楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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 森の中で突如目の当たりにした花園をどのように表現すべきか。

 桃源の幽世とはこのような景色なのだろうと乏しい想像力が及ぶ。

 幻夢。少なくとも現実離れして、ここは美しい。

 浮世の辛苦を一時、忘れてしまうほどに。

 忘れてしまう。

 忘れて。

 

「…………」

 

 本来は、正常な感性なれば、きっとこの光景はただただ胸を衝くのだろう。

 素晴らしいと、夢見心地と。安息が喉奥から溢れ、感嘆に心は清められる。

 その筈だ。そうに違いない。

 だのに。

 白翠の花弁から、己が、俺が、想起したものは――――骨。

 母の骨だった。

 炉から帰ってきた台車に母の名残は無かった。

 長く病床に臥せっていた母の骨は脆く、千々に砕けてしまっていた。原型など一所も留めず、細かな骨片が台の上の灰に浮かんでいるばかりで。

 ただ、それが、ひどく白い。

 拾骨室に運び込まれた母だったモノ。その散逸する骨が、あまりにも白くて。

 散り落ちた花弁のように、儚げで、頼りない。

 母の残骸が。

 

「っ……ぅ……ぐ……!」

 

 膝を付き、地に伏す。我が身こそ骨を失くしてしまったかのように。

 立っていられない。立ち行かない。

 頭上の花園を直視できない。美しい花、光り輝く花、無垢な白を放つ花。この花が、思い出させる。まざまざと。

 

「あぁっ……!」

 

 弱り果て、果ててなお脆く崩れ砕けた母を。

 そうさせた。

 己がそうさせた。

 俺の不孝が。

 俺があの人を不幸なままに逝かせた。

 

「――――ああああああッ!!」

 

 花が、この美しすぎる白が、己の罪業を糾弾する。

 心の臓腑を抉り貫く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 花を愛でる。

 自分が行為するそれと、人間が口にするそれは意味合いが異なる。殊の外大きく、異なる。

 花を趣向として、娯楽として、有り難がる人間共。穢らわしい。

 生き物の中でもとりわけ、見えず、聞こえず、感じられない、鈍愚なる二本足。

 鈍い鼻を利かせて、蟲でもない癖に奴らは花に集る。花を前にした人間の反応はそれぞれだが、その彩は乏しい。皆、似たり寄ったり。

 花を見て笑う者がいた。

 花を見て安らぐ者がいた。

 花を見て、泣く者はいた。

 花を慰めに使う者も、いた。

 けれど。

 

「う、ぐぅ、ぁ、あぁッッ……!!」

 

 花を畏れる者を、私は初めて見た。

 その花園は、自分が戯れに“力”を与えたもの。妖怪変化を起こすような異能を与えはしなかったし、他の植物より()()生命力が強靭になる程度の手妻だ。

 この世に二つとない、この風見幽香が生み出した花。

 それを前にして、慟哭する男がいる。

 胸を鷲掴み、今にもその奥にあるものを抉り出してしまいそうな。

 花を通して男を……青年を観察した。見物と言った方が心象は近いか。

 森の淵で一人、苦しみ悶えのた打つ人間。滑稽だ。気でも触れたのか。あるいは元来の狂人が、偶さかここへ辿り着いたのか。

 眺めるに、どうやら狂い(びと)という訳ではないらしい。呻き声を幾らか漏らした後、青年は緩慢にだがその身を起こした。

 苦く歪んだ顔。そこに映るのは、倦んだ疲労感、後悔、戸惑い、自己嫌悪、そして罪悪感――――自身が生存しているという事実に対する後ろめたさ。

 目には確かな理性の光がある。なんとも暗々とした暖炉の残り火のようではあったが。

 とはいえ自己の奇行と乱心を理解している。そして、それを心底より恥じている。そんな目。

 

「…………」

 

 その日、青年はそのまま帰って行った。足を引き摺るように遠ざかる背中を花と共に見送った。

 妙な人間が奇妙な奇態を晒す。言ってみればそれだけの、一時の珍事に過ぎない。

 明日にもならず、そんなものは忘れ去るだろう。

 

