楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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妹紅×外来人の青年






不死人の彼女が死人のような男にキレる話(藤原妹紅√)


 

 

 茜に燃える西空に目を(すがめ)る。薄闇の侵食が始まる夕暮れの帰路で。

 ふと、それが目に留まる。

 見知らぬ青年だった。

 農道からやや外れた林の傍に井戸が一穴掘られてある。その井戸端で大の男が一人、何かごそごそやっている。

 里の者らは大半が顔見知りだ。背中越しでも何処其処の誰ぞ程度、当たりを付けるのは造作もない。

 しかしてその背には一向、見覚えがなかった。

 興味本意に近寄ってみる。警戒の念は二分ほど。

 (けだ)し、逢魔ヶ刻に魔に行き逢うのは自然の摂理であるから。襲い掛かってきた暁には即時滅却せり、といった心備えを頭の隅に置いておく。

 幸か不幸か、その当ては外れたが。

 人間だ。里に住まう多くの彼ら彼女らと同じ。

 若い。二十の半ばか、も少し上か。しかし働き盛りのこの年恰好で見覚えがないとなれば。

 

「そこでなにしてるの」

「!」

 

 広い背中が微かに強張る。

 背後から、それも意図して足音を殺して近寄られれば然もあろう。驚きに声も上げず飛び上がりもせぬ胆力をこそ褒めるべきかもしれない。

 青年はこちらに振り向いた。

 白い開襟襯衣(シャツ)に黒い洋袴(ズボン)。だのに足元は草履。なんだかちぐはぐな装いだった。

 そうしてその顔立ちを見て取って、思わず首を傾げる。後ろ姿から二十代の後半と見立てたが、もっと若い。幼いと言ってもいいほど。

 短く刈った黒髪の下、平凡なカタチをした面相。精々が、鼻がやや高い程度だろうか。十代の後半といったところ。

 やはり、然程老けた容姿とも思えないが、どうしてか敵う齢の頃というものが分からない。大人びた、というよりも……老いた、奇妙な顔貌。

 しかし、何処かで。何時か何処かで見覚えがある。無論、知己の誰かという訳ではない。

 この印象を、何処かで感じたことが。

 

「こちらの、井戸の滑車を」

「滑車?」

「はい、修繕しておりました」

 

 青年は至極素直に問いに答えた。それもなんとも、堅く。

 外見年齢という意味では確実にこちらが年下であろうに、その口調はまるで貴人に相対する下人のようだった。

 無意識の内に片眉の端が吊り上がっていた。苦手な手合い。

 青年から視線をその後ろへ移す。

 そこには大振りな木材が幾らか地面に並べ置かれている。視線を周囲に這わせれば、井戸から少し離れたところに砕けた木っ端のような木切れが山と積まれていた。

 なるほど、あれが“元”滑車か。

 

「こんな時間から? ご苦労だね」

「ありがとうございます」

 

 労いの意味合いなど勿論一抹と含めなかった皮肉に、青年は(すこぶ)る生真面目に応じた。その場で腰を折って一礼までされる。

 口がへの字に引き曲がるのを感じた。

 こちらの不快感など知る由もないだろう青年は、今一度会釈をするとまた作業に向き戻った。

 手元を覗き見る。

 二本の太い木材は支柱だろうか。表面に寸法が書き込まれている。

 今青年は、そこに渡す梁と思しき木材に鑢掛けをしていた。

 

「里の大工にでも頼めばいいのに」

「日暮れも近いからと断られました。なにより、滑車の破損を招いたのは自分の不注意です」

「不注意、ね」

 

 元滑車の残骸を見るともなしに眺める。長く雨風に晒されていたからだろう、随所が斑模様に黒く腐っている。

 老朽化して寿命間近の滑車の、最期の使用者が偶さかこの青年だった。そんなところか。

 大工の棟梁とは顔見知りであるが、日の高い低いを理由に素人へ仕事を丸投げするような底意地の悪い親仁ではなかった筈だ。

 とすれば

 

(若衆の阿呆が、悪ふざけに無茶を振ったか)

 

 青年の手付きはそう不器用ではない。しかしだからといって大工仕事に慣れているようにも見えなかった。

 なにより、その手には白い布が巻かれていた。包帯、なんて上等なものではない。手拭を裂いて帯として用立てているだけだ。

 そして、本来は白かったのだろうそれは、今や赤黒く変色を来たしている。

 

「……悪いこと言わないから、明日にでも本職を呼びなさいな。そんな素人の手遊びじゃ、日が暮れるどころか夜が明けるよ」

「お気遣い、有り難う存じます」

 

 依然穏やかに青年は言った。こちらの忠告をある種、真っ向から拒みながらに。

 

「……そーですか。では、どうぞ御勝手に」

 

 言い置いて背を向ける。もとより帰りの途上で気紛れに道草を食っただけ。摘まんだ野草が口に合わないなら吐いて捨てるまで。

 歩き去る寸前、後ろを僅かに流し見た。

 赤橙と群青の狭間に、ぽつりと白い背中が浮かんでいた。

 

「……」

 

 それが妙に、後ろ髪を引いた。

 

 

 

 

 

 深海のような夜闇に沈む庵、明り取りの窓から一条、月明りが射した。

 見事な半月。憎らしいほどに美しい月夜だった。憎らしい、本当に、憎いほど。

 眠れぬ夜など常の事。一つ処に居を構えて床を敷く今こそが自分にとっては異常なのだ。

 囲炉裏に火も入れず行燈も灯さず、柱に背を預けたまま呆と闇間の中空を眺めている。月光の天幕には無数の塵が舞った。

 

「……」

 

 すっくと立ち上がり、後頭を掻き毟って溜息を吐く。

 ……さて、提灯は何処に仕舞ったろうか。

 

 

 

 

 

 蟲の合唱を聴きながら、竹林を出て田を渡り雑木林の方へ進む。そして。

 

「うぅわ」

 

 果たして、農道の脇の井戸端で、青年は未だそこに居た。傍には石で囲った薪が火を上げている。灯の準備も万端と。

 こちらの呻き声を聞き取った青年が振り向き、会釈を寄越す。今度こそ驚いた様子を見せて。

 

「こんばんは」

「こんばんはじゃないよ」

 

 陽が沈んでから随分と経つ。なんとなれば月すらも既に西に傾きつつある。

 

「いつまでやってんのよ」

「もう少しで組み上がります」

「んなこと聞いてんじゃ……もういいわ」

 

 薄ら呆けて物分かりの悪いことを(のたま)う。処置なしだった。ともかく、何を言おうがこの青年は手を止めはすまい。それだけははっきりと理解できた。

 道端の乾いたところを見繕って腰を下ろし、胡座を掻いて頬杖を付いた。

 

「……」

「……」

「あの、もし」

「なに」

「そこで何を為さっておられるのでしょう」

「見物」

「なるほど」

 

 言とは裏腹に納得した様子は欠片もなかった。

 

「夜も深まって参りました」

「朝の方が近そうね」

「今時分こそ闇が一等濃いと、聞いたことがあります」

「そうね。獣と蟲と、妖怪(ばけもの)共の本領よ」

 

 たとえ人里の中であっても、それは変わらない。不可侵の約定は暗黙のもの。それを解するだけの知恵を持たないケダモノには、意味などない。

 それを知らぬこの青年は、やはり。

 

「外来人」

「はい。皆さんからは、そのように呼ばわれております」

 

 こちらの独白に一々丁寧に青年は答える。

 案の定。

 外来人という者らは、どうしてこうどいつもこいつも不用心なのか。自分が知らぬだけで現世は余程に平和なのか。

 平和ボケの外来人は、またぞろボケたことを口にした。

 

「夜も深うございます」

「? さっき聞いたけど」

「はい、なればどうか、お家へお帰りください」

「……は?」

 

 頗る真面目な顔がこちらを向いた。

 

「お若い女性の、夜の一人歩きは大変危険と思われます。お早くご帰宅なさってください」

「………………」

 

