板張りの本堂はひどく暗い。陽光など射し込みようがないのだから、それは当然であった。
ここを訪れる少し前、彼女の肩に担がれながら望んだ地下の巨大空間には、街の灯が延々と建ち並んでいた。碁盤の目のように整然と通りが走るその様は、あるいは京の都の写しであった。
潰れた球形を為す空洞、その岩壁にまるきり埋もれる建屋一軒。
今、己が座り込む場所。
正面奥に顔の欠けた観音像が屹立している。廃寺、であるらしい。
「ここはな、よく馴染みと酒盛りに使うのさ。そこの仏さんの顔が無いのをいいことにな。ハハッ」
軽やかにそう言って彼女は笑った。
「あの時もそうだった。そう、体よくお前さんを駆り出して、酒の肴を作らせたり。そうそう小料理屋で下働きしてたんだったよな。妙に手際がいいんで、萃香の馬鹿があれやこれや調子に乗って注文つけるのを一々全部ご丁寧に応えやがる。そんなだから酔っ払いは益々喧しくなりやがるし、出る品出る品良すぎて酒は止まらねぇし」
女生は天井の傷んだ梁を仰ぐ。彼女の目にはそれが見えるのだろう。懐かしさに思わず笑んでしまうような光景が、思い出が、過ぎ去った場所が。
失った安息、喜び、切なさ、悲しさ、愛しさ。
堪らない、そう愛しさを吐息する。その息遣いが俺の鼓膜を撫で上げる。
「旨かったよ。あんたの手料理、辛子蓮根、佃煮、軍鶏鍋。あとあれだ、鯉のあらい。あれも旨かった。あぁすげぇ旨かった。旨かったんだ、全部、全部私の好物ばっかでさぁ」
す、と。その足音は実に静謐だった。彼女のこれまでの気性を鑑みれば異常なほど。
「旨かったんだよ、涙が出ちまうくらい」
後ろ手をついて座り込んだ己に、その長身が覆い被さった。腹に馬乗りになり、甘く魅惑的な体重が己を床面へ磔にした。
鋼の如き粘りの筋骨を内包していながら、驚くほどに柔い。柔肌。紛れもない女の肉皮。
己のような木石にそれはあまりにも刺激が強すぎた。
抵抗を試みようとして、その機先を封じられる。こちらの肉体が力むより早く、そも抗おうとする意思を気取られていた。
無駄な抵抗であることは歴然。彼女と己との膂力の差などはもはや顧慮にも値しない。
人間に山は動かせない。
「俺は、違う」
「……」
「違うのです。俺は貴女が仰るその男とは、貴女が……求める、その男とは」
「……」
「貴女のことを、俺は知らない」
今まで出会った彼女らを含め、全員を。
俺は知らない。俺には解らない。理解してやれない。
この狂おしい凄絶なまでの愛が、何故。よりにもよって何故、この身を焼くのか。この芥のような男に向けられるのか。
その無理解の罪は計り知れない。
それでも、それでもなお、この
朱い一角が淡く夜景の灯を映す。血色に富んだ肌がしかし、この伽藍堂の中にあっては青白く、朧に光る。
金糸の長い髪がしとどに己の頬に垂れる。赤い瞳が薄闇を裂いて欄と煌めく。
人ならぬ美貌。それが己を見る。蕩けて、粘り、潤んで、熔ける。
全てを溶解してしまえそうな熱い眼差し。
泣いているような。泣いて、いるのだ。
童女のように泣いてしまう。その兆しが瞳に覗いている。
胸が痛い。痛くて、痛くて仕方ない。痛みの中枢、この心臓を掴み出してしまいたくなる。
そうできたなら、無責任に、厚顔無恥に、そうしてしまえたなら。
「それでもいい」
「っ!」
「それで、いい。あんたがここで、こうして、私のところに居てくれるなら。私の腕の中で生きて、生きていて、くれるなら。それだけでいい」
