北条の野望 ~織田信奈の野望 The if story~   作:tanuu

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今回からいよいよこの章のラストパートです。


第31話 河越夜戦・序

 時はさかのぼり、約半年前。河越城の主、一条兼音が小田原へ出立して数日後の事であった。河越城の城代、北条綱成は同僚であり、兼音の副将であり、自らの従姉である花倉兼成と共に政務に励んでいた。内政は兼成が一手に引き受けており、軍務は綱成が担っている。有事の際の統帥権は綱成が有している。故に城代なのである。

 

 ただ、軍団を組織する際はそれが変わってくる。例えば、河越城の兵力を率いてどこかへ出征する軍団を組織した場合、ナンバーワンはあくまで兼音であるが、兼音が指揮を出来ない状況になった際は兼成が指揮を執る。

 

 現在、主は今川との対決の為、小田原へ出ている。くれぐれも留守を頼むと言われた以上、全力で励むつもりであった。そこへ、慌てた様子の兵が飛び込んでくる。

 

「も、申し上げます!」

 

 息が上がりきった状態で叫ぶ兵の様子に二人はただならぬものを感じる。

 

「何事です!」

 

 綱成が問いかける。兼成は水を持ってくるよう女中に指示していた。耳はしっかり聞いている。

 

「あ、あ、赤い、赤い狼煙が上がりましてございます!!」

 

 その報告に、二人の目線は一気にキツくなる。それもそのはず、彼女たちの主、一条兼音が残した伝言によれば赤い狼煙が上がった時は味方の小領主が緊急事態を知らせたという事である。

 

「段蔵さん!段蔵さぁん!」

 

 兼成は段蔵を呼ぶ。二人は新しい仲間を割と歓迎していた。主が実力を認め、わざわざヘッドハンティングしにいったという事は、それに見合う実力なのだろうと判断している。戦国期の武家には忍びを下賤の者として差別するところもあるが、北条家においてはそのようなことはあり得なかった。何しろ、風魔忍びたちは北条家黎明期から共に戦ってきたのである。その情報収集能力や暗殺術など数々の能力に助けられてきた北条家の面々に、忍びを差別するという思考が生まれようもなかった。

 

「これに」

 

「非常事態が起こったようですわ。配下と共に事態の詳細を調べてきてくださいませ」

 

「承知」

 

 補足すれば、段蔵は兼音の直臣であるがそれは兼成も同じことであり、仕えてきた期間の長さや今の立場、家格などから兼成の方が立場は上である。綱成は氏康の家臣であり、兼音の下へ出向している形なので、本来の序列的には綱成がこのメンバーの中で一番偉いのだが、特に気にしていない。

 

 段蔵が去った後、二人は万が一に備えての対策を始める。

 

「籠城態勢に移行します。周りの土豪たちにも声をかけ、四千は籠れましょう」

 

「その数なら兵糧は一年ほどならば持つと思われますわ。城下にも触れを出さなくてはね。兎にも角にも…」

 

 急がなくては。言葉にしないが二人は頷き合い、それぞれ歩き出した。

 

 

 

 

 その少し後、段蔵が帰還する。城には徐々に兵が集まりつつあった。数時間後には配置に付けるだろう。城下の民の収納も終わりつつある。民を収容すると籠城できる期間は大きく減り、半年ほどになってしまう。だが、見捨てるという選択肢はなかった。自らの思想に反する上に、主に激怒されるのは目に見えていることである。この城に籠れない農民たちは、避難を命じてある。返した兵糧は元隠し田に隠せと指令を出した。現在・北条家はこの元隠し田の存在を知っているが、旧領主・扇谷上杉は知らないからである。

 

「調べ終わりました」

 

「どうでしたか」

 

 綱成の問いに答えんとする段蔵の顔色はよろしくない。

 

「状況は最悪に近いかと。関東管領・上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方・足利晴氏、その他結城、小田、土岐、相馬、江戸、大掾、鹿島、佐野、小山、宇都宮、壬生、那須など関東中の諸将が、八万の軍勢となりこの城を目指し進軍中でございます。明日にも、この城は囲まれるかと」

 

「八万…まさか、そんなに…」

 

「これはまずいですわね」

 

 二人の顔はもはや真っ青である。他の城の将たちも顔色は良くない。

 

