楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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 ここが永遠亭と呼ばれる御屋敷であることを己が認知したのは、目覚めてよりさらに丸二日を床の内で過ごした後だった。

 別段、隠匿されていた訳でもなければ、所在の判らぬ己の慌てふためく様を愉しむ為などという意地の悪い話でもない。

 

「目を覚ましてくれたのが、その……嬉しくて……いろいろ飛んじゃったの。説明とか」

「……」

 

 元より不平も不満も一抹とありはしなかったが。恥じらいと、吐息のような安堵を滲ませてそう呟く藤原さんに、どうして迂闊な文句など吐けよう。

 普請場に現れたあの妖怪は、藤原さんの手で退治されたという。化け猿の標的とされた少年も怪我一つなく逃げられたそうだ。

 その事実に己もまた安堵の息を吐いたのは言うまでもない。

 

「……彼岸から帰ってきて最初に訊ねるのがそれ?」

「は……っ! 藤原さんは、お怪我などされませんでしたか?」

「なんで私よ!? ……してない。掠り傷一つ負わなかった」

「よかった……」

 

 彼女の肉体の特殊性は、それとなく上白沢さんから聞き及んでいる。

 しかし、だからとて傷付いてよいなどという理屈はない。

 無事でいてくれた。その事実が、ただ嬉しかった。

 

「本当に……よかった」

「…………」

 

 床の上とはいえ、こうして再会が叶ったこと。彼女と、話ができること。

 望外の幸いを得ている。身に余るほどの、幸いを。

 

「……体、拭こっか」

「は」

「意識が戻ったからって風呂に入るわけにはいかないでしょ……その傷じゃ」

「それは、まあ」

「待ってて」

 

 藤原さんはこちらの返答を待たず立ち上がり、部屋を出て行った。

 程なく、手拭と手桶を抱えて彼女は戻ってくる。置かれた桶の中には湯が張られていた。

 

「御造作を」

「怪我人がなに言ってんの」

 

 軽やかにそう呉れる彼女に今一度礼をして、左手を差し出した。手拭を受け取る為に。

 ややも伸ばした手を、しかし、藤原さんは片手で掴んで押し戻してしまった。

 

「?」

「ほら、脱いで」

「…………あ、いえ。そのようなことまでしていただく訳には」

「いーから。こんなことで駄々捏ねない。ほぉら」

「…………は」

 

 駄々……己の言い分の下らなさを、彼女は実に端的に表してくれた。

 傷病者に対する清拭の介助は何一つ間違ってはいない。

 右腕は、前腕の半ばほどから先が喪われている。片腕で患者用なのだろう浴衣を脱ぎ、片腕で上半身をほぼ隈なく覆う包帯を解き、片腕で桶の湯に手拭を浸し、片腕で余分な水気を絞り、体を拭う。

 手間を惜しむ気はないが、とにかく非効率、非合理的であった。そして彼女の申し出を固辞する合理的な理由が、一向に、見当たらなかった。

 

「重ね重ね、御造作をお掛けします……」

「造作もないこと。そう言ったらちょっとは気楽?」

「……ふ、そうですね」

「ふふっ」

 

 気を遣わせているのはどちらやら。それはもう、紛うことなく。

 浴衣を開け、とりあえず上半身を露わにする。といって、素肌が満足に覗いているのは左腕のみ。身体前面の巨大な傷口を覆う為、上半身はほぼ全域にわたって厳重に包帯が巻かれている。木乃伊男の様相であった。

 それをするすると藤原さんが解いていく。いっそ手慣れた様子で。

 己の物問いたげな視線に気付いてか、彼女は答えた。

 

「貴方、三日三晩眠ってたの。その間も体を拭いたり包帯を換えたり、床擦れしないように寝返りさせたり、私がやってたから。三日やれば流石に慣れるわ」

「………………」

 

 咄嗟には、言葉がなかった。謝罪、感謝、その二つを口にするのが今この場の最適解である筈だ。だのに。

 喉が塞がる。声帯が麻痺してしまったかのように。その毒の名は――――罪悪感。

 それでもなんとか舌を動かし、声を上げようと息を吸った時。

 

「要らない」

「――え」

「謝罪も感謝も、要らない」

 

