またジンライさんが頑張っています!
―2029/7/8 8:41 New York―
まず一通り、当たり障りのない前置きを済ませると、キャブは一旦間を取って、国際連合本部議場に居並んだ各国の面々を見渡した。
急な召集だったにもかかわらず、それぞれの席には駐在大使よりも国家の外務を司る省庁長官か、それ以上の地位に居る大臣、キャブと同じ国家元首本人の臨席が多く見受けられる。その顔ぶれだけで今回の議題―トランスフォーマーの地球上における先戦闘の正当性について―が、どれほど重要な問題を孕んでいるか、それに対して各国がどんな姿勢を打ち出すつもりでいるかを、およそ推測させた。
演台を正面に幾層もの半弧を模る議席の端には、トランスフォーマー用の巨大な議席が一つ設けられているが、臨時会議が始まってから一時間近く経とうとしている今も使者一人姿を現さない。常なら地球側への配慮を怠らない第一方面軍が黙殺を決め込んでいるという状態そのものが、サイバトロン側の応えなのだ。論じる気はない、論じても始まらない。そう考えているのだろう。地球に厄災をもたらした〈サイコ〉は今やサイバトロンにとって、フェニックスという同胞を拉致した『デストロンの脱獄囚』ではない。敵、になったのだ。
敵―この言葉は嫌だと、キャブは軽く頭を振って、その不吉な単語を掻き消す。
動画サイトから流出した映像は、どう好意的に見ようとしても最悪だった。同士討ちの果ての、長距離砲攻撃による地表面の破壊。あれだけの火器をもってして〈サイコ〉を取り逃がすという失態。これは〈サイコ〉自身の潜在能力をわざわざ形で示しただけでなく、これまで何らかの被害を受けた都市、パリやロンドン、他でもないここニューヨークに暮らす人々に、更なる怒りとトランスフォーマーへの嫌悪感を植え付けるものになってしまった。そして、逃亡を続けている〈サイコ〉が次に自分の暮らす街に現れたら、という恐怖を世界に蔓延させたのだ。
全世界の民衆は確実に、かつてないトランスフォーマー排斥の方向へ動き出している。それを堰き止められるかどうかが懸かっているはずなのに、サイバトロンとの共存共栄がこの半世紀の間にもたらした民族対立の収束や世界情勢の安定は、彼等への正統な評価から除外されてしまっていた。
会議がマスコミ非公開で執り行われているのは何も、サイバトロンへの配慮ではない。世間の反応を見た各国が、自国の主張を大衆に知られて不利な立場に追いやられないために張った予防線だ。
だが感謝しなければなるまい。おかげでキャブも憚る必要なく、力強い声を張り上げることができるのである。
「サイバトロンを受け入れ、友好的に過ごして来たのは、太陽系外からの脅威に対する保身の為だけではなかったはずです。今回は確かにサイバトロン同士の戦闘も確認できましたが、相対的には、各都市に現れた件のトランスフォーマーを全力で捕獲しようと努めた結果ではなかったでしょうか?現に大気圏外からの長距離攻撃はデストロン側が休戦を反故にし、独断で行った事と説明があったとか。トルコ政府には於かれては想定外の被害を受けられた事、御心痛お察しいたしますが、大都市への被害が避けられたのは貴国の尊い協力あってこそです。であれば、此度の一件で被られた損害については我が国を含めた各政府が、精一杯の援助をお約束しますでしょう。それは他の、被害を受けられた国々へも同様に。ですが、これをサイバトロン軍のみの責任と考えるのはいかにも稚拙です」
サイバトロンがもし太陽系から手を引いても、デストロンにとってはまったく関係がない。異種接近遭遇を果たしたばかりの頃は、サイバトロンが地球を去れば芋蔓式にデストロンも撤退するだろうと考える一派もいたらしいが、今ではそれが楽観主義の幻想だということくらい周知の事実である。
