TITANIA   作:宇宙の正面

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第3巻の3話目です。
少し長めになっていますが
お楽しみください。


TITANIA第3巻#3

 

―2029/7/7 20:33 Karin Kingdom―

 

 執務室の扉を蹴り飛ばすような勢いで開け放ったと思う間に、怒気に染まった形相で飛び出してきたキャブは、追い縋る内政文官達の制止を聞き入れようともせずに振り切って廊下へ逃れた。

 煌々と照明に照らされた廊下は南洋文化を色濃く残す王宮の外観にはそぐわないほど近代的で、実際、カリン王国を訪れる観光客のほとんどは、王宮の一角を国際会議用の衛星チャンネルを配した議場やシステムルームが占めているなどとは想像もしているまい。だが、南海の楽園であろうとも国家は国家。地球規模の議題と無縁でいられないのが現状だ。

 キャブがまだまだ幼い頃には無論、これほどの施設など常備されている訳もなく、父王と母はやれ国連会議だ、やれ経済政策会議だと海外での公務に出たが最後、何ヶ月も戻らないことが常だった。

 文化の違い、言葉の違い、宗教の違い。キャブが昔、日本へ留学することになった最大の理由は、王位継承者は多様な世界を知っておくべきだと言う父王の教育方針であった。おかげでキャブが王位に就くとすぐにこれだけの施設が導入され、それまでの煩雑な政務は飛躍的に整理された。衛星チャンネルでの各国との直接対話も重要だが、何よりキャブ自身の―それまでの島国の王にはあまり見られない―進歩的な考え方と機微に飛んだ会話術が、国政の評価を高めていることは明らかであった。

 とは言え、各国間で交わされる政治的取り決めがすべて有益とはいかない。いや、思惑だけが先に立つ不愉快なものの方がざらなのだ。

 今日こそはそれを思い知った。

「陛下!陛下、お待ちくださいッ」

 転がるように追いついてきた中老の外務官は国外での駐在生活が長かったせいか、カリン王国には珍しいスーツ姿である。浅黒い肌に映えるチュニック状の民族衣装を身に着け、紋章入りの短剣を腰に吊るしたキャブとは、温度差を感じるほど勝手が違う。

 キャブは項で束ねたトレードマークの長髪が翻るほどの勢いで顔だけねじ向けると、苛立たしげに怒鳴った。

「あんな分からず屋ども、話すだけ時間の無駄だ!」

「で、ですが、国連からの正式な要請を拒否するとなりますと、後々の問題が‥‥」

「拒否じゃない、反対だ。は・ん・た・い!そう返答しろッ」

「そのような態度をお示しになっては、他国との軋轢が生じるやもしれません。ここは国益を第一に―」

「国益?その為に、ホーク達を裏切れって言うのか?彼等が俺や后の恩人だって事、お前達だって知っているだろう」

「それは重々存じております。ですが‥‥」

 これ以上堂々巡りを続けても埒が明かないと言うように、キャブは手を振って制すと振り返りもせずにその場を離れた。

 王宮は内政用の表と、居住用の奥向きが一続きに建てられている。退位した父は母と二人、悠々自適の隠遁生活を別の島で送っており、この私的空間に居住しているのはキャブ―キャバナル・オルドリ・コロネルⅤ国王陛下―と妻に迎えたばかりの幼馴染み、コポ。その祖父でキャブの爺やだったドンクの三人だ。使用人はみな通いで、それも数人。幼い頃からの顔見知りしかいない。

 居間へ戻ると、不安げな表情のコポがキャブを出迎えた。

「陛下‥‥お帰りなさいませ」

 元来病弱で、一度生死の境を彷徨う大病を患ったことがあるせいか、コポは生まれも育ちもカリン島なのに大層肌が白い。腰に届きそうな豊かな髪も黄金色で、細い肢体を包むドレープの衣装をまとった姿はどこかの神話の女神に見える。

「お疲れでいらっしゃいますのね。何か、温かいものを御用意しますわ」

 立場を弁えて多くは聞こうとしないが、コポが明敏に、キャブの置かれた立場を察していることは間違いない。日暮れと共に仕事が終わるような国民性で、こんな時間まで話し合いが紛糾していた事自体、深刻さを物語っているのである。

 甲斐甲斐しく奥へ下がろうとするコポの手を引き止めて、キャブは身を投げ出したソファの隣に妻を座らせた。コポの細い手首をしっかりと掴んだ指に、血の通った人肌の温もりを感じて、ようやく眉根の嫌を解く。

「ホーク達を領海内で捕捉したら、サイバトロンへ通報するように言われた」

「まあ―」

「すぐに部隊を派遣すると‥‥それまでに逃げられそうな場合は、攻撃しても構わないとまで言い切られた」

 カリン王国は自衛のための国軍すら持っていないから、攻撃に類する軍事行動は実際できない訳だが、領海を所有している独立国家のほとんどは有事の際の軍備を保有している。つまり、指示通りの行動を取る用意があると言う事だ。ホーク達がもしもどこかの領海で発見されれば、その国では直ちに攻撃対象となる。

「ホーク達を攻撃するなんて、ありえない。絶対に過ちだ。少なくとも皆は、たとえ攻撃されたって反撃する意思なんかこれっぽっちも無いのに」

「ええ、私もそうだと存じております」

 コポはキャブの額に掛かった髪をひと掬い、そっと払って夫の眼差しを真摯に受け止めた。

「ですが、お考えになってくださいませ。ホーク様達がこのカリン諸島の領海に逃げていらっしゃらなかったのは、国連の決定に陛下が従わないだろう事を見越してではありませんか?私達が皆様を領海内で厚遇すれば、攻撃の対象はカリン王国にも及びましょう。それを危惧して私達の元へはいらっしゃらなかったと、私は理解しました」

 味方してくれると解り切っているからこそ、火の粉が拡散するのを防ごうとした―コポの推測は正しいだろうと、キャブは首肯してみせたが呻きを押し留める事は出来なかった。  

 項垂れた首筋に沿って、力なく髪が零れ落ちる。コポの手がその髪も優しく肩口へ戻した。

「ホーク様達が苦難に立ち向かわれている今、陛下が挫けてはなりません。これが過ちであるなら尚、御自分の行動と言葉で皆様方のお力にならなければ。そうではありませんか?私達はホーク様達の人となりが信頼と尊敬に値する事を知っておりますが、世界の人々はそうではありません。そのことをまず、発信すべきですわ」