 手拭いが湯に浸かり、絞られる。暫時、静かな室内に水のせせらぎだけが響いた。

 手拭いを持って彼女が背に回る。

 そっと、注意深く、濡れた布が肩甲骨の辺りに触れた。

 

「熱くない?」

「はい……」

 

 そのまま藤原さんは己の背中を拭き流した。肩に始まり、背骨を降り、脇腹、腰。丁寧に、丁寧に。

 柔らかな手付き、それが無性に心地好かった。

 盛んに背中全体を往き来していた手。それが不意に、止まる。

 

「……」

「……藤原さん? どうか、されましたか」

「謝罪も、感謝も、どっちも要らない……けど」

 

 突如、背筋に熱いものを押し当てられた。

 手拭いではなかった。そんなものよりも遥かに、桁違いに柔らかなもの。

 彼女の唇だ。視界外にありながら、それを知覚する。

 少女の両手は己の肩に掛けられている。上体をしなだれて、より一層体重を預けられる。

 

「ん、ふ……ちゅ」

「!?」

 

 首と背の合間ほどまで唇が這い登り、そっと吸われる。

 制止に呼ばわっても、彼女は止まらなかった。まるでその唇によって、清拭の続きをしようとでもいうように。

 

「っ、藤原さん、今、自分は不潔です。お止めください」

「ちぅ……いや?」

「否か応かではなく……とても臭いましょう」

「ふ、んっ、ちゅ、ふふ、そうだね」

 

 いくら濡れ布巾で体を拭いていたとしても、六日も湯浴みをしなければ皮脂や垢は落ちきらず溜まる一方だろう。

 身体の臭気には自覚があった。

 それを、嗅がれる。誰あろうこの少女に。その羞恥の烈しさは今だ嘗てない。

 

「後生です……! お止めを」

 

 右肩に置かれた手を払おうと、持っていった左手を捕まえられた。

 一本一本の指を絡め、強く握られる。

 さらに少女の左手が己の、胡座を掻く内腿を擦った。

 

「は、ぁ、すぅぅ……生きてる、匂いがする……」

 

 鼻から深く、肺を満たさんばかりに息を吸われる。

 まるで酒精に酩酊しているかの言い様。吐息すら熱を帯びていた。

 

「っ……藤わ」

「それ」

「は……?」

「ふじわらさん」

 

 奇妙に平坦な音程で彼女はそう繰り返す。

 意味を判じかねた。

 (すこぶ)る物分かりの悪い男に、彼女は焦れったそうにして。

 

氏名(うじな)で呼ばないで……貴方からは、特に、『藤原(ふじわらの)』姓を聞きたくない」

「……では」

「妹紅」

 

 一瞬、背中から唇が離れたかと思うと、今度は額を押し当てられた。

 はらりと背筋を撫でる、細く、絹のような髪。

 ひどく、怖々とした声音が遠慮がちに背骨を貫く。それは体内を反響した。

 

「妹紅って、呼んで」

「……」

「……そうじゃなきゃ止めてあげない。だから……だから…………お願い……」

「――――妹紅、さん」

 

 怖々と呟いたのは己とて同じだった。精緻な硝子細工を両手で押し戴くような心地で、彼女の名を呼ぶ。大切な、途方もなく大切なその音を、口にする。

 躊躇は絶大に立ち塞がったが、しかし、どうしてか、迷いは然程湧いて上ることがなかった。

 呼ばわりたいと、己は望む。望まぬなどという道理は、無い。

 

「――――」

 

 一刹那、呼吸の止まる気配を背中越しに聴いた。そうして浅く、深く、不規則なリズムを刻みながらに、少女の吐息が暫し背筋を撫でていた。

 何かを誤ったろうか……そんな小器に相応しい不安感が心中を満たす。

 無言の彼女に今一度声を掛けようとした、その時。

 

「んんっ……!」

「っ!? ふじっ、妹紅さん……!?」

 

 少女は、何を思ってか再び首へと()()()付いた。吸血鬼よろしく犬歯が皮膚に突き立つ、甘噛みであったが。

 ぞる、ぞる、と。ざらついた舌が思い切り首筋を舐め上げた。幾度も、幾度も。

 電流めいた刺激、誤魔化しようのない快感が神経を焼いた。

 

「や、約束が違うのでは……!?」

「ぷぁ……はぁ、ふ……はぁはぁ、はぁ……」

 