だが、実際の脅威を見せ付けられた後では、サイバトロンもデストロンもない。席を埋めた者達はキャブの言葉を拒絶するように、あるいは卑屈に目を背け、現実から逃れる方向へ舵を切って、脅威が拡大すれば掌を返して被害者は自分達の方だという顔をしている。しかしこれが地球人の本質だ。そして自分も、抗わなければその一員に成り下がってしまう。
「‥‥サイバトロンは確かに、我々を恐れさせる行動を取りました。でも今、問題にすべき事柄は別にある。例のトランスフォーマーとは別に、造反者として追われているトランスフォーマー達がいる事実です。サイバトロン側から通達を受けた時、御列席の各国は彼等の捕縛依頼を何の疑いもなくお飲みになったでしょうが、何の咎で、何の謂れで捕まえなくてはならないのか、少しでも彼等がサイバトロンを離れなければならなかった理由に思いを馳せた方はおられますか?」
静まり返る議場の生温い空気を裂くように、議長席から手が差し上げられた。アフリカ系の濃い肌に白い髭を蓄えた議長は腰を浮かし、探るように慧としたキャブの眼を見返した。
「貴国は我々に何をお望みなのです?」
「真実に目を向ける機会をお持ちいただきたいのです、議長。今、真に取りうるべき行動とはなんなのか。恭順だ排斥だと大きな流れに乗っている私達の、地球人の誇りはどこへ行ったのか。槍玉に挙げていて脅威が去る訳ではないからこそ、自らの眼で全体を眺めなくては始まらない」
「傍観、という事ですか?」
「いいえ、見定めていただきたいのです。どこにどんな真実が隠れているかを。それが判れば自ずと、地球を代表する生命体として取るべき行動が見えるはずです」
議長の頬に刻まれた深い皺の陰に、短い呼気が漏れた。続けて発言しようとする者は誰もおらず、押し黙ったままの数分が無為に過ぎていく。
「‥‥一時の休憩を提案したいと思いますが、皆さん。カリン王国政府の見解に対して、自国の意見をまとめる時間が必要でしょうから」
他国の出方を牽制して及び腰になっている議員達を見回して、議長がなだめすかすようにそう告げると、明らかな安堵の気配が議場を包んだ。列席者達は否やもなく肯定の声を上げ、引き止められる前にと三々五々散らばっていく。
背を向けて立ち去る要人達を睨み付けながら演台に立ち尽くしていたキャブを、最後まで席に残っていた議長が哀れみの目線で促す。キャブは叩き付けたい拳を必死に収めて、演台から滑り降りた。
これぐらいで腐ってなどいられない。聞く耳のない者に言葉を届けることがどれほど困難か、国を出る時に覚悟してきたではないか。一石でも投じれば波は立つ。ゆっくりと止まらずに波紋が広がる。その小波がうねりを作り出すと信じて、繰り返し説いてゆく他ない。
絨毯敷きの床に跳ねる踵の軽さに眉をひそめながら議場を出たキャブは、いっぱいに朝日の差し込むモダンな廊下のそこかしこで渋面を突き合わせている者達の横を大股に抜け、ロビーへ続く広階段へ出た。その姿を見止めて、建物内部の要所を固める黒いスーツ姿の警護官の群れを抜け出した影が一つ、するりと近付いてくる。構わないでくれと告げる代わりにキャブが追い払う仕草をした瞬間、聞き慣れた低音が近頃では親しい者しか口にしなくなった子供の頃の名を、穏やかに呼んだ。
「キャブ、私だ―わかるか?」
「―グランド?!」
キャブは叫んだその口を慌てて押さえ込む。
プリテンダースーツを脱いだグランドは地球の衣装を身にまとい、よく居る警護官の一人に見事に溶け込んでいた。これまで直接目にする機会がなかったせいで、灰色がかった茶の髪をきっちりと整えた容姿には馴染みが薄かったが、温和な眼差しとキャブを呼ぶ声は変るはずがない。
