夫が要る。

 なにも大した工夫ではない。(すこぶ)る簡単だ。

 膝立ちになり、上下の歯で舌を挟み込み、そこへそのまま顎を打ち付ければいい。

 紙束を裁断器で押し切るようにざくり、と。

 いや、それこそ胡桃割り人形の要領である。

 以上要項。

 実行に一秒を数えず。

 

「さようなら」

 

 無責任に、無思慮に、卑劣に、醜悪に、独善的に、全てから。

 少女から、俺は逃げだす――――。

 ぎちりと、歯が舌の表層と裏面を抉る。あとは膝蓋に顎を落とすのみ。落とす、のみ。

 

「ッッ……!?」

 

 その、一挙動が、できなかった。

 瞬きはしなかった。視線は片時も離さなかった。にもかかわらず、俺は刹那、少女の姿を見失い。

 気付けば彼女は眼前に在った。

 黒い宝珠のような瞳が、視界の三分の一ばかりを占有するほど。視界一杯に、少女の美しい顔がある。

 今にも鼻先が触れそうなほど。今にも、唇が触れ合いそうなほど。その、桜色の唇が。

 開かれたそれが、己の口唇を覆っていた。

 

「んんっ!?」

「ん……」

 

 いっそ食らい付かんばかりに、少女の(あぎと)が己のそれを咥える。そして、彼女の暴挙はそれだけに留まらなかった。

 ぬらりと、上顎と下顎、歯と歯の隙間から滑り込むようにして侵入してくるものがある。彼女の舌だった。熱く濡れたそれが、己の口腔内を侵略した。

 

「ん、ぐっ、んん゛!?」

「っ、ぢゅ……ちゅる……っ……んっ……」

 

 その時点で舌を噛み千切るという試みは不可能になった。

 ならばと後ろへ逃れようとする――己の動きを即座に察知して、彼女はこちらの腕に自身の腕を絡めることで阻止した。さらに空いた掌を重ね、指の一本一本を強く握り合わせる。絶対に離さない。そんな意思を示すかのように。

 口内は、蹂躙の限りを尽くされた。

 絡め、巻かれ、なぞられ。時に上顎の薄皮を、舌の裏側の柔肉を優しく抉られた。

 

「ぐ、ぅ……」

「んぁ」

 

 そうしてとりわけ丹念に、執拗に、己自身が付けた傷を(ねぶ)られる。労わるようでもあり、責めるようでもあった。

 溢れ出る血を舐め取り、同じほどに溢れ出る唾液までも啜られる。

 

「じゅるる」

 

 下品な音色が居間に響いた。毎食を共にする場所だった。ここは少女の綻んだ顔を見ることができる部屋、細やかで、暖かな食卓。大切な空間。大切な……それを、淫靡な音色が凌辱した。

 触れ合うほどの距離にあるその瞳の色を直視できない。けれど目を背けることすらできない。だからとて目を瞑れば、抗おうとする意志を根こそぎ溶かされるだろう。ほんの一滴とて残りはすまい。

 己は見た。ただ見詰め返すことしかできなかった。

 濡れて蕩ける女の眼、そこに宿る艶熱が、この身の骨の髄までも()()()()()しまうのを自覚しながら。

 永遠にも思える数分間が過ぎ、ようやく占領下にあった口腔が明け渡される。

 唇との間に、赤い涎が糸の橋を渡していた。

 

「ダメ。絶対に許さない」

 

 未だ吐息のかかる間合い。少女は艶然と笑みを浮かべて言った。

 

「好きっ、大好き……!」

 

 鉄錆に交じって広まる甘露。彼女の唾液の名残も尽きぬ内に、また口付けられる。今度はほんの触れ合うばかりの。

 それこそが止め。致死の一刺し。殺しの接吻。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一ヶ月。

 己と彼女が、空間的孤島と化したこの博麗神社で暮らし始め、早それだけ経とうとしている。

 状況の異常さに比して、生活は驚くほど穏やかだった。代わり映えもない静かな日々。あるいは理想の安寧な日々。

 当初、当然の懸念であった食糧や燃料の確保について、彼女は事も無げに。

 

「言ったでしょ。時間を封じたって。使っても食べても燃やしても壊しても、夜に眠って朝目が覚めたら全部元に戻るわ」

「……」

「ふふっ、びっくりした?」

 

 悪戯の成功を喜ぶ幼子めいて、少女の笑顔は愛らしかった。

 庭先で、朽ち葉が一片、落ちる。

 同じ枝先から、同じ軌跡を描いて、同じ場所へ、同じ時刻に。

 ここ一ヶ月間目の当たりにしている。それは全く同様の光景。

 

 

 

 

 

 

 少女曰く、時を封じたというこの箱庭であっても、昇った日は沈み、月もまた同じ軌跡から(まろ)び出てくる。ただ、この一月の間、夜毎に浮かんだのは全て満月だった。

 