 荒く息吐く彼女から一向に返事はない。

 左手は握られたまま、丁度身体の袈裟懸けに固定されている。左の大腿にも手を添えられ、背中と少女の体が今やぴたりと密着している。

 華奢であるのに、灯のように熱い肢体。そしてそれは想像を絶して、柔らかい。

 見事に身動きが取れない。新手の関節技(サブミッション)に掛けられているようだった。

 

「ぢゅ……ちゅ……ちうぅ……んふっ、ぢゅ……」

「くっ、は……ぁ……!」

 

 一際に強く強く首を吸われる。頸動脈を流れる血潮までも吸い出されてしまいそうなほど。

 

「……はぁっ! ぁ、はぁ、はぁ、は……ふ……」

 

 首の皮に残響のような痺れを覚えた。吸引の痕跡は、きっと赤色灯のように赤々と自己主張していることだろう。

 

「……妹紅さん?」

「っ、くっ、ん、あぁダメ……名前言われると、我慢できなくなる……」

「……ならば呼ばぬ方が」

「それはもっとダメ」

 

 ぐ、と手をなお一層握り合わされる。決して離さぬように、離れてしまわぬように、強く。物心もつかぬ幼子のように、必死に。

 

「……そちらを向いてもよろしいですか」

「…………うん」

 

 不承不承、また不承といった気色で、少女は左手を解放した。

 床の上で身体の向きを180度変える。その際、胸の傷の縫い目が捩れ、炎熱めいた痛みを放ったが。顔にはおくびも出すまいと全神経を傾けた。果たしてその甲斐があったかは知れぬ。

 赤い瞳が、俯き加減にこちらを見上げている。叱られるのを予感した仔犬めいて、それは、殊更、あまりに……。

 

「あまり、愛らしい顔をなさらないでください」

「ど、どういう顔よ」

「そういう顔です」

「……」

 

 上気していた頬が、火入れした鋼のように赤熱した。

 先程までの淫蕩な……大胆な行為など夢か幻であっかのように、その様は無垢そのものだった。

 

「妹紅さん、自分の身体は今大変不潔な状態にあります。口付けるが如き真似は不衛生です。御自重ください」

「あ、そこまで戻るんだ……」

「それに……木石なりの、羞恥心がありますゆえ」

 

 少女を直視しかねた。

 大の男が恥じらいに身を縮ませる。見目良い様などとは到底言えぬだろう。

 しかし、再び視界に収めた彼女の顔は、苦笑ではなく、微笑で彩られていた。

 

「真面目だなぁ……」

「融通の利かぬ性質で、重ね重ね恥ずかしく思います」

「私は好きだよ」

 

 此度、呼吸を止めるのはこちらの手番であった。

 微笑のまま、真っ直ぐに、眩いほど純一に、妹紅さんは言った。それはあまりにも、美しく。

 

「……勿体無いことです」

「…………」

 

 微笑に翳りが差す。己の解答がとても無味乾燥で、偏に心ないものだったからだ。想いを口にされて、想いではなく社交辞令など返している。

 微笑には自嘲の色が波立った。彼女は心を痛めていた。

 真に、自らを嘲るべきは己である。

 

「妹紅さん、自分は貴女に、不敬を働いた」

「不敬って……ふふ、また大袈裟だね」

「いいえ、そうとしか表現できません。貴女の生き方を手前勝手に推し量り、浅はかな気遣いを、思慮だなどと思い込み、押し付けた……卑しい同情を貴女の心に(なす)って寄越した」

「…………」

「幾重お詫びしても、足りることはないでしょう」

「……いいよ、もう」

「いいえ」

 

 続けざまに己は否やを口にした。平身低頭に謝罪すべき対象である少女の文言を抑えてでも。

 

「申し訳ありません。お許しください」

「だからいいって……ちょっと、しつこいよ」

「執拗にでも、自分は弁解をせねばなりません」

「どうして……」

「これから申し上げることを、嘘や、まして憐憫などには、断じてしたくはないのです」

「?」

 

 身の内側より、湧水のように込み上げるものがある。いや、それは重く粘り、煮えて泡立つ、泥。

 恐怖が、血液に代わって肉体に充満する。

 これを口にすることを恐怖する。これを聞かされた彼女がどのような顔をするのか、想像することを恐怖する。

 彼女に、拒絶されることを心底より恐怖する。

 しかし、それでも、言わずに置くことは出来なかった。

 内奥で発露した感情は熱病に似て心身を焼く。炎は抑えも利かず、滲み、溢れるようにして口をついた。

 

