話はほとんど進みません。
リハビリに近しい何かです。本当にすみませんすみませんすみません。
彼女の歯は、己の首筋を食い千切った。
堰を切ったように血が流出していく。頸の重要な管を、どうやら開いてしまったらしい。
急激な体温の喪失を自覚する。しかし同時に、傷口からは燃えるような熱が発した。痛みはやや遅れてその後を追う。
熱い。焼き鏝で皮膚を
びちゃびちゃと何かが滴る音がする。
流れ出た多量の血液が地面を打って――いや、それだけではない。
傷口に浴びせかけられているものがある。熱湯と錯覚するほどに熱い液体。
それは少女の口から溢れている。溢れ、零れ、首といわず肩といわず、胸から腹へ、流れ流れ。触れた皮膚がびりびりと疼痛を発していた。
唾液? 違う。もっと、別の、もっと危険な。
どうしてか、閃くように思い至る。これは――消化液だ。
肉を溶かす為の生体化学物質。
脳裏を過ったのは、昆虫の狩り。獲物に溶解液を流し込みその体液を啜り食らう。
少女の口の形状は、どんな風だったろう。人の形をしていた筈だ。吸収菅など生えていなかったし、顎が上下ではなく左右に開いていたなどということも、なかった、と思う。
わからない。この暗闇の向こう側に居る少女、少女なるモノが、もはやわからぬ。
わかるのは、己はこれより喰らい殺されるのだろうということだけ。
化け蟲。この地にあって、その存在は然して珍しくもないのだろう。妖怪変化の楽園たる幻想郷で。
そして、その妖怪に人間が喰われることすら日常。些末事。
「は、む、ふ、ちゅ、かふ」
齧り取った肉を咀嚼している。夢中であり、必死な。空腹なところにたんまりと好物を振る舞われたかのように。いっそ、無邪気でさえあった。
腹を空かせた幼子が、久方の馳走に、無邪気に喜んでいる。
それだけのこと。
それだけの。
……ああ、ならば。
これで、よいのやもしれぬ。
「はぁ、は、はぁっ」
「……」
荒い息遣いが、今再び皮膚を撫でた。今度は何処であろうか。腕、肩、胸、腹、
何処が、この子の好みであろうか。
今更惜しむほどの命ではない。幸いにして、
この生涯の幕切れがここであるというなら、それはそう、悪くはなかった。
誰かの役に立って死ねるのだ。この少女の餓えと渇きを僅かばかりでも潤す助けとなれる。
悪くない。
そして、この子もまた何も悪くない。
その生を、
なるほど
子の糧となるのは大人の役務。まして芥の如きこの身が、少女の糧と、成れるならば。
「か、ふ、は」
「……ゆっくり」
「は、ぁ……?」
「ゆっくり、食べなさい」
これ以上の幸いはない。
これ以上の最期は、ない。
これこそは出来すぎた、完璧な死だろう。
不意に、光が差した。叢雲が気紛れにその身を引き、月の光矢に道を譲ったが為に。
帯のような光明が林の枝間を縫って垂れ下がる。
塵も浮かばぬ澄んだ美しい月光。それが照らしたのは無論のこと己などではなく、頭上の彼女を。そのあどけない顔を映し出した。
赤く染まった口許は、人の形をしていた。一処とて異形に変じた箇所はない。
とても愛らしい。
口の周りをこんなに汚して、夢中になって肉を食む様が、なにやらひどく愛らしく。
思わずそっと、親指で口許を拭っていた。
「あ、え……?」
その程度でべったりとこびり着いた汚れを取り除ける筈もない。血の紅はただ無為に伸びて、少女の白い頬をさらに汚す。
「――――――――」
少女の目が見開かれる。瞳に、この月明かりとは別の灯が点ったように見えた。
それを確かめる時間は、もう無かったが。
意識が沈む。月光が夜天の彼方へ遠ざかる。
少し、寒い、か――――
眼下には微笑。
頬から落ちる掌。
触れる肌身より刻一刻、失われていく熱。それはこの青年の命だった。
蝋燭の灯火のように弱々しい。そよ風にさえ負けそうな儚さ。
