地球歴2029年。ジャール星の幽閉施設から脱走したデストロン兵が地球へ飛来し、プリテンダーのフェニックスを拉致。その消息を掴もうとするホーク達だったが、敵の真の目的は…。
▽当サークル独自の設定を含んでおりますが、お楽しみいただければ幸いです▽Pixivでの連載が終了したのを機に、こちらにも掲載しました▽なお、各巻の最終話後書きに用語解説を載せてますので、併せてご覧ください。
逃げろ 逃げろ
振り向かずに 逃げろ
あの子の影を 踏んじゃダメ
その子の声を 聞いちゃダメ
テニスコートの中は
いじめっ子で いっぱい
目覚めると、俺はもう俺になっていた。
そして、以前の四人の俺だった。
また同時に、忌まれ、恐れられる俺であり、愛され哀れまれる俺だった。
俺の為に光はなく、闇すらなく、あるのは混沌と現実的なエネルギーの供給のみであり、俺を生かすためだけに送り込まれるそれは、ただ絶望に追い落とす力を揮う悪辣な存在の手先であった。
それでも、俺は待っている。
手の届かない場所へと連れ去られてゆく俺を見つめながら、俺は救いを待っている。引き剥がされる苦痛を感じることもない、愛され哀れまれる為に俺から取り出された俺が、もう一度、果てない遠くから俺を呼ぶのを。
共にあり、共に生き、共に戦う。
そして、共にこの宇宙を無に還す。
その日が来るまで、俺は眠ろう。俺の目が再び開く時、俺は俺と一つになるのだ。だから俺は待っている。暗黒と絶望と、薄れゆく記憶の、その深淵に横たわって。
―プロローグ―
けたたましく鳴り響く警報は、高速で狭い通路を飛び過ぎる自身のセイバートニウム金属の表皮と、迫るような四方の壁に跳ね返りながら、奇妙な高低にリズムを刻んで後方に流れ去っていく。眼前で次々と落ちる隔壁の隙間を間一髪で潜り抜ける爽快感は、生れ落ちてからかつて一度も味わったことのない昂揚をもたらし、自在に動くトランスフォーマー特有の体に、生きている実感を与えてくれた。
アア、コレダ。
思わず呟いて、流線型の、やや古めかしくもセイバートロン独特のデザインをした戦闘機に変じた己のコックピットに響いた声で、訳もなく笑い出す。
思えば、喋ることすら何万年―いや、何十万年ぶりなのか、もう確実な時間すら思い出せなくなってしまった。まったく、トランスフォーマーの頑丈な造りは厄介極まりない。最初から、こんなものに閉じ込めようとしたのが間違いだったろうに、ご苦労なことだ。
床と隔壁の僅かな空間を、機体を回転させながらすり抜けると、尾翼を掠めた隔壁がズウンと音を上げて落ちた。途端、前方の視界が大きく開け、ドーム状の天蓋に覆われた広間とおぼしき巨大な空間に飛び込む。その壁際にずらりと手持ちの武器を構えた兵士達が居並び、銃口と照準が躊躇いもなく一斉にこちらを向く。
流石に、破壊大帝を欠いた烏合の衆とは言え、惑星ジャールの『万魔殿』に集められたデストロンの精鋭だ。すんなり通れるほど甘くはないらしい。まして、こちらは地下の幽閉施設から飛び出した時に、少なくとも四、五十人は巻き添えに殺してしまった。
この三十メートル近い巨体からすれば、随分遠慮した方だと思うのだが。
「―撃て!」
どこからの号令か、悲鳴のようなその声と共にすべての銃口が火を吹いた。
広間の中央まで一直線に突っ込んできた機体が刹那、急な制動をかけて機首を天井側に振り上げる。と、尾部に並んだ四基のブーストエンジンが咆哮を上げ、床に向かって火焔を噴き出し、巨躯は想像外の速度で垂直に弾き出された。その下をエネルギーの奔流と化した弾道がよぎり、瞬く間、広間と通路を塞いだ隔壁に炸裂する。