「俺は貴女を愛している」

「――――――」

「孤独の痛みに向き合わず、石のように身も心も固め、悲愴を気取る情けないこんな男に、手を差し伸べてくださったことに感謝します。遠ざかるばかりの過去から、現実の今へと引き戻してくださったことに感謝します。父母の話を聞いてくださったことに、心から感謝します」

「………………」

「飾り気ない優しさを持った貴女が、俺は愛おしいと思いました」

 

 彼女の遠大な生涯を、永劫と呼ばれるその世界を、烏滸がましくも想像する。壮絶の二字。

 それを乗り越えて存在する今の、彼女の優しさを尊いと思う。敬服を禁じ得ない。

 俺は藤原妹紅という一人の人を尊敬する。

 だから。

 

「貴女の生き様に、一度泥を塗った……貴女の心根を履き違えて、己の性根の汚穢に曝した……それでも…………それでも」

「……うん」

「信じて、欲しいのです」

 

 虫のよい話だった。

 彼女の誠意に卑劣な報いを返しながら、己のそれは誠意であると、信頼を欲する。

 (おぞ)ましい。それは救い難く悍ましい、恥を知らぬ欲望だった。

 それでも。

 

「…………」

 

 遂に堪えきれず、己は下を向く。相対する少女から目を逸らす。

 自分は何故、あのまま死ななかったのか――――そんな甘えた思考に精神は躍起になって沈み込まんとした。

 己はただ無恥なる奴輩に相違ない。

 

「どう言えばいいのかな……どう言えば、貴方は安心する?」

「……」

「前にも言ったけど、私もそんなに口の上手い方じゃないから……アハハ、やっぱり難しいね」

 

 頬を掻いて少女ははにかんだ。やにわに愛だの感謝だのと、戸惑いを抱いて当然であった。

 当惑を示しながら。しかしながら。

 彼女は。

 

「嬉しい。すごく……すごく嬉しい」

 

 ――――胸を撃たれるとはこういうことなのか。

 それは生まれて初めての感触、経験だった。そしておそらくは、最後の。

 その笑顔は、陽の光がもたらす恵みに等しい。天上の女神とはきっとこんな尊顔をされている。

 阿呆のように、けれど確実なる事実だ。確信する。

 この人は俺にとってそういう存在(ヒト)なのだと。

 長く、少女の顔に見蕩れていたらしい。

 じっと見詰めるこちらに彼女は堪らずと顔を赤くした。

 

「……どうしよう」

「はい」

「ど、どうすればいいんだろう……」

「どう、とは。なにか為さりたいことがあるのでしょうか?」

 

 何やら落ち着きなく、妹紅さんは右往左往している。

 赤らむ顔はまるで限りなど忘れたかのように沸騰をより強めていった。

 

「したいこと……ある。あります」

「は、では何なりと仰ってください。このような身ですが、あらゆる尽力を厭いません。いえ、貴女の力に、なりたいのです」

「そ、そんな風にっ、言うからっ! また我慢が……利かなくなるのに……だ、大丈夫かな……傷が広がったり……や、私が上になって動けば……ッッ! うぅぅ……!」

「?」

 

 頭を抱える彼女に、首を捻り……それに思い至る。まさか、という我が理性から溢れた尤もなリアクションを、今ばかりは黙殺して。

 

「妹紅さん」

「……はい」

「どうぞ、為さりたいことを為さってください。この身を如何様にでも()使()()ください。貴女の望みは、自分の切望です」

「…………はふぅ」

 

 それは笑声とも溜め息とも排熱された蒸気とも聞こえる音色だった。

 どれ一つとっても、愛らしい。そうとしか感じぬ。

 熱に浮かされているのは何も彼女だけではない。己とても同じであった。

 下から赤い瞳が覗き込んでくる。怯えと期待。二つが絶えずその含有率を変動させながら光っている。

 彼女の両腕が首に掛けられた。シャツの内側にあるそれは、細く、しなやかで、水中を泳ぐ白魚のうねりを想起する。

 またぞろ細い後ろ腰に左手を添える。微かな震え、そしてじわりと肌の熱が掌を焼いた。

 

