楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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報われぬ女達

 

 

 

 

 目を開けばそこは闇の中であった。

 

「な……」

 

 濃密な、質量すら伴いそうなほど深く、粘る闇。暗黒の原液。

 今だ嘗て見たことのない純度の夜闇であった。

 

「俺は……」

 

 夜気は冷えている。肌寒さを覚えるほど。

 いや、冷えるのはなにも現実の気温の所為ばかりではなかった。

 耳を澄ませば、遠く近く此処彼処で虫の音が響く。鼻から浅く吸い込んだ空気は腐葉土と深緑のそれ。

 そうして次第に、鈍い夜目が緩慢に働き始め、己の佇むこの場所が何処であるかを明らかにした。

 鬱蒼とした森の、その只中。

 道はない。道らしきものすらも。革靴の底から感じる地面は凹凸が激しく、歪曲した木の根が夥しく這い回っている。反して土は軟らかだ。意図して踏み締めれば踵までも沈み込む。おそらく随所に泥濘もある筈だ。底が無い類いのものが。

 つまるところそれは、少なくとも今この身が立ち尽くすここが、人跡未踏の領域であることの証左であった。

 地面から生える草は背が低い。頭上を覆う分厚い枝葉の天井が日中の陽光を遮るのだろう。

 暢気に考察を弄ぶ。現実逃避と同義の。

 とはいえ立ち返った現実は相も変わらぬ闇。闇。闇。

 そも、何故己はこんなところに居る。

 俺は、どうしていた。先刻まで。

 無意識にも記憶を遡ろうとした脳の、その内側で、不意に、ノイズ。

 

「っ……?」

 

 麻痺か疼痛に近しい。頭痛、いやさ脳そのものに痛みを覚える。脳に痛覚はない、などという些末な蘊蓄を嘲笑うような、頭の芯を弄くられるかのような不快感。

 それはしかし、ほんの一瞬の後に消え去っていた。

 奇妙な。通りすがりに子供が悪戯でもして逃げて行った。そんな奇妙な印象。

 しかし不可思議な感覚が過ぎ去ってしまえば脳は正常に機能した。直近の記憶が呼び起こされる。己が直前まで何処で、何をしていたのか。

 

「あぁ、そうだった……」

 

 ────母の、納骨の帰り路だった。

 

「……」

 

 山腹に位置する霊園。その近く、偶さか踏み入った雑木林を当て所なく歩き続けていた。ような気がする。

 散策とすら呼べまい。そもそも喪服の背広姿で山歩きなどどうかしている。もはや徘徊の体で。

 何故こんなことを忘れていたのか。この頭がいくら愚鈍であるにしても、ここまで突発性の健忘症を患ったことはない。己の精神もいよいよとそのような域に達してしまったのか。

 救い様のない話だった。これから先の一生を独り、身を立てて行かなければならないというのに。

 独り……孤独(ひとり)

 その事実に、ありふれたただの現実に、足が竦む。

 真実、俺はその場を一歩も動けなくなった。この夜の闇があまりに濃いから、己の行く未来(さき)があまりにも暗いから。

 身も心も迷い、惑った。その時。

 

「……?」

 

 しん、と。

 静寂だった。気付けば無音が、辺り一帯に充満していた。突如として。

 虫の音が止んだ。

 いや、しかし、静寂の為に否応なく(そばだ)てられてゆく耳は、何かを。

 

 

 ほう

 

 

 無音ではないのだ。木々に厚く蓋された闇黒の中から、響いて来る。囁くような、儚げな音色。

 

 

 ほう

 

 

 唄。

 唄声が聞こえる。

 

 

 ほたるこい

 あっちのみずはにがいぞ

 

 

 少女の声。幼く、まさしく鈴を転がすように可憐な声。それがこんな夜半の、深い深い森の奥で響き渡って来る。

 そんな時刻、場所柄で、不意に視界を光が過った。ひどく朧な。電灯や松明のそれとは違う。やや暖色を帯びた淡い光。

 そうして程なく、闇をベールのように掻き分けて、一人の少女が現れた。緑の髪、白いブラウス、濃紺の男性用下穿(ブリーチズ)、赤い裏地の黒い燕尾のマントを羽織って。

 光を纏って。

 少女は、懐中電灯も燭台もランタンも、照明器具をなに一つとして携えてはいない。()()()()発光していた。

 そうでなければこの暗闇の中で己がその姿容を認識することなどできなかったろう。

 己は、幾度目とも知らず驚愕する。足場の悪い林の中を淀みなく苦もなく進み出てきた彼女。その理由を目の当たりにしたから。

 その少女は、浮遊していた。地に足を付けず、飛翔して中空を前進してきたのだ。

 

 ほう、ほう

 