 その時の心中の複雑さは近年類を見ないものだった。怒ればよいのか呆れればよいのか、もはや感心すればよいのかも分からず。

 

「ぷっ」

「?」

「ふふっ、く、ふふははははは」

「……自分は何か、頓珍漢なことを申し上げたのでしょうか?」

「あっははは、あぁ、まぁ、うん。そりゃもうすんごい珍奇。人の気も知らないでよく言うわ。くく、ふふふふ……!」

「申し訳ありません」

 

 青年は腰を上げてこちらに向き直り、深く頭を垂れた。真面目くさった態度がなお一層可笑しみを誘う。

 

「はいはい、いいからとっとと組み上げてよ。私はここで朝まで時間潰すから。ふふ、まさか見物料なんて取らないでしょ?」

「ええ、勿論」

 

 素直に頷いて、青年は作業を再開した。

 木を切る音。削る音。打つ音。真夜中の雑木林に木琴の楽が響く。時折、焚火が爆ぜて諧調を奏でる。

 半月が浮かぶばかりの、湖面のような夜空の下で聴く素朴な合奏は、悔しいかな、思いの外に……快かった。

 

 

 

 気付かない内にうつらうつらと微睡んでいたようだ。

 像を結び始めた夢に片足を踏み込んだ時、刃のような光に瞼を撫でられる。白んだ朝日はその程度の薄皮、容易く切り裂いてしまう。

 眩しさに耐え切れず、無理矢理に立ち上がる。それだけで――――体は原型を取り戻した。霞掛かっていた意識さえ明瞭に透き通る。

 

「ぁ」

 

 ふと見れば、そこには白い背中が立っていた。朝日を浴びた襯衣が光を纏ったようにぼやけて見えた。

 青年の前には、井戸。井戸穴の両端に寄り添うように支柱が屹立し、梁の中央にしっかりと滑車が吊られている。そして。

 

「……屋根なんてあったかしら」

「勢いで、つい」

 

 ぽつりと、彼は言い訳染みたことを呟いた。

 日の入りと同じほどに、日の出もまた影が色濃い。そんな暗闇に身を浸したまま、青年はこちらを振り返って。

 

「おはようございます」

「……おはよ」

「長らくお付き合いくださり、ありがとうございました」

「別に」

 

 気紛れ、暇潰し、物のついで……最後のは無理があるか。いずれにしても礼を言われる筋合いではない。

 衣嚢(ぽけっと)に両手を突っ込んで肩を竦める。

 用も済んだ。自分自身の用など何処にもありはしないが。

 

「一つ、お尋ねしてよろしいでしょうか」

「? なに」

「貴女のお名前を」

 

 彼は言って、すぐに名乗った。これでは誰何の礼節どうこうと難癖もつけられない。

 喉の奥で幾つか言い訳を考えてから……何故そんなことをする必要があるのだろうかと我に返る。

 どうしてだか。一向に理由は分からないが。どうにも。こいつに素直に名前を教えるのは癪だった。今更改まって。そう、何故今更こんな風に改まって訊ねてくるのか。

 たかが名前を口にするのが、どうしてこんなに気恥ずかしいのか。人見知りの童女(おぼこ)いガキじゃあるまいに。

 

「…………」

「御名を、頂戴できませんか?」

「………………」

「……重ね重ね御詫びいたします。不躾な物言いを」

藤原妹紅(ふじわらのもこう)

 

 ぶっきらぼうにそう告げて、屹度睨んでやる。

 刹那、青年の両目が僅かに見開かれた。出し抜けな返し、躾が成っていないのはどちらやら。気分の一つも害してくれればこちらもやり易い、が。

 

「ありがとうございます、藤原さん」

 

 日が昇り、影が引き潮のように去っていく。

 白光の中に青年の姿が現れた。だからこれも朝日の所為だ。そうに違いない。

 朝靄よりも微かなその笑みが……妙に、焼き付いて離れないのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 迷いの竹林の奥に庵を構えて幾星霜。自慢ではないがここに客が訪れることなど滅多にない。辛うじて皆無と言わぬまで。幻想郷に辿り着いてより云百年、その数は両手の指で事足りるだろう。

 これから先の幾百年とて、そう変わるまい。なにせ確実に、誰もが自分より先に逝くのだから。

 

「おはようございます」

「………………」

 

 だから玄関先で姿勢よく佇むこの青年は実に数百年ぶりの例外となるのだろう。

 

「…………えっ、なに、なんでいるの」

「上白沢さんに事情をお話ししたところ、こちらの御宅の所在を御教示くださいました」

「いやいやいやそうじゃなくて。何しに来たのよ」

「は、先日のお礼に参りました」

 

 迷いなく青年は言った。それこそ至極当然とばかりに。

 

「遅ればせながら、その節はありがとうございます。己の無知なるを見兼ねて御配慮を賜っておきながら、その場その時にすべき礼を失しました。恥ずかしく思います」

「…………」

 

 目の前に現れた青年の旋毛を無言で見返す。意図したことではなくて、本当に返す言葉が見付からなかった。要するに絶句である。なにやら馬鹿に丁寧な御礼の口上を長々と。真面目も過ぎれば胸焼けを起こすという良い例だ。

 しかしそこは藤原妹紅。永い永い人生経験が物を言う。次の瞬間には気を取り直し、この金剛石級の堅物を帰らせる返し文句を既に十通りから用意が出来ている。そこから最適と思しいものを一つ選抜し、舌に乗せて。

 

「お」

「ついてはこちらを。里の甘味処『茶虎屋』の栗羊羹です。お口に合えばよいのですが……失礼、遮りましたか」

「……お茶でも飲んでけば」

 

 舌の上で文句は転がり裏返り、想定とはおおよそ真逆の文言に変化した。

 なんたって女子は甘いものには弱いのだ。

 

 

 

 こんかんこん、炭に焼き上げる為の竹を蹴飛ばした。

 酒瓶を退けると、今度は茶碗とぶつかって甲高い悲鳴を上げた。咄嗟に手をやって検めたが、幸いに割れてはいない。

 

「あぁれ……っかしいな……この辺に置いた気が……おっ」

 

 唐櫃を開け放ってがさごそやると、ようやくに茶缶を見付けた。……何故衣類の中に紛れていたのかは定かではないが。

 蓋を開けて匂いを嗅ぐ。まあ平気だろう。

 

「あ、湯呑みどこやったっけ……」

「……」

 

 居間の隅に山と積んだ和綴じの書物をどさどさ払い除ける。

 湯呑みはないが、失くしたと思っていた白眉の筆が下に転がっていた。やったね、ついてる。

 

「じゃないや。湯呑み湯呑み……」

「…………」

 

 ……その無言の視線には気付いていた。

 居間に通されてからこっち、囲炉裏の前で行儀良く正座する青年が、火の加減を見ながらにこちらの様子を気にしている。

 まるで童児(こども)の危なっかしい動きに気が気でないとばかりの、そわそわと心配そうなあの顔。

 業腹である。

 

「……おっ、あった」

 

 湯呑みが丁度二つ、何故か格子窓の桟に並んで置いてあった。思うに、外を眺めながら茶を啜っていて、そのまま忘れたのだろう。

 

「…………」

「…………」

 

 まさかそのまま使おうと言うのではあるまいな――――視線はそのように訴えかけていた、ような気がする。

 湯呑みを水で洗い、タワシで磨く。折よく囲炉裏にかけていた土瓶が沸いたので、駄目押しに熱湯をぶっかけてやった。

 

「どうよ!」

「はい」

「……」

「……」

 

 青年が庵を訪れてより小一時間、いやそろそろ丸一時間に届いたろうか。茶を一杯淹れるのに掛かった時間がそれだった。

 

「……お噂は予々(かねがね)伺っております。主に上白沢さんから」

「何の噂よ何の」

 

 絶対にろくでもないことだけは確かだ。悪口陰口の類いではなく、お小言お説教的な意味で。

 