 

 

 ところが次の日も、青年は花園に現れた。

 その次の日も。次の日も。また次の日も。

 決まった時刻、青年は花園を訪れた。

 ほんの小半時にも満たない時間。何をするでもなく、ただ呆と花を眺めていることもあれば、花園の周囲に散る落ち葉や朽ち木を掻いて掃除をすることもあった。

 花に着こうとした蟲を、強かに払うのではなく、憚りながらにそっと退()()()()

 青年は、いかにも弱々しい笑みを浮かべる。

 

「今日もよい姿ですね」

 

 愛でるでもなく、精神快癒の足しに使うでもない。

 こわごわと怯み、怖じ気を腹の底へ隠しながら、その全身と全霊で心の底から畏れながら……尊ぶ。

 そう、尊んでいる。青年は、この風見幽香謹製の花を頭上に戴くが如くに、尊んでいるのだ。

 まあ、悪くはない。

 人間風情にしては多少行き届いた心懸けだ。

 とはいえ、それだけだが。だからとて今更、人なる生き物に対する己が評が揺らぐことはない。

 むしろ、この青年こそは、その愚劣さを大いに体現しているではないか。

 花を見て、見ただけで心を掻き乱す。恐慌し狂惑する。それは確実に、明らかに、今昔にて何かしらのあやまちを犯した者の有り様。体たらくである。

 あやまちそれ自体はどうでもいい。然したる興味はない。

 気障(きざわ)りなのはただ一点、あやまちを悔いていることだ。自己嫌悪にのた打ち、苦悶する。いかにも人間らしい心根の脆弱さ。

 それが実に下らない。見るだに胸が悪くなる。

 どんな理由があるやら知らぬが、その劣弱さは罪でさえある。

 人の世の理どうこうなど妖怪(ばけもの)たる我が身にとっては徹頭の慮外事なれば。この身が関知するのは妖怪の理のみ。

 我らの摂理。俗に、弱肉強食とでも呼ぼうか。しかしこの呼称もやや正確ではない。

 力の有無、強弱は実のところ問題ではなく、肝要なのは勝を得ること。勝とは、生き続け、在り続けることだ。

 弱きは死に易く、強きは強さに準じた生き永らうだけの性能を有する。弱肉強食はその結果を表したに過ぎない。

 弱かろうが生きれば勝。単純にして明快。瞭然であり完然。生命の天道正理は唯一それのみ。

 それのみと、宣して何憚ろう。それが真実。間違いなどない。

 間違っているのはこの青年だ。

 あやまちを後悔し、あまつさえ自己の存在そのものを嫌悪している。否定している。

 摂理に合わぬ。

 それが、気に入らない。

 何故泰然としない。矜持を張れない。生きている今に向けず、その目は過去を遡っている。重大事は今。生存の今ではないのか。

 何故。

 ……理由。

 興味はないと吐き捨てたそれが、なにやら無性に好奇心を誘う。

 

 

 

 

 

 ――――放っておけばよかったのだ。

 理解不能な人間など、愚かの一言に捨て去ってしまえば、それで済んだのに。

 並べて世は事も無し。我が理に揺らぎ無し。私は、私のままでいられた。

 だが、そうしなかった。私は彼を“ただの人間”にできなかった。

 

 

 

 

 

 青年はなおも花園へと通い続けた。

 思えば奇特、いや奇嬌と訝しむべきか。

 花に過去の禍を見出す癖に、それでも日課のようにそれを眺めに来るなど。そういった被虐的嗜好を持っているのだろうか。それにしては彼の様は一向に悲愴である。

 喜びはなかった。笑みは浮かべても、そこには常に痛みが奔っていた。

 まあいい。

 それもすぐに判ること。

 趣向というなら、これこそ凝らしの一芸。

 今日も今日とて青年の清掃活動には余念がない。落ち葉が頓に地を覆う秋の中頃であるにもかかわらず、花園の周囲の土は整然と清らかだった。

 屈み込んだ背中に、音もなく歩み寄る。

 