「ああ―そうだ。そうだよな。俺にできる事から始める」

 それなら、と低く、だが決然とした声音が居室へ続く居間の奥から上がり、キャブは身を伸ばすようにして首を向けた。

 いつからそこに立っていたのか、ホーク達と別れて密かにカリン島へやって来て以来、姿を隠すように、あてがった客間から出てこなかった秀太とミネルバが並んでキャブとコポを見つめていた。その引き締まった口元に決意を覗かせて。

「キャブ一人じゃない。俺とミネルバも一緒に、できることからやらせてくれ。昔みたいに皆で支えあって世界を守ろう」

「‥‥お前、ホントに昔っから言いかた変わらないな」

 キャブの漏らした苦笑にミネルバがつられ、秀太は何が可笑しいと言わんばかりに胸を反らして、また苦笑を買う。

 貴重な同じ時間を共有した三人を、今でも堅く結び付けている絆の存在に僅かばかりの羨ましさを感じながら、コポは静かに立って温かい食事の支度へ向かった。

 

 

―2029/7/7 15:08 Calcutta―

 

 大した修復技術だと感歎しつつもシスター・カタリナは、聖トーマス教会の崩れ落ちた屋根から壁を、ほとんど以前と変わらぬ概観に直していくトランスフォーマー達の作業をじっと押し黙って眺めていた。照り付ける日差しはこの時間でもまだ痛いほどで、胴衣の下の肌がじりじりと焼け付いていくのが分かる。

 だが、木陰に身を潜める気にはどうしてもなれなかった。早朝から休みもなく―トランスフォーマーにどの程度の休息が必要なのかは、皆目見当がつかないのだが―作業に勤しんでいる異星人達を尻目に、自分が涼んでいてはあまりにも申し訳ない。そして時折、教会の写真を手にして修復箇所に不備がないかどうか、敬意を持って教えを請いに来る彼等にも対応しなければならなかった。

「‥‥どうして、こんな事が‥‥」

 深い溜息と共に零れた言葉は凍り付いて、熱せられた地表に転がり落ちていく。カタリナは眩暈を起こしそうな頭をゆっくりと振った。

 マザーの亡骸が埋葬された聖トーマス教会にとんでもない事が起きたようだと地元警察から連絡が来、カタリナが数人のシスターを連れて明けの薄闇の中を駆けつけてきた時には、辺りは溢れ返らんばかりの野次馬と、初めて間近に目にする巨大なロボット生命体とで埋め尽くされていた。

 眩むような照明を当てられた教会の、大地震の後のように半分方が崩れ落ちた無残な姿。俄かには現実の景色として認識できなかったそれが、ようやく「とんでもない」事態だと飲み込めてくるにつれ、カタリナを狼狽させたのは別の事実だった。

 警察の一報を受けて施設を出る間際、事がこの教会に関わっているからには知らせぬ訳には行くまいと、フェニックスを休ませていた部屋を覗いたのだが、どこにも姿が見当たらなかったのである。

 咄嗟に、一足先に教会へ赴いたフェニックスが誰かに発見されでもしたのではないかと、そんな思いが過ぎった。地球人らしい外見を無視した雌雄の無い身体は、理解できない者に見られれば相当な騒ぎになる。不安に駆られながら、だが着いてみればこの有様で、場の陣頭指揮を取る紳士的なサイバトロンの騎士から告げられた「崩落事故」のあらましは、フェニックスの名こそ出ないがカタリナにその関与を確信させた。

「―シスター、お話を窺っても構いませんか?」

 サンダル履きの爪先に落ちた濃い影にはっと顔を上げたカタリナの、穏やかな問いかけの主を見返した目に戸惑いの笑みが浮かぶ。真正面に、しかし近付き過ぎない距離を保って、近未来的な鎧様の物とフルフェイスのヘルメットですっぽりと身体を覆った地球人体型の男性が立っている。

 目の部分だけが薄い青のグラス状で作られ、その奥に声音同様の瞳があった。

「トランスフォーマー‥‥で、いらっしゃる?」

「グランドと申します。驚かせたのでしたら申し訳ない」

 と、差し出されたグランドの右手を自然と握り返して、カタリナは微笑んだ。泰然自若としたシスターのその態度には優美ささえ感じられ、グランドは敬意を払って目礼する。

「何か、私に御用でしょうか?教会の中の事でしたら先程、他の騎士様にすべてお答えいたしましたけれど‥‥」

「ええ、それは聞かせていただきました。ただ、貴方の仰りようが少々気になったもので」

「私、おかしな事を申しましたかしら?」

 歳若い信徒を相手にする時のような、ゆったりと下で口調でそう問うのを、グランドは真っ直ぐに見つめて言った。

「貴方はこう仰っておられた。〝何一つ、傷付いたはずはありません〟と」

 口元は綻ばせたまま、カタリナのたおやかな瞳の奥に不安げな、奇妙な翳りが過ぎって消える。グランドにはその動揺が分かった。

 教会の重要な関係者として崩落の危険が残る内部にカタリナが通されたのは、幾何学模様のタイルで覆われていたはずの交差廊の中心にぽっかり空いた、黒々とした歪な竪穴を検分するためだった。

 床と一体に嵌め込まれていたはずの碑板は無く、粉々に砕けたタイルの残骸と、穴から引き上げられたばかりの質素な石の棺だけが礼拝席を避けるように置かれてあるのを、呆然と、しかし目を逸らさずにじっと見つめていたカタリナは、促される前に毅然とした足取りで棺へと近付いていった。

 教会を破壊した何者かが棺を取り出すために穴を開けたようだ、という、至極曖昧なサイバトロン騎士の説明を聞きながら、彼女と彼女の元に集う信徒達が未だ敬愛してやまない聖女が眠る棺を覗き込んで―カタリナはこう答えたのだ。