一点に帰結した爆発と爆音が、辺り一面を真紅の帯に飲み込み、散り散りに壊走するデストロン兵士達の断末魔が木霊した。怒号が悲鳴に変わり、広間中が赤い波に覆い尽くされる様を、変形を解いた人型に戻って崩落した天蓋の縁に佇みじっと見下ろしていた影は、再度攻撃を加えようとする者がいない事を確かめると、ふわりと宙へ舞い上がった。
音もなく滑らかに機影へと変じた巨体が、星の煌きも少ない冷え切った宇宙空間へ向かって飛んで行く。
「待て―捕らえろ―あれを逃がすなッ―」
その眼下に起こった縋るような叫びは、二重三重に鳴り始めた警報に掻き消され、どこに届くこともなかった。
―2029/7/4 11:24 California―
「大体、真夏に独立記念日があるってのが、間違いなんだよな」
固い医療用ベッドの端に腰を下ろしたまま、フェニックスは派手な幾何学模様がバックプリントされたTシャツを、形良く筋肉のついた半裸の上体に手早く着込んだ。乱れた灰青色がかった堅い髪を無造作に直しながら、そう思うだろ、とベッドの傍らに置かれた機器の前にいるダイバーへ同意を求めたが、ダイバーは苦笑いして、手元のモニターに目を戻す。
モニターの中では次々とウィンドウが開いては弾き出した数値を細々並べて、何年かに一度の健診結果を羅列していた。特段、トランスフォーマーの身体に不具合が生じる事もないのだが、全員が何年かおきにはダイバーの研究所を訪れて、こうしたチェックを受ける。
以前は南海の無人島に修復用ポッドを隠しておき、大抵の怪我や不具合はそれで治していたのだが、ここ数世紀の近代化によって予期せず発見されてはと百年ほど前に深海へ沈めてしまった。以来、定期的な検査を自発的にするようになったのだ。
「ん‥‥‥別段異常無しだな」
モニターに目を走らせて、ようやく顔を上げたダイバーは、機械のへりへ所在無げに頬を乗せたフェニックスを見て、また苦笑した。
「独立記念日が、何だって?」
「だから、独立記念日のお祭り騒ぎで、お前が今日ヒマなのは理解できるけど、俺には迷惑って話。どこ行っても暑いし、人だらけだし」
「それが面倒でアメリカには住まないんだったっけな」
本来なら、率先して何事も楽しみたいタイプのフェニックスにしては珍しいのだが、独立前の北米には一時期居を置いていたものの、この二世紀近く、人種のごった煮のようなこのアメリカに住みたいとだけは言い出したことがない。むしろ、ヨーロッパにはもう飽きた、と言うランダーの方が、よほどアメリカという土地柄に不釣合いな感じがするのも不思議なものだと、ホークが笑っていた事がある。
ダイバーは、海側に大きく切り取って作られた窓に下ろしていたブラインドを開け、水平線の果てまで青々と澄み渡ったカリフォルニアの海原と、真っ白の厚ぼったい積乱雲が浮かぶ夏空との境を見渡した。薄暗かった室内が刺すような陽光で一気に満たされ、磨かれた清潔な床や壁を照らし出す。それだけで、感じる気温が数度は違う。無論、地球人のように汗ばむという訳ではないが、長い地球暮らしで身についた「気分」の問題だ。
「一雨あれば、だいぶ涼むんだがな。折角だ、今夜は泊まって、ゆっくりしていったらどうだ?夕方にはキャンサーも帰って来るだろう」
言葉尻に、フェニックスはサバイバルブーツへ踵をねじ込みながら、眩しげに窓際へ顔を向けた。
「あれ?キャンサー、こっち戻ってたのか。中国で式あげるって言ってなかったか?」