「グランド、何でこんな所に?みんな一緒に来てるのか?あの、例の映像は見たけど、あれじゃ何が何だか俺、」
見咎められないようにグランドの袖を引いて廊下の角に引き込むと、キャブは声を潜めながら口早に問うた。グランドは苦笑しつつ、あっという間に立派な青年へと成長してしまったキャブの肩を、そっと叩いて言った。
「ここには私一人で来た。ホークとダイバーは反対したが、君に協力してもらえないかと思ってな」
「どういう事?」
「実はランダーが酷い怪我を負ってる。手元に置いておきたいが、追手がいつかかるかわからない状況で連れ歩くのは治療の妨げになるし、彼の命を危険に晒す。それで最低限の回復が済むまで、カリン島に彼を匿ってほしいんだ」
言って、グランドは素早く腕の通信機に眼を落とす。小さなパネルの中でデジタル表示が時を刻んでいた。
「今、ジンライがビクトリーレオと一緒に海中ルートで彼を運んでいる。ついでにジンライ達に休息をさせてもらえたらありがたい」
「今って‥‥カリン島まで後どれくらい?」
「およそ十五分ほどで領海に入る予定だ。もちろん君の国にとって迷惑ならそう言ってくれ、構わないから」
「水臭いな、そんな訳ないだろ」
キャブは携帯電話を取り出すと短縮番号を押し込み、コール音に耳を当てながらウインクした。
「本島より〝神の島〟の方が隠れるには都合がいいよ。南側の入り江なら岸壁の陰になってて衛星からも見え難いし、民も国の許可がなければ立ち入らない場所だから、ジンライにそう伝えて。島にはすぐに―」
数回目のコールが途切れた瞬間、キャブは携帯を耳に押し当てると、相手の応えも待たずに弾んだ声を張り上げていた。
「秀太!〝神の島〟に行ってくれ、今すぐ!ああ、今すぐだよ!」
―2029/7/9 1:24 Kingdom of Karin ―
カリン島の沖合い三キロほどの位置に寄り添うように浮かぶ周囲五キロほどのそこが、カリン王国国民が聖域として、二十一世紀を迎えた今もって神聖視する小島〝神の島〟。
島のほとんどは手付かずの熱帯雨林に濃く覆われており、無論、人の通う道などはない。いくつかの自然石で出来た洞窟と、その周囲に残された最初期のメラネシア文明を忍ばせる遺構があるきりで、実はそれすらも半分方が崩落、あるいは破壊されている。
マスターフォース戦役の始め、デストロンが地球人を兵士として洗脳し、戦力の一端を担わせようとした事件の折に、この南海の無人の孤島がその拠点に使われたのだ。幸い、デストロン側の卑劣な企みはホーク達によって打破されたが、その時の戦闘が島のあちこちに残されていた遺物を壊滅してしまったのである。だがこの出来事が、生まれた場所も育ちも違う秀太とキャブを引き合わせたのは、思い返せば運命的な必然だったのかもしれない。
その変え難い友情の一つが始まった思い出の地は、時刻のせいか、感慨深く眺めるにはどこもかしこも暗過ぎた。秀太が本島の港から乗って来たホバークラフトの動力を切ってしまうと、船体を着けた入り江はまた闇に閉ざされ、ジャングルも海岸線も淡い月明かりの下に一筆書きのような輪郭だけを残して静まり返り、文明から隔絶された様相を取り戻す。
懐中電灯一つの明かりを頼りに、グランドから指定された岸壁沿いの洞穴を見つけ出すのは時間が掛かった。引き潮のおかげで今はごつごつした浅瀬になっているが、入り口から数十メートルほど奥までは満潮になると腰の高さまで海水が上がり、容易に入り込むことは出来ない地形になっていると言う。潜行するには良い場所だが、夜中の訪問はこれきりにしたいものだと、秀太は苦笑しつつ照明を最強に切り替え、ぬめって滑りそうな足元から洞の奥へ光を投げ入れた。