「―何一つ、傷付いたはずはありません。ええ、何一つ」

 と。

「とても変わった言い様です。〝傷付いていません〟と答えるべき所を〝はずはない〟と仰られた」

 人によっては、たったそれだけと思うような語彙の違いを指摘する異星の客を見つめ続けたまま、カタリナは肯定とも否定とも受け取れる形に微かに首を傾げる。グランドはほんの一歩爪先を進めて、問いを重ねた。

「地球人の貴方が、私より地球語に通じていないとは思えません。貴方は御存知だった。あの棺をこじ開けたのが、誰なのか」

「‥‥質問の意味が、解りかねますわ」

「では、この青年になら見覚えがおありでは?」

 無防備に差し出されたアーマーの左手が指を緩めると、握り込まれていた小さなパラフィン状の透明板の上に立体映像が伸び上がる。ほんの十センチかそこらの玩具の人形でも乗せているような様子で、今にも走り出さんばかりの軽やかなフェニックスの姿が浮かぶ。

 冷静さを保つ自信はあったはずなのに、フェニックスの顔をはっきりと知覚した途端、カタリナは短く呼気を吸い込んでキッとグランドを睨め付けていた。グランドは他に気付かれぬようホロシートを素早く引っ込めると、自身が発した動揺に毅然と立ち向かおうとしているカタリナに敬意を払って、僅かに頭を垂れた。

「御安心ください、シスター。私は、彼の身を心から案じる友人達の助けになるべく動いています。信用していただけなくとも構いませんが、決して仇為す側にいる者ではありません。ただ今は、彼の身の無事を確かめたいのです」

 しばらくの間、カタリナはグランドの言葉を見極めるように視線を一点に凝らしていたが、軽く重ね合わせていた両手を幾度か慎重に握り合わせた後、わかりました、と微かに頷いた。

「‥‥あの方を、助けたいと仰いましたわね?そのお気持ちを信じたいと思います」

「では、彼の居所を御存知ですか?」

「それは‥‥大変申し訳ないことですわ。昨日、私共の施設内で行き倒れておりましたところを保護したのですが、今朝方から、急にお姿が見えなくなってしまって‥‥」

 事情を知っている者達には近所を探すように頼んできたが、見つかる可能性は少ないだろうと思っていると続けると、アイグラス越しのグランドの目に落胆の色が走り、カタリナの胸に後悔の文字を運んだ。

 誰の所にも帰れない―そう言って震えていたフェニックスがどんな計り知れない事情を抱えていたにせよ、こうして彼の為に心を痛める人々がいることを、もっと真剣に考えて手を打つべきではなかったか。今更ながら自分の対応の遅れが悔やまれて、カタリナは口惜しかった。

「フェニックス様は、マザーにお会いしたいとうわ言のように仰っておられました。ですから事のあらましを聞きました時に、あの方がマザーに会いに来られたのだと、すぐ解ったのです。フェニックス様の仕様であれば、手段はともかく、マザーの御身に傷一つ付けられるような事はありえませんから。ただ―」

「ただ?」

「副葬していた御髪が少し、減っているような気がしているのです。私の勘違いかもしれませんが、フェニックス様がもしか‥‥」

 最後は自身に問うように呟くカタリナを見やったグランドは、つと、その目を暑い色をした空に振り仰いで言った。

「しかし、彼が自分の意思でここへ来たのだとすると、私達は大きな勘違いをしているのかもしれません」

「勘違い?」

「ええ。私達は彼が、ある者の手から逃げられない状況に置かれていると思っていたので」

 カタリナは瞬き、不安げに眉根をしかめるグランドを躊躇いがちに覗き込んだ。

「逃げて‥‥いたのかもしれません。確かにあの方は、何かをとても懼れていましたわ。眠ることすらも」

「眠りを、ですか?」

「眠ると大事なことを忘れてしまうと仰って。大切な人の顔も、思い出も―そんな事が本当にあるのでしょうか?」

 縋るものを求めるように、地表からの熱い風に煽られるサリーの裾をしっかりと握ったカタリナを、ただ労わるように見つめてグランドは答えなかった。

 背後から機械的に響くトランスフォーマー達の立ち働く音は、コルカタの暗く蒼い空に届くのを遮られるように、どこまでも熱せられた地面を這い伝って行った。

 

 

―632/10/16 9:27 Samarkand―

 

  颯秣建国(サマルカンド)は周囲が千六、七百里あり、東西が長く、

  南北が狭い。‥‥兵馬は強盛で、多くは赭羯(チャカル)であ

  る。赭羯の人は、その性質が勇烈であり、死を視

  ること帰するがごとく、戦って前に敵がないほど

  である‥‥。

          『大唐西域記』巻一・十二

 

 放り投げられたと思う間に、楼閣の三階部分から真っ逆様に岩と砂だらけの地表へ向かって落下していた。

 奇妙なほど長く引き伸ばされた一瞬の内に、びょうびょうと猛り声を上げて頬を掠める乾いた風や、千切れんばかりにはためく衣の破れかかった裾の動きが、切り取った連続する一枚絵のように五感へ染み渡ってくる。

 なんと不可思議な現象だろう。

 ゆるゆると、自分が落ちた楼閣の折れた手摺から異国の空へ目を投げると、どこから湧き出してきたのかも判らない分厚い雲の切れ目に薄い青が覗き、差し込む日差しが光の紗を作って、一帯の峻嶺をそこかしこと照らしているのが驚くほど良く見える。

 地面へ叩き付けられれば助かるまい。そう思う一方で、殺風景だが、だからこその荒涼とした美しさを含んだ風景をとりあえず眺めている己の冷静さに少し呆れつつ、さてどうしたものかとようやく思案に入った。その瞬間だった。

 自分が落ちたのと同じ手摺をひょいと乗り越えて飛び降りた人影が、瞬く間に黒い影の塊になって視界の端を通り過ぎて行ったかと思うと、無様に墜落するはずだった自身の身体はふわりと羽根のように掬い上げられ、慎重な手つきで地上へ横たえられていたのである。

 この地方では珍しくない木綿織の(じょう)の頭巾ですっぽりと覆われた顔が覗き込んでくるが、逆光のせいか顔立ちははっきりしない。何語で礼を言うべきだろうかと逡巡していると、こちらの困惑に気付いたのか、顔を覆った布地がぐいと引き外された。