「御機嫌よう」

「はい?」

 

 挨拶に対する青年の反応は(すこぶ)る鈍い。礼節の基本が成っていないようだ。

 なら、丁寧に教えてあげましょう。

 人差し指を爪弾く。ぴんと、それは空気を貫いて音を置き去る速度で真っ直ぐに飛ぶ。

 振り返った青年の右胸に。

 

「がっ、はぁっ!?」

 

 シャツを突き破り突き刺さる。皮膚を裂き、肉を抉り、肋骨の合間で止まる。

 これもまた些細な手妻。戯れの一品。

 種子(たね)。外見も、備わる能力も、植物らの放つそれと何ら変わりない。

 異なるのは根付く土壌。少しだけ手を加えたこの子は、生き物の肉を土として芽吹き、血を水として吸い上げ、骨を添え木にして張り巡る。

 生きた植木鉢といったところか。形は悪いが。

 

「養分にはなるわね」

「ぎ、ぃ、あがぁ……!!」

 

 先刻とはまた別の理由で地面をのた打つ青年に、微笑む。親しみを込めて。

 なにせ可愛い我が子を託すのだから。

 

「お前が尊んでいる花の苗床になれるのよ? もっと喜びなさいな。アッハハハハ」

 

 肉の筋を割り退けて根が身体の内側に伸び、這い回り、絡み付く。

 その痛みは控えめに言って凄絶だろう。

 神経を焼く痛みの衝撃で死んだりするのだろうか。それでは片手落ちで困ってしまうのだけど。

 幸いにして、青年は生死の境を此方側に転んだ。

 

「いい子ね。頑丈なひとって好きよ」

 

 気兼ねなく遊べるから。

 これであとは待つだけ。侵殖が身体の中枢にまで及べばこの男は晴れて花そのものに成る。

 そうすれば我が思いの儘。己が命ずれば青年は身も心もこちらに開け広げることだろう。

 その心根に隠した暗がりさえ。

 良い暇潰しができた。

 荒く息吐き地面に横たわる青年。開かれているその目は混濁して何も見えていない。

 それがなんだか可愛らしくて、また自然と笑みが零れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭上を数羽の烏が翔び去っていった。その鳴き声は夕空に殊更響き渡り、地上を這う己の鼓膜もまた存分に揺さぶった。

 がなり散らすかの激しい音声(おんじょう)は御世辞にも耳良い調とは言い兼ねた。

 呆けていたところに強かに聞かされ、胸骨の内で心臓が一段速く跳ねている。

 

「どうかしたかい?」

「は……」

 

 寺子屋の裏門近く。生徒らの見送り時である。

 上白沢さんは、心配そうな面持ちで言った。

 

「いえ……申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」

「はは、仕事帰りで疲れているんだろう。いやこちらこそ引き留めてしまってすまないな」

「滅相もありません」

 

 人足の勤めの帰り路、偶々行き合った女史との世間話の最中であった。

 

「もうすぐ妹紅が顔を出すから、よければ待ってやってくれ。というか、あれは君を逃すと後で機嫌を悪くするんだ」

「それは、光栄なこと」

「私にしてみれば堪ったものじゃあないんだがね」

 

 大袈裟に肩を竦めて見せる上白沢さんと、互いに笑声を上げた。

 

「よっ、けーね」

「こら! 慧音先生と……ってなんだチルノか」

 

 声に振り返る。いや、反射的に背後に向き合ってしまった。人間の常識に照らして、視界外から呼ばわれれば正面とは別方向に相手がいるものと判断する。固定観念である。己は声の主を捕捉し得なかった。

 その声は、頭上から降ってきたのだ。

 瓦屋根の上から小柄な影が飛来する。落下ではない。それは確かに飛翔した。

 茜の日を照り返す青い結晶が三対。氷の羽。

 青い癖毛の髪、青いワンピース。上白沢さんに比べてよりビビッドな色調であった。

 青色の少女が、真っ直ぐに、己の顔面へと突っ込んできた。

 

「そいや!?」

「!」

「わ!? だ、大丈夫か!? というかなんで今勢いをつけたチルノ!?」

 