「何を吹き込まれたか知らないけど、お茶飲んだらさっさと帰ってよ。というか最初から不思議だったけど貴方……ここまでどうやって来たの?」

 

 迷いの竹林は名の通り、入った者を迷わせる。外に出ることも内側を自由に歩き回ることも並の人間ではまず不可能だ。

 竹林の奥深くに隠れるようにして建つこの庵を、青年が一人で探し当てたとは考え難い。

 

「イナバさんという方が、御親切に道案内を買って出てくださいまして」

「はあ? あの悪戯兎がどんな風の吹き回し……」

 

 いや、おそらく青年の気質から厄介事の臭いを嗅ぎ取ったのだろう。目的地がうちであると聞いて、それはもう嬉々として押し付けに掛かったに違いない。無駄に婉曲な嫌がらせを。

 そして、化け兎の思惑はまんまと成就する。

 誰あろう眼前の青年から、青天の霹靂で。

 

「藤原さん、本日こちらにお伺いしましたのはお詫びとお礼に加えて、他でもない上白沢さんからの御懇請を拝領してのこと。失礼ながら先程からお住いの惨じょ……ご様子を拝見させていただいておりましたが、どうやらかの御人の御懸念通り。自分も少々……いえ」

「……なにさ。今更言い淀まないでよ。男子(おのこ)ならはっきり言ったらどう?」

「汚部屋にドン引きです」

「はっきり言うなぁ!?」

 

 真面目くさった顔で酷いことを言ってくれる。事実とはいえ……事実とはいえ!

 唇を尖らせて目を逸らす。しかし逸らした目には、青年曰くの惨状なる室内が映し出された。使いっぱなしの食器、脱ぎ散らかした衣類、積み上がった書物に、酒屋を自称できそうな無数の和酒の空瓶。

 

「そんなに酷いかなぁ……」

「はい」

「ぐ、ぬ……堅固に断言しおる……!」

「故以て」

 

 青年は囲炉裏の前の茣蓙から離れ、床板に正座を改めた。両手を付き、頭を垂れる。

 私はただぽかんとしてその奇態を見ていた。

 

「本日これより、尊宅の家事一切を自分が代行させていただきます」

「――――は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 押し掛け女房とはよく言ったもの。その日からの、青年の振舞いはまさしくそれだった。

 炊事洗濯掃除、細々とした雑事諸々。御店の年季奉公というか、嫁ぎ立てほやほやの新妻というか。

 とにかくそれはもうなにくれとなく。せっせせっせと彼は働いた。

 

「……ホントに、慧音になに言われたのさ」

「生活態度があまりにもだらしない、と。何度注意しても治らぬようなので、ここは一つ刺客を立てて修正してくれようとの仰せで」

 

 確かに以前から何かと小言は多かった。

 生活態度ときたか。えらく、馴染みのない響きである。

 食べる必要も眠る必要もないこの身に、活計(たつき)についてあれやこれやと苦言を呈してくれるのは幻想入り以来後にも先にも上白沢慧音くらいなものだ。

 ――人間扱いしてくれるのは。

 

「……お節介だね、まったく」

(はばか)りながら」

「ん?」

 

 床板の雑巾がけから居直り、座の姿勢から彼は言う。ややも面を伏せ、言葉通り躊躇いがちに。

 

「御自身で赴かれず己如きを遣わされたのも、ひとえに藤原さんの、自由な御暮しを慮ってのことと愚考します。御自身の諫言が、あるいは藤原さんの御負担に繋がりはしないかと、上白沢さんは頻りに仰っていました」

「……わかってるよ、あれの心配性くらい。どれだけ旧い付き合いだと思ってんのよ」

「はっ、愚昧な差し出口を申しました。どうかお許しください」

 

 深々と辞儀して謝罪される。それがなんとも居心地悪い。ここは狭いながらも楽しい我が家なのに。

 

「慧音の心遣いはよーっく分かったからさ。貴方も適当なところで切り上げていいよ」

「そういう訳には参りません。上白沢さんの御要請に期限は設けられておりませんでしたので」

「はあ!? ま、まさか毎日来る気……?」

「いえ、七日の内二度か三度、お伺いさせていただきます。そして少なくとも、この惨憺たる有様が改善されるまでは」

「布切れ一枚歯に着せなくなったわね、貴方」

 

 こちらの嫌味に、憤慨どころか真っ直ぐ首肯で応えて、青年は居住まいを正しながらに。

 

「貴女の暮らしぶりはもはや、頑是(がんぜ)無いと表さざるを得ません」

「うっさい!」

 

 文句たらたら、いやいや文句以外に湧いてくるものなどあろうかい。

 なにせ口喧しいのが倍増したのだから。ちょっと散らかした程度でがみがみと。

 青年の参入によって、藤原妹紅の独り住まいにいよいよ以て静けさが失われたことは言うまでもない。

 ――――以前までは、たまの殺し合いを除けば植物のように動きのなかった日々に、突如波風が立った。

 血と痛みと夥しい苟且(かりそめ)の死から。

 陽の光と温かみと手触りのある生へ。

 然りとて……己にとってそれらはどちらが良いも悪いもない。

 ないのだ。どちらもこの身にとっては等価値。等しく、無価値。

 あってないようなこの命に、どうして値札が付けられよう。生きる命が素晴らしいのか? 死に逝くからこそ命は美しいのか?

 くだらぬ。

 この問答は既に飽いた。

 飽き果てて、在るように在ると決めたではないか。今までも、これからも、変わらず。不変(かわらず)に。

 だから今更こんな些少な変化に思うことはない。慧音には満足するまでやりたいようにさせよう。その程度には(ちか)しい仲だ。多少の横車、構いやしない――――

 

「……っ!?」

「どう、でしょう、お味は。合わせ味噌がお好みとのことでしたが……出汁は、霧雨商店出入りの商人の方から鰹節が手に入りましたので、それを取りました。海の無い幻想郷で海のものを食べられるのは望外の幸いです」

 

 青年の感慨深げな呟きを後目に、またも返す言葉を失くしている。

 いや、いやいやいや味噌汁一杯くらいで絆されるものか。嘗てない深味と旨味になんか脳内で至高だの究極だの至極の公私混同親子喧嘩が勃発したようなしないような気がしないでもないが、なんか今盛大に胃袋を鷲掴まれようとしている気配が強かにするけれども。

 

「揺らいでる、私の沽券……」

「は……?」

 

 くだらぬことに一喜一憂する。それはとても――――とても人がましい毎日だった。

 青年は善人だった。

 真人間、と呼び換えてもいい。

 真っ当で、普通、そういう並の、尋常の人間生活をきちんと営める人間。

 自分とは違う。

 生をありのまま受け入れ、死を信実に畏れることができる。

 生も死もペテンに過ぎないこの身とは違う。どこまでも、違う。だのに。

 

「人里の食糧事情は、喜ばしいことに安定しております。藤原さんも、三食をきちんと摂るべきです」

「いいよ私は。気が向いたらで」

「そう仰らず」

「……私の体のこと、慧音から何も聞かされてないの?」

「いえ……」

 

 明答続きだった口舌に濁りが混じる。

 それだけで、彼に慧音がどの程度語って聞かせたかは大体察しがついた。

 

「じゃあ話が早いや。そういうことだから――――」

「そうであっても」

 

 青年はこちらを見詰める。視線は真っ直ぐ、折れず、めげず、迷いなく自身を射す。

 

「食べてください。食べて欲しい。そうしてくださると……嬉しく思います」

 

 朴訥にそう言って、青年は目礼した。強引なようで、遠慮深げでもある。奇妙な、いや奇矯な振舞い。

 なんだっていうんだ。どうして。自儘に存在しているだけの自分を、何故こうも気に掛ける。構いたがる。まるで。

 

 ――――ああ

 

 そうか。慧音と同じ。

 この青年も、私を人間扱いするのか。

 

 

 

 

 

 

