ファイッ!
────聞きました奥さん
────えぇえぇ聞いてます。例の
────そうそう例の、霧雨さんのところの手代の
────突然でしたわねぇ
────ホントに。急で。あたしったらもうびっくり
────うちもですよぅ。うちの旦那なんて、あんな美人と羨ましいなぁんてバカなこと言ってましたわ
────こちとらに不満でもある? って話よねぇ。おかず一品抜いちゃえ
────一品どころか、口滑らせたその日は漬物と粟だけよ、旦那だけ
けらけらと笑うご夫人二人。笠屋の軒先で、積まれた天水桶を背にして、井戸端ならじといえど女生らの会議に余念はない。
子供が言うことを訊かぬ、旦那の稼ぎが少ない、姑と折り合いが悪いあの婆とっととくたばりやがれ等々、彼方へ此方へ話題は変転し、そうしてのたうちまた戻る。
────山神様をお嫁に貰うなんてねぇ
好奇を含んで夫人方はまた一頻りに笑った。
────あら? でもあたしゃてっきりあの手代さんお婿に入ったかと思ってましたよ
────あらどうだったかしら。まあ、そうは言っても鴉天狗にお家もなにも、ねぇ?
────そうねぇ。婿養子としたって、入れる家とかあるのかしら
────連れ去ったからには、あるんじゃないかしら。天狗のお宿、ってぇいうの?
────あははは雀じゃあないんだから! ……えっ、なんて? 連れ去った? 連れ去ったってなんですの?
────そりゃああんたそのままの意味ですよ。まさにこの往来でね、こう、両手で抱えられて、飛んでっちゃったの、お空に
────あらまあ
物笑いの種という意味で、この話題は彼女らにとって具合が良いらしかった。
恐いわ恐いわ、うちの子も大丈夫かしら、取って食われたりしてるのかしら、やだわ奥さん変な意味に聞こえるわよ、そりゃあーたもちろんそういう意味だもの。
けらけらけらけら。
そうして三度、話が流転しかけた時。
「こんにちは」
────あら先生
────慧音先生
蒼みを帯びた白銀の髪。燐光さえ放ちそうなそれを豊かに滴らせ、麗しい女怪が軒先に立った。穏やかに微笑して、人里唯一の寺子屋の教師、上白沢慧音が小首を傾げる。
「彼の話ですか?」
彼女が問うと、夫人達は新しい仲間が加わったとばかり寄って集った。
そうなんですよぅ。あのお兄さんが────
「いやお恥ずかしい。
半瞬の間。彼女らは呆として蒼の女怪を見上げた。まるきり自失の様相で。
それを蒼い女は、赤い瞳でじっと見詰めた。暗い赤、黒い赤、まるで鬼火のように朧な双眸。
じっと。
じ、っと。
そしてもう半瞬の後。
────そうでしたわそうでしたわ
────やだもうあたしったら不調法で
夫人二人、破顔する。
────改めて御婚姻おめでとうございます、先生
「ありがとうございます」
にっこりと、女怪もまた笑った。
────でも恥ずかしがることなんてないのよ。なんてったって新婚さんだもの
────辺鄙なくらいで丁度いいのよ。気兼ね無く仲良くできるもんねぇ?
「それは……あは、あはは、否定は致しかねますが」
羞恥で頬に朱を差して、乙女は素直にはにかんだ。
女達は笑った。けらけらと笑った。下世話に笑った。目出度い目出度いと笑った。
何も知らず、笑った。
授業もない休日。寺子屋の庭先で火を焚いていると、通りかかった生徒の子供らが近寄ってきた。
────先生ー先生ーなに焼いてるのー?
────焼き芋? 銀杏?
「んー? いいや、食べ物じゃないぞ。なんだ腹でも減ってるのか?」
興味津々と火を覗き込もうとする童をそっと制して、もう一掴み。
丸められた紙片を放り込む。
千千に裂き、握力の限りに潰し、地面を割るほどに踏み付けにした、それ。それら。やや粗いパルプ製紙と印画紙。その成れの果て。成れの果て達の山。
「ただの
全て塵だ。
無価値な塵。その内容に一片の価値もない。そこに写し出された画に寸毫とて意味はない。
ない。断じて、ない。ない。ない。
ただ、ただ、ただ目にも穢らわしいだけだ。道端に放置された獣の汚物が視界を過った時と同じ。
こんなものは燃やしてしまわねばならない。存在ごと滅却してしまわねば。
忌々しい
最も度し難いのはこれを作った者がこの内容をさも事実であるかのように、いや事実であると
救い難い勘違いだ。虫唾が走る。
山怪風情が思い上がり、逆上せ上がり、果てにとち狂った。
おのれ
もう一掴み、紙屑を放り込む。我知らず奥歯をごりごりと噛み締めていた。
血の沸騰に反して、脳髄はどこまでも冷えきっている。それにより冷やされた眼球で炎に呑まれゆく捏造を見下ろした。
幸い、生徒は自身の変調に気が付かなかった。
その時不意に、子供の一人が言った。
────先生! あのお兄ちゃんとケッコンするんでしょ!
