少し長めですがお楽しみください。
―2029/7/7 18:50 ARCTIC OCEAN―
北極海に浮かぶ大小二十数島からなるロシア領ゼムリャフランツァヨシファから、さらに極点寄りに百キロほども北極圏を入ると、周囲は夏でも氷点下を示す極寒の凍土になる。凍土と言っても南極のように大陸棚がある訳ではなく、海面が氷結して出来た氷原が一面を覆い尽くして広がっているだけで、足元の遥か下は航行可能な冷たい海が続いている。
かつて、北極点を目指す冒険家達がこの氷土を歩き、また海底を各国家の潜水艦が航行していたものだが、二十一世紀初頭から北極圏上空のオゾンホール破壊が本格的な環境問題になってから法制定が行われ、国連加盟国三分の二以上の許可を得ない限り、人間・物資・無機建造物その他の圏内移動は不可能になった。つまり、実質的な『立入禁止』圏になった訳である。これには、大国が密かに狙っていた海底資源の独占支配を牽制する意味も含まれていた。と言っても未だに、他国の抜け駆けを見張る為の監視衛星は正規にしろ非正規にしろ、常に軌道から極を見下ろしているのだが。
シールドを張ったマキシマス戦艦を半円状に避けて吹き荒ぶ雪嵐は、ほとんど灰鼠か墨のように濃くくすんで、心を洗ってくれるような美しい白を成してはいなかった。
一度この規模の嵐が起きると二、三日は確実に吹雪くと言う。シールドだけでは、遮るものもない氷原の只中にあって心許なかったが、これで頭上に座った衛星の目を眩ますことが出来るだろうと思うと、
「俺達って案外ついてるよなぁ」
ロードキングが通路の壁にもたれてぐったりと座り込んだまま、半ば感心した風にそう言いたくなった気持ちも、ライトフットには解らないではなかった。
ノルウェー沖でホークとダイバー、重傷のランダーを収容して、人目のないこの北極圏内に降り立ってから数時間。サイバトロンの動きを察知出来ない今の状況では、息を殺して追手に発見されないことを祈るばかりなのだが、天が味方してくれたのは大きい。
ライトフットはロードキングと、その横に同じようにして腰を落としているレインジャーを見やり、通路の奥にどっしりと構えたメディカルルームの白い扉を眺めた。
ガラタの谷で繰り広げられた激戦の最中にフェニックスと共に消えたホーク達をマキシマス戦艦で拾い上げた時、口が聞けないほどに憔悴しきっていた三人はそのままグランドに連れられてメディカルルームへ運び込まれた。その顔を見てしまったら、〈サイコ〉の手から取り戻したはずのフェニックスを連れて来られなかった理由を問い質すのは躊躇われて、かける言葉が何一つ思い浮かばなかった。ガラタの谷での〈サイコ〉の様子を鑑みれば漠然とだが、ホーク達が断腸の思いでフェニックスを置き去りにしなければならなかっただろうということは理解できる。
〈サイコ〉から引き離せばフェニックスを解放できると思っていたが―違う。
違うという事実を知ってしまった。
ライトフットは軽く眉根を寄せ、戦火の記憶を辿り直す。ワジに出現した〈サイコ〉。胸部に嵌ったポッド。フェニックスの意識と呼応するような、あの叫び。間近にいてこそ違和感を覚えたはずの一つ一つを、あそこでブラッカーも目にした。勘の良い彼なら同じ答えをもう確信に変えているだろう。
フェニックスと〈サイコ〉は―
扉の滑る摩擦音に顔を上げると、プリテンダースーツ姿のグランドに続いて、いつもの地球人の擬体に戻ったダイバーが顔を出した。通路にライトフット達が居るのを見つけるとちょっと手を上げて笑い、肩を貸そうとするグランドを制して、片肌脱ぎになったシャツに腕を通しながら歩み寄る。
「心配させて済まなかったな」
「ダイバー、大丈夫なんですか?怪我は?」
不安げなライトフットの問いに、いや、とダイバーは首を振った。
「俺とホークは大した怪我はしてない。それより君等の方こそ、ゴッドマスターに融合した後だろう。少し休まないと‥‥ジンライの姿が見えないが、どうかしたか?」
「まだ格納庫にいます。随分疲れたらしくて、ビクトリーレオの傍で眠り込んでしまって。でも彼が見ていてくれますから、御心配なく」
「そうか、ジンライも無事なんだな。よかった」
ダイバーの口調に滲んだ安堵感は、いっそライトフットの心を痛ませた。仲間の身を冷静に気遣っていられるような心境ではないはずなのに、ダイバーは己にその役目を課すことで、苛立ちや怒りや悔いを治めようと努めている。
信じられない精神力だが、だからこそ休息を取ってくれなどとは気休めにも言い出せず、ライトフットはちらりとダイバーの肩越しにグランドの顔色を確かめた。