「どうしますの」

 

「どうとは?」

 

「籠城か、降伏か」

 

 真剣な問いだが、その目の奥に見える兼成の真意を見て取った綱成は口角を上げる。

 

「後者はあり得ません。それは同じ思いでしょう。意地悪な仰せですね」

 

 それを聞き、兼成の顔にも微笑みが浮かんだ。

 

「ごめんなさい。けれど、聞かなくてはと思ったのですわ」

 

 そこへ報告が入る。

 

「申し上げます。城兵の収容完了いたしました。今は馬場に集まっております」

 

 その報を聞き、綱成は立ち上がった。

 

 

 

 

 綱成の眼前には約四千の兵が集まっている。

 

「皆!聞きなさい。これより我らは城に籠る!逃げたいものは逃げよ。けれど、武士として、北条の民として生きるというのなら、兼音様のお戻りまでいかなる艱難辛苦が待ち構えていようとも決して屈さず戦いなさい!」

 

 彼女の号令に一拍あけ、凄まじい雄叫びが響く。誰一人として、逃げ出すものなどいなかった。彼らのほとんどは在地の兵である。かつては扇谷上杉の兵であった。しかしながら、彼らの心には旧主扇谷上杉ではなく、新たな主たる北条の善政が根付いていた。河越城に一条兼音が入ってよりまだ一年も経っていない。にも拘らず、民の心は既に北条と共にあった。

 

 この兵たちの反応を見た兼成は静かに段蔵に告げる。

 

「ただちにこの状況を小田原へ。そして、兼音様に伝えて下さいまし。籠城兵は四千。兵糧は持って半年。けれどわたくしも、綱成も、決して降伏は致しません。お戻りになるまで、一年でも、十年でも籠ってみせます、と。良いですわね」

 

「はい…必ず!」

 

 兼成の悲壮な覚悟を感じ取り、段蔵は言葉に詰まりそうになりながらも頷いた。兼成の脳裏には、過去の記憶が蘇る。燃え盛る城、死んでいく兵たち。亡骸となった祖父。そして、自らの身代わりになった幼き頃からの侍女。片時たりとも忘れたことはなかった。今でも鮮明に思い出せる。御達者でという言葉、優しくも哀しい笑顔。そうだ、自分はこんなところで死んではいけない。あの子の分も、生きて、生きて生き続けなくてはいけない。

 

 そして、あの城から救い出してくれた彼の姿も、その後抱えられながら朝日の中馬で駆けた記憶も。きっとまた、わたくしを助けて下さりますよね。信じております。あの日から、ずっとずっと。

 

彼女は遠く、小田原の方角を見つめ祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駿河での三雄会談が終わった後、段蔵に抱えられ河越城に急行していたはずだ。なのだが…

 

「お、おい、大丈夫なのか。この道なき道をさっきからずっと進んでるが」

 

「問題ありません。あまりお話にならない方がよろしいかと存じます。舌を噛みますよ」

 

「は、はい」

 

 速い。滅茶苦茶速い。風を切って進んでいる。これ大丈夫なんだろうなあ。ここはどこだかよくわからない。時々休憩しながら三日ほど走りっぱなしだ。

 

「ここはどこだ」

 

「武蔵の国の南部です。今晩中には戻れるかと」

 

「そうか」

 

 本当に舌を噛みそうなので黙る。風魔と言い、段蔵と言い、物理法則をガン無視してる。助かっているのだから良いのだが。

 

 

 体感で数時間経っただろうか。日も暮れた。しばらく平野を駆けていたが、今は小高い丘の上だ。

 

「主様。間もなくでございます。領内には既に入りました。あそこに見えます光がおそらくは敵軍かと」

 

 目をこらせば遠くにチロチロと光の粒が見える。それもかなりの数が。古河公方は撤退したそうだが、それでも五万五千はいる。

 

「あと少しだ。頼む」

 

「はい。お任せを」

 

 再び抱きかかえられ運ばれる。やっぱりこの態勢はどうかと思う。普通は逆ではないだろうか。通称お姫様抱っこで運ばれる城主。うん、情けないな。

 