かつてデストロンヘッドマスターの一員として敵対関係にあったキャンサーは、当時十一歳。マスターフォース戦争終結後、一度は、兄貴分であるワイルダー達が面倒を見ると言って食い下がったが、まともな職についている訳でもない少年達が集団で暮らしたところで一人前になれるはずも無い、と、ダイバーがほとんど無理を通すようにキャンサーを引き離したのである。元来が孤児であり、すでに行方不明者として自国、中国の戸籍も抹消されていたキャンサーは、ダイバーの尽力で正式な養子縁組を経、アメリカ国内で教育を受けた。現在はアメリカ国籍を持つ身となり、ワシントンにあるワイルダーが営むバイクショップに程近い拳法道場の師範代を勤めている。
とあるきっかけで出会った少女エリカとは五年の交際を経て、今年中にも結婚の運びだ。エリカは、過去にキャンサーがデストロンと関わっていたことも、養父と言っていいダイバーがトランスフォーマーである事も知った上で受け入れてくれた相手だった。
ダイバーの横顔に照れ臭そうな笑みが浮かんだのは、何度エリカに呼ばれても一向に馴染まない「お義父さま」の肩書きに対する、気恥ずかしさだったろう。
「式は向こうでやるんだが、こっちで内輪だけのパーティを開きたいんだそうだ。それならここを使えばいいのに‥‥‥二人共、それじゃ意味が無いなんて言うんだよ」
「主賓はお前だもんなぁ。ま、子供孝行だと思って、喜んで付き合ってやれよ」
「そうするさ。父親役なんて、二度は味わえないだろうしな」
言われてフェニックスは、何だよ、と少しだけ拗ねたような顔をする。
「俺にとっても一応、お前は『父親』みたいなもんだったんだけど?」
「そうか?お前とランダーが喧嘩する度に、仕方なく両成敗してただけなんだが」
「あっはは。鉄拳制裁なんて、確かに父さんの他にはお前にされた事しかないよ」
言って、衒いなく笑い飛ばすフェニックスの晴れ晴れとした顔に、ダイバーはつい知らず微笑を向けた。
こうやってフェニックスが、亡くした親の話をいい思い出として口に出せるようなるまでには、共に暮らす自分達にも長い時間と根気が必要だった。はっきりと覚えている訳ではないが、自然と溶き解れた記憶の塊がいつからか日常になったと気付いた時、仲間としての垣根からもう一歩、繋がりが深まった気がしたものだ。おそらくランダーもホークも、同じように感じているに違いない。
「‥‥そうか。そりゃ光栄だ」
自身に言い聞かせた呟きは、身支度に忙しいフェニックスの耳には届かなかったのだろう。面倒なブーツのベルトを締め終えたフェニックスは、ベッドからようやく腰を上げて伸びをし、両の爪先具合を確かめながらサイドボードの財布や携帯電話をポケットに突っ込んだ。
「さて、と。もう行かないと」
「何だ。キャンサーに会っていかないのか?」
「あ~、悪い。これからニューヨーク。ランダーに晩飯おごってもらう約束してんだ」
「珍しいな。あいつのおごりなんて」
余程の理由がない限り、女性以外にはほとんどサービス精神の働かないランダーが相手の場合、一緒に食事をしても良くて割り勘だ。ダイバーが素直に意外そうな声を上げると、フェニックスは悪戯めいた笑顔でブイサインを作った。
「この前、ネットチェスで5連勝したんだ。罰ゲームなしにするから一番高い店で飯食わせろって言ったら、マンハッタンの『ティッチアーノ』とかってイタリア料理店、予約したって」
「ああー、あの‥‥‥」
「知ってんだ?」