 己の頭にしがみついた少女は、悪びれた成分をあまり含有しない声で。

 

「なんかつい」

「ついじゃないついじゃ!」

「いえ、どうぞお叱りなく、上白沢さん。自分は問題ありませんので」

「いやそうは言っても……」

 

 肩車の前後を間違えたような状態で、少女は左右に身体を揺らす。景色は一面青色に染まった。

 はしゃいでいる。無邪気に。

 首が少しだけ軋んだ。

 

「本当に大丈夫なのか!?」

「はい」

「おー背ぇ伸びたみたいだ。な、な、河川敷まで走ってみてよ」

「早く降りろ!」

 

 馬、ないし竹馬でも操るような調子でねだる少女を上白沢さんはすぐさま引き摺り下ろした。

 視界が回復する。

 少女は不満げに唇を尖らせた。

 その頭上に拳骨が落ちる瞬間を己の目はまたしても捕捉し得なかった。残像が過り、気付けば青い頭を両手で抱えて少女が地面に蹲っていた。

 

「ぐぉおおおお……!」

「危ないことをするんじゃない! 人間は妖精(おまえ)達ほど頑丈ではないんだ!」

「痛ったいなぁもう! こいつは大丈夫って言ってんじゃん!」

「そういう問題ではなぁい!」

「あだぁ!?」

 

 再び、その小さな青髪を打ったのは拳ではなく、上白沢さんの頭突き。満水のポリタンクを叩いたような鈍い衝撃が耳孔に響く。

 昨今では見られることの少ない、実に肉弾的な指導というか叱責であった。そして両者の様子を見るに、どうやらこれが日常茶飯事のようだ。

 

「チ、チルノちゃ~ん? 大丈夫~?」

「お、いたいた……ぁ」

 

 後方から、それも今度はきちんと地上から発した二つの声に目を向ける。

 側頭で結い上げた淡い緑の髪。青いワンピース姿は眼前のチルノという少女と似通っているが、彼女のそれはやや丈が長い。小走りになると、その背にある一対の白い羽が揺れた。

 上白沢女史の私塾は人妖の別を問わず、その門戸を開いている。彼女らも寺子屋に通う生徒なのだろう。

 

「大ちゃん! けーねったら酷いんだよ!?」

「酷いものか。頸を痛めていたら只事では済まないんだぞ」

「ご、ごめんなさい! 何をやったか知らないけどごめんさない! あの、チルノちゃんに悪気はないんです。ただちょっと考えが足りないんです!」

「大ちゃん!?」

 

 深々と御辞儀をくれる少女、だいちゃんさんに対して、こちらこそ恐縮に両の手を晒す。

 

「謝罪など御無用に。骨も筋も傷めず、身体は健在です。チルノさんが何ら悪意を持たれていないことは十分に伝わっております。どうかお顔をお上げください」

「はへ? は、はい」

 

 なにやら面を食らった様子で少女は己を見上げた。一度、だいちゃんさんに頷き、視線を隣に移す。

 チルノさんは仏頂面でそっぽを向いた。

 

「チルノさん」

「な、なによ」

「腕白の盛り、大変結構なことと存じます。自分個人といたしましては、貴女の気風はとても好ましい。しかし過ぎれば、やはり怪我や事故へと繋がる(おそれ)があります。そうなれば御友人は勿論、こちらの上白沢さんはじめ多くの方が悲しむでしょう。ゆえにどうか御自身の為と思って、今よりもほんの少しだけ、安全に気を配っていただけませんでしょうか?」

「お、おぉ? う、うん……わかった」

「ありがとうございます」

 

 若干の戸惑いを経て、しかしチルノさんは実に聞き分けも良く頷いてくださった。この少女が心根の真っ直ぐな子であることはすぐに感じ取れた。この不敏な男でさえ。

 

「このおバカにそこまで(へりくだ)ることはないんだぞ」

「バカってゆーな! ふんっ、ま、まあなかなか見どころのあるヤツね。なんなら私の子分にしてやってもいいわよ!」

「もう、チルノちゃんったら……」

「よろしいのですか?」

「案外ノリ気!?」

 