その火を吹き消したのは、貪り食い散らしたのは。
「な、なんで……」
私だった。
「ち、ちがっ……わた、わたし、わたし、は、こんなこと、こんな、する、つもりなんて……」
私が、この人を殺した。
「あ……」
瞳が。色の抜け落ちた目が、私を見上げている。やはりどうしてか、そこには優しげな笑みがあって。
「どうして」
顔に触れる。瘧のように震える指で、おそるおそる、まだ仄暖かな頬に。
「ねぇ……」
どうして、と繰り返す。馬鹿の一つ覚えに、この口は同じ文言を吐き続けた。
何故こんなことをしてしまったのか。
あるいは、この所業は全く以て自分の意思に依らない無意識の、意表外の行為であったという言い訳。
本当はこんなことはしたくなかったのに、こんな
どうして、どうして……。
――――ああ、違う。違うのだ。
この、
もっと、救い様のない。
「どうして……あなたは……」
ゆっくり、食べなさい
ゆっくり食べなさいと彼は言った。
己の肉を、自身の頸の筋管を食い千切った化け蟲に向かって、青年はそう言った。
幼い童に言い聞かせるような柔らかな貌で、捕食されることを受け入れた。
許して、くれた。
妖怪が人を喰らうのは自然の摂理。特にここ、幻想郷で人喰いは営みの一つに過ぎない。
だから、人が妖怪を恐れるのも当然の心理。恐れて然り。いや、忌み嫌わなければならない。
人と妖とは、そのように在るべきもの。いつからか薄らいできた恐怖を介した親交。今こそその重みを思い知る。
自分は骨の髄から、魂の底から妖怪だったのだと、血肉を貪ることで思い出した。舌の根から胃の腑までを潤すことで理解した。まざまざと。
…………なのに。
私は
「どうして、そんなこと言うんだよぉ……!」
あるいは彼もまた人生に絶望した自殺志願者なのか。幻想郷において、そういった手合いは少なくない。まるで仕向けられたかのように外界から幻想入りする人間の大半はそんな奴らばかりだ。
けれどそうは、思えなかった。いやそうであったとしても。
あんな、あんなにも、慈しむようにして。
堪らない。堪ったものじゃない。
この罪悪感は未だかつて知らない。重い、痛い。
通り魔同然に夜道を襲っておきながら、妖怪の人喰いの禁忌と恐怖を自然と嘯きながら、私は。
「…………ごめんなさい。ごめんなさいっ……ごめんなさい……!」
もう無理だ。もう食べられない。殺せない。殺したくない。
この人に死んでほしくない。
草を踏むこちらの足音に、その小さな背中は過敏なほど反応した。
震えながらに振り返った顔は溢れるような涙で濡れていた。
「幽、香……?」
「……」
泣きじゃくるリグルの傍らに人の形をしたモノが横たわっている。
モノだ。血と肉と骨で出来たモノ。あともう数分を数えることなく、それは生命ではなくなる。土の肥やしとなるだろう。
そうなればいい。土が肥え草花が芽吹くなら、それが最上。最良。
ああ、あるいはその方が。
その方がこの男にとっては、幸せなのではないか。
「……」
ふいと上ったその思考に、どうしてか虚を衝かれた。
「……くだらない」
「へ?」
「立ちなさい、リグル」
「で、でも……この人が……この人は、私がっ……」
泣き顔が歪む。くしゃりと紙屑めいて。
罪悪と悲愴がその小さな胸を潰すのだろう。
リグルはひしと、両手で男に縋った。
「立ち去りなさいリグル。三度は言わないわ」
「…………」
「……悪いようにはしないから。さあ、早く」
「………………」
長い長い沈黙、風もない夜の静寂は耳に痛い。
その暗黒の中で、少女の感情が渦を巻いていた。
「……ごめんなさい」
今一度、掠れる声で呟いて、少女は立った。
ふわりと空中に身を躍らせ、枝葉の合間を抜けて夜空に飛び上がる。
見えぬ筈の未練が、まるで残光のように尾を引いていた。