 青年は、うちへ家政夫として派遣される傍ら、里では大工の人足として働いているという。先日、彼が井戸滑車の修理を断られたあの大工組であった。

 あくまでも人足。現代人、外来人の素人が、建築の職人仕事など任される訳もない。荷運び雑用が、少なくとも当座の関の山となろう。

 けれど、そう悪いようにはされないだろうとも思う。

 組頭たる棟梁の親仁は頑固一徹の厳しい男だが、なんといってもあの青年もまた真面目一徹の堅物の権化である。

 骨身を惜しむ筈もなく、一を命ずれば十動こうとする。若造に有りがちな跳ねっ返った生意気さもない。黙々と働き、ひたすらに働き、身が粉になっても働いてくれようという気概で働く青年を、親仁は甚く気に入ったらしかった。

 里の普請場で青年を見掛けたことがある。

 汗水垂らして、それでも嫌な顔一つせず作業あらばそこいら中に駆け寄っていく。上機嫌な親仁に背中をバシバシ叩かれて恐縮した顔をする。意気地の悪い若衆も青年の生真面目さには毒気を抜かれたか、時には職人共が声を揃えて笑っていたりもした。

 

「……」

 

 青年は相変わらず、恐縮の体でひたすら目礼する。口に微笑の一つも浮かべやしない。

 無愛想ではあったが、誰区別なく、頑ななほどに礼節を重んじる男だった。そこに目上目下、老若男女は関わりない。

 個性の一つ、そう呼べぬでもないが。

 …………あの顔にはやはり、見覚えがあったのだ。あの、倦んだ貌には。

 飢饉の都、流行病に喘ぐ村々、戦の後の屍の原で。

 見飽きたものだった。遥か古から。人の世の常だった。人ある限り尽きぬ理だった。

 ()()()顔。親しい人、愛する人を亡くした者の、それ。あるいはその最中に、彼は居るのだろう。

 ……だからどうだと、思うでも想うのでもない。一々他人様の死に様を気に掛けていては、これまでの千年も、これからも往くだろう千年も立ち行きゃしない。

 喪に服し、その死を悼み、思い出に変える。いずれもまた自己の意思で行うこと。それしか、死別の痛みを和らげる術はないのだから。

 あるいは周囲を頼ればいい。真っ当な人間は、真っ当な人間同士で助け合う。健全だ。

 相談相手というならそれこそ慧音など打って付けだろう。親身になってくれるに違いない。慰めも励ましも、彼女のそれは真心だから。

 だからきっと、彼にも、また笑える日が来る。

 心から、笑える日が――――

 

「…………あ」

 

 朝日の白に霞むような、陰の色濃い闇に飲まれて消えそうなほど、儚い。

 微かな笑み。

 吐息するように弱弱しい笑みが……どうしてか忘れられない。

 どうしてか。

 

「はぁ…………まったく」

 

 困った話だった。

 こんな役回り、全く自分らしくない。

 

「おーい」

「はい」

 

 仕事終わり、帰宅の途についていたのだろう青年の背中を呼び止める。

 彼はこちらの姿を見て取って、僅かに驚いた様子だ。

 

「酒はいける口?」

「はい?」

 

 全く以て、らしくないことをしていた。

 

 

 

 

 

 

 少女に誘われるまま、己は赤提灯をぶら下げる屋台の暖簾を潜っていた。

 少女である。藤原妹紅という女性は、どこからどう見ても少女の容姿をしている。

 幻想郷という土地に現世の法が意味を為さぬことは先刻承知であるが、あどけなさすら覚える相貌の彼女と赤提灯で酒席を設ける……やはりどうにも、違和感を拭えない。

 

「? なによ」

「いえ」

 

 当の本人は微塵と気にする様子もない。ここではこれが常識、いや、今もって現代の常識を適用しようとする己こそが愚かなのだ。

 郷に入りては郷に従う。至言であった。

 日暮れも間近、天地は赤く染まり、否応なく一日の終わりを思わせる。河原の土手から望む夕暮れの里、暖かみと寂しさの同居するこの光景を、おそらくは望郷と呼ぶのやもしれない。

 熱燗の徳利を注意深く摘まむと、彼女は注ぎ口をこちらへ向けた。猪口を差し出す。何やら馴染みのない行為だった。

 とはいえ、酌をし返す程度の作法は知識だけ覚えがある。

 徳利を受け取り、彼女の酒杯へ溢さぬよう慎重に和酒を注いだ。

 

「ふふっ、ホントに馴れてないんだね」

「はい、恥ずかしながら」

「別に恥じることじゃないでしょ」

 

 些細な所作に、ふと自覚する。己の未熟、幼さを。そして実感する。少女のような彼女が、少なくとも確実に己などより遥かに永く生きてきたことを。

 恥じらい紛れに杯を飲み干す。

 

「っ」

「どう?」

「……甘いような、苦いような、不思議な味がします」

「あっははは、そっか」

 

 喉奥に肥大するように満ちた香気。噎せて咳き込むような真似だけはしなかったが。

 彼女には、己の戸惑う様がひどく面白かったらしい。

 無邪気に笑うその顔は、やはり頑是ない少女だった。

 要らぬ世話を焼き、節介を働き、彼女の抗議を押し退けてまで御宅の雑事を奪い、処理する。

 放って置けぬ。独りにできぬ。彼女を、どうしても、見た目通りの子供のように扱おうとする。扱いたがる。そうであって欲しいと、不遜な望みを抱いている。

 彼女を――――その思考を拭う。不意に表出した感情を鑢に掛けるように削り去る。

 心中の自己嫌悪が表情を歪ませる前に、口を動かした。

 

「本日はどういった趣向なのでしょう」

「べっつにー、働き者の青年を(ねぎら)ってやろうかと思っただけ」

「お心遣い、ありがとうございます」

 

 嫌味のような響きが乗らぬよう留意しながら、目礼と共々に返す。

 彼女の本音は、どうもそこには無いように感じるが。

 

「どうよ。ここでの生活には慣れた?」

「は、皆さんの御助力の賜物で、順調に生活を営むことができております」

「そりゃあ重畳」

 

 少女は猪口を一嘗めし、串に刺さった八目鰻を齧った。

 

「藤原さんにも、多分にお世話をお掛けしました」

「わらひぃ? ん、私はなんにもしてないよ。家事から何から全部貴方任せだし」

「自分が望んでお引き受けしていること。その点については藤原さんが御懸念持たれる必要はありません」

「いや持つわ。未だに家に帰ると片付き過ぎててちょっとぎょっとするし」

「それは単に、以前の有様が酷過ぎたのでは」

「す、住み易くはあったから……」

 

 目を逸らし空(とぼ)ける。こうした、彼女の一種幼稚な振舞いも、あるいは意図してのものなのか。

 もしそうなら、その意図は不敏な己にも汲み取れる。

 気遣われている。己の言動、行動に、彼女は何かしらの憂鬱を見出したのやもしれない。己の気質の薄暗さを、厭うのではなく心配してくれている。きっと彼女なりの、()()()としての配慮がこれなのだ。

 返す返す、己が未熟が恥ずかしかった。

 

「……お心遣い、ありがとうございます」

「……もう聞いたよ」

 

 溜息交じりに薄く彼女は笑う。呆れ、諦め、そうした色が顔貌に滲む。

 奇妙な意思の疎通感を覚えた。それは決してポジティブな気風を孕まなかったが。

 分かり合えたのかもしれない、錯覚のようなその肌触りが、なにやら無性に嬉しかった。

 

「はぁ、難儀な奴だねぇキミは」

「恐れ入ります」

「褒めてないって……ぷっ、ふふ」

 

 噴き出して、暫時彼女は笑い続けた。やはり呆れたような響きをした笑声は、鈴を転がす音に似て清澄で、美しい。

 熱燗の二本目を注文し、不意に会話が途切れる。

 この沈黙は苦痛とは縁遠かった。本当に、とても稀有な時間を享受して。

 