グランドはバイザーの奥の眼を渋く眇め、ランダーの容態が思わしくないと暗に告げている。マキシマス戦艦のメディカルルームはある程度水準の高い設備と技術的なプログラムを保有しているが、本来は軍の医療部に送られるまでの生命維持を目的にしている。事が生死に関わるほどの重篤状態だった場合は、ここにある医療ポッドだけでの完治は難しい。ランダーはその境界線を彷徨っているということになる。
ライトフットは低く深呼吸し、努めて穏やかにダイバーを促した。
「何か食べる物を用意しますから、デッキへ行きましょう。ホークは?」
「あいつは、ランダーの傍に居てやりたいらしい」
「じゃあ、食事と着替えを運びます」
「いや、いいんだ。俺が持っていく」
心遣いはありがたいが、と前置きしてダイバーは言った。
「怪我のせいで擬体まで戻せてないんだ。今のランダーの姿はあまり見栄えがよくないから‥‥君等の目に触れさせたくない。後で俺が恨まれるからな」
「‥‥わかりました」
労わるようにダイバーの肩をそっと包んで、ライトフットは微笑んだ。
目を開けると、視界は想像していたよりも鮮明だった。気泡の立つ新緑色の保護溶液と長方形に切られた箱のようなポッド越しでなければ、清潔な銀白色で統一されたメディカルルームの様子も一層良く見えたことだろうが、首を僅かに傾けるくらいしか命令を受け付けない身体でランダーに確認できるのは、ポッドと壁の機器をつなぐコードの束と、絶えず不規則な波形を映し出しているモニターの一角だけだった。
視線だけを上へずらすと、ほとんど枕辺の近さに項垂れたホークの横顔がある。やつれ果てたような頬は心の無い冷たい塑像を思わせたが、こんな状態に置かれてもやはり、目を引くような美しい男であることに変わりはない。
『‥‥ホーク』
呼びかけると、声は全く別の方向から零れて室内に響き渡る。ホークは振り仰ぐようにして天井を、そして低い稼動音を上げているモニターの一つを見、繋がったコードを辿ってようやくポッドの中に力なく沈み込んでいるランダーを振り返った。
凍っていた表情が、ランダーの目を見返して優しく綻ぶ。子供をたしなめるような顔で、とんとんと咽喉仏の辺りを示してホークが発した声は、今度はポッドの内側に淡く反響してランダーの聴覚を満たした。
「音声回路をモニターに迂回させてるが、あまり喋らない方が良い。消耗するだけ組成修復が遅れる」
『修復‥‥?』
ランダーは呟いて、ただの鋼鉄の棒にでもなったような四肢の感覚を細い糸でも引くように手繰り寄せてみた。
痛覚が遮断されているおかげで苦痛は感じなかったが、自分の身体だ。怪我の程度がどれほどかは充分自覚していたが、動作、とも言い難い緩慢さで左腕がふわりと溶液の浮力で持ち上がると、視界に入ったのは鋼鉄族とも有機生命体とも呼べない鋼の筋繊維が剥き出しになった醜悪な外骨格だった。
胴も四肢も、おそらくは頭部もこの中途半端な状態になっているのだろう。
プリテンダースーツのアーマー形態を取る前は、それよりも放射エネルギーを効率的に維持できる鋼化筋肉体というヒューマノイド形態を経ていたが、今のランダーにはその段階すら保つエネルギーがないことになる。骨格に沿って特化した筋繊維が覆う鋼化筋肉体は、元々人体模型のような一種グロテスクな外見をしているが、それすら壊れているのではほとんど腐乱死体かそれに近いものにしか見えないはずだ。
気味の悪い自分の姿を想像して、ランダーは笑い出したくなった。もちろん、笑うこともままならなかったが。
ホークの手がポッドの透明な壁面に伸びて、そっとランダーのこめかみに近い箇所に触れた。
「ランダー‥‥頼むから、もうあんな無茶をするな。平気で命を張るような男じゃ、付いてくる女性もいなくなるだろ?」
『ああ‥‥俺に釣り合うのは、ボニー・パーカーぐらいだな』
その軽口にホークは気勢を削がれて、つい苦笑を零す。
「お前はクライドよりずっと良い男だよ」
『だと、思った―俺の方は死に損なったけどな‥‥』
「よしてくれ。どうしてそんな言い方、」
溶液の柔らかい抵抗を掻いて、ランダーはポッドの側面に指を滑らせた。カチリと指先が当たって、感触ではないただの震動が腕を伝う。
結局この身体は、金属の塊なのだ。
思い知らされただけのような気分で手を引き戻そうとすると、ホークの指が透明な隔たりを置いてランダーの手に重ねられた。地球人の擬体を取るその手は、今のランダーの掌より二回りほども小さく弱々しいが、ひどく懐かしい。
ランダーは、眠るフェニックスの額を撫でていたその指先の温もりを想いながら、その同じものを与えられる資格が自分にあるのだろうかと微かに怯えた。
こんな自分に?死を―自由だと思える人間に?