すぐさま強烈な一条の光線が延びて秀太をスポットライトのように照らし出し、逆光の中から「よくきたな」という安堵の声と共に影が進み出た。
「‥‥ジンライ、思ったより調子良さそうだね」
その言葉に、こんな現状に不釣合いと思えるほど普段どおりの軽装で現れたジンライは、秀太の肩を軽く小突いた。
光線の強烈さに目が慣れると、ジンライの肩越しにその照明を付けている本人、獅子形態を取って蹲るビクトリーレオの巨体が見て取れる。更にその横には、真闇を怖れる様子もない真っ白の長方体が、磯臭い岩肌を押し退けるようにして鎮座していた。大きさはざっと船舶用のコンテナほどもあるだろうか。
「よお、秀太。そっちの調子はどうだい?」
「まあまあだよ、ビクトリーレオ。このところ、ニュースはあまり見てないから」
暗に皮肉を混ぜて軽口を返し、秀太は長方体へ歩み寄る。懐中電灯の丸い光を当てながら手を這わせ、どこかにある継ぎ目を感じ取ろうとしたが、表面には僅かな凹凸もざらつきもない。完璧な精度の『箱』だった。
「この中にランダーが?グランドに聞いてはいたけど、こうやって見ると変な感じだな。怪我‥‥そんなに酷いの?」
「胴体が千切れる寸前だったんだ。本当なら〝カーゴ〟ってのにパーソナルコンポーネントを移して治療しなきゃならないらしいんだが、マキシマスの設備じゃ無理なんだそうだ。ただ安静にして、自己修復が進むのを待つしかないって」
「ここに匿っていれば、ゆっくりでも治るって事だね」
「どのくらい時間がかかるかは判らないが、治るだろうとは言ってる」
「治るさ、一番長生きするつもりなんだって、前にランダー言ってたし。三人を置いては逝かないよ‥‥絶対」
大丈夫、という呟きは自身に向けたものだったのか、秀太は肩越しに振り返ると洞の入り口を目顔で示した。
「一応、食糧とか本島でありったけ掻き集めてホバーに積んできた。それから着替えも少し」
「ああ、助かる。ビクトリーレオ達と違って、どうしても俺達はメシを食わなきゃならないのに、そうそう買い出しって訳にはいかなくてな」
「クラウダーが教えてくれた海底施設に戻るの?」
「地上に出ればいつ走査に引っかかるか判らない。まあ、海中も安全とは言えないが、サイバトロンも空ほど勝手に動き回れないようだしな。特に今は」
領空の問題よりも、潜行してしまうと姿が確認できなくなる領海の航行の方が、各国からの反応が厳しい。ビクトリー戦役後は特に航行途上の各国に速やかな通達が必要とされ、その為にサイバトロンの偵察部隊も人数が限られていると聞く。現状では増員を望んでも簡単には了解が出ず、すべての公海を網羅するのほぼ不可能だ。
「サイバトロンにも〈サイコ〉にも気取らせないように、ここへ俺達が来るのは今夜が最後だ。守ってやってくれ、秀太」
ゆるりと鼻面を突き出したビクトリーレオの声に、秀太は純白の壁面から手を離し、獅子の鼻先を撫でた。
サイバトロンと〈サイコ〉が接触する度、事態は加速度的に悪化する一方。反トランスフォーマーの動きが蔓延する世界には、一縷の希望も見出せないかに思える。一度は、窮地に飛び込むジンライ達の力になれない自分の弱さを呪った。キャブもミネルバもそうだ。しかしキャブは己の発言で世界に一石を投じようと奔走し、ミネルバは今起こっている〈サイコ〉の一件がどこで捻じ曲がってしまったのか、考えられる限りの各国報道機関に論説を送り続けている。秀太もまたサイバトロンとの技術交換を提携している研究機関や政府の知人を介して、漏れ伝わる軍内の情報を地道に探っていた。
仲間達は誰一人、フェニックスの奪還を諦めていない。サイバトロンと〈サイコ〉、そのどちらにも屈するつもりがないのなら、想いは一緒だ。たとえ―