 強かに打たれた後にもかかわらず、少女の元気は欠片も削がれた様子はない。言動も然ることながら見上げた度量である。彼女を親分として己もそれを見習うべきかと、半ば本気で考えた。

 

「それにアンタ、なんかいい匂いがするし」

「?」

「は? 匂い?」

「え、なぁにそれ?」

「大ちゃんも嗅いでみなよ。ほらこうやってっ」

 

 言うや、チルノさんは己の腹に跳び込んだ。なかなかの強打に、僅かに呼気が腹腔から吐き出される。

 少女は顔を埋めて、そのまま思い切り深呼吸した。

 

「おぉ~、すごい……なんかすごい……」

「チルノちゃんっ!? ダ、ダメだよそんなことしちゃ」

「まったくこの子は……なにを言ってるんだか」

「……重労働の後で、汗も掻いております。チルノさん、どうか、離れていただけますか」

「えー……すぅぅうう……はぁぁああ……ちょっとくらいいいでしょ」

 

 ちょっと、との言い分とは裏腹に少女は依然顔を埋めたまま、深呼吸も継続する。

 くぐもった声が腹から身体の奥へ響いた。

 そっと両肩に手を置く。子供らしい小造りな肩甲骨、そして細い二の腕までが掌に触れられる。努めて控えめな力で少女を身体から引き剥がした。

 

「申し訳ありませんが、これにて御自重を。なにより不衛生です」

「ちぇー」

 

 不承不承ながら、こちらの腕力に従って少女は半歩退いた。やはり、聞き分けが良い子だ。

 上白沢さんの普段からの御指導の賜物であろう。

 

「そ、そんなにいい匂いなの?」

「うん。ふわふわーってなってね、なんかね、懐かしい感じがするの」

「……香油でも着けてるのか?」

「上白沢さん、鼻を利かせようとなさらないでください」

「あ……あははは、すまんすまん」

 

 無論、香油を嗜む習慣など自分にはないのだが。

 チルノさんの感性に照らして、自身の臭気が好みに合うのか。それは知れない。

 いずれにせよ、体臭を嗅がれて泰然自若とはしておられず。万一にも彼女らに不快な思いをさせることは、それこそ厭われた。

 身を退こうと、後方へ重心をかけた時。

 

「ね! リグルもそう思うでしょ?」

「…………」

「っ!?」

 

 振り返ったすぐ傍、もうあと僅かな身動ぎ一つでぶつかっていただろう。

 至近距離に、深い緑の髪。その頂からは二本、昆虫のような触覚が伸びている。チルノさん、だいちゃんさん同様の小柄な体躯。

 黒い燕尾状の外套を羽織った少女が、己の腰元に立っていた。

 物も言わず、その澄んだ(ひとみ)がじっとこちらを見上げて。

 

「リグル? どうしたの?」

「…………え、あぁ、うん」

 

 チルノさんの呼ばわりにも、リグルと言う名の少女の反応は鈍かった。

 なにより視線は片時もこちらを離れない。その様子には明らかな変調が見られた。

 上白沢さんが己が生徒の異変に気付かぬ道理はなく、傍まで歩み寄り、その額に手を添えた。

 

「ぼうっとしてどうしたんだ。熱は……ないか」

「えっ、いや、なんでもないよ。別に」

 

 それでようやくに、少女は己以外の存在を視界に収めたらしい。

 慌てて少女は己から一歩遠退く。

 目を瞬き、頭を振る。まるで微睡から今目醒めたかのような所作であった。

 

「変なの」

「う、うっさいな。ちょっと考え事してただけ……ごめん、びっくりさせて」

「己が大袈裟に驚いてしまったまでのこと。どうぞ、お気になさらず」

「調子が悪いのならすぐ(ねぐら)に帰った方がいい。なんならうちの客間に布団を敷こうか?」

「い、いいよっ。大丈夫だってば。もう帰るから、じゃ!」

 