息を吸い込もうとして胸郭を広げると、溶液が沁みる。
『―俺は、』
え、とホークは聞き返すように首を傾ける。
『殺してきたんだ―大勢』
どうしてこんな時に話すのだろうと、ランダーは自分で発した一言に竦み、しかし躊躇を押し退けて、澱のように積もった暗い記憶の断片を紡ぎ出した。
―1100 million years ago―
思えば、両手で数えられなくなった時点で罪悪感に苛まれることも無くなった。ただ、最初から平気だった訳ではないと言う事実だけが、己への救いだった。
フィエスタ―無作為に選んだロボット奴隷達を闘技場に引き出して殺し合わせる、無慈悲と冷酷の権化である創造主達がもっとも熱狂的に行う娯楽の一つを、そう呼ぶ。
醜怪なクインテッサ星人で埋め尽くされた闘技場に連行された者に待っているのは、敗北による死か、勝者に与えられる褒美としての死、どちらかしかない。生き残れる者は皆無に等しく、よしんば永らえたとしてもそれは質の良い殺戮兵器として売買される為か、権力者の目に止まり、本人の意思に関係なくお気に入りの闘士に選ばれたか、という、奴隷としては唾棄すべき最悪の状況を意味した。
だとしたら、商品になる方が嘆く理由を探せるだけ、まだしもマシな運命なのだと、その事実にやっと思い至ったのは、ランダーの身体に同胞が流した大量の血と死臭が無視できないほどにこびり付いてしまった後だった。
殺さなければ、殺される。
いや、生き残っても結局は殺される。
―‥‥いっそここで、誇りを失わない内に死なせてくれ
そう懇願され、足元に倒れ伏した同胞の首を切り落とした瞬間の、あまりにも脆い感触と鈍い血の色が、初めて闘技場へ引き出された日の唯一残る鮮明な記憶。
一刻も早く楽になりたい。
爪先に這い寄る、自分と同じ奴隷の血を眺めながら、ランダーは死んだ男の願いと寸分違わぬそれを一心に願っていた。
勝利などいらない。歓声も、賛辞もいらない。
ただ楽にしてくれ、と。
姿も名も知るはずのない創造主の一人が戦いぶりを気に入って、殺さずにおけと命じたという話を聞かされたのは、放り込まれた共同仮設の狭い部屋から再び強制的に闘技場へ曳かれて行った時である。求められたのは、最後に勝利者として立っていること。
簡単な指示だ。眼前に現れた奴を殺せばそれでいい。たったそれだけだと言われ―従った。勝てば褒美と称して生きて戻れされたが、恐怖ではなく諦観で受け入れた生に喜びを感じることは、結局のところ一度としてなかった。
それから何度同じ場所へ立ち、命じられるままに殺し続けたか。
仲間達から
まるで、地に伏した黒い影に吸われるように。
―俺は生きてる訳じゃない。まだ死んでないだけなんだ。こうして罪もない同胞を殺しているように、いずれ現れる誰かが俺をこんな風に殺してくれる。報いを与えてくれる。その日がまだ来てないだけなんだ―
いつからか、ランダーはこう考えることにした。
楽になる為の体のいい偽り。だが、そんなものでも握り締めて縋りつくと、心は軽かった。
浴びせられる罵倒や憎悪に満ちた視線が、実際に身体を切り裂く訳ではない。そんなものではどうせ死なない。意味の無いものなら、笑ってやり過ごしてしまえばいいではないか。誰もが気味悪がるほど陽気に、近寄るのも嫌うほど嬉々として、無視する方が利口だと思うようになるまで。
「―まあ、いいから少し、ここでじっとしてろ」
しつこく近付いて来ては精一杯の薄汚い言葉を投げつける性質の悪い集団をいつものようにのらりくらりとかわすつもりが、あまり調子付くのが珍しく癪に障ってやり込めたのが失敗の元だった。激昂した数人に共同仮設の中を追い掛け回される羽目に陥っていたところを、有無を言わせぬ強引さで殺風景な個室の一つに引き入れた相手は、他人事のように落ち着き払ってそう言いながら配給の固形エネルギーに齧り付いて、ランダーを唖然とさせた。
一人分に割り当てられた個室は、狭いなどという形容が正しくないほどに窮屈で息苦しい。大の男が二人も並んで座っていられるような空間では決して無いのだが、ドアの側に陣取ったこの個室の主は、ランダーの為に道を開ける気もなさそうだった。
黙々と粗末な食糧を頬張るその横顔を眺めやると、闇の色とも影の色とも似ていない濃紺の色彩を纏った身体が身じろぎし、ああ、と今しがた思い出したような調子で言い足した。
「奴等、鬱憤晴らしに槍玉に挙げる相手を物色してるだけなんだから、どうせ一回りする頃には諦めるさ。俺も何度か的にされた」
この言い分にランダーは盛大に肩を落として、薄い笑みを刷く。親切ごかしの態度は迷惑なんだと、よくよく理解できるように態度で示さなければ、この手のおせっかいが引き下がらないことは経験済みだ。単なる興味と薄っぺらい正義感から出た善人面など、どうせ長くは保たないことも。
「心配してもらわくても、俺はこんなこと慣れっこだよ。お前―え‥‥と、」
「ダイバーだ。君はランダーだろ?」
ぱっと差し出された手を思わず握り返してから、ランダーは意地悪そうににやりとする。たっぷり皮肉を込めて、
「嬉しいねぇ。こっちが知らない奴まで俺の名前を知ってるなんて。使用料を請求したいくらいだ」
言ってやると、ダイバーは大して臆する風でもなく真顔で一つ頷いて見せた。
「それもいい考えだな。もっとも、俺には払えるほど余裕がないから、勘弁してくれると助かるんだが。ああ、出世払いって手もあるが、君はそんなに気が長そうじゃないな」