秀太は心臓の震えを覚られまいと、ビクトリーレオの鼻先から指を引き戻す。視線を返すとジンライが想像の先を押し留めるように首を振り、そうだ、とおもむろにジーンズのポケットから取り出した紙片を秀太の手に握らせた。
折り畳まれた紙切れに見えたそれは、開くと綺麗に切り離された小切手の一枚だった。金額の欄に七つのゼロが規則正しく一列に並んでいるのを確認し、秀太は思わず目を剥く。
一八〇〇万。通貨記号はアメリカドル。誰もがぽんと記入できるような金額ではない。手書きの字体には見覚えがあったが、署名欄に記された名はまったく見知らぬものだった。
「何、これ―それにこの名義、オラフ・チェンバレンて、」
狼狽気味に問うと、その反応が普通だと言わんばかりの苦笑を交えてジンライが頷いた。恐らくは、これを受け取った時の彼も同様の慌て方をしたのだろう。
「スイス銀行にあるダイバーの偽名の口座にそれくらい入ってるはずだから、ケイマンの個人投資銀行で換金すれば、疑われずに引き出せるだろうと言ってた。これから先、困った事が起きた時はそれで良い様に始末を付けてほしいと‥‥それから、キャンサーに」
小切手の中の生真面目な筆跡を、秀太はほんの一時、硬い表情で見下ろす。
ジンライがすべてを告げなくとも理解できる。ダイバーが偽物の名を記したこの紙切れに何を託したのか、それがどんな形の結末を予測したものなのか。望まずとも訪れる最悪は確かにある。ダイバーはそれに立ち向かっているのだ。いや、受け入れようとしていると言ってもいい。
運命、というものが存在するのなら。
「キャンサーに―うん、俺から話すから、安心して」
「何から何まですまないな」
「でも、預かっておくだけだからね、今は。こんなお金、使わなくて済むって信じてるからさ」
「ああ、信じろ」
ジンライを出し抜いて、ビクトリーレオの応えが洞内に響き渡る。つい鼻白んで己の分身へ拳を突き出すジンライを横目に、胸のポケットへ紙片をしまい込んだ秀太は、傍らに置かれた純白の箱をもう一度見上げて強く、誓うように頷いた。
―1996/6/13 14:25 Helsinki―
午後の館内は今日に限って入館者もまばらで、靴音の方がよく響くほどに空いていた。普段なら校外学習の子供達が教師に率いられて、親鴨と小鴨達の集団よろしく歩き回っている時間帯なのだが、珍しいことにそんな群の一つも見当たらない。このアテーネウム美術館に飾られた収蔵作品の前には、観光客と思しき東洋人のカップルや白髪の老婦人、スケッチブックを手にした男子学生がぽつぽつと散らばっている。
こんなに穏やかな午後は久しぶりではなかろうか。
程よい静寂の中で、学芸員に割り当てられたオフィスを出てからの時間を腕時計で確かめる。展示室の半分を回って、きっかり二十分。定時巡回なら警備員がいるから、学芸員がわざわざ見回る必要はないのだが、一度日課にしてしまうと同じ手順を踏まないと午後いっぱい落ち着かない。
変った人、と同僚に笑われるのも仕方ないことかと苦笑しつつ、近代絵画を並べる展示室に入ると、フロアの中央に据えられた丈の低いソファに自然と目が行った。
左奥の壁に掛かった絵を真正面に眺められるソファの端に、この数日で見慣れてしまった青灰色の髪をした青年の背中がある。四日続けて、ほとんど午後の間中、彼はそうして閉館時間まで一枚の絵を眺めて過ごしていた。公共施設である以上、入館料を払った客が館内でどう過ごそうと自由なのだが、さすがに何日も続くと職員達も目を止めて、その存在を噂し合うようになる。
―随分熱心なファンね
―それにしても、暇な時間のある人だな
等々、勝手な人物像が出来上がりつつあるほどだ。
これからまた、きっかり二十分かけてオフィスへ戻るつもりで踏み出した足は、意思に反して真っ直ぐにソファの傍へ進んでいた。