不意に一吹き、風鳴りに急かされて、仰臥する男に近付く。血の匂いが、一塊のバターでも頬張ったかのように強く、濃く、ひどく香り立った。
その強烈な匂いの中に、ほんの一匙、微かにだけれど確実に。
芳しい花と蜜のそれを嗅いだ。
「はぁ、まったく」
男の身体に植わるソレが、蟲妖の少女を惑わせたのだろう。蟲が花に誘われるは自然の有様。その点について自分が訝る由はない。
ないが、しかし。
頸の脈を切られれば人間は血を失って死ぬ。簡単に死ぬ。驚くほどあっさりと。
この男が正真正銘、今まさに瀕死の際に在ってなお未だ虫の息で生きているのは、自分が植えたソレがその身を埋める
「運が悪いのだか良いのだか」
己が所業は棚に上げて、皮肉げに笑みを刻む。
悪い。間違いなく。この男の運気はきっと最悪の最低だ。
なにせこの私に拾われるのだから。
アスファルトの焼ける臭い。
蝉の声が、道々に響く。
頬を撫でる熱気。シャツの下には汗が滲んでいた。
盆の墓参り。父方の祖父母へ手を合わせた霊園からの帰り路。
向日葵がこちらを見ていた。石垣の向こう側からひょっこりと顔を覗かせた背の高い向日葵が、歩けど歩けど途切れることなくこちらを見下ろしている。
自分と、養父を見下ろしている。
お昼は何が食べたい?
父は言った。
自分は何でも食べる、と答えた。
父は考え込んでしまった。選択肢を丸投げするような応え方をしてしまったからだ。真面目な父は、己の好物を指折り列挙して悩んだ。
母の好きなものを食べに行こう、己はそう提案した。
父は頷いて、笑った。
君は優しいな
ひどく嬉しそうに彼は笑った。
何故嬉しそうにするのだろう。その時は、父の笑みの理由を理解できなかったが。
今ならば少し、わかる気がする。
街路樹越しに陽の光が瞬いて、父の顔を斑模様にした。その笑顔には、陽光と同じ暖かさがあった。
――――劈くような、突き刺すような音を聞いた。足の裏から。
音の塊は真っ直ぐに飛び込んできた。
黒いワゴン車が縁石を乗り上げて、中空に踊る。車の
気付けば、体は歩道から投げ出されていた。地面で擦り切れた肘が痛みを発した。遅れて胸に鈍痛を覚えた。
身を起こし、それを見上げた。
石垣に衝突して拉げたフロント。左側のライトは半ば石の中に埋まっている。
潰れた車の顔と砕けた石垣の窪み、その合間に。
それは、あった。モノがあった。
肉と、血と、骨と、肉と、血と、石と鉄と、それを彩る紅。
父だったモノ。父を構成するあらゆる部品がそこに、散逸している。
ただ一個、生命だけがそこにはない。
俺が父と呼ばわる人は、もうどこにもいなかった。
くそ
乱雑にワゴン車のドアが開け放たれ、中から一人男が転がり出てきた。若い、中年を未だ数えない程度の。
男の口は吐瀉物に塗れ、顔は頬紅でも塗ったように赤い。車からぷんと、異臭がした。アルコール臭だった。
最悪だ。くそ、くそくそ
男はしきりに悪態を吐き、また反吐を道に撒いた。
そうして、男は自身の車のフロントにある
汚ぇな
きたねぇな。
きたねぇな。
きたねぇな、と。
何を言っているのかわからなかった。何かを言ったのだ、と。聞捨てに出来ない何かを。脳を焼くような何を、口にしたのだと。それだけがわかって。
そう言った後、男は胃酸交じりの唾を吐いた。
そのまま覚束ない足取りでふらふらと歩いていく。
それを、俺は追い掛けた。真っ直ぐに、早足に歩み寄り。
男の肩を掴んだ。その時初めて、男はこちらの存在に気が付いたようだった。
泥酔して前後不覚の人間を引き倒すのは然程に難しくはなかった。
馬乗りになった己に見下ろされてなお、男の顔には状況を理解した色はない。ただ、不可思議そうにこちらを見上げるばかりで。
俺は。
そんな男の、首を。
男の首を両手で締めた――――