至って平然と告げる声音に、駄々っ子を諭すような柔らかなからかいが混じる。
ランダーは呆気に取られて、腰を浮かしかけたまま絶句した。予想外の反応をする相手と対峙する時の心構えなど、まったくしたことがなかったのだ。大体がそんな必要すらないと思っていた。蔑まれるだけが自分に見合った存在価値だと。
喘ぐように一息呑んで、ランダーは問うた。
「なんで、お前はこんな事をするんだ?」
ダイバーは低く笑って首を振り、怪訝な表情を緩めようとしないランダーの警戒心を、いや、と制した。
「喋る相手がいると、時間が過ぎるのが早くて助かる」
「俺が‥‥ッ―〝ルーター〟だと本当に知ってるか?!」
「‥‥そうだな。友人も死んだよ、フィエスタで」
「俺が殺したかもしれないぞ。この手はもう何十人も、」
命を奪った者の血で汚れた。
嘲るように吐き出して、ダイバーの眼前に突き出したランダーの両手は、撥ね付けられる代わりに差し出された固形エネルギーを一つ、掌に受け取っていた。棒状の精度も悪い配給の食糧は、軽いくせにやたらと冷たい。
握り締めると、ポキリ、と弱々しい音を立てて砕けた。
「何だよ、こりゃ‥‥」
途端に体中を駆け巡っていた敵愾心が萎えて、ランダーはぺたりと尻餅を付く。満足気にダイバーは頷いた。
「食べる間だけでも付き合えよ、ランダー」
「で、お喋りしろって?は、馬鹿馬鹿し―」
「前に見た時と、色が違うよな?」
唐突な問いに飛び上がってランダーは身を竦め、怯えたようにダイバーを凝視した。ダイバーの性格そのままのような静かな濃紺と対照的に、ランダーの纏った白銀には一点の瑕も曇りも無い。
この穢れを哀れむ色―望んで与えられた訳ではない、罪の色。血を浴びる為だけに着せられた、同族殺しの色。
ランダーの眼窩に湧き上がった様々な感情を覗き込んでいたダイバーは、ふと目を逸らして残りの食糧を口に放り込むと、注意深い声音でゆっくりと囁いた。
「そういう事も、話せる相手がいるといいと思わないか?」
―2029/7/8 7:31 Great Zimbabwe―
「‥‥〝逃げろ 逃げろ 振り向かずに逃げろ あの子の影を踏んじゃダメ〟‥‥」
花崗岩で出来た煉瓦の壁は、掌でなぞるとパンパの風に晒されてきた年月を感じさせる老いた肌のようにぱらぱらと細かく崩れて、フェニックスの歩調に合わせながら指の間を抜け、乾いた高地の地面へ戻っていった。
ジンバブエ共和国の中心を占める高原に、このグレートジンバブエ遺跡はある。低木と幾ばくかの疎らな草原に囲まれた遺跡は、そこだけが大地から突き出したような岩丘の上の『アクロポリス』とその裾野に位置する『神殿』、そして居住地跡の『谷の遺跡』からなる一群である。数メートルの高さに組まれた石壁はこの、一般に『神殿』と称される元になった円錐塔などの遺構を包む楕円の障壁を成す。
かつては聖書時代にまで遡る古代都市の遺跡と騒がれたこともあった場所だが、実際にはアフリカ土着の失われた幾つかの部族が、支配階級の転変に合わせて時代ごとに建てた増した遺構だということが証明され、世界的な史跡の一つとして知られるようになって久しい。
それでも頻繁に観光客が足を運ぶような土地と言えないのは、移動の手段が限られていることと、発展した都市部から離れれば離れるだけ安楽な暮らしに慣れた者とは相容れない世界が待ち構えているからだろう。
「‥‥〝その子の声を 聞いちゃダメ テニスコートの中は いじめっ子でいっぱい〟」
石壁に穿たれた数箇所の切れ目のような出入り口から出入り口へと、鼻歌を上せながら生まれたての羽虫のような危うさで歩き回っていたフェニックスは、歪なカーブを曲がった所ではたと爪先を押し留めた。
地平から浮かび上がったばかりの太陽が斜めに投げた陽で、明るく土色に照らされた壁の傍に、六、七歳ばかりの少年が立っていた。
黒曜石を溶かした色の瑞々しい肌に、同じ輝きを湛えた双眸。驚いた様子で僅かに開いた口元からは真っ白い歯列が覗いている。身に纏った木綿の半ズボンとペールブルーの半袖シャツは少し汚れが目立ったが、少年の放つ無垢さを損なうこともない。その両腕がしっかり抱えた大人用の前籠に、拾い集めた木切れが納まっているのを見て取って、フェニックスは微笑んだ。
一番近い集落でも軽く五キロは離れている。こんな早朝にここへ辿り着こうと思ったら、家を出る時はまだまだ薄暗さが勝っているはずだが、少年は籠を持ち、一人で黙々とここまで歩き通してきたのに違いなかった。
「―偉いな。家の手伝いか?」
知識に取り込んである幾つかの稀少言語を目まぐるしく探って、この地方に多く住むショナ族の口語でフェニックスが話しかけると、少年は短く呼気を吸い込んで頷いた。
前世紀にイギリス領植民地だったこともあるこの国では、もはや英語が公用語になってしまったから、まさか古くから続く一族の言葉で声をかけられるとは露ほども思わなかったのだろう。それも異国の―男でも女でもない、異質な裸身を憚る風もなく曝け出している相手から。
おずおずと、少年はフェニックスを見上げて彼等の言葉で喋った。
「歌が聞こえて‥‥貴方が歌ってたの?」
「ああ。歌、好きか?」
フェニックスがひょいとしゃがんで目線の高さを合わせると、少年の丸い瞳には畏れを押し退けて、子供らしい好奇心が湧き上がった。村の人間以外と口を利くことが滅多にない暮らしのせいでもあろうか、勢い込んだ口調が自然と弾む。
「母さんはたくさん歌ってくれる。お姉ちゃんも上手だよ。眠れない時はずっと横で歌ってくれるんだ」