「ごめんね……こんな応え方しか、今はもう考えられない」

「綺麗です。妹紅さん」

「ッ……えへへ、ありがと……私も、貴方を――――」

「失礼しまーす。換えの包帯持って来ましたよーぉぉおお邪魔しましたーーー!!」

 

 襖が開いたかと思われた刹那に高速で閉じられる。

 廊下には包帯を手にしたブレザー姿の少女が立っていたような気がする。

 思えばここは療養所の一室。医師、あるいは看護を役目とする誰かしらが来てもおかしくはない状況であった。

 

「……」

「――」

 

 上半身裸の男と、それにしな垂れ腕を絡める少女。外聞を気遣うには少々遅過ぎた。迂闊なり。

 無言で、妹紅さんが立ち上がる。

 すたすたと早歩きに襖へ取り付き、開いたと同時に駆け出した。先程の少女を追っていったのだろう。横顔には羞恥と焦りと怒りと鬼気が満ちていた。

 逃げた少女を捕まえて、果たして妹紅さんはどうする御心算であろうか。それは(よう)として知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永遠亭からの退院が決まったのは、それから一週間後のことだった。

 医療行為に関して並以上の知識を持たぬ身であるが、療養期間としてそれが驚くべき短さであることは確かだ。胸と腹に走った骨まで達する裂傷、そして片腕の欠損。僅かに二週間足らずで全治に至るとは思えない。

 無論、ここは現代現世ではない。現代現世と同等の医療制度を求めることがそもそも間違いであり、なにより治療に当たってくださった医師の手腕を誹謗することとそれは同義であった。

 医務室で最後の検査を行い、カルテを書き込む医師――八意永琳先生。彼女には感謝以外に述べるべき言葉はなかった。

 短時日による退院が叶ったのも、ひとえに彼女の優れた技術の賜物に他ならない。

 

「感謝されるほどのことはしていないのだけど」

「まさか、そのような」

「止血と縫合を幾らか。あとはほぼ肉体の自然治癒力に委ねていたもの。まずもって驚くべき回復力だわ」

 

 八意医師は笑みを刻んだ。

 

「異常と表していいくらい」

 

 その顔には感興が見えた。好悪を分類するならば、間違いなく好意的な。しかし。

 ――――実験途中にケースの中で珍しい反応を示すマウスを見付けたかのような。

 決して人道的とは呼べぬ、人を人とは思わぬ顔。それは研究者の貌だった。

 

「お望みなら完治するまで入院を延ばしてもらっていいわ。万全のケアをお約束します。代わりに()()()()と、お手伝いしていただくことになるけれど……どうなさる?」

 

 いっそ艶やかに、一層に、女医は笑みを深めた。

 己は静かに首を左右した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 永遠亭の門扉を後にする。

 連れ立つ妹紅さんは己の右側に寄り添い、腕を絡めて歩いた。両足は健在であるので、介助の必要があるとも思えぬが。

 その心遣いそのものが有り難かった。

 

「……」

「? ……どうかされましたか」

 

 彼女は背後の邸を今一度望む。視線には、曰く名状し難い色が混淆していた。

 こちらの問いに少女は首を振る。

 

「こんなに静かにここを出たのが初めてだったから、ちょっとね」

「?」

「いいの」

 

 腕を取り直し、爽やかに笑う。

 

「行こっ」

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「実際のとこ、アレは何?」

「成りかけというところかしら」

 

 女医は手の中で試験管を振った。硝子の壁面にとろりと纏わり付く紅。黒みを帯びたような血液の水面が鈍く揺れる。

 

「薬はもうない筈よね」

「そうね。ここに落ち着いてからは、特に作る用もなかった。製法は私の頭の中、現物は全て廃棄済み。複製も不可能」

「じゃああの男、なんで生きてるの? あの重傷(ふかで)なら普通死ぬんじゃない? それとも、地上人って私が思ってるより頑丈なのかしら」

「それをこれから研究するのよ」

 

 新しい玩具を手にした子供同様に、女は顔を綻ばせる。

 優美な溜息が室内に響いた。姫御前は、呆れてその後姿を笑う。未知は歓待すべき刺激だが、その追究行為には微塵も興味がない。

 欲しいのは回答。アレの原理。

 