「私はこんな性格だから、あんまり他人に気遣いとかできないんだ。貴方は感謝してくれるけど……やっぱり慧音のようにはいかないね。うん、上手い話題選びってのは諦める」

「は」

「家族の話、聞かせてよ」

 

 気後れせず彼女は言った。視線は網の上で炙られる酒肴に注いだまま。

 その潔さは、快い。

 そうか……己は己で思うよりずっと見っとも無く、昏く打ち沈んでいたようだ。

 それを看破してなお、彼女はこうして話を聞いてくれようと言う。

 それが思慮でなくてなんだという。そう尋ねられて鬱々と暗む理由があろうか。

 

「はい、聞いていただけますか。俺の父母の話」

「うん」

 

 頬杖をついた彼女がこちらを向き、微笑する。夕焼けより赤い瞳を銀の睫毛が覆っている。

 なんて綺麗な女性(ひと)だろう。

 俺は今更にして、そんな事実に気が付いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 父の名誉を汚した輝夜を憎悪する。政務者として懸命に身を立てようと力を尽くす父の姿は、あの女に対する憎しみをより強くした。

 ……けれど。同時に思う。思わずにはおられないものが、ある。

 子があり、正室すらある身で、なおも若く美しい女に現を抜かし求婚にいそいそと赴くその様の愚かしさ。

 それは今更、成否を問えるものではなかった。当時と今とではあまりにも価値観が違う。恋に恋して死ぬことこそが雅やかと本気で考えられていた時代だ。

 あるいは、その美しさだけで数多の有力貴族からの懸想を(ほしいまま)にしていた蓬莱山輝夜。あの婚姻騒動も、陰には政争による謀略が闇色に渦を巻いていたのやもしれない。父は自ら布いた謀の責めを取り、報いをその身に受けたのやもしれない。

 心象だ。憶測だ。確かな事実は何一つとして己が内には無い。

 永く生き過ぎ、多種多様な価値観に汚染された自分には、あの過去の正しい善悪など定めることは出来ない。もはや、もはや。

 だからだろう。

 

養父(ちち)は生真面目な人でした。果物を落とした自転車を一駅走って追い掛けるほどの」

「くく、それは筋金入りだ」

「家族旅行から帰宅した時、空き巣に鉢合わせしたことがあります。父はすぐには警察に通報せず、空き巣犯を連れ出し、丁度ここのような赤提灯の屋台で、こんこんと話をしていました。その後、犯人は自ら出頭したそうです」

「美談だねぇ」

「自分にとっては、英雄的でした」

 

 青年の語る父親像は、自分には少し眩しかった。実直で、優しくて、我が子を心から愛するそんな父親は。白状するなら――――羨ましかった。妬ましくさえあった。

 彼は言った。自身の口調も振る舞いも、全ては父の真似事なのだと……もし、青年のその言葉が嘘でないなら。青年の有様が真実、彼の亡き父親の現身であるなら。

 この青年のような“父”がこの世には存在するのだ、と。

 そんな事実、知りたくなどなかった。

 もはや手に入らぬ宝物を目前にぶら下げられて、どうして平気でいられる。遠過ぎる過去の果てに、私の“それ”は消え去ってしまった。

 もはや手に入らぬ。もうどうしたとて、手に入れることなど――――

 

「俺は、成れているのでしょうか。父に」

「――――」

 

 その想像は怖気を伴った。自身の発想に耐え難いまでの吐き気を覚えた。

 自己嫌悪が心中から胸奥へ、そうして表情筋を歪み歪ませる。

 まさか、まさかだ。彼を、()()()に立てようというのか。

 巫山戯るな。馬鹿も休み休み言え。いや言うな。考えるな。その結論は罪深くさえある。

 自身の欠落を代替品を当て込んで埋めようなどと、なんという浅ましさか。それもあろうことか、他人の欠落に、この青年の孤独につけ込んで。

 己が思考の変転に戸惑った。

 自業自得が人生の伴であった自分が、他人の痛みで自身の心を慰めようとしている。

 つい数百年、あるいは千年少しと一月前までは、こんな考えはなかった。浮かびもしなかった。

 これが訪ねてきた所為だ。この青年と時間を共にしたことで、己の心がまた新たな色に染まろうとしていた。もうこれ以上混ざったところで変化など起きない、そう高を括って油断し、心を許し、享受したのが運の尽き。

 私は彼を無視できない。

 千余百の津波のような時間の中で、たかが一月ばかりの波濤がこの魂を揺さぶって止まぬ。

 ああ、人間というやつはなんて、なんて――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紫の花弁が五枚、五芒の星を形作る。

 桔梗(ききょう)だった。

 両手に収まる小振りな鉢に、鮮やかな彩でそれが植わっている。

 

「……これ」

「よろしければ、こちらに」

 

 日課の家政に、彼はそんなものを携えてやってきた。

 目の醒めるような濃紫、花弁はまるで染料にまるごと浸したが如く、灼然として美麗。

 加えて初秋も深まろうという季節、こんな見事な桔梗は今そうそう手に入るまい。

 

「……」

「?……お気に召しませんでしたか」

「えっ、う、ううん! そんなこと、ないけど」

 

 心配そうな真面目面に慌てて首を振り返す。

 その艶やかな色彩に見入って呆けていた……とは、言えなかった。

 綺麗だ。綺麗。とても。とても。

 

「なんで……」

「は」

「……なんで、この色を選んだの」

 

 家に花を飾り、華を立てる。別段奇異なところのない、それはありふれた心遣いだ。

 しかし、それが紫桔梗となれば。

 それを、彼は私に贈るという。

 

「……私にっていうなら、白か赤かと思ったけど」

「はい、藤原さんの御髪も、瞳も、とても綺麗だと思います」

「ふふ……分かり易いお世辞をどーも」

「しかし、貴女には紫がよく似合う。そうも思いました」

 

 にこりともせずに彼は言った。先刻から変わらない真面目くさった顔で。

 

「どう、して」

「上手くは、表現しかねます。ただ……貴女には()()気品がある。初めてお会いした時から、そう感じておりました。その印象に合う色はこれしかない、とも」

「――――」

 

 思い出す。思い出したくもないものが、思い起こされる。

 紫。ああ、こんな色を心底有り難がっていた時代も、あったのだったなぁ。

 

「受け取っていただけますか」

「……はい」

「よかった」

 

 差し出された鉢植えを抱え持つ。

 彼はまた仄かに笑んだ。瞬き一つずれていれば見逃してしまうほど、ほんの微かに。

 見るんじゃなかった。

 どうして見せる。私にばかり。

 これじゃあまるで、彼が私を。

 

「…………」

 

 彼がその日の家事を終えて帰宅した後、部屋の書棚の上に飾られた花を私はずっと眺めていた。

 茜の強烈な西日にも、青みを帯びた紫は一切劣らぬ。正反対の光の中に在っては、むしろその鮮烈な色をより一層際立たせているようにさえ見えた。

 美しかった。彼が、私に、見立てた花。

 

「……えへへ」

 

 うっとりと花弁を見詰めて――自分が今、凄まじく正気を逸していることに気付いた。

 

「うぅぐぅおおおおお……何がうっとりよ何が……!」

 

 乙女か! いや乙女だよ!