「へえ、羨ましいな。俺のも母さんがくれた歌なんだ。ずっとずっと昔に、いつも聞かせてくれた」
「さっきの‥‥えーと、どこの言葉?まるで楽器の音みたいなの」
なるほど、地球語の音階しか解さない少年の耳には、フェニックスが口ずさんでいたセイバートロン語の音律は、見知らぬ楽器の奏でる音色のようにしか聞こえないのだ。
フェニックスは剥き出しの両膝を抱えたまま意外な事実にくすくす笑い、不思議そうに瞬きする少年の顔の前に人差し指を立て、天へ向ける。
「俺が生まれた国の言葉さ。ここから、すごくすごく遠い場所にある」
指先の示す方向を追って青々とした天空を眺めていた少年の、澄んだ両の瞳が驚いたように丸く輝き、フェニックスの顔をまじまじと捉え直す。
「―貴方は、精霊?そうでしょう?」
「俺が精霊?」
とんでもないことを言われたとばかりに頓狂な声を上げて吹き出したフェニックスに、少年は拗ねたように唇を尖らせ、だって‥‥とその裸身に視線を彷徨わせた。
くるりとした綺麗な目が語っている。白人のようだけれどそうは見えない―男に思えるけれどどこにも証がない―当たり前のように部族の言語を操る―そんな者が『ただの人間』であるはずがない、と。
そうだ、人間と感じられるはずがない。
そしてもはや、何者であるかもわからない。
フェニックスは笑い止み、もう一度少年に向かって立てた指を今度は自分の唇へ持って行った。しぃっ、と秘密を分け合う仲間にする仕草で沈黙を強いる。少年が緊張した面持ちでそれに従うと、
「本当の精霊を見せてあげようか?」
囁いて立ち上がり、少年を神殿の壁に穿たれた出入り口まで手招いた。フェニックスが滑り込んだ障壁の内側へ、崩れた煉瓦の欠片を越えて足を踏み入れた途端、少年の口から感嘆が漏れる。
白銀の煌きが視界を埋め尽くす。
神殿の跡を褥に、金属で組み上がった一体の巨人が仰向けに横たわり、小山のような影を落としていた。凄然とした造作の中にある、夕暮れ間近の燃える空の色をした双眸が天空を凝視し、駆け去る雲が切れ切れのグラデーションを映し込む。それは、さながら静謐な一枚の宗教画のようだった。
フェニックスは悠然とその巨躯に歩み寄ると、力なく地面に投げ出された一枚岩のような掌から腕へ、腕から腹へと身軽に駆け上がって行く。やがて、他よりも大きく膨らんでいると見える胸先まで登ると、振り返って少年を呼び寄せた。
「ここまで登っておいで」
「大‥‥丈夫?動いたりしない?」
「平気だ。今はとっても俺の機嫌がいい」
奇妙な言い方だったが、言うように、目を凝らしていても機械の巨人はぴくりとも動き出さない。少年は促されるまま、フェニックスが辿った通りに金属の山をよじ登っていった。
巨人の国に流れ着いたガリバーのような、いや、自分の方こそが小人の国の住人のような奇妙な感覚でようやくフェニックスの横へ登りついた頃には、少年の呼吸は健康的なリズムに弾んでいた。柔らかなその頬に光る汗に目を細めて、フェニックスは足元を指差しながらしゃがみ込む。
ドーム型にうっすらと隆起した胸郭の上に立っていた少年は、自分の足の下にある硬い感触に目をやり、不意にワッと叫んで飛び退いた。後ろ向きにたたらを踏んで転げ落ちそうになると、フェニックスの手が素早く伸びてきて、しっかりと幼い身体を引き戻す。少年は手を引かれ、その横にしゃがんで巨人の胸郭を覗き込んだ。
緩い弧を描く透明な蓋の下に鮮やかな若葉色の液体が満ち、無数の気泡が星屑のように立ち上っている。その只中に、少年と変わらない年頃の少女が浮遊しながら眠っていた。
思うままに伸びた四肢。どこか儚げな面差しに、絹糸のような長い髪。少年は、閉じた瞼の奥にある瞳の色が見えないことがひどく残念な気がして、隣で自分の様子を眺めているフェニックスの顔をちらりと盗み見る。
この青年は明らかに楽しんでいるのだ。生まれて初めて目にするものの前で人間がどういう反応を示すのか、知りたがっている。まるで純真な子供のように。
少年は背筋を伸ばして、今度はちゃんとフェニックスの目を見返した。
「この子が精霊?でも、どうして眠ってるの?いつ起きる?」
「もうすぐだよ。もうすぐ目を覚まして、役目を果たす」
「役目?」
「そう。どっちがいいか、選ぶ役目」
漠然とした説明に少年が小首を傾げると、フェニックスはその問いを振り切るように颯爽と立ち上がった。
逆光で黒く陰を纏った面に、それまで絶えず浮かべていた人懐っこい笑みはない。少年は頭上から注がれる酷薄な―感情の断片も垣間見せない人ならざるものの視線に気圧され、指先が痺れるのを自覚する。
大気に混ざる砂と太陽の匂いは、佇むフェニックスだけを嫌って逃げていく。それは錯覚ではなく、この地で生まれ育った少年が五感で得た現実だった。
不確かな物の形を手探りしているような声音で、フェニックスが静かに問うた。
「君はこの世界が好きか?涙より血の流れる量の方がずっと多い、こんな矛盾した世界が―」
少年は長い間、仮面のようなフェニックスの表情を見上げた後、ふっと悲しげに眉根を寄せて首を振る。
「‥‥わからないよ‥‥」
訳もなく眦から溢れそうになる涙を堪えたせいで、応えはか細く震えていた。
恐ろしいのではなく、悲しいのだ。どんな言葉を駆使しても、求められている「回答」に辿り着けない。自分にその資格も力量も無いことが自覚できるから、答えを運んできてくれる精霊が目覚めるのをひたすらに待ち侘びている青年の、その胸に抱える闇の深さがただ悲しいと思った。
