救い難い。救いようの無い男。
かの男は平凡に、ただ平穏に生きる筈だった。出生の不幸は、養い親達の愛情によって概ね帳消しと言えよう。どこにでもいるありふれた、私曰くつまらない、面白味の欠片もない、ただの普通の幸福を享受する、筈だった。
誰よりも当人が、それを、それだけを望んでいた。
突然に来る。それは青天の霹靂めいて。
通り
そうして魔はいともあっさりと、男から幸福の象徴を摘み取った。
平々凡々を心の底から切望するような凡夫が、その日、それはそれは愚かな、愚直なまでの憎悪と愛で歪み、狂った。
その無様。滑稽だ。道化芝居の方がまだしも道理に添うている。
人として異常なのだ。人であることがそもそもの間違いだったのだ。この男は、ただの鬼になればよかった。復讐の鬼に。親の仇を討つ。ただそれだけを
人間の尊厳だの矜持だの犬に食わせて、己の願いの為だけに生きる獣に身を
どれほど、どれほどに、こいつは、幸せだったろう。
そうはならなかった。こいつは己自身にそれを許しはしなかった。
自分の存在を、存続を、いつ如何なる時も常に、その一瞬一瞬に、罪に問うている。己の罪業を盲信し、糺し続けている。
『己は生きていてよいのか。己は断じて生きねばならない』
『死は安息、死は逃避、死を選ぶことは最低最悪の卑劣。そんなものを自身に許せる筈がない』
『────死の先に父母は居ない』
『己は父母には会えない。彼らとは決して再会できない』
『何故なら己の彼岸、魂の行方はただ一つ、地獄であるから』
『希望はない。それでも生きねばならない。父母の最期の、たった一つ、己が受け継いだ願いを成就させる為に……』
────ちゃんと生きなければ
男はそう唱え続けた。今の自身の生命の存続理由を。
心の奥底深くで何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も。
まるで呪いのように。
救い難い。
返す返すに思う。救いようがない。
今にして思えば、私はお前を……救いたかったのだろうか。本当のところはさて、どうだったろう。
お前の有り様があんまりにも滑稽で、愚かしくて、笑っちゃうくらい……憐れだったから。
救われたお前が見たかったのか。
それとも、あるいは、そう。
────私の手で救われ、微笑むお前を見たかったのか
もうわからない。私の家の坪庭に、もう私の“お前”はいないから。
だが、一つ。
一つだけ、確かなことは。
お前は、たとえ何処へ消え失せようと、その肉体が滅び、魂すら潰えてしまおうと。時間を、空間を、世界を、違えようとも。
今も。
お前は。
そしてこれからも、ずっと。
お前は。
ずっと。
「私だけの、花なのよ」
「まったく、
悪態さえも優雅に吐いて捨て、美しい女怪は歩み寄ってくる。淀みない。夜の深み、森の奥底の只中にあってさえ危なげない。迷いの欠片もない足取り。
一路、彼女は来る。
真っ直ぐに、赤い眼光は己だけを見据えていた。やはり彼女もまた、この場に立ち現れたその瞬間から片時と視線を逸らさず射抜く。この身を捉え、捕らえ、刺し貫き絡み付く。
狂おしいまでの、執着で。
事ここに至ってもはや、愚昧な疑問を口にすることさえできなかった。
彼女達の行動原理。命題に、この身が選ばれた。選ばれて
それが眼前の現実。
認め難い。信じ難い。しかし、そんな己の些末な所感など、困惑と苦痛と驚愕などは全くの無価値だ。今この時にあっては。
今、津波のような夥しい植物に絡め捕られ、縊り殺されようとする少女を仰ぐ、この瞬間は。
なにもかも。
「っ!」
「動いていいと、言ったかしら?」
美貌がある。目の前、ほんの僅か四半歩の極間近。長い睫毛、眼窩に嵌る宝珠の如き瞳。その赤が直に己の眼球を染める。
心なしか腕に絡む木の根の
妖しき微笑に手心はない。我が身の生殺与奪はかの手の中にある。
存在の位階が違うのだ。象と蟻、あるいはそれ以上の差で。
指先一つで彼女は俺を圧殺し能う。それでもなお、己が今生存している理由は。
理由こそが。
「……貴女の目的は己の身柄、そう仰せなのですね」
「ええ、それ以外に聞こえて?」
「ならば」
「ダメだぁッッ!!!」
闇夜を引き裂くような絶叫が森の彼方まで木霊する。
樹上まで吊し上げられた少女。全身を容赦なく縊る蔦をその手で引き裂き、その歯で食い千切っていく。死に物狂いで。
「ぎがっ、ぶッ……!!」
「喧しい。百舌鳥の早贄がぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃない」
先の十倍する量の蔦が少女を取り巻く。それどころか幾本かの蔦は直接少女の口内へ殺到し侵入し、文字通り塞いでしまった。