「っ……っ……」

 

 真円の蒼月、障子越しに差し込むビロードのような月光は比喩的表現を排してなお冴え冴えとした蒼。あたかも海中の様相の寝屋、そこには今、実際に水音が響き渡っていた。

 軽く、吸い付くような口付けの雨が降る。

 次に唇をそっと舌先がなぞった。自身のものではない、自身のそれよりずっと滑らかで、自身のそれよりも幾分小さな。

 上蓋、下蓋を、紅を差すような丁寧さで撫でられること幾度。

 

「ふっ、ん……」

 

 我慢できぬとばかり、舌鋒が唇を割り裂いて這入り込んでくる。

 唇の内側と歯列の合間を奔り、歯茎に至るまで余さずほじくり返す。自然、口の端から唾液が滴り顎にまで伝うが、彼女は一向気に留める素振りさえない。

 遂に、内部へ、口腔へと舌は進撃してきた。

 それは、まるきり獲物に喰らいつく蛇の挙動であった。

 

「ぁん、ぁ、ぇあ、ちぅ」

 

 彼女の舌が己のそれに絡み付き、丹念に舐め解す。味わうというより貪るように。

 一点に神経の集中を覚えた。舌などというものは元々からして敏感な部位。そこに極度の刺激が齎されれば他が疎かになるのは自然と言えた。

 自失したのはしかし、己ではない。熱に浮かされたように色を滲ませる少女の瞳。肌襦袢を纏った細い身体がこちらにしな垂れかかる。

 唇は片時とて離されることはなかったが。

 上体を胸板で支え、崩れかかる腰を腕で支える。するとなお一層に、彼女はこちらへと体重を預けた。

 

「ぷぁっ……はっ、は……はぁ、ふぅ……」

「……」

 

 ようやく、口唇が自由を取り戻す。一心地、そんな気色で。

 荒い息遣いは二人分。隠しようもない昂ぶった呼気。

 少女の上気した相貌に笑みが浮かんだ。

 

「気持ちよかった?」

「……」

「んふふふ」

 

 この場合の無言が千言に優ることは、さしもの不敏な己といえど理解できる。

 理解していながら、何も言い返せない。ただただ恥を忍んだ。

 

「……日課というなら、これで足りましょう」

「そう? そっか。じゃあいいよ。傷ももうないしね。ふふっ、ふふふ」

「……」

 

 唇を貪るような口付けの嵐。これをして日課と、最初に呼んだのは勿論のこと己ではない。

 己の自傷を確かめる為だと言って、一ヶ月間毎日毎夜欠かすことなくこの行為は続いている。

 しかし肝心の傷は、舌をどんなに動かしてみても確認することは出来ない。

 単純に治癒したのだろう……などと能天気な空言を吐けもせぬ。切断に至らぬまでも表層をクレーターのように抉ったのだ。湿潤な口内の傷であることを差し引いても、通常そう簡単には塞がるまい。

 しかして咬傷は、それを刻んだその翌朝には跡形残らず消え去っていた。

 それはつまり時間の巻き戻しが、土地や物体はおろか、我々生体にすら及ぶという何よりの証左であった。

 

「……どうする?」

「…………」

 

 上目遣いに少女が問う。その意図を、己は空(とぼ)けることも出来なかった。

 ()()()するのか、しないのか。彼女はそれを問うている。一種、挑発的とさえ見える。一種、殺傷力を伴う程度に蠱惑的である。

 襦袢の衿が(はだ)け、鎖骨、谷間、鳩尾と、それはもうあられもなく、露わになっている。透き通る白い肌は月光に青く染まり、この世のものではないかのようだった。

 この世のものとは思えぬほどに、美しかった。

 

「……いいえ。お休みください。夜も、随分更けて参りましたから」

「…………そ。じゃあ今夜も、勘弁してあげる」

「…………」

「でも、いつでもいいよ。我慢が利かなくなったら、その時は……ふふふ」

 

 妖しい笑みが己を撫でる。

 それが見えぬふりをして、少女の襦袢の衿を直す。手拭でその口元を清め、掛け布団を払って少女を横たえる。

 彼女は素直に、されるがまま従った。きっとそれは何をしようとも変わるまい。己が、何をしようと。

 

「っ……」

「ふふっ、辛そう」

「……」

「我慢なんてしなくていいのに。あんたのしたいようにしてくれれば、私は嬉しいよ?」

 

 床からこちらを見上げる彼女に、枕元で正座で向き合う。せめてもの抵抗の意思を示す……何の効力も、抗力も持ち得ぬそれ。

 虚勢と呼ばれるそれを、それでも己は張り続けた。この三十余日に亘って。

 そしてこれからの幾十日、幾年、幾十年。

 ……もし一度、その虚勢が敗れれば、もはや逃れられない。あとは真っ直ぐに堕ちるだけだ。溺れ、沈み、ゆっくりと溶かされる。少女の魔性を疑わぬ。彼女の持つ魔力は、己という矮小な精神を殺し尽くしてなお余る。