 心配そうな上白沢さんを制して、リグルさんは宣言通りに背を向けて歩き出す。

 

「もう行っちゃうのかよぅリグルー。うし、あたい達も行こう!」

「あ、うん」

 

 それを見るや否やチルノさんは走り出す。気勢の移り変わりも目まぐるしい。即断即決であった。

 慣れているのだろう。さして慌てた様子もなく、だいちゃんさんが彼女に続く。

 

「じゃあな、けーね。そして子分一号!」

「先生、お兄さん、さよならー」

「さようなら」

「帰り道に気を付けるんだぞー」

 

 連れ立つ子供らの小さな背中。その頑是無い様に、なるほど人と妖の違いなどないのだと実感を伴って知る。

 

「……よい子らですね」

「騒がしいし悪戯は多い。それに行儀も悪いが……ああ、皆いい子だ」

「人の体臭を嗅ぐのはあまり褒められたことじゃないけど、ね」

「!?」

 

 声は耳元にて発された。

 背筋が強張るのを自覚する。

 跳ね返るように後ろを見やればそこに、白い髪、紅い目を向かえた。藤原さんが、先刻の少女と同じほどの距離に佇んでいた。

 

「妹紅、居たのなら声くらい掛けてください」

「ごめんごめん。ふふ、びっくりした?」

「……は、強かに」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべる様は、悔しくもないが実に愛らしい。それでもやや苦言の体で返すなら。

 

「今、嗅いでおられましたか」

「いやぁどんな匂いなのか気になって」

「褒められたことじゃない、ではなかったかな?」

「私は悪い子だからいーの」

 

 あっけらかんと、悪い子は舌を出して片目を瞑った。

 

「大丈夫大丈夫、私は好きな匂いだったから」

「この場合、臭気の良し悪しの問題ではないような気がするのですが」

「えー……じ、じゃあ、私のも嗅ぐ? ほら、ぎぶあんどていくってやつでさ!」

「お言葉のみ有り難く頂戴します」

「むぅ……」

「おバカなことを言ってないで、まずは彼にお礼の一つも言いなさい。ずっと待っていてくれたんですよ?」

「……すみません。ありがとう」

「いえ」

 

 上白沢さんの至極真っ当な言葉に藤原さんが肩を落とす。

 己は微笑を堪えられなかった。

 

「……だぁもぉ! 行こう! 飲み! 前の約束!」

「はい、お供いたします」

「あまり飲み過ぎないように」

 

 夕焼け色に染まる少女の後に続く。

 埋め合わせと言うにはあまりに些少だが、それでも彼女が己との酒席を約束と大切に呼ばわってくれたことを嬉しく思う。

 赤提灯の下で酌み交わす酒精の味は、己の貧婁な舌にも十分に旨かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜も更けて随分と経つ。

 送って行くという藤原さんの申し出をやんわりと断り、一人暗い帰路を歩いた。水の捌けた田を横目に小高い農道を行く。

 夜風は肌身に刺さるほどに冷たいが、酒精に火照った身体にはそれがむしろ心地よい。静寂な夜闇に対する恐怖感はなく、星と月の踊るような夜景には一種の荘厳さすら覚えた。

 提灯など要らず、幻想郷の夜空は煌々と明るい。

 

「……?」

 

 道の先を見通すことに何の支障もない。ないゆえ、己はその人影を遠目から既に見付けていた。

 影は小柄であった。子供の姿容をしていた。

 そうして、十歩ほどの距離に差し掛かった時点で、それが見覚えのある人物であることを覚る。

 

「こんばんは。リグルさん……でしたね?」

「…………」

 

 ほんの数時間前に面識を得た少女。

 深緑の髪は、夜の中にあっては黒以上の濃密さで深い色を持つ。燕尾状の黒い外套の下、白いブラウスは月光を照り返してか、まるで自ずから発光しているようだった。

 薄闇の路の先、少女は黙して語らない。こちらの誰何が聞こえていない訳ではないだろうが。

 

「どうされましたか。このような時刻に」

「…………」

「何か、自分に御用がお有りなのでしょうか」

「…………」

 