 紛れもなくこの身は女生だ。花を愛でて何を咎めよう。

 咎めるのは、結局、世慣れして世に汚れて、純粋であることに疲れた自分。後ろ指を差すひねくれ者。

 そしてなにより、贈り物それ自体以上に、贈ってくれた誰かを想う自分が。

 らしくない。らしくない。らしくない。

 

「ぬぉおおおおお…………お?」

 

 一人頭を抱えて奇声を上げていると、それが目に留まる。

 土間の隅にある物干し台、普段は布巾や雑巾を洗って干しておくものだが。

 そこに前掛けが一枚掛かっていた。黒地に白の染め抜きで、里の大工衆の組名が書かれている。

 

「忘れてったなあいつ」

 

 これは普請の時、職人や人足が必ず身に着ける仕事着の内の一つだ。棟梁の親仁はその辺り五月蠅い。忘れたとなればあの青年とてどやされることだろう。

 

「……ふふ、しょうがないな」

 

 前掛けを手にして、我知らずいそいそと玄関戸を出る。

 日没までにちょいと届けてやろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人里の南端、里と外の境界に近しい場所に、己が住まいは存在した。

 庵と呼ぶわるほどの趣はない。元は百姓家であるが、この辺りではもう田も畑も耕作されてはいなかった。

 曰く、恐ろしい何かが、ここより二里にも満たぬところに居を構えているのだそうだ。

 そんな場所に住まいを宛がわれる己もまだまだ余所者である――との証左かもしれない。

 土間と居間だけのシンプルな間取り。藤原さんの庵よりも、造りはより簡素であった。

 住環境に不満はなかった。沢は近く、頗る閑静、脱サラからの田舎暮らしを夢見る現代人垂涎な物件、と言えなくもない。

 沢で水を汲んでいる時、不意に背後で気配が立った。

 

「紫桔梗は喜んだでしょう」

「はい、気に入っていただけたようです」

「当然ね。私が見繕った花だもの」

 

 優美に笑んで、艶然と深緑の髪を掻き上げる。

 夕焼けの赤光すら切り裂く、紅の眼光。それはさながら大型の肉食哺乳類を彷彿とさせた。

 

「ありがとうございます、風見さん」

「お礼は口だけ?」

 

 風見幽香という女生はこちらを見下げながらに問う。

 日傘が作る影の中で、やはり瞳ばかりが妖しく輝いている。

 ――――返答を誤れば、解っているだろうな?

 その目はそのように物語っていた。

 

「茶虎屋の栗大福がお好きだったと記憶しておりますが、どうでしょう」

「かりんとうもね」

「承知しました」

「よろしい」

 

 喉奥でくつくつ笑声する。その妖艶さとは裏腹な無邪気さが、なにやら倒錯的だった。

 彼女とこうした交流を持つようになったのは、間違いなく奇縁の産物と言えよう。あるいは気紛れ、暇潰しによって齎された延命が、奇跡のように今もなお続いているとも。

 彼女にとって己が路傍に転がる石塊か、良くてのたうつ蚯蚓(ミミズ)程度の存在であることは疑いもない。

 いや……あるいは、花を愛し、生育する彼女に蚯蚓扱いされることは、土壌肥育という観点で無上の光栄と言えるのやもしれない……気がする。

 こちらの愚昧な思考など知ったところではない彼女は、しかしなにやら感興を映した目で己を見ている。

 

「ふふふ、おかしなものね」

「何がでしょう」

「貴方とあの不死(しなず)が」

 

 ぷ、と噴き出して、風見さんは笑みを湛えた。

 嘲弄と呼ばれる風味を、ふんだんに含めて。

 

「滑稽で。笑えたわ」

「……見ておられたのですか」

「まさか、私がわざわざあんな襤褸小屋まで足を運ぶ訳ないでしょう。見ていたのはあの桔梗よ」

 

 大妖・風見幽香。彼女はその能力によって花を操る。芽吹かせ咲かせるは序の口、花あるところ花を通して千里を見通すという。

 口端に皮肉げな笑みを刻んで、彼女は己を見下ろし続ける。

 

「不死といっても人間ね。人間同士、傷の舐め合いって楽しいのかしら」

「そのようなことは……」

「無いって?」

「…………自分は、ともかく」

「アハハ! あの顔でそれはないでしょう。喜色満面、まるで恋する乙女ってところかしら。でもまあ貴方があれに向けてるのは……」

「…………」

 

 とっておきの諧謔を聞かされたかのように、風見幽香は愉し愉しと。

 

「同情だものね。それとも憐憫かしらね。くっ、ふふふふふ」

「………………」

「可哀想な妹紅ちゃん。やんごとなき命脈から落伍した可哀想な子。独り寂しく千年以上も彷徨い続けた可哀想な娘。死んで楽になることもできない可哀想な人間。可哀想可哀想可哀想! アハハハハハハハハ」

 

 哄笑する彼女に、己は返す言葉を持たなかった。怒りだの羞恥だの、そんなものが一丁前に喉を塞いでもいたが。自己に対する憤怒、己が存続しているという現実の恥。それらはこの喉を掻き毟って引き裂いて詫びるに値する。

 だがなにより。なによりこの身に、一声とて上げる権利はない。

 彼女の言は全て……事実なのだから。

 己が藤原妹紅という少女に抱いたものを、風見幽香は代弁しているに過ぎない。

 

「ふふふ、なぁに? 本当のこと言われて落ち込んだの? いいじゃない。あの娘はそれで喜んだのでしょう。嘘と欺瞞の花を贈られて」

「……………………」

「紫桔梗の花言葉は“気品”だったわね。とんだ殺し文句だわ。“誠実”な貴方からの、最高のプレゼントね」

 

 日傘を閉じて、後ろ手に携えながら、彼女は己の顔を覗き込んだ。俯くことも逸らすことも許さぬと。

 紅の色が深まっていく。黒みさえ帯びて、底は無い。

 我が身の罪業の救いようの無さを、骨の髄から知らしめるが如く。刃で、この肉体で最も脆い部位を幾度も幾度も刺し貫いて。

 それを――見返す。片時と逸らさずに。逃げることなど許されない。許しはしない。

 この罪に、彼女は罰をくれるのだ。どうしてその両瞳を厭おうか。

 この罪を、藤原妹紅という少女に贖う術があるとすれば、それは。それは。

 

「……あっそ」

 

 愉快に彩られていた顔貌から色が失われる。感興も、愉悦も尽きたとばかり。

 ただ一つ、残影のように無表情の顔にこびり付くそれは、なんだろうか。

 

「……」

 

 心底つまらなそうに居直った風見さんは、こちらを見限って辺りに視線を這わせる。

 それが不意に、止まった。留まった。

 

「……クフッ」

「?」

「やっぱり、足りないわね」

「は」

「菓子折りだけじゃあ、あの桔梗には到底足りないわ」

 

 端整な顔がさらに美しい形に変わる。彼女は微笑した、極上に。それは慈しみに満ち満ちていた。

 悪魔とは往々にして天使以上に優しげな貌をする。

 悪辣な慈愛が、麻痺毒のように香り立つ。事実己の身体は、錆びたブリキ人形めいて挙動に支障を来たし始めていた。

 

「とりあえず、体で払ってくださいな」

「!?」

 

 その声の、あまりの近さに困惑した時には既に――彼女は面前に在った。吐息が口唇を撫でるほどに、近く。

 風信子(ひやしんす)の花弁のように淡い色をした唇が。

 己の口唇を、通り過ぎる。頬をめぐり、首筋をわたり。そうして、耳を、耳輪の上端をぱくりと食んだ。

 

「っ!? なにを」

「キヒッ」

 

 気息交じりの笑声。それが鼓膜を無遠慮に揺さぶる。

 次の瞬間、またも異音が響いた。がぢり、がり、がり――耳の軟骨を齧り取られたのだ。

 

「ぎっ、ぁ……!?」

「ん、ふ、ちぅ……んふふふふ」

 

 噛み痕に舌を這わせ、流れ出た血を舐め取り啜る。

 痛みは言わずもがなであるが、なによりその行動、暴挙に、心身から虚を衝かれていた。思わずよろめき後退る己を、彼女は追っては来なかった。

 口の中でそれを弄び、愉しんでいる最中なのだ。存分に咀嚼し、味わった後に、ごくりと飲み下す。これ見よがしに、嚥下の音さえ際立たせて。

 

「はぁ……美味しい……」

 

 唇に差された紅の如く付着した、血液。それを赤い舌が舐り取る。

 妖艶な笑みもまた己の顔を舐めるようだった。

 

「キスされると思った? ふふっ、えっち」

「……」

 

 右耳に触れる。耳の上側、集音の為の輪に当たる軟骨が三センチほど欠けていた。出血は思いの外に少なかった。

 