 敵軍は陣を街道上には敷いていないようで、警備兵もいないがら空きの街道を走る。割とあっさり突破できた。数か月ぶりの自分の城に、懐かしくなる。城門の前で降ろされる。

 

「段蔵。ここまで助かった。ありがとう」

 

「当然のことを致したまで。さ、早くお戻りを。皆さまお待ちでございましょうから」

 

「ああ」

 

 段蔵は体力を使い果たした様子で、休みに行った。城下町に入るための門を見る限り、どうやら攻勢は行われていないようで傷はない。この様子だと城下も無事だろう。それに安堵しつつ、門の前に立つ。

 

「何者だ!止まれ!」

 

 警告と共に十人ほどの弓兵が弓を構えて門の上の櫓から顔を覗かせる。

 

「皆、待たせたな!私だ、一条兼音である」

 

「じょ、城主様!おい、早く開門しろ!」

 

「本当に城主様か?名を騙る刺客やもしれんぞ」

 

「ばか、お前、俺はご尊顔を見たことがあるんだぞ。間違えるわけねえだろ!おい、とにかく開門!」

 

「りょ、了解!」

 

 ギーっと音をたて、門がゆっくりと開く。

 

「こちらの馬をお使いください。城代様以下皆、お帰りをお待ちしておりました。本当に、よく、お戻りに…」

 

「すまない。待たせてしまったな」 

 

「い、いえ、いつかお戻りになると信じておりました。さあ、お早く」

 

 泣きながら言う門の守備隊長の様子から、言葉が真実であると悟る。半年。本当に長い期間待たせてしまった。だがそれもこれまでだ。これから行うは古今東西類無き無双の奇襲戦。そして北条の名は日ノ本全土にとどろくのだ。

 

 そう思いながら、貸された馬で城下の道を駆け、城へ向かう。深夜でも煌々と灯された明かりが臨戦態勢であることを伺わせる。大手門へ続く橋の上には少女が二人。その後ろには多くの兵や民の気配がする。馬を降りて、橋へ歩き出す。数か月ぶりに見る二人の姿に、涙がこみ上げる。私の姿を視認し、顔を見たであろう綱成は、こちらへ駆け寄ってくる。思いっきり抱き付かれてちょっと吹き飛ばされそうになる。

 

「先輩!先輩っ!!よかった、よかったです!本当に、本当に……!」

 

 涙と嗚咽で言葉の出ないまましがみつく彼女の頭を左手で抱えながら、視線を上げれば、兼成がゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 

「よく、お戻りに、なられましたわ…!ずっとお待ち申し上げておりました」

 

 気丈に振舞いながらも涙で顔を歪ませた彼女の頭を撫でる。

 

「よく、耐えてくれた。ありがとう、本当に、ありがとう。もう、大丈夫だ。だから安心しろ」

 

「はい、はい……!」

 

 流れ続ける涙を拭うことも、止めようとすることもなく、彼女たちは泣き続ける。自分よりも年下の、しかも女の子に背負わせてしまった重圧の重さに罪悪感を抱きながらも、自分の心は二人の無事を安堵していた。

 

 

 

 

 

 

 泣き続ける二人を落ち着かせ、城の広間に連れていく。他の城の者達も多くが集まっている。大広間はすし詰め状態だ。赤くウサギのようになった目をしながら、綱成が皆を代表して口を開く。

 

「それで、先輩。お戻りになったという事は、駿河戦線は決着したという事でしょうか」

 

「ああ。その認識で間違いない。皆がここで耐えてくれている間に、我らはあの今川の大軍を完膚なきまでに叩き潰した。太原雪斎は我らに寛大な処置を乞い、頭を下げた。誰が何と言おうと、勝利である!」

 

 この言葉に、広間は沸き立つ。表情に喜色を浮かべ、口々に祝辞を述べている。手を上げ、騒がしい広間を一度鎮める。

 

「これにより、駿河戦線は消滅した。そして、氏康様旗下の本隊が八千の精鋭でこちらへ急行している。間もなく到着するだろう。あと十日だ。十日のうちに、関東管領はその屍をこの河越の大地に晒すだろう!」

 

 今度は広間を越え、城中が震えるような歓声が響いた。

 

「後詰めが、来るのか…!」

 

「我らは見捨てられたわけではなかった」

 

「数か月分の鬱憤ぶつけてくれる!」

 

