逃げる女/逝く男
引き裂かれた腹筋、腹膜、その下からそれらは盛り上がり、溢れ出る。思えば実物は初めて見る。
人間の臓物。己の、
鎌首を
無遠慮に、そして実に無造作に、肉と皮の蓋は引き裂かれてしまった。頭上より降ってきた鋭利な尖端が、あれは、そう、潰れ折れた牢の格子戸、材木だったような気がする。
内側に閉じ込められていたものが、その押さえを無くしたのだから飛び出すのは自然の成り行きというもの。ならば己は蓋の壊れた容れ物か。
空ではなかった。虚ろな人間性は否応無く自覚するところだが、中身は詰まっていた。些末な肉の筋管に過ぎぬが、それでも。人体の機能を存続させる為の諸器官。生体の部品。とすれば生物学的には確かに、己は生きていた訳だ。その実感に、なにやら奇妙な安堵を覚える。
目前に広がり行く鮮やかな桃色と赤色のコントラスト。思いの外、己の中身にしてはそれは小綺麗だ。もっと黒く、薄汚いものと想像していた。己の内部に蟠る汚穢は、闇は、病は。
そんなものは所詮、己の気鬱が患った
期せず、それを見られた。己の逃避する現実が、地下空間の崩落による飛礫の雨霰によって、腑分けは為った。
そうして望外の仕儀で今、どうやら俺は俺の宣言を履行している。
割腹。
俺の負うべき責め。考慮に上げ時には口にしながら今だ嘗て実行に至らなんだこの惰弱を、今この瞬間に、ようやくに、清算できた。
少女らの争乱。衝突。殺戮。その終幕に。
俺は苦痛と、己が命を贄として、この古式ゆかしい礼法に則り、完遂する。
責任を。
責。
俺如きの為に御心を乱し、恐慌し凶行へすら走ってしまった少女ら。
彼女らに罪はない。断じてない。議論も、考慮にも値せぬ。何条もってそんなものの実在を認められよう。よしんば、少女らの行動の中に罪と断ぜられるものがあったとして、糾弾すべきはその原因、その行動へと至らしめた元凶をこそ処断して然るべきだろう。そしてそれこそが己なのだ。全ては己という異物の業が歪めし災禍。
この結論をして余人は言うやもしれぬ。行き過ぎた罪の意識と自己嫌悪が少女らへの過剰な擁護妄想を生んだに過ぎぬ、と。
……なるほど確かに。己の脳髄の正気ほど信用に足らぬものもこの世にはない。
だが、しかし一つ。ただ一つ。揺るがし難い明白な事実は存在する。
己さえ居らねば、彼女らは
そうだろうが。
鬱々と倦み窶れ、心の病に精神を廃らせた男を当初、少女らはただ憐れんだ。その良識と倫理観に基づいて陰鬱な男に憐憫をくれた。ただそれだけだった。それだけでよかった。それだけで、十分だった。だのに。
それは次第次第に、労りに、慰めに、果てには慈しみへ。この歪んだ心と魂に寄り添おうとさえ。
してくれた。してしまった。
そしてその報いは、斯くも醜く返還された。
今こそ俺は思い知る。俺が少女らに与えたもの。なすり付けた穢れ。
我が病は伝染する。
この心の虚、孤独という死病、渇きは、他者を腐蝕し、同等の飢餓と渇望を植え付けるのだと、この機に至りてようやく理解した。
こんな悍ましい話があるか。
こんな度し難い
恩を仇で返すなどという次元ではない。俺は俺に差し伸べられた救いの御手を汚れた手で取るどころか、我が身の浸かる泥沼へその救い主自身を引き摺り込んだのだ。
その、なんたる。なんたる。
……もはや語るに及ぶまい。死すべき者は誰なのか。
これを逃避と侮蔑されて、己に返す言葉があろう筈もない。死は安寧。我が身の安息はそこにあると己自身が一番理解している。そこへ逃げ込もうとする己はこの世のなにより卑劣で卑怯だった。
同時にこうも思う。己の罪科の有意無意など勘定することに何程の価値があろうか、と。
塵滓のような思索よりも、今為すべきは。この身命を賭して、果たすべきなのは。
少女らの争いを止めること。それ一つきりではないか。
きっとそれが、それこそが唯一、この命の使い途なのだから。
燦々と陽の光が射し込んでくる。ここは地下牢であった筈だが。
天井には大きな穴が穿たれ、そこから抜けるような青空を仰いだ。