「何故、こんな」

「外じゃ、去勢した猫はこうするのでしょう。他の雌猫に悪さをしない証に」

「?」

 

 笑みが消え、視線が己を射貫く。眼光は依然として針のように鋭かったが、先の剣か鉾か矢のような、射殺すほどの苛烈さは内側へと納められている。

 その目が、己の背後へ流れた。

 

「言ってる傍から、ほら……もう寄ってきた」

「は?」

 

 彼女の視線を追い掛けて、後ろに振り返る。そこには己の侘び住まいが、広がり始めた薄暗がりに鎮座している。

 その壁際に、少女がいた。足元には黒い染め抜きの前掛けが落ちている。

 

「藤原さん……?」

「……」

 

 声を掛けた途端、少女はそのまま背を向けて足早に去っていく。全てを置き捨てるように、全てを見限ってしまうように。

 ――――その態度から、察することは甚だ容易であった。

 彼女に何を聞かれたのか。何を、見られたのか。

 

「藤原さん!」

 

 己は逢魔ヶ刻の闇間を、少女の背を追って駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翔んで去ればよかったのだと気が付いたのは、夜闇が我が物顔を晒す道の半ば。農道の名残であった。

 道端に目をやればそこには、真新しい滑車を取り付けられた井戸が一穴。

 彼と、最初に出会った場所。

 

「藤原さん……!」

「……」

 

 立ち止まったその背後で、青年の声がする。

 振り返りもしないこちらの背に、青年の視線が遠慮がちに触れているのが分かった。

 

「……自分は」

「帰れ」

 

 その次の一声を待ちながら、遮る。

 自分の声は、自分でも驚くほど冷えていた。

 

「藤原さん、自分は……」

「帰れ」

「しかし」

「帰れよ!」

 

 怒声は林を抜けて夜空に消える。蟲の声が一瞬、遠ざかった。

 声量は強かに鼓膜を震わせはしたが、それだけだ。虚しさばかりの、内に何も宿らぬ叫び。伝わるものなど何もない。

 必要がない。そうだ、自分には初めから、理解者などいない。慮り、思いを()()ことはできても、理解することなどできはしないのだ。

 

「それとも、また同情してくれるの?」

「…………」

「寂しく孤独に生きるしかない死ねない女に、憐れみで世話を焼くのはさぞ楽しかったでしょう?」

「っ、そんな、ことは……!」

 

 石でも吐くように言い募ろうとする青年に、その夜初めて振り返る。

 思惑通り、彼は言葉を失くし喉を塞いだ。

 きっと自分は、とても酷い顔をしていたろうから。

 

「自分の孤独の穴埋めに私を使ったわけだ。独りは辛くて、苦しくて、耐えられないから。死んだ家族の代わりが欲しかったんでしょう」

「……っ……!」

 

 言葉、のようなものを作ろうとして舌と喉を震わせるが、青年は短く気息を吐くことしかできなかった。

 滑稽だ。

 図星を突かれて言い訳一つ浮かばず慌てふためき惑乱する青年。

 ……自ら口にした言葉が事実であると確認して、勝手に幻滅し、勝手に失望し、自分を棚に上げる女。

 どちらも同じほど、滑稽だった。

 幻想を抱いた。希望を抱いた。その優しさが、あまりにも暖かだったから。

 ――――あの微笑みが、あまりにも眩かったから。

 

「穢らわしい……!」

 

 全てまやかし。純粋なものなど何一つない。純粋な感情など、彼は自分に何一つとして持たない。

 純粋な、愛情など。

 

「自分は……貴女に、貴女の助けに、成りたかった……少しでも、成れればよかった……」

「可哀想だから? 巫山戯るな。たかが十数年生きただけの小僧に、憐れまれて堪るものか! お前に……」

 

 欲しがったのはどちらだ。

 理解(あい)して欲しいと(こいねが)ったのは、果たしてどちらだ。

 

「お前に私の何がわかるッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから一週間が経過した。

 己が、独りの……一人の少女に自らの汚穢を晒した夜から。彼女の心を、傷付けた夜から。

 恥ずべき独善、世が世なら腹でも切って詫びねば、人間としての沽券も成り立たぬ。そんな自儘な自己嫌悪を弄ぼうとも、日々は過ぎていった。愚かな男の懊悩など知ったことではないのだ。それが自然(じねん)である。

 あの日以来、竹林の庵を訪ねたことはない……いや一度だけ、庵の玄関戸を叩いたが、彼女はそもそも一度も帰宅してすらいないようだった。

 上白沢さんには、包み隠さず事情を説明した。家事遂行は元々彼女達ての御要請、断りもなく職務放棄する訳にはいかない。

 上白沢さんは、己の卑劣さを責めなかった。彼女からは単純な優しさのみならぬ、培われた深い思慮というものを感じた。彼女は人間の愚かさを知っている。弱さを、知っている。

 暫く時間を置こう――――その言葉に、己が従わぬ理由はなかった。それ以外に出来ることとて、何一つないのだから。

 人里での人足の労役にも変わらず従事した。糧を得なければ生きてはいけない。労せずして食も居も住も成り立ちはしない。

 胸に残る鉛のような蟠りを忘れんと、己はただひたすら労働に没頭した。現実逃避と同義の、肉体の酷使に勤しんだ。

 

 ――――そんなある日の昼下がり

 

 石造りの壁を積み木のように打ち壊しながらに、ソレは現れた。

 羆よりも巨きく、獣にはない禍々しさ。幻想入りを果たしてより二ヶ月弱、己は未だ理解していなかった。異界の理を、ここが現世ではないということを。

 無知な己に分かったのは、それが妖怪(ばけもの)と呼ばれる存在であることだけだ。

 数多の人々が逃げ散り、惑う。

 その日は里の外縁、外壁の増築工事が始まる日。普請場には大工衆だけではなく、その家族、百姓、己同様の人足、少なくとも五十を超える人間が居合わせていた。

 餌場。

 かの化物、黒毛の化け猿にとってここはそれ以外の何物でもなかったのだろう。

 晴天の下で見るその姿は、恐ろしいと感じるよりもまず違和感を覚えた。こんな麗らかな日和で、伝承や創作にしか見聞きし得ないモノが、豁然と、憚ることも忍ぶこともなく存在する様。なにやらおかしな、滑稽さすら感じる。

 そんな感慨など、ソレの知ったことではないだろうが。

 化物は真っ直ぐに、一つ所を目指した。逃げ去る人々の背を……追うこともせず。

 子供、小さな男の子が一人、蹲って泣いている。

 その姿には覚えがあった。大工の若衆、その一人息子。今日は父親に連れられて、普請場に遊びに来ていたのだろう。先月の誕生日に八歳を迎えたという。神の掌中であった幼子が、ようやく親の元へ、元気に育ってくれたのだと――安堵と喜びを滲ませて、子に笑いかける父親の顔を覚えている。

 子供の泣き声に誘われるかの如く、のっそりとその巨躯が近付いてくる。

 逸れてしまったのか、父親の姿はない。あるいは、もう。

 

「……」

 

 迷いは然してなかった。

 走りながらに思考するのは方法。つまりは、如何にして少年を生き延びさせるか。

 難行である。

 なにせ己には武力も、逃走に活用可能な特殊な能力も持ち合わせがないのだ。

 妖怪を打ち倒すことなどは、万に一つも不可能である。空を自由に飛べたなら、少年を抱えて一も二もなく逃げ去るのだが。生憎ここには未来の猫型ロボットもその道具も存在しない。

 少年と妖怪との間に立ち塞がり、囮になる、ないし標的を変えさせるのはどうか。

 ……悪くはないが、あの妖怪の眼に自身が殊更魅力的な獲物に映るとも思えぬ。障害物として排除に動いてくれるならばまだいいが、完全に無視されてはそれこそ目も当てられない。

 その時。

 地面に転がるそれを見付けた。全長は五十センチほど。長方形の平たい刃から地続きに金属の支柱が伸び、柄は木製の握りが施されている。大工の普請場にそれはあって当然のもの。(のみ)だ。