突如、両腕が己を抱き上げる。きっと赤子をそうするより容易く、軽々と。片手は頭を支え、片腕は背中を掻き抱いた。
肺に残留した空気が押し出される。筋が、骨が軋む。茶巾でも絞るように、そして彼女の筋力にとり、確実にそれ以下の
もうあと僅かでも力が込められたなら、あっさりとこの身は潰れ、手折られるだろう。
彼女の自制、そのぎりぎりの際。
それでも彼女は縋った。堪えなど利かず、俺という生命に縋り付いた。
「もう放さない」
放したが最後、それで最期。彼女は妄信している。俺の生命の脆弱さを。声音で、その身の震えで、心底より怖れ慄いている。
こんなにも
「どこへもやらない……誰にも、やらない……!」
「っ、ぁ……」
瘧のように震えながら嗚咽する。
「あたたかい」
熱を、鼓動を、その腕に、胸に受けて。
「あぁっ、あたたかいなぁ……」
涙は止まらなかった。ここに生命が存続しているというただその一事実に。
後悔と喪失の虚に、喜びと安堵が満ちていく。
血の脈動が教える。心臓が生を叫ぶ。お前はここに。
この手の中に。
もはや渡さない。誰にも。
お前を守るのは私だ。お前を守れるのは私だけだ。他の者にはできない。させない。
そうだ。
そうだろう。
お前も、そう言ってくれるだろ。
「これからずっと────」
このあたたかさは私の。
私の。
あたたかな。
熱、熱い、熱いな、これ、すごく熱い、まるで熔けた銅みたいだ。ああ熱い。
熱い、血。
「え……」
熱血。鮮血。
赤い。赤。赤。赤。赤。赤。
腕の中に広がる血の紅。
鼻腔に満ちる血臭。鉄錆の芳醇な香。命の残り香、残火。
消え去った命。お前の命。目の前で貪られていった。
どうしてだ。たった今。だって。
どうして。
ねぇ。
なんで、お前、首だけなんだ?
首だけしか、ないんだ?
「────」
光を喪った目玉。半開きの口から舌を出したお前を両手に持って私は呆然と。
血の滴るお前を。両掌に収まる小さなお前を。
気付けば、お前の生首を抱いていた。
どうしてだ。なんだ。誰がやった。誰だ!? 誰だ!!
「は、ぇ」
血を滴らせているのは首だけではない。
この血。この赤は。
私の口から。
舌先に広がる甘露。喉を潤す生き血。胃の腑に満ちる人の肉。生命の味。お前の美味。
私が喰ったのだ。私が、お前を。
殺したのだ。
殺した。
殺した。
ころした
わたしがおまえをころしていた
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!」
蹲り、時に転げ回り、床板を引き裂き握り砕く。
「アァァア! アァア゛ッ!! アアァアア゛アァァアァアアアアア!!?」
頭を抱え、その鋭利な爪が頭皮ごと掻き毟る。美しい金髪は赤黒く血に染まっていく。
焦点を外し、白く眼を剥いて彼女は虚空を見た。眼窩からは壊れた蛇口のように涙が溢れ出ててくる。半開きの口からは涎が垂れ落ち、顎から粘り、糸を引く。
色の無い眼。
鬼の姫は狂乱した。
いや、狂わされたのだ。
闇より出でし、その少女の
「良い夢を見なさい、勇義。身に過ぎた夢、その成れの果てを」
狂した鬼姫の耳元にそっと囁く。
少女は笑った。慈悲を装いながら、酷薄で、悪辣な、憎しみの象形のような笑み。
淡い藤色の髪が闇に
彼女は見ている。この場に立ち現れた瞬間から己を見詰めている。
その顔に埋まった両瞳で……ではない。
胸の中央、細い神経節に繋がれたその眼で。
巨大な眼球で、俺を見詰めていた。
「ええ勿論です。この眼は貴方を、貴方だけを見る為にあるのですから」