「お怪我はありませんか?御坊」

 零れ出たのは、大砂碩(キジルクーム砂漠)の風に焼けてはいるが、白い肌に青玉の眸。よく実った稲穂の色の髪。

「ここは危険です。近くの宿場町までお連れしましょう」

 氎の下にその素顔を手早く隠し直すと、痩せた旅の僧侶を立ち上がらせて、ダイバーはヒュッと鋭い口笛を発した。途端、砂礫を蹴る蹄の音が近くの岩場から駆け降りて来、これも氎を着込んだ青年に手綱を取られた馬が鼻先に停止する。噂に聞く汗血馬でもあろうか、小柄だが見事な駿馬だった。

 ダイバーは馬上のホークの背へ、僧を押し上げて顎をしゃくった。

「ホーク、先に行け。ランダー達と後で追いつく」

「わかった。気をつけて戻ってくれよ」

 腹を蹴って馬首を巡らせると、ホークは後も見ずに街道目指して走り出していた。僧は異人の背中に取り縋りながら、朽ちた楼閣から悲鳴や怒号を上げて次々と逃げ散っていく山賊達を肩越しに見送ってようやく、渇き切った舌にごくりと唾を飲み下した。

 まさか陽も上がったばかりの時刻に襲われるとは思わず、ほんの休息のつもりで立ち寄った廃墟の楼閣で山賊に取り囲まれるとは。こうして助かったのはまったくの幸運だった。

「あ、危ないところをお救い下さり、何とお礼を申してよいか。拙僧は長安大覚寺になる者で、玄奘―玄奘三蔵と申します」

「礼には及びませんよ、玄奘殿。貴方の荷も仲間が持って戻るでしょうから、どうか御安心を」

 十二、三里も駆けると、ある場所からぷつりと荒れた景色が途切れて、突然に緑濃いオアシス特有の風景が眼前に広がった。噂に聞こえた『絹の道』の要所、康国―颯秣建国(サマルカンド)の国境を成す町の一つに入ったのだろう。

 ホークに促されるまま簡素な木造建ての茶店で待っていると、玄奘の前に一足遅れて、砂埃まみれの氎を纏ったダイバーと、最初に楼閣へ踏み込んで来、山賊達を素手で蹴散らしにかかったフェニックスとランダーが現れた。

「怪我が無くて良かったな、御坊」

 フェニックスも流暢な唐の言葉で無事を喜んだが、この地域の窣利(ソグド)人達がやるように額へ繒彩(あやぎぬ)を巻き付けて肩口へ垂らし、ランダーはと言えば隠すでもなく、項で束ねただけの目の覚めるような白金の髪に付いた砂を払いながら、遠慮もない態度でどっかりと卓の一辺に腰を下ろしている。

 様相も風貌もやや異なる四人をためつすがめつ、玄奘は何度も深々と頭を下げた。

「まことに、この大恩に報いる術のない身を恥ずかしく思います。皆様が通りかからねば今頃、拙僧は大砂碩に埋もれる骨と化しておりましたでしょう。賊の跳梁は聞き知っておりましたが、気構えが至らぬばかりに御迷惑を‥‥」

「大事にならずに済んで何よりでした。こちらが後先考えずに踏み込んだもので、玄奘殿を危ない目に合わせてしまいましたが」

 ダイバーが言って、恐縮そうに眉根を寄せる。玄奘は慌てて、フェニックス達が賊から奪い返して来てくれた粗末な笈一つの荷物を、大事そうに撫でながら首を振る。

「いいえ。荷まで取り戻して下さって、望外の喜びです」

「玄奘殿はどちらまで行かれるのですか?随分とその‥‥旅やつれていらっしゃるようですし、確か唐ではここ最近、出国が禁じられていたはずでは‥‥」

 ホークの問いで、玄奘の細った頬に曖昧な笑みが浮かぶ。

 唐の第二代皇帝、太宗が、蒼氓の国境越えを厳しく制限している事は近隣の国々にも知れ渡っている。玄奘の遊歴が勅命を得たものでない事は、その薄汚れた有様も見ても明らかだと思われた。天山山脈を越えてここへ至るまでには歓待を受ける事もあったろうが、死と隣り合わせの障害の方が遥かに多かったはずである。

「お察しの通り、拙僧は禁を犯して故国を出ました。天竺へ赴いて釈迦尊の真理を探求し、唐に至っていない経論を持ち帰らんといたしております」

「それはまた、素晴らしいお志ですね」

「とは申せ、道はまだまだ長うございます。実の所、賊に身ぐるみを剥がされたのも片手では足りぬ程で、こうして命が存えておりますのも、ひとえに御仏のご加護かと‥‥皆様方にお救いいただいたのも、御仏のご慈悲と思っております」

 サマルカンドのほとんどの民がそうであるように浅黒い肌をしたソグド人の給仕が、早口のソグド語でランダーに何か言い、卓の上に酒を満たした素焼きの杯をぞんざいな手つきで置いていった。座を占めているだけの客に痺れを切らして、注文するのかしないのか、とでもあてこすっていったのだろう。その給仕のいかり肩の背へ、杯を取り上げながらランダーが一言投げ返す。ソグド語ではなく、相手が解らないようなパミール語の訛りで発せられた悪態のようだった。

 感心して玄奘は、畏敬の眼差しをぐるりと投げる。

「皆様方は―赭羯(チャカル)‥‥なのですか?かなり腕の立つ戦士の集まりだと噂に聞いております。窣利(ソグド)の民とはお姿が随分と違っていらっしゃいますし、異国語にも大層通じておられる。ランダー様の珍しいお髪の色も、葱嶺(パミール)を越えた辺りの民に近いようにお見受けしますが」