「仮説ならあるけれど」

「そうそう。それを聞かせて頂戴な」

「蓬莱人の不死性がその活き肝に宿るなんて噂があるでしょう」

「あったの?」

「あったの」

「あ、そっか。じゃああの男は妹紅の肝を食べたのね!」

「食べたかどうか、そもそも不死の付与が臓器の経口摂取程度で可能かどうか、甚だ疑問ね。もし成功していたなら、ここに担ぎ込まれることもなかったでしょうし」

 

 女医の滔々とした否定の論調に、姫は唇を尖らせる。

 

「もーじゃあどうしてー? なんであの男は()()()()()のー?」

「心肺停止、脳波消失。外界でも立派に死亡判定でしょうね」

「だーかーらーなーんでー」

 

 駄々を捏ねる童女のように姫御前は机を両手で叩いた。

 今度溜息を吐くのは女医の方である。

 

「そうね。考えられる要因は……」

「よーいんは?」

 

 そうして悪戯な――――皮肉気な笑みを口端に刻んで、八意永琳は言った。

 

「愛の力、ってところかしらね」

「はぁ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近頃、夢を見る。

 内容は常に同じ。

 色は一種。黒々とした赤。

 登場人物は二人。己と、少女……愛しい人。

 仰臥して空を見ていた。いや、空など何処にもありはしない。上空は無。虚。空などと呼ばわることさえ憚る黒だけの広まり。背景美術としてはとんだ手抜き仕事と言わざるを得ない。

 対して地上、こちらも単一色という意味では同じだった。

 赤い、それは液体であった。仰向けに寝転がり、後頭部から背中、足先まで。身体の裏、その半ばまでを赤い液体に浸している。

 耳に入り込んだ液体が音を遠ざけた。

 限りなく無音に近しい。風も、地鳴りも、心音すら無いかの如く。

 

 …………

 

 無言で彼女は俺を見下ろしていた。

 能面のような表情(カオ)で俺を見下ろしていた。

 すべてが抜け切った貌。すべてが、失われて。正常な感情(ココロ)とやらも機能不全を起こし、無機質の、人型の機械めいて虚ろ。

 虚ろな穴が二つ、彼女の目が、俺を見下ろしていた。

 

 …………

 

 彼女は呟いた。口唇が形を変え、言葉を形作ったように見えた。

 無論のこと己には何一つ聴き取れない。なにせ耳は赤い液体で満ち満ちている。耳の奥、鼓膜の裏側にまでも。

 全ては無音のまま進行する。

 彼女は無音のまま、おもむろに、その手を、指先を、少女自身の腹へ――――右の脇腹へ突き入れた。

 無音のままに、手が腹の内へと消える。シャツに赤く染みが広がり、程なく赤い液体が滴り落ちる。この大地を満たすものと同じ色をした液体が。

 手が引き抜かれ、掌に赤黒い物体が握られていた。粘り付くような糸を幾本も引きながら。片手では到底余るほどに大きな、てらてらと光沢すら放つ、それは。

 それに少女は、噛り付く。口に含める限り、頬張り、咀嚼し噛み潰し咀嚼しまた噛み締め咀嚼咀嚼咀嚼。

 血と肉と唾液の混合液が口端から溢れて垂れる。それでも彼女は止めない。噛み、千切り、潰し、均し、液状に成り果てるまで口内をミキシングする。

 

 そうして、少女の顔が落ちてくる。

 ゆっくりと、赤黒い液体に塗れた唇が、己のそれを覆い、ぞぶりと舌が掻き分け、暖かなものが流し込まれた。

 不快感は無かった。

 ただ、ひどく――――罪深い。この行為の禁忌を、魂が叫んでいた。

 

 …………

 

 熱いものが顔面に落ちてくる。しかしそれは、無色透明の、澄んだ滴り。

 少女の両瞳から、それは落ちてくる。絶えることなく、止め処なく。

 口内に広がる鉄の味。口移しにもたらされた口噛みの臓物。頑是無い少女の、彼女の、死に物狂いの……愛情。

 俺は、それが、やはり。

 己が思考に苦笑が上る。自嘲と、呆れ、僅かに得心。

 俺はそれでも、この人が、この人と共に――――

 

 

 

 

 

 悲しい夢だと思った。

 けれど、悪夢からは程遠く。

 それはどこまでも、愛しい夢だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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