「ゴールドカード無しじゃ入れない店だぞ。確かミシュランで3年連続三ツ星の‥‥‥予約取るのだって、紹介状が無いと無理だとか聞いたが。さすが、そういう方面には強いな、あいつは」
「へえ、じゃホントに高級店なんだ。なら、今日は遠慮なく食わせてもおう」
「て、お前まさか、その格好で行く気じゃないだろうな?」
派手な柄のTシャツといつも通りの迷彩ズボンにブーツの姿は、ニューヨークの中心街をそぞろ歩くにはさほど目立たない部類だが、高級レストランに入るとなったら悪目立ちこの上ない。最悪、門前払いを食う。もっとも、そこまで見越してランダーが選んだ店なら、一般客の目に触れない個室でも頼んであるのかもしれないが。それも至極当たり前の、いつも通りのデートのように。
「まあ、とりあえず行ってみるよ。駄目なら服も買ってもらえばいい訳だし。痛むのは俺の懐じゃないからさ」
「しっかりしてるな」
「これからこの手で、ちょっと苦しい時はネットゲームであいつから巻き上げようかと思って」
じゃあ、とひらりと手を振って踵を返したフェニックスの背に、ダイバーの呆れ声が返った。
「お前なら〈ディープブルー〉にも勝てるだろ」
フェニックスは軽々と滑って開いたドアに片手を置いて、ひょいと廊下に出ながら振り向いて言った。
「んにゃ、2勝3敗ってとこかな。俺にはその日の気分があるし、勝負事はやっぱ、何の感情も持ってない奴の方が強いよ。じゃ、またなダイバー」
今度は泊まりに来るよ、と付け足してフェニックスは、まだ頭上から照り付ける太陽が煩いほどの、眩しい陽の元へ出て行った。その爪先に吸い付く黒々とした影の染みを窓越しに見送りながら、ダイバーは上昇し続ける室内の熱を遮ろうと、一度上げたブラインドをゆっくりと下ろした。
「まったく暑いな‥‥‥‥」
晴れ過ぎた空は、青いはずなのに何故か深海の暗さに似て、奇妙な眩暈を覚えさせた。
―2029/7/4 15:11 New York―
セントラルパーク辺りまで飛んで行ければ楽なのだが、それでは人目に付きすぎて大騒ぎになってしまう。大都会はただの地球人としてなら便利で生活しやすいだろうが、折角持って生まれたトランスフォーマーの能力を適度に生かそうと思うと、やはり不便だ。特に自分やホークのように戦闘機タイプに変形する身体では、そうそう街中に出没する訳にもいかず、結局、随分と街場から離れた海岸やら雑木林やらに一旦着陸せざる得ない。ましてニューヨークは海軍基地もあり、領空の規制が厳しい。
(時間、ちょっと早かったなー‥‥‥)
ブルックリンから、イースト・リバーの下を通ってマンハッタンへ繋がる地下鉄に揺られながら、フェニックスは窓ガラスに映り込む自分の横顔にぼやいた。
トンネルの、黒一色に塗り籠められた窓外に車内の照明を吸われて鏡のようになった窓ガラスは、ドア傍に立つ自分の他に、すっかり埋まった座席の様子を映し出している。本社への帰りらしいビジネスマンやディナーに向かうカップル、独立記念日のお祭り騒ぎを目当てに繰り出す学生のグループもいれば、感じのいい老夫婦、赤ん坊を抱えた若い母親もいて、顔ぶれは様々だ。
ただ、こうやって人込みに紛れるのは嫌いではない。ほんの少しの時間でも、異星人である現実を忘れられる。
実際、地球人の身体構造を模し、洋服を身に着け、髪形を気にする生活が長くなればなるほど、本当は自分は地球人でトランスフォーマーになった夢を見ているだけなのではないかとすら錯覚する瞬間もある。少なくとも、こうして地下鉄に乗っている姿は、誰の目にも「地球人」そのものとして映っているはずだ。フェニックスにとって、それは何にも勝る喜びだった。騙しおおせている、という意味ではなく、なりきれている、という結果に対して、形だけでも同じものに思われているという安堵感。ランダーに言わせればそれこそ「馬鹿らしい」そうだが、すべてがそうだとは思わない。