 こちらの士気は十分だ。何とか持ちこたえてくれていたらしい。反面、敵は長期の陣でダレている。兵の士気は低く、軍紀も乱れているのだ。大軍に油断した敵軍など恐れることはない。今川の軍の方が恐ろしかったまである。

 

「あと少しだ。あと少しだけ、私に力を貸してくれ!」

 

「「「「「「おう!!!」」」」」」

 

 威勢の良い返事に頷く。首を洗って待っていろ関東管領。貴様は絶対に逃がさない。血が出そうなほど拳を握りしめて決意を固めた。

 

 

 

 

 多くの改革を実行し、不正は断固として糾弾し、多忙な中農民や城下の民の生活を視察し、細かに民や兵と接し続けていた彼の努力はまさにこの時実っていた。領民は皆、この領主をひいては北条の支配を歓迎していた。平和な暮らし。素晴らしいまでの治安の良さ。誰も餓えない生活。産まれて初めて享受するこの環境は彼らにとってユートピアの如しであったのだ。誰一人の逃亡者もなく、籠城を続けられたのはこれらの要素によって引き起こされたある意味必然とも言うべき結末であった。

 

 半年が経ち、弱気になる者もいたが、それでも逃げるものはいなかった。彼らは信じている。きっと勝てるんだと。最初城を囲んだ八万の軍勢を前にしてもなお彼らは信じていた。きっと自らの主は自分たちを勝利へと導いてくれるはずだと。そして、彼らの信じた未来は間もなく現実になろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 河越城が城主の帰還に沸き立っていた時、北条氏康率いる八千の軍勢は武蔵国滝野川城付近にいた。滝野川城は現代の北区に位置している。かつては豊島氏の城だったが、彼らは太田道灌に敗れ、現在は北条家の支城になっており、兵站の補給などに使われている。この城で一時の休息をとっている。ほぼ休みなく強行軍をしてきたが、駿河での大勝によって、将兵共に士気は高い。

 

 時系列的には関宿城で足利軍が大敗してから三日が経過している。明日には河越に着けるというのが氏康の予測だった。情報は既に手元に集まっており、河越城周辺には情報封鎖をかけている。関東管領以下、陣中の誰もその事実を知らない。関宿城周辺で睨み合っていると思っている。その実、二万五千の足利軍は里見軍に大敗を喫し軍勢は四散していた。足利晴氏は命からがら古河城に戻っている。その事実を知っている氏康はそろそろ何らかの書状が来るであろうと踏んでいる。その予想は正しく、足利晴氏は迅速に行動しており、今まさに文が到着していた。

 

「おばば、見なさい。足利晴氏から命乞いの手紙が来たわ。北条と縁を結んでいながら、よくも裏切ってくれたわね。どうしてくれましょうか」

 

「じゃがなぁ氏康。そう厳しい処分は下せんぞ。衰えたとはいえ、奴はいまだ古河公方としての地位を保っておる。京の幕府が滅びぬ限り、権威は不滅であろうて。関東武士の棟梁は名目上は奴。主殺しの汚名を被るは避けねばならんぞ」

 

「わかっているわ。まったく厄介なことだけれどね…」

 

「出来て幽閉と当主交代であろうな。多少は強気には出れるが、ここら辺が限界じゃろう」

 

「そうね。どうやら鎌倉に戻りたかったようだし、そんなに鎌倉がお好きならご要望通り鎌倉で生涯を終えてもらいましょう」

 

 楽しそうに冷たい笑顔で氏康は言う。自らの敵が順調に消えていっていることに、彼女は喜びを感じられずにはいられなかった。残るは最後の敵、両上杉である。彼らが関東より退場したその日が、北条早雲以来の夢が叶う日だろう。武蔵、下総、上野を抑えれば、残る巨大な敵は常陸の佐竹と安房・上総の里見だけである。下野は諸将が乱立しており、まとまりに欠ける。大きな敵にはなりえない。

 

 彼女の胸中には必勝の策があった。兼音には伝達する時間がなかった、というより、行軍中に思いついた策であったのだが。彼女の心には、彼ならばこれくらいの策は既に思いついており、自分たちの到着を待っているはずだという確信めいた信頼があった。

 