 少女は唄う。朗々と、闇夜を舞台に。

 この世ならざるモノたる条件の、あらゆるを満たして。言葉も無かった。恐怖心すらどこか他人事だった。

 

 ほたるこい

 あっちのみずは

 

 吹き抜ける風のように木々の合間を摺り抜け、徐々に近付く。少女は間近。ほんの五歩、歩み寄るばかりの距離。その額から伸びた昆虫のような二本の触覚が見て取れた。

 思わず今一度目を凝らし、ふと。

 少女がこちらを見ていた。

 少女の目が、己の目を見ていた。

 少女が、にっこりと微笑んで────

 

「あぁまいぞ」

 

 囁きを聞く。耳孔と鼓膜を直に震わせるような、それこそ甘く甘く、甘い蜜のようにとろりと、密語を注ぎ入れられる。

 吐息も触れるほど傍らに、少女の白い顔があった。

 心胆とてまた震え、その場を跳び退く。案の定、足は木の根に捕られ、転倒を免れようと緩い土を踏み宙を藻掻いた。藻掻いた手に、触れられる。腕を掴まれる。

 小さな手。白く、見るからに華奢な。だのに前腕に覚えた感触は万力のそれだった。

 単純にして強烈なその膂力で、己はその場に引き戻された。

 少女の、眼前に。

 

「く、ぉ」

「あぁ、やっと」

 

 淡い光を纏う少女は、その目尻に光るものを湛えていた。

 涙。

 少女は泣きながら笑っていた。それはそれは嬉しそうに、万感に肩身すら震わせて。

 

「やっと、会えた。本当に会えた。お兄さん。ずっと、ずっと会いたかった」

「あ、貴女は、一体」

「やっと、やっと」

 

 ぽろぽろと涙を流す。それを白く光る指先で拭う。

 閉じられた瞼が再び開かれた。そこに埋まる。

 赤い複眼が、俺を見上げていた。

 

「ヤット食ベテアゲラレル」

 

 ひしと俺の身体に抱き着き、彼女は己の胸板に顔を埋めた。

 瞬間。

 

「ぎっ……!?」

 

 激痛が弾けた。胸の中心、丁度胸襟の縁の辺り。

 生温かにぬめる。出血していた。上着とワイシャツ、アンダーシャツを貫くものがある。

 歯だ。

 少女はあろうことか、己の胸の肉皮に噛り付いていたのだ。

 

「なに、を!?」

「甘イ。甘イ。甘イィ! 甘イヨウ!! 甘クテ美味シイ!! ヤッパリ美味シイ!! オ兄サンハ美味シイ!! アハハハハハハハハハハ」

 

 口をべっとりと赤く汚した少女が己を見上げて哄笑していた。

 唇を舌なめずりし、その度に血の紅を含んだ涎が溢れ返る。

 後退る。が、少女の腕は放れない。つい先程理解したこと。この正体不明の可憐な少女の腕力は己を遥かに上回る。

 逃れる術などなかったのだ。初めから。

 それでも痛みと出血と極まった混乱は肉体の自在性などというものを許さなかった。足が(もつ)れ、身体は傾ぐ。

 少女はそれに追随した。体を包む細腕はそのまま微動だにしなかったが。

 一本の木を背にして、気付けば俺は少女に押し倒されていた。

 腹の上に馬乗りになって、少女が己を見下ろした。少女の(かたち)をしたこの人ならぬ誰かは。

 赤い複眼が爛々と光っている。喜悦に全身を打ち震わせ、常に引き上げたままの口端から唾液が顎を、首筋を伝い落ちる。

 

「ハァ、アハッ、ハァハァ、ハァァア、ハハハハハ」

「……」

 

 どうしてか、不思議な心地だった。

 己はおそらく死の際に在る。なんとなれば人肉食を嗜好あるいは生態とした何かによって組み伏せられ、今まさに喰い殺されようとしている。

 恐怖はあった。この局面で無いと言う方が異常であろうが。

 こんなにも間近に死がある。しかし、これより以前にも死に触れる機会を己は一度ならず得ていた。だから、なのだろう。奇妙な馴れが己の内にあるのは。親しみが湧いてくるのは。

 死とは、こんなにも唐突に、理不尽に、実に気安く訪れるのだ。そういったことを思い知って来た。思い知って来たのだ。

 その意味で彼女が今この身に齎そうとするそれは、実に情熱的といえる。そこには明確な情がある。心がある。

 彼女は自己の嗜好、真実願望に基づいて俺を襲い、喰らおうとしている。上気し、涎まで垂らしている様を見るにそれは間違いない。それは、飲酒運転による過失致死傷や、外的な過度のストレスによる心身衰弱死とは違う。