 少女は沈黙を貫いた。

 やや顎を引くように俯いた顔で、二つの眼は確かにこちらを、己を見ている。茫然自失したかのような風だが、その意識は確実に己を捕捉している。

 意志は感じられた。だが意図が、一向に読めなかった。

 そっと歩み寄る。

 夕刻も、彼女はどこか変調を来たしている様子だった。それは御友人ら、そして上白沢さんもまた指摘したこと。

 もとより無視するなどという選択肢はない。必要とあらば寺子屋へ送り届けよう。

 

「不敏な身ゆえ、御事情を汲み取ることが出来ず申し訳なく思います。もしよろしければ、これから上白沢さんの御宅へお送りしましょう。そちらでお話を伺えますか」

「…………」

「さ、ここではお身体を冷やし――――」

 

 声は途切れた。己自身のものである筈のそれが、どうしてか遠ざかる。

 声を置き捨てて、己の身体は宙を泳いでいた。

 

「――――」

 

 何が起きたのかを理解したのは、叢の中に突っ込んだ後だった。この身が無造作に投げ飛ばされたのだと。

 幸いに枝葉が良い緩衝材となって全身を受け止め、打撲や骨折は少なくとも自覚する範囲では負っていない。五体は満足。

 しかし状況認識は大幅な不満足を余儀なくされた。

 脳は悠長な混乱に浴し、数秒をかけてようやく上体だけ起こす。

 木陰と言えば可愛らしいが、この土地の天然自然の勢力は現世の比ではない。分厚い広葉樹が月明りを完全に遮り、一歩林に踏み入ればそこはほぼ無明の暗闇に支配されている。

 何も見えない。

 純粋無垢な闇が視界を覆ってしまった。

 ……いや。

 光がある。近寄ってくる。ゆっくりと、宙に浮いた二つの光球。

 眼。

 少女の眼が、蛍火のように輝いて、己を見下ろしていた。

 

「――――あぁ、この、匂い」

「リグル、さっ……」

「なんて、芳しい」

「!?」

 

 突如、腹の上に重みが圧し掛かる。荷重そのものは然したるものではなかったが、意表外のことに全身が硬直した。

 姿は見えないが、感触でそれを知る。

 少女が己に馬乗りになっている。

 二つの眼は、相変わらず己ばかりを注視した。碧く光る瞳が、妖しげに細められる。

 

「なにを!?」

「……あはっ」

 

 不意にそれが眼前に現れた。鼻先が触れ合うほどに近く、吐息が頬を濡らすほどに近く。

 彼女の貌容、とろりと蕩けたような表情さえ見て取れる。

 

「一体、これは、なんの」

「……んぇ」

「っ!」

 

 こちらの声など耳には入っていないとばかり。

 少女は己の頬を舐り上げた。暖かな舌が口端から目端までをなぞり、唾液の線が夜気に冷える。

 

「はぁ……おいしい」

「リグルさん! 気を、しっかり持って! 己の声が聞こえますか!?」

「ふっ、ん、ふぅ……においが……つよく、なってく……」

 

 夢見心地に少女は唄う。それは明らかに正気のそれではなかった。

 こちらの声、言葉にも無反応。無視ではなく、認識をしていない。

 彼女の精神が、此岸にいないのだ。

 少女の手首を掴む。肩に手をやり、力を込めて揺する。

 

「あぁ?」

「ぐっ!?」

 

 それを枝でも払うように片手で除けられた。肩に突っ張った腕は、小枝ほどの抑止力も発揮しなかった。

 腕力、体幹、いずれもこの矮躯には到底見合わない強力さ。人外の、それ。

 その差は大人と子供、あるいはそれを凌ぐ。

 彼女の唇が首筋に這う。喉を下り、シャツの襟にかかり、それが邪魔と知るや両手でそれを開け拡げた。ボタンが弾けて飛んだ音を聞く。

 少女の口が開かれ、熱い気息を浴びた。

 そして。

 

「か、ぁ」

「ぎっ……!?」

 

 その顎が、皮肉を抉った。

 

 

 

 

 

 

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