冴え冴えと青い。澄みきって青い。
青い。空を背景にして。蒼い印象を纏う────美しい女性の顔がある。
銀の髪が陽光の中に溶け、幾条もの帚星のように視界を降り注ぐ。
一滴、星が瞬き、流れ落ちる。流れ星が。
いや、これは水か。
ああ、涙。涙が。
上白沢慧音は泣いていた。さめざめと。
色の抜け落ちた顔だった。それが茫然と己を見下ろす。
汚らわしく血肉と臓物を撒き散らして無様を晒す己を。
申し訳なかった。
ただ、ただ、申し訳なかった。
最期の最期まで彼女には世話を掛ける。
「上……白、沢……さ………」
どうか、お願い申し上げる。
「これ、にて……御、寛恕……を……この、身命にて……」
この死を以て。
「争い……おやめ……くだ……どうか……ど、う……か……」
「────」
血の
それでも絞り出す。残り滓の命を声帯と舌の原動力として。焼べる。使い切る。
遺言はこれ一つ。今際の際に浅ましく、それでも頑として差し上げねばならぬ願いの儀。
我が身の死を以て。
どうか。
どうか。
どうか────
果たして、この言葉は伝わってくれただろうか。確かめる術ももはやない。
ただ一点、気掛かりなのは、この芥のような男の死に彼女が責めを感じてしまわぬかということ。そんな必要は一欠片とてない。ないが、彼女は実に真面目な方なれば。
そればかりが、心残りだった。
地表と天井を岩盤ごと刳り貫かれ、全貌が露わとなった元地下牢。
瓦礫の散逸する穴倉の底にそれはあった。
それ。彼────だったもの。
「……」
剥き出しの土に降り立って、瞬間。呼吸が止まる。
その惨状に。
赤い襤褸雑巾のような彼。腹は裂け、
右の脇腹から脚にかけて、足りない。欠けている。そこには何もなかったのだ。土砂と建材の暴流が、事も無げに彼の臓器と四肢を殺ぎ取っていってしまったのだ。
どうしてか、この光景には既視感を覚える。ああ、そうだ。そう、あれは、妹様の。フランドールお嬢様が、力加減を誤ってテディベアの手足を引き千切ってしまった時だ。大量の綿を溢して床に転がるあの縫いぐるみ。
同じ。今の彼と同じに。
吐息が乱れ、喘鳴と呼ぶには微かな声が喉奥で滞る。
その時、上空から飛来するものがあった。箒に跨った白黒のシルエット、乱雑な着地でそのエプロンドレスが土に塗れる。魔理沙はそれを気にも留めず、あるいは気付きもせず進む。
「父さま……?」
よたよた覚束ない足取り。何度も躓き、真っ直ぐに歩くことも儘ならない。右へ左へ揺れ動き、そうしてやっと、少女は彼に辿り着いた。
少女にとっての父なるモノに。
「父さま」
譫言はこれで何度目か。この場に現れてから繰り返し繰り返しにその口はそれを連呼していた。
壊れた蓄音機。レコード針はいつまでも同じ
壊れた少女は、同じフレーズを発し続けた。
「父さま……父さま、父さま、父さまッ! 父さまぁ!!?」
遂には盤面すら割れ砕け、叫ぶ。少女は
中身のない腹に顔を埋め、額を押し付ける。途端、その顔は血か涙かもわからないもので濡れていく。
「あぁっ、あぁあぁぁぁああああああああああ!? やだ、いやだ、や、いや、いやいやいやいやいやいや!! 父さま! 父さま! 父さま!? 置いていかないで。私を、魔理沙を置いて……いかないでよぉッ!! あっ、あぁっ、あぁぁあぁあっぁ……!!」
泣き叫び、喚き散らす。それはまさしく幼児の号泣だ。分別も我慢も知らない子供そのもの。
不快だった。見るに堪えない。
腹立たしい。
なにより、なによりも、この女のその駄々が彼に許されていたのだという事実が。
何を置いても呪わしい。呪わしくてならない。殺意を覚えるまでに────
「はぁ……」
埒もない思考に溜息を溢す。この期に及んで嫉妬心を燃やすこの不毛さが、徒労感が。
だってもう、この炎を受け止めてくれる人はいないのだ。
虚しい自戒と共に、ふと。他所へやった視線がそれを捉えた。いつの間にやらこの場に立ち現れていたもう一匹。鴉天狗の女、射命丸文。