「僕には‥‥わからない」
陰の中から伸びて来た大きな手が、ごめんな、という囁きと共に少年の頭をそっと撫でた。
―2029/7/8 6:01 The Moon―
ラグランジュポイントに迎えた戦艦エルミニアを左舷側に牽引すると、スターセイバー達の乗った戦艦タンクレディは渡り廊下状のパイプを突き出して、あちら側から差し伸ばされたパイプと緩慢な動作でドッキングを完了した。遠目にはただの円柱が横たわっているような感じだろうが、接続が終わった瞬間に、艦艇の表面をコーティングしている流体弾幕層が螺旋状に絡み付き、不意の攻撃にも耐え得るだけの強度が保たれる。
後発させた部隊から、デストロンがアステロイドベルト内に密かに配備させていたと思しき長距離砲や遠隔兵器の類はすべて排除したと報告を受けたが、第二、第三の手を布いていないとも限らず油断はならない。休戦を先に言い出したデストロン側が手段を選ばないとなれば、協定と言う一語はただの曖昧な口約束に過ぎなくなるのだ。デストロン陣営がそれだけ、あの〈サイコ〉の能力を恐れているのだとすれば、サイバトロンが劣勢と見た途端、一挙両得とばかりに攻撃をかけて来ることも大いにありえる。
戦況が長引けば、それだけ不利。同時に、地球の各地で度を増しているトランスフォーマー排斥デモへの対応もある。事実、事を重く見た国連が急遽、総会の為に駐在大使へ招集をかけ、第一方面軍司令官であるブラッカーの元へも出席の求めが通達されたが、ブラッカーはまだ返事を渋ったままでいた。動画サイトに流出した画の意味を問われて、上手く言い逃れる自信がない以上、できことなら避けて通りたいという心理も然ることながら、いま前線を離れたくないと言うのが性格的に第一の本音であるようだった。
「‥‥離脱者はどのくらいになりそうだ?」
パイプ内の設定重力を両艦に合わせて安定させる少しの間、スターセイバーは揚陸用の通路に続く扉が開くのを並んで待つブラッカーの横顔に問いかけた。この数時間、自問自答の渦中に引き篭もって、ずっと小難しい表情のままでいたブラッカーは、数瞬遅れて到達したその問いに、は、と短い声を上げて振り返る。聞き直すかと思ったが、
「報告に上がってるのは八十三人だな」
と、回答は明確に戻った。
予想していたよりもずっと少ない数字にスターセイバーが驚いたような視線を迷わすと、ブラッカーは肩を落とし、半ば呆れた声が続いた。
「意外ですか?付いて来たくない奴は出て行っていいと言って、実際にそうした奴等が百人もいないなんて」
「そうだな、ちょっと‥‥」
「先の戦闘で負傷離脱した者が二二〇〇ほどだから、次の指揮下に入れるのは六〇〇〇名程度。実働ならその半数。貴方にそれだけ人望があるって事なんだから、素直に喜んでくださいよ。でないと、残った者の士気が下がります―きっとお人好しが多いんだな」
その素っ気ない蛇足に、言った本人も含まれているのだから笑うに笑えない。
ゴン‥‥と低く唸って三重の分厚い扉が開き出すのを真っ直ぐ見詰めながら、スターセイバーは知りたくないことのように問い返した。
「ビクトリーレオの側に付こうという者はいないだろうか?と言うか、ジンライに」
「気にしてるのか?」
「なるべく、気にしないようにはしてるが」
ガラタの谷で対峙したゴッドマスター達に、素体だった地球人が融合されていたという話が広まるにつれ、スターセイバーと互角に―結果的にはそれ以上に―渡り合ったジンライの高い戦闘能力に対して、尊敬や畏敬の念を口にする騎士達が一部に現れている。友を救う為に、命すら顧みない無謀な戦いに飛び込んでくる勇敢さ。これではどちらに正義が、道理があるのか。
そこへ持ってきて、スターセイバー自身が軍全体の命運を左右しかねない二度目の総力戦を示唆したのだ。元老院との反目も誤魔化しようがないほど表面化している。宇宙軍総司令官に従うのは軍人の職務だが、自身で明言したように、スターセイバーが更に上の者達の意図によって職を解かれた場合、傘下にあった者は同罪と見做される可能性が高い。
だが、軍籍を剥奪されるかもしれないと恐れて離脱するなら、まだいいのだ。むしろ危険は、スターセイバーへの不信感を抱いたまま残る者にある。たとえ数人であろうとも、命運を決するぎりぎりの場面でビクトリーレオ達に加勢されるような事態を招いては、フェニックス救出のためにこれから成そうとしている一世一代の賭けが根本から瓦解してしまう。
指揮下の者達にすべてを明らかにできるなら、それが一番いい。しかしそれは出来ない選択だった。すれば、トランスフォーマー種自らが永い歴史の溝に埋めてきた負の記憶と遺産が白日の元に晒される。自分達が何を屠ろうとしているのか、知ればサイバトロンは軍隊としての意義を確実に見失うだろう。そんな事態だけは避けねばならない。そして同時に、歴史の闇にフェニックスを、彼の愛する者達を追い落とす訳にはいかないのだ。
皮肉なものだ。結局、武力でないものが必要だなどと。
「―足りないな。何を成すにも」
「だから、国連でだらだら弁解してくる余裕はないと言ってます。本当はこうしてる時間だって、俺の性には合ってないんですからね。フォートレス・ロードのお話どおりなら、この一瞬にだって彼は、」
俄かに冷たいものを押し付けられたような顔をして、ブラッカーは口を噤む。下官の中にはブラッカーの直情的な性格を無頓着と取り違える者もいるが、実際は他人の受けた痛みまで強く感じる、情の細かい男なのである。