「!? お、おやめください! この身は如何様に為さろうと結構! こんな、これ以上の暴虐は……!」
「どうも、勘違いしているようね」
「は」
女怪は静かに吐息した。それは実に呆れの色濃い溜息だった。
「お前の考えなど顧慮しない。分厚い地盤のようなその理性とやらが吐き出すものなど……自己犠牲? 自己憎悪? ハッ、知ったことではないわ」
おもむろに胸倉を掴まれ、事も無げに彼女は己を、己の体躯を片手で持ち上げた。
「ぐ、ぉ」
「知っている。知ってるわよ。お前の求めるもの。お前の本当に乞い願うもの。私は知ってるの。私だけが知っていたの。今更隠し立てしたって遅い。もう遅い。お前がその理性の鉄面皮の下に何を抱えているか、私は見た。見て触れて感じた。お前の本性を味わった。くふふ、ふふふふふふふふふふ」
真実、彼女の瞳は己の内奥を覗き込んでいた。そこに据わる、俺の、浅ましくも穢らわしい、その。
彼女の腕を掴む。鉄柱のように強靭な感触。びくともしない。しかし、抗うことを止めたその時、俺はもはや。もはや。
自分の足で立っていられなくなる。歩むこと、進むこと。
生きる。
父母の願いを、叶えられなくなる。
そんな気がした。そんな予感が脳裏を過った。
「くっ、が、ぁ……!」
「……この“お前”は諦めが悪いみたいね。いえ……そうね。変わらない。あの頃と何も変わらない。愚かな男。本当に、馬鹿な男」
ああ、そして彼女もまた。
笑うのだ。こんなにも儚げに、寂しげに。
俺に懐古を見て、俺に憐憫を見て、俺に────慈悲をくれる。
「わからせてあげる。また種を植えて、骨の髄から。お前という岩土を私の花の根で柔らかく解してあげる。お前の希望、安らぎと静寂の眠りへ、誘ってあげる」
種子。彼女の白い掌に載った小さな粒。
彼女はそっと差し出す。押し戴くかのように。屹度、彼女の言に間違いはない。彼女の真心に疑いはない。
救済。
この
「幽香!」
「……」
横合いから叫び。呼ばわったのは先刻の、蛍火を纏った外套の少女だった。
見れば服の彼方此方が黒く焦げ付き、肌身には火傷と思しい赤みが散見する。
痛ましげな姿で、しかしそれを気にも留めず少女はなお叫んだ。
「ダメだよ! それをしたら、お兄さんはもう止まっちゃう! なにもできない。口も利けない。私、を、こっちを見てもくれない。そんなの……生きてるなんて言えないよ!」
「それがこの男の望みよ。生も死も己自身に許せないどうしようもない人間の救い。私だけがそうしてやれる。咲かない花として、永久にそこに在る。在るがままでいさせてやれる。私だけが、この男に赦しを呉れてやれる」
「でも、でも……」
「そうなったら、貴女の望みだって叶うのよ? リグル」
「え……?」
逆月のような笑み。口端が引き上がる。獣が牙を剥く様に似て。
女怪は愉しげだった。
「この男が花に成った後なら、幾らでも食べていいわ。花に生った果実を齧るのと一緒よ。勿論、私が育てるのだから傷なんて残さない。そうね、手足くらいならいいわよ。ある程度待てるならその後もまた
「は、あ、ぇ?」
「どう?」
怪しげな密約が、眼前で、その当人を置き去りにして交わされようとしていた。
迷い、躊躇い、そうして半歩爪先を踏み出し、よたつく足取りで蛍火の少女が、リグルと呼ばわれた少女が歩み寄って来る。
呼吸は荒く、半開きの口からは大量の唾液を滴らせていた。その目は再び色を変える。形を変える。気付けば昆虫の複眼に変貌を遂げた。
捕食者の眼。
「一緒に愛でてやるのよ。悪い蟲共を追い散らすの。その手伝いをして頂戴な」
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
甘い誘い水の言葉。荒い息遣い。微かに火の燻り。
己の終わり。己という人としての生の終わり。彼女は迷うまい。
リグルという少女は、抗えない。それは彼女の本能なのだ。逃れ難く魂に根付いた宿命なのだ。
ここで終わり。俺は終わる。そうか。
ならば、せめて。
「せ、めて」
「なぁに」
「せめて、仲良くお分け合い、ください」
「……馬鹿ね」
呆れたように、優しげに彼女は笑ってくれた。
────地面が割れ、いや
大地が二つに分かれ、暗い暗い奈落が口唇を開く。
目の前の彼女を、蛍火の少女を、蔦に巻かれた少女を、そして己を喰らい込める。
その時、どうしてかはたと気付いた。暗闇の奥底深く。こちらを見上げるその両眼に。
「よう」
金糸の豊かな髪、長身筋骨流麗な肢体、額より伸びる朱い一角。
「会いたかったぜ」
無邪気に笑み。
美しい鬼の姫が、己の足を掴んでいた。