 故に奥歯を軋ませ、なればこそ拳を握り潰して、自我の存続に総力を掛けた。

 

「うん、そんなあんたも……好き」

「……」

 

 ――――再びの自害も、考慮の内ではあった。今更惜しむほどの命ではない。全てに優先するのは彼女の未来。それ以外にない。ないが。

 

 ……この子を独り、置いては逝けない

 

 そんな重い躊躇が心身を縛る。

 それは甘えか。それとも、覚悟の不足を欺瞞する言い訳か。

 いずれにせよ、己は今もって生きていた。

 生きて、今もって彼女の未来を剥奪し続けている。

 

「……ねぇ」

「は……」

「同情は、嫌い?」

「正しいものでは、ありません」

「誰かを憐れむことは悪いこと?」

「純然の善意には、程遠いものと考えます」

 

 この問答は、はて幾度目を数えよう。幾度も幾度も、繰り返してきた気がする。彼女が問い、己が答える。

 そしていつも、正答に届かない。平行線を辿るだけだった。

 また少女は笑み、穏やかな目で俺を見た。

 

「あんたは私を愛してない?」

「…………愛してなど、おりません」

「本当に?」

「……はい」

「んふふふふふふふ」

 

 彼女は笑う。優しく、暖かで、慈しみに満ちた、それは嘲笑だった。

 鈍愚な男のその根深い愚かさを、とてもとても愛おしげに彼女は(わら)った。

 

「同じ寂しさと、悲しさと、辛さと、痛みを、全部分かち合って、感じ合えた。同じ想いで、思い合ってる……ねぇ」

「……」

「あんたは、私を愛してない?」

 

 寝物語をねだる子供のように少女は問うた。

 俺は答えた。いつものように。

 

「――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よろしいのですか」

「いいんじゃないかしら」

「……」

「幻想郷は、嘗てない安定を迎えている。幻と実の境界は盤石、大結界に至ってはもはや神々にすら容易には貫けぬ鉄壁となった。博麗神社以外の制御を霊夢が欲しなかったことも我々には頗る好都合だったわ。さて、何か問題があるかしら?」

「……本当に、よろしいのですか。紫様」

「ふふ、貴女は良い子ね。藍」

「……」

「でも、いいのよ。あの子が心から望んだことですもの。あの子に私は、何もしてあげられなかった。ずっと何かを欲しいと、強請って欲しかったの……だからこれくらいは我が儘の内にも入らないわ」

「……はい」

「ありがとう」

「いえ……あ、いえ、一つ」

「?」

「問題が……なくも、なく」

 

 藍が道袍のゆったりとした袖口で空間を払うや、そこに瞼の形をした窓が開く。

 そこから覗いたのは、赤。

 赤、赤、赤。揺らめき広がり弾け散る。舞い踊り砕けて逆巻く、炎。

 紅蓮の炎が海となって、悉くを焼いていた。

 大気さえ貪り喰らう炎熱の地獄、あろうことかその只中で佇む者が在った。

 白銀糸の髪を振り乱し、白い肌を焦がし爛れさせながら、それら全てを意にも介さず双掌から火炎を巻き散らす人型。

 

 ――――何処だ

 

 皮が焼け、肉が焦げ、骨が炭に変わる。

 骨が生え、肉が生え、皮が生え変わる。

 焼死と再生を繰り返す人のような形をした何か。

 

 ――――何処に隠した

 

 少女の形をしたそれは阿鼻叫喚と化した世界の中心で叫んだ。

 

 ――――何処だぁ!!!

 

 頑是無い子供のように、少女は探し続けている。

 

「あらあら」

「……このままでは妖怪の山と魔法の森が焼失します」

「大丈夫でしょう。抑止力は何も博麗の巫女だけではないもの」

「ですが」

「ええ、そうね。対策は立てておきましょう。少なくとも、最悪が結実しないように」

「はい」

 

 言うや、金毛の九尾はそこから姿を消した。

 主人とは違って、彼女は実に真面目で働き者だ。

 

「にしても」

 

 扇子を広げ、口端に上った微笑を隠す。

 

「罪作りな男だこと。本当に、残酷なほど」

 

 この病は終わらない。

 皮肉な現実を、女生は心底嗤った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





ところでヤンデレに対しての最適解は心中か逆ミザリー(四肢切断ないし五感の喪失および供出)だと思う。
拙作オリ主はどっちもやってねぇけども。半端野郎が(雪車町並感)

今作はこれにて完結とさせていただきます。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。
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