奇妙なことに、鴉は彼の傍に近寄ることもせず、中途半端な距離を隔ててその場に留まっていた。両の手を中空でおろおろと彷徨わせ、時に頭を掻き毟り、次いで両の頬を包み込む。
目だけは瞬きもせず彼を見ていた。いや、見ていると言えるのか。
「ど、どうしましょう。どうしましょう。え、どう、したら。どうしたらいいんですか。なんで、こんな、いや、だって、私はただ、彼を助け出したくて、だから、牢屋なんか、彼を閉じ込めるもの全部、全部、なくしてしまおうとしただけで傷付けるつもりは、っ、はっ、ぁ、はひっ、ひぇ、ちが、な、なおす、治さなきゃ、ち、ちりょ、そう治療、人間はお医者にかかって傷を治すんです。治すんですよね? え、そうですよね。医者に行けば治ります。ちゃんと、ちゃんとすれば、塞げばいい。傷、お腹、繕って……ああそうだ。足、彼の足、繕うのに、どっかいっちゃった……どこだろ。探さなきゃ、さが、さがして……どこに……」
誰に対して、なにを言い聞かせようというのか。それはまるきり気狂いの様相。天狗はただひたすら狼狽し、合間に引き攣った笑声と風鳴りのような不規則な呼吸を口から響かせた。
聞けばその寄る年波千余年、幻想郷でも古参に当たるだろう山神の化身は、意外なほど脆かった。あるいは、人外の想像を絶するほどに、
天狗は半地下の暗がりをただうろうろと歩き回った。彼の足を探しているらしい。あるいは、もっと別のもの。逃げ道。目の前に横たわる
あまりの無様さに侮蔑の言葉が喉まで出かかり、そのまま消沈する。
論ったところで詮無いからだ。
言い負かしてまで奪い取るべき大切なものが、既に亡いからだ。
返す返すにただ、虚しかった。
「父さま……とう、さま……」
「大丈夫、大丈夫です、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、だい、大丈夫、ですよね……? ねぇ……?」
誰憚ることなく無責任に恥を知らず、思う様に、声を上げて泣きじゃくる幼児の姿。自分もあんな風に泣けたら、少しは気が休まるだろうか。この虚しさを拭えるのだろうか。
現実逃避に腐心する女。彼はそこにいる。無惨な骸を晒している。それを受け入れもせず、かといって離れられもしない半端な有り様は滑稽を通り越して醜くすらあった。しかし、確実に、今の自分よりは奴の方が幸せだ。ありもしない希望でも縋っていられる内は安楽なのだから。
そうできたなら、よかった。
血腥いのには馴れている。人の死など、この世界、幽世でも現世でも何処にでも転がっている。
純朴な生娘を気取れる時代は遥か過去の時の彼方。もう馴れ切ってしまった。理不尽も、慈愛の儚さも、血と臓物の臭いも、善い人の死も。
頬にたった一筋、流れ落ちる。私の初恋の終焉は、最低にして最悪だった。
だって貴方の為の涙さえ、私が流せるのはたったのこれっぽっち。
彼の為に泣いてあげられない
「認めない」
不意に、洞穴に響く。その囁き。
それは彼の傍ら。彼の頭を膝に置いたその女が発したものだった。
上白沢慧音。色の抜け落ちた貌、涙を滂沱した目で彼を見下ろして。
それを見止めたその時、自分の胸奥に火が点るのを自覚した。赤々とした感情、実に単純明快な、赫怒が。
「今更どの口がほざく……もとはと言えばお前が盗人のようにその人を……お前……お前ぇ……!」
達観を装ってはみてもこの様。やり場のない感情は火を得た途端に新鮮な怒りへと燃え広がっていく。
それが己自身を棚に上げた自儘な憤りであると知りながら、それでも、晴らさでおくべきか。この恨み。この憎しみ!
レッグホルスターからナイフを抜き、一路。淀みなく間合いを詰め。
逆手に構えたその刃を、自失する女の白い項に。
振り下ろす。
その、刹那。
「認めるものか」
「!?」
揺れる。上下する。回る。傾ぐ。三半規管、平衡感覚に対してあらゆる角度から暴虐的な刺激を加えられている。
なんだ。
なんだこれは。
これは。
まさか、これは。
どうしてかこれを知っている。この
遠ざかる視界。消失する色と音。重力さえ流れを喪い。
世界が、反転した。