 興国寺城における大勝は彼女の思考を大きく変えつつあった。いくら敵軍の士気は低いとはいえ、昼間では撃破されてしまう。ではどうするか。答えは簡単である。それとは即ち夜襲だ。単純明快な理論である。氏康は意識していないが、興国寺城の戦い、関宿城攻防戦、そしてこれから河越城で起ころうとしている戦いの三つは全て夜戦なのである。この時代の誰も知る由はないが、後世にこの三つの戦いは関東三夜戦と呼称されることとなる。

 

「敵の様子はどうかしら」 

 

「我らを侮り、酒宴三昧であるようじゃ。せっせと書き続けた命乞いが役にたってきたのう」

 

「まったくよ。心にもない講和を願う書状を書き続けるのはなかなかに苦痛だったわ。菅谷隠岐守に送り付けた書状も効果があったようね」

 

「ああ。奴の陣を敷く地は一見すると河越への糧道であるように見えるからのぉ。じゃが実際は違う。河越の兵は中にため込んだ兵糧だけで耐えておるからな」

 

「ええ。敵はさも私たちが何とかして城兵を救済しようともがいているように見えるでしょう。こんな芝居は疲れるわね」

 

「じゃが、おかげで敵は油断しきっておる。これは勝機があろうて」

 

「そうね。そしてそこへ、最後のダメ押しと行きましょう」

 

「ほう?」

 

 幻庵は興味深そうに氏康に視線を向ける。

 

「古河公方に伝令を出すわ。死にたくなければこちらの命令を聞けと」

 

「何を命じるんじゃ」

 

「こちらから降伏要請を出すわ。それを痛烈に拒否するようにと」

 

「む?ああ、なるほどそういう事か」

 

 知将である幻庵はこれだけで察した。氏康の真意は、こうである。まずは北条方から命と引き換えに降伏の意思を古河公方に伝える。そして、古河公方にそれを拒否させ、上杉憲政に情報を流させる。これによって、上杉憲政は勝利を確信し、益々もって油断するであろう。そうなったところを乾坤一擲の夜襲で奇襲し、敵を殲滅するという作戦である。

 

「さあ、時間よ。取り敢えず、今は河越へ急がなくては」

 

「おや、もうそんな時間か。では行くとするかのう。老骨にはちと堪えるがな」

 

 二人は立ち上がり、それぞれの部隊へと赴く。その五分後、北条軍の全軍が進撃を再開した。

 

 その数時間後、日付が変わり朝早くに八千の軍勢は河越城に到着した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところは変わり北武蔵の忍城。この城は成田氏の居城である。城の主、成田長泰とその子、氏長は山内上杉の与力として参陣していた。現在城の留守居は成田一族の長親が行っていた。この長親、現代においてはそこそこの知名度を得ている。彼は史実において、石田三成旗下の大軍から忍城を守り抜き、小田原城が落ちるまで持ちこたえた。

 

 その彼の最大の特徴は圧倒的なまでの農民からの人気であろう。普段は武蔵国の武家の名門に産まれた異端児としてその素質を理解されず愚鈍と思われている。当主長泰の甥であり、氏長の従兄であるものの、扱いは低かった。それでも一門であり、彼の父親・成田泰季が病気がちであることから留守居役になっている。そんな彼ではあるが、現在は城におらず、農民と戯れていた。そこへ馬に乗った少女が近付いていく。

 

「おおい、長親!まーたこんなところにおったのか。皆が出払っておるのだからお主が城にいなくてどうする!一応留守居役なのだろう」

 

「戻らずともお前がおればいいではないか」

 

「そういう問題ではない…」

 

 この少女は甲斐姫。史実では武勇をもって知られ、最終的に豊臣秀吉の側室になった女性である。彼女は当主・長泰が姫武将という制度に理解がなかったため、武将として生きていけず、当初は嫁に出されるはずであった。だが、長親の介入によって何とか輿入れだけは回避した。もっとも頑なな長泰はいまだそれを認めてはいない。この出来事以来、彼女は長親に対して仄かな好意を持っていた。

 

「どうせ勝てる戦とは言え、戦は戦だ。何が起こるかは未知数だぞ。万が一に備えるのは当然だろう」

 

「勝てる…ね。このまますんなり勝てるとは思えんな」

 