マンハッタン島に入って最初の停車駅が近付くと、俄に車内の活気が増した。心持ち弾んだ会話がそこかしこで上がり、例の学生グループはどこの通りからどっちへ抜けるのがいいだとか、楽しみの計画に余念がない。
(そうか、今夜は花火が上がるんだ)
イーストリバーに浮かべた船から次々と祝祭の花火を上げるのは独立記念日名物の華やかな伝統行事で、これを目当てに全土から、いや、世界中から観光客が集まる。特にクルーズ船での見物は大人気で、もうそろそろ場所取りのグループも混じって埠頭がごったがえしている頃だ。開始は夜の九時過ぎだから、その前にディナーを済ませて、という者達も多い。
ランダーとの待ち合わせ場所は、レストランのあるグリニッジ・ビレッジがいいだろうとワシントンスクエア・パークにしたが、これでは混雑を避けるどころか飛び込むようなものだったかもしれない。これなら教会にでもしておくんだった、とぼやいてからフェニックスは、滑り込んだホームの眩しさに目を細めて立ち上がった。
いつものごとく聞こえづらい車内アナウンスは、1番街14丁目の駅名を告げている。少し遠いが、ぶらぶら歩いてグレース教会へ行ってみよう。あそこなら静かに時間を潰せるし、久しぶりに敬虔な気持ちになれそうだ。
(そういう気持ちになりに行くってのも、どうかと思うけど)
今と違い、ほんの一世紀ほど前は教会に通わないというだけで異端視される危険があったから、なるべく暇を見つけては礼拝に通ったりしたものだが、近代化が進み、隣り合って暮らす人種が複雑になるにつれ、人目への注意も随分薄れてしまった。それでも、まったく信心と程遠いランダー辺りと比べれば、フェニックスが教会に足を向ける頻度は昔とあまり変わらない。それはひとえに、礼拝堂に籠もる凛とした空気が、忘れ難い人の気配に似ているからだった。
おそらくこの先、永遠に、誰も代わりになるはずのない、たった一人の女性に。
思い返す度に痛む胸の奥を苦笑で沈めて、フェニックスはホームへ降りる。大勢の姿を吐き出し、また飲み込んだ車両がシグナルを発してトンネルの先へ滑り出していくと、立て続けに別のホームで到着を知らせるアナウンスが響き、人波の熱気が動いた。
地上へ向かって延々と伸びる数台のエスカレーターには、今の便から降りた人々と、次の便に乗る人々がひしめき合いながらも整然と連なり、ゆるゆると運ばれている。見渡してエスカレーターに乗り込んだ時にはほとんど最後尾で、フェニックスの数段後ろには同じ車両に居た若い母親と赤ん坊が人ごみを避けて乗っているだけだった。
ふと時間が途切れたように、すぐ隣り合った降下のエスカレーターが空のまま滑り降りていく。
もうすぐ出口だ。構内の照明がホームとは違う色で差し込んできたのを見て、フェニックスは一歩、爪先を上段にかけた。駆け上がってしまえばほんの数歩。何メートルもない。
「―え、何?」
足元を風が吹き抜けた。訝しげな肩越しの呟きに思わずフェニックスが振り返ると、しっかりと我が子を胸に掻き抱いた母親も、身体を横に捻ったような格好でエスカレーターの下に怪訝な目線を投げていた。