 事故や災害のような無機の死ではない。父母を涅槃へと攫っていった、心無い死。あれとは違う。断じて違う。

 今、この時この場で、誰かの願いによって殺される。そんな最期。

 それは、なにやら、ひどく。

 ひどく意義を感じる。報われた気さえする。

 望まれて死ぬ。死ねること。それが、俺は。俺にとってこんなにも。

 

「残サズ全部食ベテアゲル。骨モ残サズ全部ワタシノ、貴方ハ、ワタシノ、ワタシノ」

「……」

 

 熱に浮かされた少女の顔を見上げる。闇間に光を纏って現れた時は情けなくも胆を潰し、碌々見られもしなかった。

 改めて目の当たりにした少女は、やはり可憐だった。第一印象と寸分違わぬ。

 好物を前にして辛抱堪らず口元を汚す様などは、なんと幼気なことか。ただの、とても愛らしい幼子ではないか。

 ならば仕方ない。子供が腹を空かせて、今ようやく食べ物にありつけたのだから。

 それはなんとも仕方ない。

 

「はい」

「エ?」

「どうぞ、召し上がれ」

 

 こんな男でも誰かの役に立てるのだ。誰かの役に立って死ねるのだ。

 これ以上の歓びはなかった。救いは、なかった。

 そのまま彼女の(あぎと)を待つ。迎え入れる心構えというほどのものもない。覚悟など、それこそ己には似つかわしくない。ただ、終焉を待った。己の甲斐も価値もない生涯の、その最後に意味をくれる少女へ。

 感謝を以て。

 待つ。待つ。

 待っている、のだが。一向に、食事は再開されなかった。彼女の牙は降りては来なかった。

 代わりに降って来る。熱い滴。

 

「違う」

「!」

 

 少女は泣いていた。二つの複眼が埋まっていた筈の場所には、涙に濡れた両瞳がある。

 悲しげに、彼女は嗚咽する。

 

「違うっ、違うの、私、こんな、こんなことしたいんじゃない! こんなことしたくてお兄さんを探したんじゃない! ないのに……どうして……私、ただ、お兄さんに謝りたくて、もう一度会って、話がしたくて……」

「貴女は、俺を知っているのですか?」

「……」

 

 無言で頷き、彼女は己の胸に手を当てた。彼女の歯が喰い破った傷を、そっと。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 幾度も、幾度も少女は言った。悲嘆に暮れた声が、さめざめと懺悔を繰り返す。

 それは今この時の罪ばかりでなく、己の与り知らぬ何時か、何処かでの罪にさえ。

 胸中に筋違いな憐れみを覚えていた。理解してやれないことが申し訳なかった。

 何も知らぬ愚か者には、誰かを赦すことすらできなかった。

 喉元にその一言が蟠る。口先だけの赦し。もうよいのだと。貴女に咎などないのだと。

 言ってしまおうか。言えば彼女は救われてくれぬものか。姑息な慰めを。

 卑劣でいい。もとよりそうなのだから。

 少女に一時、安堵を齎せるならば。そんな独り善がりな決意が過った────閃光が。

 

「な」

 

 過った。紅い光。

 それが、己の上に跨っていた少女を吹き飛ばした。

 光。目を焼く光。

 それは現実に、森を焼いていた。燃え盛っていた。炎。

 炎。炎。炎。

 闇を蹴散らし、木々を呑み下し、空間を侵食する紅の火焔。

 夜気を貪って熱気が充満する。肌身を炙る。

 起き上がって少女の姿を探した。一歩、焦げ付いた枝葉を踏み締めた。

 枝葉。

 あんなにも分厚く頭上を覆っていたそれらが、燃えて落ちる。落ちてくる。

 しかし、炎に包まれたそれらが己が身を襲うことはなかった。

 それらはまるで己を避けて散っていくのだ。炎そのものに意思が宿ったかのように。

 焼き拓かれた頭上に夜空があった。夜天に満ちる星々。眩いほどの月光。差し込む光条に乗って。

 

 見付けた

 

 ────彼女は降りてきた。

 紅蓮の翼が空を一掻きする度に火の粉が舞った。蝶々が鱗粉を纏うように。

 紅蓮を背負う少女。白銀の長い髪を呪符で飾り、サスペンダーで吊った赤いパンツは其処彼処に呪符が貼り付けられている。

 容姿や服装といった外見的特徴を一々列挙する己は愚昧であった。思考が低能化するほどに、この光景には現実感というものがなかった。

 非現実、幻想のような少女。おそらくはいや間違いなく、この空間の炎の主。

 彼女は舞い降りた。己の眼前に。

 彼女は見ていた。片時と、寸毫とて放さず、その紅玉(ルビー)のような瞳で、己を見ていた。

 目を逸らしたが最後、己が消えるとでも思っているのか。

 少女は、やはり笑った。それは業火のように熱く、(ほど)ける烈火のように、儚げな微笑だった。

 

「逢いに、来たよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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