「お前、ついに数も数えられなくなったのか?」

 

 なかなかの皮肉を甲斐姫は長親にぶつける。長親は特に怒るでも苛立つでもなく、苦笑いしていた。

 

「半年。半年だ。そんなにも長い期間、八万の軍勢を維持するのに一体どれだけの兵糧をむしり取ったのだろうな」

 

「それは、そうだが…」

 

「半年、士気を維持したまま城を囲めるとは思えんがな」

 

「それは城側も同じではないか」

 

 それはまったくもってその通りである。だが、こと北条家に関して言えばそれは当てはまらなかった。

 

「扇谷上杉が民から奪い取った兵糧を北条は民に返した。税も安く、安寧を享受している民が、旧主の支配に戻りたいとは死んでも思わんだろうさ。士気の差に加え、管領は慢心してるはずだ。民を重んじぬ国は亡びる。必ず」

 

「……では、負けると?」

 

「陣中を行き来する商人に聞けば、北条の軍勢は戻ってきたという。駿河から戻ったということは、何らかの方法で今川と決着をつけたのさ。里見もそういうところに賭けたのだろう」

 

「大軍だから勝てる、は安易という事か」

 

「そういう事だ。さーて、丁度いい。北条が戻ってきたという事は何かしら行動をとるだろうさ。一つやるとするか」

 

「おい待て、何をする気だ」

 

 甲斐姫は嫌な予感が激しくしており、長親を問い詰める。

 

「父上が死んだとでも言って呼び戻す。大軍だ、我らがちょっと抜けても問題ないと思われ、許されるだろう」

 

「正気か?遅かれ早かれ嘘はバレるぞ。もし露見したらさしものお前も許されるかは分からないぞ!」

 

「その時はその時さ」

 

 飄々と言う長親に言い返そうにもうまい言葉が見つからず、甲斐姫はただ心配するしかできなかった。長親は言葉通り独断でこれを実行。その書状を受け取った長泰は一度戻り葬儀だけ執り行いたいと上杉憲政に告げ、憲政は油断や慢心から問題ないと判断し、長泰の一度帰城を認めた。これにより、成田家は一度河越から撤退することとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 河越城に氏康の軍勢は到着した。しかし、まったく動きはない。これは益々諸将の油断を誘った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 上杉憲政の本陣では、山内上杉家臣による合議が行われていた。

 

「小田原方の負けは目に見えている。そう急がなくとも、このまま兵糧攻めで河越城は落ちる。もうじき城の兵糧も尽きる頃だろうさ」

 

 この憲政の発言に、家老の妻鹿田新介が追随する。

 

「はっ。城兵は既に餓え始めているものと存じます。事実、小田原方は糧道を押さえる菅谷隠岐守に幾たびも書状を送っては退陣を懇願しております」

 

 この予測はそこまで的外れなものではなく、実際河越城の兵糧は後二週間前後が限界だった。

 

「その今をもって城攻めにかかれば、北条の後詰めもなす術なく我らに降伏するでしょう。これ以上に時を無駄にして北条が何らかの策を講じますれば、城内の兵も息を吹き返すやもしれませぬ。そうなる前に一気に勝敗を決するべきかと存じます」

 

「業正。何をそのように恐れることがある。敵は八千。城には四千。僕らは古河公方がいなくても五万五千はいる。その公方も時流の読めない馬鹿な里見を討てば戻ってくるさ。この戦は、公方が小田原方を見限った時に勝敗はついたのさ。今川にも和を乞うたのだろうし、もう降伏以外に道はないね」

 

「恐れながら、北条は今川に和を乞うたというのはいささか希望的観測ではございませぬか。もし、仮に彼らが和睦したというのなら、それは北条の、我らより今川を引き離す策に他なりませぬ」

 

「業正!何べんも言わせないでくれ。前から言ってるだろう、北条ではない、伊勢だ!もとは伊勢のあぶれ者が伊豆相模をかすめ取った、言わば盗人だ。それを厚かましくもかつての執権北条の姓を名乗るとはその名を聞くだけで虫唾が走る」

 

「今は左様な名跡にこだわる時ではありませぬ!」

 

「こだわる時だ!今こだわらずしていつこだわる」

 