「ああ、いや、そういう訳ではありません」

 苦笑しつつダイバーが否定し、困ったようにホークを見やる。ホークが次いで言った。

「我々も旅の翼を休めに、この辺りへ立ち寄ったまでです」

「あ、譬え上手い」

 真顔で横からフェニックスが口を挟む。その手にはしっかりと杯が一つ握られている。

「皆様方も旅の途中とは、驚きました。どちらまで行かれるのですか?」

「もちろん美人の多い国まで」

 間髪入れないランダーの茶々に、ダイバーがわざと咳き込んで誤魔化す。ホークは僅かに肩を竦めて非礼を詫びた。

「行く先は―特に決めない旅でして」

「えッ、この険阻を?目的地もなく何年も?」

「少しばかり、変わり者の集団なんです」

 にこやかに告げられると、玄奘は得心したように四人をぐるりと眺め回し、それ以上を問おうとはしなかった。

 と、ガタガタと椅子を引き摺って玄奘の傍に陣取ったフェニックスが、まじまじと僧の痩せた顔を覗き込む。その目にある好奇心を見て取って、玄奘は首を傾げた。

「拙僧の顔はそれほど物珍しいですか?」

「仏教徒と話すのは初めてじゃないけど、御坊は変わってるなぁと思ってさ。禁を犯して歴史に名を残すほどの偉業を成し遂げたとしても、国に帰れないかもしれないし、帰ったところで国賊にされるかもしれない。御坊の言う真理ってのは、そこまでして得る価値があるか?」

「よさないか、フェニックス」

 まるで宗論を吹っかけているようなその問いを、ダイバーが声を潜めて諫めたが、玄奘は気を悪くしてはいないと言うように首を振って、フェニックスの顔を真っ直ぐに見返した。

「‥‥拙僧が少々向こう見ずである点は否定いたしません。仰るとおり、大願を叶えて故国の地を踏めるかどうかは、まったく判らない事です。異国の空の下で果てる方がよほど現実的でしょう。ですが、拙僧は知らなければならない」

「真理を?でも釈迦はもうこの世にいないし、本当はどう考えていたのかなんて誰も知らない。経典を読めばそれが解ると思うのは間違いじゃないか?」

「ええ、確かに」

 ホークとダイバーが気を揉む様子で二人のやり取りを見守っているのに、ランダーだけが卓に片肘を付いて頬を支えながら、面白い余興を眺めるような態度でいるのを目の端に捉えて、玄奘は何故か可笑しくなった。異国を回る道すがら仏教僧や拝火教徒を相手に論じ合った経験は多いが、宗派もわからない相手からこんな在り来たりな―むしろ誰もが問うを憚る―疑問をぶつけられたのは初めてだったのだ。

 曰く、求める『真理』とは?

「拙僧が追い求めているものには、姿形がありません。掴まえたかと思ううちに擦り抜けて行く、風か水のようなものです。フェニックス様のお言葉を借りれば、釈迦尊がこの現世におられない以上、拙僧が尊者の総てを理解する事は永劫に叶いますまい。しかし、その御心に一歩でも近付くために‥‥悟りを見出すために歩むことはできましょう」

「死ぬまでに、その境地に辿り着かなかったらどうするんだ?御坊の持ち時間は、俺達とは違うんだから」

 フェニックスの奇妙な言い回しと不満げな口調に、玄奘は一瞬、この異人が唐の言葉を使い間違ったのだろうと思った。そうでなければ意味が合わない。言葉通りに受け取れば彼等だけに、まるで玄奘とは違う『生』の年月があるように聞こえてしまう。

 死ぬまでの、まったく交わらない時の流れが。

「フェニックス様は、いかなる神仏を信仰しておられるのです?拝火教ですか?それとも景教を?」

「いいや、どれも。俺は御坊が言うような神や仏って信じてないんだ。ずっと見た事ないからね」

「では、ご自身で目に出来たら信じるのですか?」

「まあ、存在ぐらいはね。でも、ナザレの男だって最期はあんな―」

 玄奘が、発せられた聞き慣れない単語を理解しようと耳を立てた途端、ドン、と叩くような音で杯が卓に置かれた。狙って言葉尻を掻き消したのだろうランダーの視線に気付いて、フェニックスは続きを横に逸らせた。

「神や仏がいるなら、この世界はもっと違う姿をしてるはずだろ?分かり合えて、幸福を共有できるような。でも、そうはなってない。毎日どこかで血が流れるし、罪の無い人が死んでる。救いを説くよりも、今助けが欲しい相手に手を差し出す方が善果と言えるんじゃないか?」

「差し出しています。―この命を」

 フェニックスは虚を突かれたように軽く瞠目した。玄奘の応えはただ穏やかで深く、水底にある澄んだ流れのように、雑音だらけの異国の空気を押し戻して響いた。

「拙僧の欲する御仏の真理とは、死者の為ではなく生者の為にこそ必要なものなのです。この現世を生きて行かなければならないからこそ、人々に伝える意味がある。果たし得ずに死ぬのなら、拙僧は幾度でも現世に戻り、探し続けるでしょう。拙僧の身が消え失せても志は残ります。また別の、志を同じくする者の中に」

 しばらくの間、フェニックスは口を噤んで玄奘の顔を凝視し続けていた。玄奘の、この唐から来た貧僧の奥底に燃え立つものの正体を見極め、一端でも理解しようとするかのように。

「―仏教はよく言うな、『輪廻転生』とかって。でも、もう一度会いたいと思う相手って、」

 最後まで言わずにふと思案顔になると、フェニックスは突然何かを思いついた風に勢い良く顔を上げ、くるっと首を捩じってホーク達を見返した。それまで口を挟まずにいた三人の面に、それぞれの性格を反映した表情が浮かぶ。戸惑いと苦笑と、軽い呆れ。

 だが、フェニックスはそんな反応などまるで気にしていない。続いて発せられた、それが最良の選択であることを確信しきった調子の声は心なしか弾んですらいた。

「決めた!俺、御坊に付いて行く」

「な、何ですって?!」

 玄奘はそっくり返らんばかりに声をつつ抜かせた。思わず椅子から跳ね上がりそうになり、慌てて体勢を立て直す。卓にしがみ付いて見やると、フェニックスはこの乱暴この上ない提案を示された三人の同胞を順繰りに見渡して、平然と答えを待ち構えていた。