《彼は得難い友人ですね》
そっと聴覚に降りた言葉でスターセイバーは微笑し、ブラッカーを挟んで佇むウルトラマグナスから放たれる、淡い輪郭を掠め見る。
ブラッカー自身は、守護霊体であるウルトラマグナスの存在を直接感じることはできない。それでも、ガラタの谷でルグのエネルギー波を四散させた干渉体が確かにあった現象を鑑みて、理解はしているようだった。といって特に態度や口調が改まる訳でもないところが彼らしいのだが、ウルトラマグナスはそんなブラッカーを気に入ってくれたらしい。
両艦の遮蔽扉の開放を告げるコールが鳴り止む。
途端、通路の向こうから飛ぶように駆けて来たジャンの姿が、踏み出そうとしていたスターセイバー達の足を止めさせた。二人の元へ飛び込んできたジャンは息を乱し、後ろから小走りに追ってくるパーセプターを形ばかり振り返って確かめると、スターセイバーを真っ直ぐに仰ぎ見た。しかし真一文字に結んだ唇は開きかけた瞬間に、無言のまま結ばれる。
スターセイバーは、ジャンの沈黙を謝罪と受け止めた。
グランドに協力し、月基地からランダーを逃亡させることが可能だった者の見当なら、状況を把握すれば明らかだ。ましてガラタの地でどれほどの惨事が起こったのかをエルミニアで見ていたなら、ジャン自身が認めずとも、すでにしでかしたことを後悔しているだろう。
今さら、起こってしまったことを責めても取り返せない。ジャンが胸の内に詫びの言葉を抱えているのなら、それで許そうとスターセイバーは決めていた。
久しぶりに見る、画面越しでない息子の凛とした表情は、すっかり頼もしい若者に変わっている。地球人に流れる時の速さを不意に自覚して、スターセイバーは切なさに狼狽した。
「私は無事だよ、ジャン。―随分背が伸びて、見違えたな」
「総司令官―あの―」
「もう知っているだろうが、怪我をした者が大勢いる。パーセプター殿が治療をなさる間、手伝って差し上げなさい。勉強してきている範囲で構わないから、出来るだろう?」
「はい‥‥ええ、出来ます」
頷きながらジャンは眉根をひそめ、総司令官への目礼もそこそこに慌ただしくタンクレディ内へ入っていくパーセプターの後を追って、スターセイバーとブラッカーの間を逃げるように急いですり抜けた。
「ジャン、ラスターの怪我が酷いんだ。付いててやってくれ」
「わかった。副官も無茶しないで」
どうか誰も、これ以上傷付かないで。
振り返りもせずに返った、力のない寂しげなジャンの声音は、心からそう願う深い祈りのように聞こえた。
誰よりもそれを望んでいるのが、スターセイバーなのだとは知らないままで。
「―二十分後に作戦会議を始める。将官に通達を」
「了解しました」
二人は敬礼と同時に踵を返し、互いに背を向けて通路の左右へ歩き去った。
《ロディマス、君が彼等の選択を知ったら、どれほど誇りに思う事だろうな》
ウルトラマグナスは両方に離れていく二つの背を見送りながら、胸元に掲げた清浄な青の光輝に目を落とす。
包み込むように両手を差し上げると、掌を満たした彩はその色合いに反して焔のように熱く、薄れることのない長い記憶の一辺を小波のように揺さぶり起こした。
―2010/―/― 22:59 Planet Cybertron―
「ロディマスッ、もう止めろ!」
羽交い絞めにして止めさせなければならないほど、火炎の図案を塗装したロディマスの胸部外装には、彼自身が闇雲に付けた無数の掻き傷がひしめいていた。
目を疑うような思いで、しかし慰めの言葉が見つからずに手をつかねている間に、ウルトラマグナスの眼前でロディマスの身の内を嵐のごとく蹂躙していった激情は、力任せに押し止めると不意にぱったりと途切れてロディマスを空虚に投げ落としていった。
煮え立っていた血のすべてが抜き取られ、抜け殻になってしまったように、どすん、とロディマスの身体が寄りかかってくる。自分の足で立つことも放棄してしまいたいのかと、一瞬ウルトラマグナスは妬ましい想像をし、湧き上がる懼れから必死に目を逸らして友の身を両腕で支え直した。
「ロディマス―」
頭一つ分低い総司令官の身体は思ったよりもずっと軽い。ウルトラマグナスはその顔を覗き込もうと首を傾げてみたが、顎の下に潜り込んだロディマスの表情は影を帯びて、盗み見られることを敢然と拒んだ。
無理もない。コンボイが死んだのだ。
ロディマスの前で、また。
すべてが偶然の出来事だったのか、それとも計算され尽くした運命とやらの悪戯だったのか、現世を生き抜くだけで手一杯の自分になど判断しかねる命題だと、ウルトラマグナスは薄く自嘲した。
ガルバトロンの強襲に合い、不時着した人工構造衛星がサイバトロン戦士達の墓地だったことも、そこにコンボイの亡骸が眠っていたことも、そして先にそれを発見したクインテッサ星人がコンボイの人格プログラムを書き換え、再生させていたことも、悪い夢であればよかったのだ。
ロディマスから、宇宙軍総司令官のみが所有を許される叡智マトリクスを取り戻したコンボイは、クインテッサの悪辣な洗脳に従わされるまま、サイバトロン軍を死地に招き入れた。紙一重のところでクインテッサの奸計を破れたのは、コンボイを止めようと挑んだロディマスの力ではない。僅かに残ったコンボイ自身の、自我を形作る強靭な意思が卑劣な洗脳を解き、ロディマスとサイバトロンを救ったのである。