「長野殿。敵は策を講じようにも、城に使者を送ることも叶わんのじゃ。このまま小田原へ兵を退くか、討ち死に覚悟で我らに攻めかかるか。我らはそれを見極めてから動けばよかろう。もっとも、後者を臆病者の小娘ができるとは思えぬがな」

 

 嘲笑交じりで言うのは業正と同じく山内上杉家の家老である倉賀野直行である。

 

「うん、直行の言う通りだ。それにね」

 

 そう言うと憲政は一通の書状を業正へ投げ渡す。

 

「見な。これが小田原方の策さ。公方に命乞いをしてきた。籠城している兵の命を助けていただければ、城と周りの領地は公方様に差し上げますってね。憐れみを乞うてきたのさ、ハハハハハ」

 

「公方様は?」

 

 業正の案ずるような問いにやや不機嫌になりながら憲政は答える。

 

「むろん退けたさ。一人でも生かしておけば後々の禍になると言ってね。小田原の小娘が、まさかここまでの恥知らずの臆病者とはね」

 

「侮ってはなりません」

 

「業正」

 

 業正の名を言う憲政の顔は険しい。

 

「僕を侮ってるのは、君じゃないか…?」

 

 その鋭い視線に業正は返答できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「管領様は敵を侮っておられる。このままでは勝てるかわからんぞ」

 

「あの人は昔からそんな感じであっただろう。今更さ」

 

「…ふむむ」

 

 渋い顔の業正に淡々と答えるのは上州一の武人にして、現代にも続く剣術流派・新陰流の祖。剣聖・上泉伊勢守信綱。長野業正の古い盟友である。

 

「ま、何にせよ。私のやることはただ一つ。目の前の敵を斬る。それのみだ」

 

「お主も城の主なのだからそれだけという訳にもいかんであろうに」

 

「そんなものは臣下や娘がやるさ」

 

 髭を撫でながら、信綱は剣を振るう。一陣の風と共に舞い落ちていた木の葉が一瞬にして四分五裂する。その凄まじい剣術に業正は相変わらずだな、と舌を巻く。

 

「さて、今回は何人死ぬのだろうな」

 

 辟易したように言う信綱に業正は何もいう事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 軍紀の乱れきった陣中を一人の小さな少女が歩いている。顔から何かの感情を読み取ることは出来ない。無表情なまま、彼女は歩き続ける。

 

「姫、こんなところにおられましたか」 

 

「憲重」

 

「そう勝手に出歩かれては警護の者が苦労しますので、お控え頂けると幸いです」

 

「…そう。分かった」

 

 彼女は一万五千の兵を擁する扇谷上杉家の当主・上杉朝定である。まだ子供である彼女に実権はなく、筆頭家老・難波田憲重や上田朝直、太田資正などが家中を動かしている。籠の中の鳥であることは、幼少ながら彼女が一番わかっており、大人しく感情を消して日々を送っている。

 

「戦はまだ終わらないの」

 

「そうですなあ。いかんせん河越城の兵たちはしぶとく籠っておりますので。ま、それも後一、二週間でしょう。さすれば、あの城にまた戻れますぞ」

 

「…そうね」

 

 難波田憲重は戦の残り期間を問う朝定に、彼女が早く自らの元々の居城である河越城に戻りたいと思ったようであった。しかし、彼女からすれば、河越城は自らを閉じ込める檻にしか思えない。けれども、この陣中にいる状況も、彼女の望むものではなかった。願わくば、すべてを捨ててゆっくりと過ごしたかった。十歳になったとは言え、扇谷上杉当主の地位は、その小さな身体には重すぎた。

 

 曇天の中、河越城にはためく三つ鱗の旗が彼女の目に映される。北条家中になら自由はあるのだろうか。あり得ない夢想をしながら、城に背を向け、彼女は陣幕の中に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運命の夜まで、後二日。




序・破・急ってしようと思ったらまさかの元ネタたる劇場版・新世紀エヴァンゲリオンが延期…。まあ仕方ないですね。

最近やや話が長くなる傾向にあるのですが、直したほうがいいですかね。今回も一万超えちゃいましたし。何かあれば感想・メッセージなど下さい。

オンライン授業期間になったので、投稿速度は上がると思います。

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