どこからともなく舐めるように湧き上がった風は、生温いどころか熱波に近い。それは夏の蒸し返った地下鉄構内だと言うことを差し引いても、異常を喚起するには充分な熱さだった。空調の故障ではない。だが、ホームに火の手があるようでもない。むしろ、次の発着を待ってホームに並んだ者達までが一様に、この奇妙な熱を感じて不安げに辺りを見回しているのは、確かに何かがそこにあることを示していた。
『そこ』に、何かが。
「伏せろっ!!」
フェニックスの叫びは、大音響を上げて崩れ落ちる構内に吸い込まれた。
激しい振動が全身を突き上げたかと思うと、叩き切られたように寸断したエスカレーターの下半分が、もぎ取られた地層のごとく機械の残骸を撒き散らしながら瓦解していく。天井、壁、柱のあらゆるものが、唐突に支えを失ってホームの側へ落下する。無数の悲鳴が、粉塵の巻き上がる地下の空間に響き渡った。
照明が次々と弾け飛ぶように消滅する。辛うじて中空に突き出す格好で持ちこたえたエスカレーターの上部にしがみ付いていたフェニックスは、眼下で逃げ惑う者達の熱源へ目を凝らした。サーチできるだけでも百人以上は取り残されている。レスキューが到着するまでに被害が広がりきってしまうのは明らかだった。まして、ここに次の車両が進入でもしたら。
元の姿に戻らなくても、自分ならまだしもましに動ける。
飛び降りようと意を決して、残骸に成り果てたエスカレーターの縁に手を掛けたフェニックスは、と、真上の照明から火花が上がるのを見た。熱と埃に混じって、照明を覆うプラスチックのカバーがピシリと嫌な音を立てる。その真下に、両腕で赤ん坊を庇いながら傾いたステップに身を屈めている母親の無防備な姿があった。その目は呆然と見開かれたまま、突然襲われた事態に思考が追いつかないのか、動く事も出来ない。
咄嗟に、フェニックスは宙を舞った。照明が爆発する瞬間、普段なら決して人前で見せる事のない地球人離れした身軽さで母子の前に着地すると同時、高速で飛散するプラスチック片に背を向けて全身を盾に二人を庇った。
どすん、と言ういくつもの鈍い音と激痛。
「きゃあああああ!!」
何が起こったのかもわからずフェニックスを見上げていた母親が、一層きつく赤ん坊を抱き締めながら狂ったような悲鳴を上げた。その声に、それまでぽかんとしていた赤ん坊がワッと火が付いたように泣き出す。
「血がッ‥‥‥貴方、血が‥‥‥‥‥‥!」
恐怖に舌をもつれさせるその膝先に、砕けた無数の破片が食い込んだフェニックスの背を貫いて鎖骨の傍へ突き出した巨大なプラスチック片から、鮮血が滝のように流れ落ちていた。破れたTシャツはみるみる鮮やかな赤に染まり、壊れたステップに血溜りが広がる。
「早く‥‥‥‥‥‥行けッ」
呻きながら、フェニックスは親子を追い立てた。
「でも、怪我、」
「いいから、早く逃げろッ。
さっと母親の顔から血の気が引いた。瞳の奥に恐怖の色が渦を巻いている。泣き喚き続けている子を守るように抱きなおして、ようやく竦んでいた身体が這うようにステップを上り始めた。
構内が崩落を始めた一瞬、あの親子はフェニックスと同じように「それ」が現れるのを見たはずだった。
突如、熱が凝縮するように宙の一点に漆黒の球体が出現したかと思うと、中心から押し広げられるようにその質量が膨張し、爆発する球体の内部から巨大な人型の輪郭が沸き上がるのを。優に数十メートルはあろうかと見えたその影が身を起こしたために、狭い構内にぶつかって全体が崩壊したのだ。酷い粉塵に遮られて確認できないが、あれは間違いなく。
(トランスフォーマーだ!)
なぜ?どうしてこんな場所に?月軌道に張られた防衛ラインをどうやって突破した?