「やれやれ‥‥お前はどうしてそう‥‥」

 溜息混じりに額を覆ってダイバーが呟く。その言い方には、この手の問題に慣れっこになっている保護者のそれが見え隠れしている。

「付いて行くったって、何年一緒にい―」

 心底呆れ返った口調で切り出したランダーが、と、玄奘の耳を憚ったのか、がらりと別の言語で残りを紡ぐ。

『ずっと一緒に過ごす訳にはいかないだろう。五年も十年も傍にいたら、いくらなんでも老けない事に気付かれる』

「だから、ほんの数年だよ。せめて御坊が天竺に無事入るまでさ、用心棒代わりに」

 それなら構わないだろう?と、問いの最後は玄奘に向けられる。

 構うも構わないも無い。直弟子でも仏教徒でもない異国人を連れての旅など、玄奘には想像も付かない事だった。

 食うや食わず、野宿続きの旅だと分かっていて『用心棒代わりに』などと、フェニックスにとって一体どんな益があると言うのか。

「滅相も無いことですッ。此度お救い頂いただけでも大変な恩義ですのに、拙僧と共になど」

「うん、でも俺が一緒に行きたいんだよ。もう御坊に会えないかもしれないんだからさ。いいだろ、ホーク?」

 フェニックスの無茶な考えをたしなめてくれる事を期待して、玄奘は縋るようにホークを見た。その横でダイバーとランダーはもう、観念したように肩を竦めている。それが言葉以上に明らかな、四人の一致した返答だった。

 ゆっくりと腰を上げ、裳に付いた砂塵を両手で払いながらホークが言う。

「お前が行きたいなら、そうしよう。これもご縁だろうから」

「よし、決まり!」

「す、少しお待ちください、拙僧は皆様方にお守りいただく謂れが―突然、四人も伴うなぞ、」

「従者と思えばいいよ」

 フェニックスの言い様は明快すぎて、固辞する理由を何とか捻り出そうと苦心する玄奘を唖然とさせた。

「従者―ですか?」

「そう。高名な旅の僧に教化された腕っ節の強い従者が四人。案外、筋は通ってるだろ?」

「どうして、拙僧にそこまで‥‥」

「俺も見てみたいからさ、御坊の探してるものを」

 さあ行こう、と差し出された土の色が染み込んだ大きな戦士らしい手をじっと見つめた後、玄奘は怖々と、だが寄る辺の無い一葉のようだった自分がようやく見出した大樹の下へ踏み出すように、己の荒れた指先をフェニックスの掌へそっと重ね合わせた。

 

 

―2029/7/7 14:40 the Kyzyl Kum Desert―

 

 荒ぶ風に巻き上げられた砂礫が、雹のように表皮を打つ。

 リズミカルに、時に不快にセイバートニウム金属の肌を叩く粒子の音は、目を閉じて耳を澄ますと密やかな雨のようで、フェニックスに今いる場所すら錯覚させた。目蓋を持ち上げて見渡せば、現実は辺り一面、粗い砂に覆い尽くされた砂漠のど真ん中だと言うのに。

 一概に砂漠と聞くと誰もが灼熱の地を想像しがちだが、カザフスタンとウズベキスタンに跨り国境の一端を成しているキジル・クーム砂漠は、千年以上昔から変わらず荒れ野と呼ぶ方が相応しいほどの冷え切った風の群に支配されている。世界の屋根、と呼ばれるパミールの嶺陸からトゥラン低地へ向かって吹き降ろす風は、凶暴ではないが冷淡で、真夏でも仄かに生温いだけだ。

 だが、だからこそ踏み込もうとする者を遠ざける。ここにはサハラのような流砂の芸術もゴビのような頑悍さもない。無謀な冒険心を満たすには、キジルクームは静かすぎるのだ。

 フェニックスは目蓋を押し開け、抱えた膝頭に突っ伏していた顔をゆるゆると上げた。

 砂まみれの裸身は、昨夜からずっと風に当たっているせいで氷のように冷たい。踝にこびり付いた砂を無造作に払うとさらさらと崩れて、健康的な色に焼けた肌が露わになる。これが地球人ならとうに凍死するか、でなければ死者のような青白さになっているのが普通だが、どんなにそれを望んでもトランスフォーマーの身に身体的な苦痛が訪れる気配は皆無だった。

 なぜこんな時に玄奘の顔を思い出したのだろうか。

 あの真っ直ぐで、揺ぎ無い眸をした僧を。

「‥‥そうか‥‥」

 あの眸は、アグネスによく似ていたのだ。信念という名の根を張ってすっくと伸びる、近寄り難い若木のように。

 風がまた、粒子のリズムを奏でる。〈サイコ〉の上に。

 頭上から覆い被さる格好で両腕を堅固な柱のように地へ突っ張り、白銀の巨躯を彫像のように微動もさせず、〈サイコ〉は沈黙のままフェニックスを庇うように―現実から遮ろうとするようにか―蹲っている。

 フェニックスは僅かに顎を逸らし、手を伸ばせば触れられるほどの距離にある〈サイコ〉の胸先を見上げた。

 胸部を包む外殻パーツの一部が内側から押し開かれ、白い花弁が綻んだ形に拡がってフェニックスの頭上に垂れ掛かっている。

 その奥、〈サイコ〉の体内に埋め込まれたように透明な卵型のポッドが抱かれていた。触れる指先に力を加えれば簡単にひび割れてしまいそうな硬質ガラスの中は、新緑を思わせる薄緑色の溶液に満たされ、細かい気泡が浮き沈みしている。その泡に洗われながら小さな―まだ人の目には捉えられないほど微細なものが、くるくると生命のリズムで踊っているのをフェニックスはただ見つめていた。

「‥‥アイシテ、イマス」

 たどたどしい音律が〈サイコ〉の平板な声を作り出し、無意味な語彙を零す。フェニックスはそれがただの風の音と同じであるように聞き流した。

 砂の叩く音が止むまでの長い間を置いて、壊れた機械のような呟きが繰り返す。

「‥‥アナタヲ、アイシテイルノハ、ワタシダケ」

「―うるさい」

 苦しげに絞り出された応えはにべもなく撥ね付けたが、〈サイコ〉は覚えたばかりの言葉を話す人形と同じに、感情も上らないその語をまた吐き出した。

「アナタヲ、アイシテ―」

「うるさいッ―うるさい、黙れ!」

 苛立たしげにひと掴みした粗い砂を怒声と共に巨大な影へ叩き付けると、フェニックスは耳を塞いで頭を抱え込んだ。逃げるように顔を伏せると、行き場のない怒気で一気に波立った肌がまた唐突に静まり、ぶるりと震える。