父母より聞き知っていたのだろう。あるいは子らが今程こうしてここを訪れたのも、その仕入れた情報を確かめる為だったのかもしれない。
私は微笑んだ。男女の交わりなどまだまだ知るような年頃ではない。囃し立てるのは、きっとその内心に湧いたあやふやな気恥ずかしさを誤魔化す為。それでも親御の見様見真似で
嬉しかった。
拙く、無垢な言葉がただ嬉しかった。
そう。そうだとも。
「ありがとう」
真実は一つだ。これ一つきり。
祝福は彼と私、二人へ注がれる。結ばれるのは、否、
最後の塵の一山を焼却する。これで人里にばら蒔かれた記事と写真は全て消し去った。里中の家という家、土蔵から納屋に至るまで探し尽くし回収した。
……あるいは何処か、この目の届かぬところに隠れていたものが見付かったところで、どうということはない。
里の人々にはもう既に“真実”が伝染している。この“歴史”は正しい道筋を辿っている。
里の家一件一件、里の人々一人一人に、私自ら噛んで含めて教えて巡ったのだ。あくまでも私の能力が編纂できるのは記録であって記憶ではない。が、相対した個人、一対一ならばその限りではない。
丁寧に丁寧に丁寧に教え込めば、人はそれを真の事柄であると信じてくれる。在るべき史実、記録は記憶にすげ変わる。
私は教師だ。教えるのは、とても得意だ。
これが人里の人別帳ともなれば返す返すに造作もないこと。そこには彼と私が正式な
「これからを彼と私と、生きて、生きて添い遂げる」
これは確定した歴史だ。もはや覆らない。
覆させない。
「お前達もどうか見守ってくれるかい?」
舌っ足らずな祝辞をくれる子供達の顔を順に一人一人見返して、私は一つの決意を表明する。
人として、彼を生かす。
人生を彼に歩ませるのだ。ありふれた、他愛のない、穏やかで幸福な人生を。
私が彼に
「私、だ」
彼と生きるのは私だ。
私なんだ。
私、なんだ。
私……なのに。
なのにどうして、彼はここにいない。
某月初旬。晴れ。
暦の上では春を数えようとも朝夕の空気は身を切るようだ。
油断はできない。私はともかく、人間である彼は気を付けなければ風邪をひいてしまうかもしれない。
玄関口から、いつもよりほんの少しだけ丸まった彼の背中を見送りながら思案する。襟巻か上着か、香霖堂さん辺りで見繕おう。
寒いと言ってもここのところは澄んだ快晴が続いている。
同月某日。晴れ。
相も変わらず起床が辛い日々。けれど寒がる体とは裏腹に心は芯から暖かである。
彼とのデートです。デート。予定通り香霖堂さんのところへ出向いて、春物の洒落た襟巻や着物を見付ける。
瘴気の薄い路を選んだので帰りは彼と共に森林浴を楽しむ。深い緑の中を歩む彼の姿は実に実に画になります。
フィルムを五本ばかり使い尽くす。
同月某日。曇りのち晴れ。
起床が辛いと駄々を捏ねる私などとは違って、彼の朝は早い。とても早い。布団から抜け出す時もそこには未練というものがないのだ。すごい。
小間物瀬戸物呉服にその他諸々、手広いというかもはや節操の無い品揃えを誇る人里の霧雨商店は、それだけに常日頃繁忙だ。
手代として立派に奉公を全うする彼の姿を私のファインダーが収めずにおられないことは言わずもがな、フィルムを七本消費してあらゆる角度で彼を撮り尽くす。
……しかし、彼の時間を忙殺するこの店、延いては店主の横暴に対してはやはり何らかの手段を講じるべきだろうか。彼の仕事風景は私の心身を癒すだけに留まらず、世の人々に謹厳実直とは何たるかの模範を示してくれる。価値がある。あるのだ。それをあの主人は半ば飼い殺しにしている。
赦せぬ。
どうしてくれようか。
でも……彼の仕事を奪ってしまうような事態は本意ではない。
ただの普通の他愛ない日常を過ごす彼が、私は(乱暴に塗り潰されている)
同月某日。昼から雨。
雨に濡れる彼もまた素敵だ。濡れ髪、重たげに体に張り付く袷。湿気と寒気で白い息を吐く様は私の胸を大いに躍らせる。罪な人。写真機越しにそれを実感する。雨を浴びて身体を冷やす彼とは打って変わって、私の心身は火照っていくのだ。