 走り過ぎ様、拾い上げ、握り込む。よい手触りであった。柄はしっくりと掌中に収まる。腕の良い鍛冶師によって打ち上げられたのだと知れる。

 あとは何処を()()()、だ。

 頭は無理だ。位置が高過ぎる。あの巨躯の猿は、現れてから今に至ってなお常に二足歩行している。

 胴は、刃が立つまい。分厚い毛皮と筋肉に鎧われた体は、たとえ刀剣を用いたとして己のような素人が貫けるものではないだろう。

 ならば結論。

 狙える箇所はその一点。

 鑿を両手で、逆手に握る。

 走り走り、化物へ、こちらには見向きもせず少年に手を伸ばすその横合いに走り寄る。走る勢いのままに――――己は上体から倒れ掛かった。丁度ドミノがそうなるように。

 真っ直ぐ、一点、毛も生えぬその足へ。

 裸足の甲を、全体重を掛けて鑿で貫いた。

 ざくり、と。固い南瓜の表皮を、よく研いだ包丁で刺した時と似たような音と感触だった。

 赤黒い血が飛び散る。

 頭上でこの世のものとは思えぬ絶叫が鳴り響いた。

 企図、成就せり。

 跳ね起きて、化け猿を仰ぐ。痛みに苦悶に、その顔は歪み奔っていた。やはり猿、人と近縁であるからだろう。急所も同じで、かつ実に表情豊かでもある。

 黒々とした眼の奥で、燃えるような怒りすら見て取れた。

 怒り任せに巨腕が振るわれる。五指には短刀ほどもある鋭い爪。

 巨大さに比して、化け猿の挙動は、やはり猿と同様、それ以上に敏速だった。疾風が地を吹き払うより、あるいは速く。

 薙ぎ払われた。

 爆撃のような衝撃が、木っ端のように身体を吹き飛ばした。

 咄嗟に構えた右腕が消えた。右半分の視界が黒く消失した。左脇腹から右肩にかけて、火掻き棒で線を引かれたように、ひどく熱い。

 秋の、一等高く抜ける空を仰ぎながら、己は背泳ぎするように飛んでいた。青空に、薄汚れた赤が舞う。自身が撒き散らした血霞が。

 残った左半分の視界の中、ゆっくりと世界が過ぎ去っていく。永遠に続くように思われた浮遊感は、しかし突然終わりを迎えた。

 墜落した訳ではないようだ。体はしっかりと固定されている。

 何に。誰に。

 左目から色が消える。温度が消える。少し肌寒かった。いや、けれど、背中は少しだけ暖かい。じわりと、まるで人肌のような熱を感じた。

 それすら泡沫の夢のようだったが。

 よい夢だった。

 とても、よい香りがするのだ。

 花の、香。これは確か、たしか。

 

 ああ、桔梗のにお、い――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 青年は微笑んでいた。

 なにか、とてもよい夢を見ているかのように。

 じわりと浸み込んでくる血潮、熱。失われていく命の媒介物。

 まるで潰れた赤茄子(とまと)のようだった。熟れたそれを壁に擲てば今の彼と同じものが出来上がるだろう。

 ひどく簡単に。

 容易く。

 

「あぁ」

 

 人間とはなんて脆いのだろう。どうしてこんなにも壊れやすいのだろう。

 そんな単純なことを、随分忘れていたような気がする。

 なにせ自分は死なないから。傷ついても壊れても失くしても、一呼吸置けば全て、全てが元に戻るから。傷も痛みも、全ては夢か幻のように、消えてなくなるから。

 そっと彼を横たえると、今度は地面に赤い池が広がっていく。決して元には戻らずに、池は延々領域を広げるだけだった。

 目の前を見る。

 黒い化け猿、経立(ふったち)という獣の妖怪。ありふれて見飽きた怪異。山の化。人を食らうバケモノ。

 人を食らいに来たのだ。自然なことだ。

 子供を食らう邪魔をされたのだ。だから青年を()()したのだ。当然のことだ。

 

「殺してやる」

 

 人に害為す、それがバケモノ。妖怪が人を襲う、それが幻想郷の摂理。

 ならそうすればいい。ここにも一人、人間がいる。自分がいる。襲いに来ればいい。

 来るがいい。青年をそうしたように。青年をこんなにしたのだ。自分に出来ない道理はあるまい。

 来い。何故後退る。何故逃げようとする。何が、そんなに恐い。

 

「殺してやる」

 

 来い。こっちに。

 逃げるな。

 逃すか。

 

「殺してやるから」

 

 皮を裂いて肉を千切って骨を砕いて、全部を焼いてやる。丁寧に丹念に余すところなく焼いて焼き尽くして。

 灰にしてやるから。

 地獄へなど逝かせぬ。今、この場この瞬間に、阿鼻叫喚の業火で焼いて焼いて焼いて焼いて焼いてやる。

 だから。

 

「存分に――――死ねぇッッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識は、随分と深いところにあった。

 あるいは永遠に戻れぬほど深く、深く。深海の如き眠りの底のさらに奥に。

 しかし、己は浮上した。潮流の悪戯か気紛れによって。

 

「――…………」

 

 左目で、天井を仰いでいた。

 床に寝かされている。障子窓からは陽の光が射していた。

 時刻は知れない。時計は、生憎と眼球の可動範囲内には見当たらなかった。

 身動ぎしようとして、出来ないことに気が付く。身体を固定されている、などということはなかった。

 理由は二つ。

 肉体の反応が意思に反して極めて鈍重なことが一つ。

 もう一つは、己の左半身にあった。いや、居られた。彼女が。

 傍らに寄り添うようにして眠る少女の姿。大滝のように豊かな銀髪が畳の上を流れて広がっている。

 己が身を起そうとしたからだろう。少女の寝息がややも乱れる。

 そして。

 

「…………父さま……」

「……」

 

 口を開くことは勿論、考え巡らせることすら憚られた。

 けれど、それでも、己は、愚かに、卑しく。

 

「……」

 

 歯噛みし、気息を吐いて瞑目する。

 いや、せめて布団を掛け直そうと右手を出し――――現れた右腕に、それが無いことに気が付いた。

 

「ん……」

 

 微かに吐息を零して、瞼が震える。銀の睫毛が揺らめき、そっと開かれた目がこちらを見た。外界を認識するまでにはもう数秒を要したが。

 少女は身を起して、己の顔をじっと見詰めた。今見ているものが現か、夢の続きかを確かめるように。

 白い手が己の左頬に触れる。冷たい指は細く、掌は小さい。幼いとすら思う。どうしようもなく、思ってしまう。

 沈黙を嫌って、何か言葉を、頭蓋の内でうろうろと探し求めて。

 

「……おはようございます」

 

 如何にも気の利かぬ空惚けた言い様に、けれど少女は微笑んだ。

 笑いながら、目に涙を溢れさせた。

 

「っ、ぅ、ふ、く……あぁぁああ、うぅっ、あぁああぁぁああぁああ……!」

 

 首元に縋り、きつく腕を絡めて、少女は泣いた。

 声も殺さず、しゃくり上げ涙を滂沱して。

 

「いかないで……いかないでよ……いかないで……」

 

 藤原さんはただひたすらにそう繰り返した。他の言葉を全て、忘れてしまったかのように。

 頑是無い童女のように。

 残った左手で彼女の背中を擦る。労わり、慰め、詫びるように。今や役立たずのこの身体の、それは嘗てないほどに有意義な使い道だった。

 

「いかないで……!」

 

 彼女の涙は止まらなかった。

 それでもいい。構わない。全てこの身で受け止めよう。

 彼女が望んでくれるなら、この身など全部捧げてしまおう。

 命を賭けることで初めて気付けた。蒙昧と愚昧を極めてようやく男は、胸の内で密かにそれを想う。

 

 ――――俺はこの少女が、愛おしかったのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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