「‥‥俺はお前なんかいらないし、何も渡さない。お前はただ、俺の言う事を聞いていればいいんだ」

 長い呼気を吐き出して紡がれたフェニックスの声は、〈サイコ〉のそれを圧するほどに凍え切っていた。〈サイコ〉に、そしてフェニックス自身に、痛みの消える事のない浅い傷を負わす諸刃の剣のように。

 あの時、自分は見れたのだったろうか。

 フェニックスは無造作に掻き回された記憶の奥から、玄奘と過ごした日々を呼び覚まそうと意識を凝らす。玄奘が探していたものを共にこの目で確かめたかどうか、靄に包まれるように思い出せなくなっている自分を懼れながら。

 

 

―1997/ 9/14 5:08 Uluru―

 

 朝日を受けると、赤い岩肌は炎に燃え立ってでもいるような鮮やかな紅に染まり、平原の中にただ一つの勇壮な姿を神々しいほどに際立たせる。

 アボリジニがこのウルル―かつてはエアーズロックの名で親しまれた一枚岩の芸術を、神聖な場所として崇拝の対象にしてきたのは当然だろう。ここは自然が創り出した最も美しい地球の原風景の一つだ。少なくとも、数千年をかけて地球上のあらゆる場所を隈なく飛び回ったトランスフォーマーがそう思うのだから、間違いはない。

 フェニックスは、観光客向けには立入禁止になっている断崖の縁に腰掛け、地平から徐々に浮かび上がってくる太陽の軌跡をじっと眺めていた。夜の冷気が眩しい日差しで急速に暖められ、乾いた土の匂いが濃く立ち上る。肺一杯に吸い込むと、地球人が感じるようにフェニックスの中にも生きている実感が満ちた。

 自分は、まだ生きているのだ。

「―フェニックス」

 傍に降り立った気配は察しなかった。相手の心情を推し量るような優しい声音に振り返ると、疲れた表情のホークがくたびれたスーツ姿でこちらを見つめていた。目が合うとようやく、その顔にほっと安堵の色が浮かぶ。

 フェニックスには、自分が一方的に連絡を経っていたこの十日あまりの間、ホークがどれほどの心配と不安を抱えていたかが手に取るように理解できた。そしてダイバーとランダーもまた、そうだっただろうと。

 ホークはそこに佇んだまま、不用意に近付いて捕らえ損ねはしないかと思案するような口調で問うた。

「葬儀へは、行ったのか?」

「‥‥行った」

「ずいぶん手分けして探したんだぞ。あちこち」

「うん‥‥ごめん」

「戻ってくれて良かった―本当に」

 本当に。

 祈りにも似た静かな言葉の裏に、生きて再び会えた事への感謝の念が隠れていた。

 ああ、きっと跪いて、この喜びに報いるためになら何でもしますと、居もしない地球の神に誓っても構わないとすら思っているのだろう。そしてホークにそんな思いをさせたのが自分だという事を、フェニックスは恥じた。いつでも、何があろうとも最後に帰れる場所であろうとしてくれる相手に自分は背を向けて、置き去りにしたのだから。トランスフォーマーの生きる時間にすればほんの一時の事でも。

 そっと伸びてきた手が肩に触れ、ホークのスーツのように着たきりで草臥れてしまったフライトジャケットの布地を包み込む。フェニックスは取り縋るように手を回して、ホークの指を震えながら掴んだ。

 もう一度「ごめん」と口にしようとして、声を失ってしまったように出来ずにいるフェニックスの竦んだ気持ちが痛いほどに伝わって、ホークは首を振る。

「‥‥わかってるよ。謝らなくていいんだ」

 トランスフォーマーがやつれるなどという事はない。それでも、触れているフェニックスの肩は酷く儚かった。

 アグネス・ゴンジャ・ボワジュが死んだ。

 その報が世界中を駆け巡った日、フェニックスは何も告げずに姿を消した。

 すでに数年前から心臓を病んでいた、かの修道女の死期がそう遠くないものだとは理解していた。大きな使命の元に精力的に活動を続けてきたアグネスはホーク達の目から見ても常に矍鑠として、老化が若い頃の印象を損なう事はなかったし、平均的な地球人の寿命に照らし合わせれば長寿の部類だったが、やはり死という決別は変え難く存在していたのだ。

 必ず訪れるだろうその日が、ついにやって来たに過ぎない。だが、フェニックスにとって衝撃は想像を遥かに絶したに違いなかった。愛すればこそ。いや、誰よりも深く想うが故に。

 これまで愛した者達は、そのすべてがフェニックスを置いて手の届かない世界へ逝った。愛すれば愛するほど、引き止めようとするその手をすり抜けて。

 それがどれほどの哀慟か、かつて父母を同時に失った記憶のあるフェニックスにしか、おそらくは理解できないものなのだ。悼みを喪失したランダーにも、悼む心すら眠らされていたホークにも、悼みに耐えることを覚えてしまったダイバーにも分かち合えはしない感情。

―あいつは死ぬかもしれない―

 探しあぐねて行き詰った数日後の朝、ランダーがぽつりとそう漏らして、反駁したい心とは裏腹に否定するだけの自信が誰にもなかった。

 アグネスのいない未来‥‥アグネスが失われた世界に、フェニックスが己の居続ける意義を見出せるかと問われたら、やはり何もありはしないのだ。共に消えてしまう方がどれだけ魅力的で安らかに思えるか、そんな事は明白だった。

 置いて逝かれるだけの永遠に等しい生など捨てても構わないと思いながら、それでもトランスフォーマーの多くが生き続けているのはただ、思い切るだけのきっかけに出会う瞬間がないだけに過ぎない。

 だとしたら―

 しかし十日目に突然、それまで存在自体が掻き消えてしまったようだったフェニックス自身から連絡が入った。この信仰の山・ウルルで朝日を待っている所だと。

 地平線から姿を現した太陽が、白く強い日差しでフェニックスとホークの肌を焼き始める。赤い台地に伸びた二つの影はそれでもやはり黒々と、抱え込んだ闇の色をしてへばりついていた。