コンボイ自身がクインテッサもろとも自爆して果てるという、最悪のシナリオで。
ロディマスは、しかし毅然と振る舞った。英雄コンボイを再び失うという悲劇に動揺する騎士達の前で語り、慰め、鼓舞し、総司令官としての役割を過たず果した。非の打ち所のない完璧さ。ロディマスは己の感情を切り捨てて、全軍を率いる唯一無二の総司令官として望まれるであろう姿を演じ切ったのだ。
だが、アセニアへ帰還するまでの仮の執務室に充てられた寒々しい一室でウルトラマグナスと二人きりになった途端、ロディマスは溜め込んでいた澱みのような感情を一気に爆発させ、自身を傷付けるような無謀な行為に走った。
ロディマスが「総司令官」である為にどれほど己を殺していたのか。ウルトラマグナスは現実に愕然とした。誰でもない、そうあれと望んだのは私だったではないかと、今更ながら苦痛を強いた自分を罵った。
「もう‥‥大丈夫だ。立てるよ、マグナス」
ウルトラマグナスの腕の中で、ロディマスの両肩が深呼吸と共に上下する。大きく、負った何かを滑り落とすように。
やっと絞り出されたか細い声に促され、ウルトラマグナスは黙って、支えていた友の身体を解放した。慎重に、ロディマスがまた身体を苛むようなことをし始めはしないかと、視線を外さずに見守る。
ロディマスはしばらくぼんやりと佇みながら、足元に蟠る薄い影の底を見つめ、ああ、と急に、細切れになっていた記憶の断片が一続きの形を成したことを実感したように、低く呟いた。
「私はコンボイ司令を救えなかった。守って差し上げたかったのに、また私は―何も―」
「どうして自分ばかりを責めるんだ。コンボイ司令はクインテッサの手に掛かって、サイバトロンを壊滅させるように命令されていた。だが、ご自分の意識の中に辛うじて踏み止まって、君や我々を身を賭して救った」
「命を棄てさせたんだ。私がしっかりしていれば、せめてそれは避けられた。そうだろう?」
「仕方のない事だったんだ。司令はご自分を犠牲にする事で、サイバトロンへの忠誠とあの方自身の名誉を守った」
「名誉だってッ?!」
思ってもいなかったほどの甲高い叫びに気圧されて、ウルトラマグナスは咄嗟に扉の方へ視線を走らせる。ロディマスの声を聞きつけて誰かが入って来たら、醜態を見らてしまう。総司令官と副官の諍いなど外聞のいいものではない。
ウルトラマグナスは、真っ直ぐに睨み返してくるロディマスの両肩をそっと包んだ。掌の下で、ロディマスの身体が拒絶のように強張る。まるで自分自身を否定されているようだと、ウルトラマグナスは思い知った。
ロディマスと出会った瞬間から、決して枯れることなく心の隅の闇に根を張って居着いてしまった、一つの確信。
どんなに傍にあろうとも、ロディマスが追い求めている腕は、声は、ここにないコンボイのそれなのだと。二人の間に立ち塞がる、形の無い人の影。時折こうして現世に立ち戻り、まざまざとその事実を突きつけていく、コンボイの影。
慰めが意味を持たないことなど解りきっていた。ロディマスにはコンボイが必要なのだ。自分ではなく、あの勇者が。影であろうと幻であろうと、悪に成り下がっていようとも。
友の肩を縋るように掴んだ十指が凍える。ウルトラマグナスは自分の声が冷静さを保っているかどうか、一音ごとを確かめながら紡いでいった。
「あの結末を選んだのは、司令ご自身だ。君の努力が足りなかったからではないし、もし悔やむのなら騎士達すべてがそうするべきで、君だけが背負うものじゃない。司令は君にそんな事を望むか?」
「望まないだろうな‥‥でも、名誉なんて言葉で綺麗にしてほしくない」
「綺麗?」
「そうだろう?」
ウルトラマグナスを挑むように見返したロディマスの眸は、微かな自嘲を含んだように揺らいだ。
「〝死〟に名誉なんて無い。それは生き残ってしまった者が、自分を納得させるために作り出した幻想だ。死んでしまったら、終わりなんだよ。死者には名誉も汚名も無い。どんなに望んでも二度と会えないって現実が残るだけだ。それならどんな形でもいい、生きて―生きてさえいてくれたら、」
それが本心なのだ。失いたくない存在を得た人間の。
何故この気持ちが理解されないのかと、ただそれを言葉に変換しかねて苛立つロディマスの眼窩を覗き、ウルトラマグナスは握り締めていた友の肩を離した。指が戻る先を忘れたように宙を泳ぐ。
私にそれが解らないとでも?
真一文字に結ばれたウルトラマグナスの唇は、吐き出しかけたその問いを飲み込む。重荷になると解っていて、ロディマスに言える筈などなかった。
君を生かす為なら、私も死を厭わない、と。
これは欲望とは違うだろうか。
「戦場では死を許容するよりも余程、生かす方が難しい。でも生かす道があるなら私は、誰であっても生きる方を与えたいんだ、マグナス。誰であっても!」
突然伸びて来たロディマスの手が、ウルトラマグナスの腕を掴む。今度はロディマスの方が縋るように、指先へ力が満ちた。コンボイを探していた視線が初めて、ウルトラマグナスの面に固く結ばれる。
「私はとてつもなく馬鹿な事を言ってるかもしれないが、君が隣に居てくれるなら、きっと努力できると思う。君はずっと、私を見ていてくれるだろう?」
「‥‥私なら、決して離れないとも」
正しいか正しくないか、そんなありふれた解釈はいらない。ロディマスが生かしたいと望む限り、私は肯定する。
ウルトラマグナスは手を伸ばし、悼むように、ロディマスの胸を醜く走る無数の傷へと触れた。
《続く》