疑問と苦痛が一時にフェニックスを掻き乱した。
いや、今はとにかく、下に残された者達の救助が先だ。出現した「それ」はなぜか静止したまま、これ以上の破壊行動に出る気配がない。エネルギーを消耗し尽くして動けないのだろうか。
フェニックスは痛みを堪えながら、前部に飛び出した破片の先に両手をかけた。ぬるぬるとした赤い液体が指の間を伝い落ちる。だが、これは地球人として人目をごまかす為に全身へ巡らせている擬似体液で、十リットルも出れば自然に止まってしまう。問題は身体に刺さった破片の方だ。
(くそッ、引き抜くのは無理か‥‥‥)
何度か力を込めてみたものの、破片はまったく動かない。背中側にどれだけの部分が飛び出しているのか、自分で確認できないのがもどかしい。
形の悪い三角に折れたそれは、もがれた片翼がしがみ付いているようなシルエットに見えるほど大きく、とても簡単に抜ける代物ではなかった。
(とにかく、こんな物が刺さったままじゃ腕も上がらない)
プリテンダーの姿に戻るにしろ、急激に質量を増大させるための原子変換は、身体に異物が混じっていては成り立たない。これでは爆弾を抱え込んだようなものだ。
何とか出来ないかともがく血海の中のフェニックスを見つめながら、じりじりと地上へ這い上がっていた母親がたまらずに悲痛な声を投げた。
「動いちゃ駄目、すぐに助けを呼んで来るから!それまで頑張って!」
赤ん坊は、まだ異変に怯えて泣いている。顔を上げて、フェニックスは埃に汚れ切った親子の様子を見返した。
こんな状況で、それでも見ず知らずの怪我人をちゃんと気遣ってくれている。だからこそ、守らなければいけない。せめて手の届く距離にいる地球人は守っていく、と、約束したのだ。そして地球人を決して見捨てない、と。
「俺のことは、いい―早く行ってくれ!もっと上までッ、もっと―」
逃げて、と続けようとした胸郭に、燃え盛る金棒を突き込まれるのに似た衝撃が走った。悲鳴の形に口を開けたまま、母親の双眼がフェニックスの背後を凝視する。その眼窩に、薄れた塵を掻き分けて現れたトランスフォーマーの巨躯が映り込んでいた。
銀に近い彩色だけを施された、月光を思わせる身体。滴る血の色の、濡れたような眸。感情を刻むこともない、真っ直ぐに結ばれた唇。
まるで人形だ。トランスフォーマーのくせに。
フェニックスは、伸びてきた巨大な左手に背中から全身を鷲摑みにされ、完全に肺と咽喉を押し潰されていた。体中に絡んだ太い五指が、玩具を弄ぶような非情さで無造作にフェニックスを宙へ掬い上げる。埃くさい風に打たれながら、見る間に親子の姿が視界から遠ざかった。その拍子に、背から外れた破片がばらばらと砕けて落ちていく。
身体のあちこちが軋んで痛みを訴えたが、フェニックスは呼吸一つままならなかった。巨大なトランスフォーマーは、ほとんど目の高さまでフェニックスを持ち上げると、手にしたものの形を確かめでもするように、再び指に力を込める。みしり、と腰の辺りが締め付けられ、やっとの呼気が堰き止められた。
もう一度でも不用意な負荷をかけられたら、折れるどころでは済まない。おそらく、この身体のままでは千切れてしまう。
(元に‥‥‥戻‥‥‥‥)
フェニックスは左手首に右手を伸ばそうとした。しかし、乱雑に摑まれた身体は無理に動けば折れかねない格好に固定され、どうしても両腕を触れ合わせる事が出来ない。
(こんな、所で‥‥‥‥‥‥!)
初めて、脳裏に「死」の予感が満ちた。
死ぬのかもしれない。だが、トランスフォーマーの死は地球人の言う死と同義になるのだろうか。ああ、それよりも俺がここで負けたら、このトランスフォーマーは次に何をする気だろう。街を破壊して、皆を傷付けるのか。俺の大切なものを‥‥‥‥‥‥
じっと観察するように、手に入れたものを見下ろしていたトランスフォーマーは、静かに意識を失っていくフェニックスの耳にだけ届くようなささやかさで、抑揚の無い声をふと漏らした。
「―ナゼ、クルシム―」
(なぜ?)
答えたいのに、声が出ない。
フェニックスは眠るように目を閉じた。
《続く》