ああ、それが紅魔館などという下劣な血吸い鬼の根城への遣いの道中でなければ、一飛び傍に行って傘の一本でも差し出すのに。私が。私がだ。
その、彼の、隣に、我が物顔で傘を持って伴う吸血鬼の
けれど、けれど! 私は決して彼の仕事の邪魔をしたい訳ではない。
仕事に従事する彼の素敵な姿を、懸命な様を、写真に収めたいだけなのだ。
同月某日。朝から雨。
繁忙な霧雨商店にあっては珍しく、彼にはお休みが与えられた。むしろ今までが過ぎて働き詰めだったのだ。店主の配慮の不届きが目に付く。
それはそれとして、出掛けるにも雨足は強く、趣味と呼べるものを持たない彼は案の定時間を持て余している様子だ。霧雨の主人より宛がわれた私宅の居間で、彼は一人読書に耽っている。といっても、それは店の商品の目録であったり過去の帳簿であったり。世間的な読書とは趣が違った。家事をやり尽くした末の、手代としての手習いだ。そんな彼の生真面目さには尊敬が湧くし、好意とて深まるばかりだが、本音を言えばもう少し自分の為に時間を使うという習慣を身につけてもらいたいと切に願う。
それでも私的に一日を過ごす彼は貴重だ。天井裏や軒下から、時に隣室から、貴重な彼を写真機越しに見守った。撮影はとても捗った。
近頃手持ちのフィルムが不足気味。河童の勧めを聞き入れ、デジタルとかいうものを取り入れるべきだろうか。
同月某日。薄曇り、時々晴れ。
彼が話し掛けてくれた!
彼とお話をした!
「新聞、いつも楽しく拝読させていただいております」
だって!
すごい。うれしい。うれしいうれしいうれしいすごいうれしいすごいすごい。
あぁ、今日はなんていい日なの。
同月某日。晴れ。
昨日のことが嬉し過ぎて撮影が疎かになってしまった。
本日は反省して、彼を撮ることだけに傾注する。
起床から日中の彼の丁寧で細やかな仕事ぶりを細見し、食事中の所作まで写真に収め手帳に認める。
寝顔は案外年相応で、とても、とっても可愛かった。口元に耳を寄せると、鼻呼吸の静かな寝息が心地よかった。肩幅や鎖骨の太さ、首筋の武骨さ、特にそう、喉仏の存在感が、彼の男性を強く主張していて、どきどきした。
もっと見たい。
もっと。
触れたい。
嗅ぎたい。
味わいたい。
つなが(文章が途切れている)
「本心ですよ」
膝に乗せた分厚いバインダーから顔を上げると、少女の微笑が己を捉えた。捕らえて、我が身を射竦める。
開け放たれた障子戸と雨戸、敷居を跨いだ縁側の向こうに雄大な山並みを望む。
妖怪の山。ここはその山腹に佇む庵であった。
射命丸文。ここは彼女の住まい兼仕事場である、と。ここを訪れた時……否、連れ去られてきた時、彼女からそう教わった。
麗らかな初春の午後。白みを帯びた陽光を背にした少女の笑顔を、俺はどうしてか直視しかねた。眩い、それのみが理由ではなく。
だから、うっかりと。
俺は視線を逸らした。逸らし、這わせてしまった。
室内に。室内の壁、天井を埋め尽くすそれ。それらに。数十、数百、数千に及ぶ紙片。
それは写真である。様々な場所から撮られた写真である。
場所、角度、時間を異にする写真。ただ、被写体だけが同じ。
俺だった。
それは全て俺だ。
写し出された風景は一様に己の生活圏である私宅、あるいは仕事場たる御店、遣いにやられた道々やその先々。
我ながら変わり映えというものに乏しい画の数々。偶の商品の買い付け等除けば、己の生活の極まった侘しさを窺える。見るだにつまらぬ、下らぬ、男の姿。なんとなればどれ一つとしてカメラのレンズに目線を寄越さぬ愛想の無さ。
当然だった。写真の中の俺はカメラの存在など認識していないのだから。
これらは全て俺の、盗撮写真なのだから。
「何故」
「大好きだからです」
固形物を喉からひり出すかのような己の声に、溌溂と少女は応える。
万感の想いを舌に乗せて。
「貴方が、大好きなんです」