「‥‥ずっと前から約束してたんだ、アグネスと‥‥俺は彼女がいなくなっても地球を、地球人を見捨てないって。それって、俺に生きていてくれって事だよな、ホーク?」

 ホークは答えず、フェニックスが話すままに任せた。

「一緒に消えたかった―でも約束破ったら、怒られるもんな。それに皆を悲しませたら、アグネスはもっと怒る」

 袖口でぐいと顔を拭ったのは、眩しさを遮るため以外の理由があったのだろうか。

 なあ、と振り返ったフェニックスの瞳は朝日を受けたせいだけではなく、生き続けるという意味の先にある苦痛や慙愧を踏み越えたように明るい色を取り戻していた。

「もし、いつか死ぬ時が来て人生を振り返ったらきっと、俺達っていい家族だったって、思うんだろうな」

 思いがけない言葉に虚を突かれてホークが軽く瞠目すると、フェニックスはどうして驚くんだという拗ねた顔をしてみせ、走るように流れる雲の群を探して空を振り仰いだ。

 その澄んだ青の中に、アグネスの魂が溶けてでもいるかのように。

 

 

―2029/7/7 6:51 Puerto Rico Trench―

 

 ほんの少しまどろむつもりが、目を覚ますと肩には毛布がかかっていた。ダイバーはコンソールパネルから引き起こした体からずり落ちたそれを拾い上げ、椅子の背に掛けて苦笑する。トランスフォーマーに深い眠りは必要ないというのに、意識まで飛ばしてしまっていたらしい。気が付かないうちにそれだけ疲弊していたという事だろうか。

 通信室を出、食堂のある上階へ続く味気ない鉄製の階段を数段上りかけて、ふと、下層のハッチへ通じる扉に目が行った。

 潜水艇用の下部ハッチは事故が起こった時を想定して、他の三層から隔離できるように直通の階段はなく、床に直接ぶ厚い鋼鉄製の手動開閉扉が付いている。ハッチの出入りがあれば必ず自分で扉を閉じる決まりだが、内部に誰かがいる事が一目で判るように扉の横には熱源感知式のランプがあった。今ほのかに赤く点灯しているのは、ハッチに人が下りている証拠である。

 バルブを回し、梯子を下ると、オレンジがかった照明灯の下に海水が満ちた長方形の潜行部と、周囲を取り巻くデッキが見えてくる。そのデッキの縁に、こんな場所にはやはり奇妙に思えるスーツ姿でホークが立っていた。

 ホークはダイバーが下りてくる音に気付いて海面から目を離し、軽く手を上げた。

「何してるんだ、ホーク?」

「今しがた、レインジャーとライトフットに地上へ出てもらったんだ。何とか協力を仰げそうな相手を探しにね」

「協力?」

 ダイバーは、まさか、と額を押さえて大仰な溜息を吐いた。

 生身の地球人である秀太達を遠ざけておいて協力を頼めそうな輩と言えば、今のところ心当たりは一つしかない。マスターフォース戦役の終局来、デストロンを離脱して鳴りを潜めてはいるものの、まだ手段を講じられずにずるずると地球へ居残っているデストロン・プリテンダー―ブラッド達だ。これと言った悪さをするでもない彼等に関してはこの数年、動静を見極めているだけで接触はしていないが、この際、背に腹は変えられない。まず何よりトランスフォーマーである以上、身体的な不安は地球人を巻き込むよりも遥かに心安い。

「協力すると思ってるのか?あいつ等が」

「利害の一致、とまでは行かないが、この地球上に大挙してサイバトロン戦士が押し寄せてくるとなったら、少しは身の危険を感じるだろう?プリテンダーが捕獲の対象になっているんだ。まさか高みの見物とはいかないさ」

「無駄に捕まりたくないって?」

「そう思うんじゃないかと踏んだんだけどな」

「だといいが」

 それはそれでひと悶着ありそうだが、とは、出掛かるのを止めて、ダイバーは天井の鈍い灯を見上げた。

「上へ戻るか。勝手に拝借してると言っても、電力だってそうそう無駄遣いはできないしな」

「私は―まだここに居たい」

 ふいと逸らされたホークの視線が翳りを帯びて、鏡面のような水面を彷徨う。その横顔に浮かんだものをどう表現すればいいだろう。苦しみでも悲しみでもない‥‥しいて言葉を付けるなら、乾いた砂のような。

「‥‥ホーク、少しでも眠ったか?お前の方がずっと疲れてるみたいだ」

 ホークは拒否するように首を振り、足元の暗い水際を覗き込んだ。

「さっきからずっと思い出してたよ、アグネスが死んだ時の事を」

 力のない光を吸い込んでなお黒々と横たわる長方形は、巨人を入れる為に拵えた棺の蓋のようだった。それとも、深く深く穿たれた墓穴か。

 どちらも、今の状況には苦い想像でしかない。

「あの時‥‥私も心のどこかで思っていたんだ。フェニックスはきっと死ぬだろう―もう、帰ってこないんだろうと‥‥でも帰ってきてくれた。それがアグネスとの約束を守るためだけの理由だとしても」

「ああ‥‥」

「あの日まで一度も疑った事がなかった。私達はずっと四人で、このままいつまでも一緒にいるんだと信じていた。どうしてそんな自信があったのか分からないけれど、そう思って―ダイバー、私は―」

 堪え切れなくなった感情が堰を切って迸るかと思った。だがホークは両の膝から下を支柱のように踏みしめて崩れるのを堪えると、小さく呼気を吐いて言った。

「何故こんな事が起こっているのか、どんなに考えても解らないんだ。家族だと言ってくれたのに―フェニックスのために、何も出来ない」

「何も出来ないのは俺も一緒だ。お前の気持ちがわからないと思うか?だから、ここにいるんだろう」

 気恥ずかしさに迷う間もなく、無意識に差し伸ばしていた手でホークの髪をくしゃりと描き回すと、ダイバーは振り返らない友の震える背を黙って見守った。

 弱音を吐く事が出来るこの一瞬が、少しでもホークの慰めになればいいと。

 

 

《続く》

 

 

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