「―最近、よくいらっしゃいますね」
するりと言葉が突いて出て、予定外の行動に狼狽する間もなく、青年が顔を上げた。一瞬だけ驚いた風だった眸が、首からぶら下がった学芸員用のパスを見て、にこりと微笑む。
「ああ、ええと―私は、学芸員の、ハイネンです」
取り繕うように、パスを示しながら英語で言い換えると、
「大丈夫、フィンランド語もスウェーデン語も話せます」
お気遣いなく、と逆にハイネンを気遣って、突然声をかけられたフェニックスはソファの隣を学芸員に勧めた。ハイネンは会釈して照れ笑いしながら腰を下ろす。
「驚いたな。これじゃあ、私の拙い英語をお聞かせするんじゃなかった。貴方のフィンランド語の方がとてもお上手だ。ヘルシンキへは御旅行で?」
「まあ、息抜きかな。この絵を画集で見つけて、そしたら本物を見たくなって飛んで来た」
「ああ、それで‥‥フーゴ・シンベリの『傷ついた天使』、余程お気に召したんですね」
ハイネンが壁の絵に目をやると、フェニックスはまた静かにその作品に見入った。
フィンランドを代表する近代画家、シンベリの収蔵品は多い。中でも『傷ついた天使』は国民的人気が高く、外国にも良く知られた名作である。だが評価に対して、キャンバスに描かれているものはどこか暗い気配が漂って離れない、独特な構図を取っていた。
木の棒を二本渡しただけの急場凌ぎの担架を運ぶ、喪服にも似た陰気な衣服の少年が二人。一方は疲れ切ったような顔で前を、もう一人はまるで、絵自体を覗き込む鑑賞者の視線に気付いてでもいるようにこちら側へ一瞥をくれている。担架に乗せられた少女の姿をした天使は、項垂れた顔を何故か目隠しで覆われ、その純白の衣装も背に生えた大きな翼もだらりと垂れて力無い。翼に滲む赤黒い血の跡は、見る者の内に不吉な焦燥感のようなものを揺さぶり起こす。
まばらに野花の伸びる荒れた大地。灰色の重たい空と、その色を吸った澱みのような冷たい川面。画面に収まったすべてのものが、逃れ難い負のイメージを連想させるために描かれている。
簡単に例えれば『死』―いや、それよりも重いもの。
「シンベリはよく骸骨をモチーフにする画家で、生と死のイメージが一体になった作品が多い事が特徴ですね。この『傷ついた天使』には直接的な表現は少ないですが、」
「うん、とても‥‥怖い絵だな」
「怖い?」
虚を突かれたように鸚鵡返しして、ハイネンはぽかんとフェニックスの顔を凝視する。
「なんか、変な感想かな?」
「いえ、いいえ。ただ、少女の天使が『可哀相』な絵だという感想をお持ちになる方が多いので、怖いというのは新鮮で。よろしければ、詳しく聞かせていただいても?」
逆に問われて、フェニックスは考え込むように眉尻を下げ、額縁の中の景色に戻る。一つずつ、そこに描き出されたものを確かめながら、すいと天使の傷を負った翼を指差す。
「地上に落ちてしまった彼女はもう、何もなかったような顔をして仲間達と居た世界へは帰れない。一度でも羽根の存在意義を見失ってしまったら堕天したのと同じだ。目隠しをされても自分が『堕ちた』と解ってる‥‥だから、怖い」
もう戻れない。許されるはずがない。
痛みや憎しみを知らずに過ごした世界は、すでに消えた。
自分が流した血の報いで。
喪失‥‥と呟いてハイネンは、目を閉じていても細部まで思い出せるほどに眺め続けてきた構図を、改めてじっくりと見返した。隣に座る異国の鑑賞者が、身じろぎもせずに倣う。
大勢の観光客が怪我を負った天使の姿を哀れむ中で、フェニックスはこの額縁の向こう側にある世界そのものを恐れているのだ。地上を、この現実と重なる世界を。時間にも生活にも余裕があり、時世とは無関係に生きているように見える異国の青年。彼の内にある何が他者とは違う感想を抱かせるのか、ハイネンはフェニックスの相貌をまじまじと観察したい衝動を覚えた。
自分と貴方は、一体どこに違いがあるのかと。
「以前、この絵のモチーフが国の昔話に似ている気がすると、面白い話を聞かせてくれた日本の観光客がいました。『羽衣』という話でしたが、ご存知ですか?」
フェニックスが目を戻して、よく知っていると頷いてみせると、ハイネンは子供のような屈託ない笑顔で話し始めた。
―2029/7/9 3:44 Midway Islands out at sea―
急制動をかけて金の機体を潮流の只中に停止させると、両翼を広げたジェットブースター形態を取っていたビクトリーレオは突如、翻るように深海五千メートルほどの海域へ一気に降下を開始した。
調整された内部にいるジンライには、融合している時と違って外圧や重力の変化はまったく感じ取れない。しかし、外部視覚野からモニターされてくるマリンスノーばかりの代わり映えしない映像が、急潜行で叩きつける風雨の中を突き進むような激しい乱れ方をした瞬間、ビクトリーレオが予定外の行動に移行したとすぐさま理解できた。何の同意も必要とせず、咄嗟の判断がほとんど条件反射的に取らせた行為だということが、漠然とではあるが危険の度合いを示している。
「ビクトリーレオ、どうしたッ。何がある?!」
問いを投げ、ジンライも素早くモニター上のデータに目を滑らす。深度を示すカウンターは一秒毎に数百メートルの速度で数値を上げていく。最深部へ着地するまでものの一分とはかかるまい。海図上の地点はミッドウェー諸島沖、南西七百キロ。太平洋のほぼ中心を南北に貫く日付変更線の線上だ。
先にホーク達を伴ってプエルトリコ海溝へ戻るグランドと打ち合わせ、ジンライとビクトリーレオはカリン島を出た後、ベーリング海から北極海へ抜け、大西洋側へ出る手筈になっていた。遠回りにはなるが、赤道面を抜けるのは哨戒に引っかかる可能性が高すぎる。公海上であれば、サイバトロン以外の哨戒に発見されても攻撃されにくいと読んだのだ。事実、サイバトロンは領海内での発見に限った追尾・威嚇攻撃しか依頼していない為、どの国も公海では足踏みする。その点から言っても、日付変更線上の航行は最も危険が少ないもののはずだった。
〈南三百キロの海面上に複数の反響体が密集してる〉
「哨戒艇か?漁船てことも」
〈いや、質量が大きい。測定値からするとかなり大型の潜水艦なんだが、数が多過ぎる。七‥‥八隻はいる〉
公海上だけに、一艦や二艦なら緊急の停泊行動中とも推測できるが、軍事演習でもない限り、一箇所に集まった潜水艦が浮上状態になっているというのは尋常では考えられない。
〈どの艦からもソナーの索敵反応が出てない。機体そのものは完全な停止状態だ〉
「潜水艦の墓場って訳じゃあ、ないよな?乗員は?」
〈動きはまるでないが、生体反応自体はある。艦が折り重なるような格好で停泊してるから、数はちょっと把握しきれないんだが‥‥何か事故でも起こしたのかもしれない。どうする、ジンライ?〉
「俺に聞くな」
救助が必要かもしれない相手を知った以上、素知らぬふりで通り過ぎられるジンライではない。それは精神を分かち合って生まれたビクトリーレオも、である。
ジンライのぼやきを是と受けて、ビクトリーレオは潜行したまま海底すれすれを目的のポイントへ進んでいった。
近付くにつれ、夜闇の満ちた海中からでもその様子が視認できるようになる。
特徴的な細長いカプセル型の船体が八つ、濁流に押し流されてきた流木が一つ所で凝り固まったように、それぞれの艦首や艦尾を山のように突き合わせて完全にその活動を停止していた。上空から見れば黒い花弁の花か、海中から盛り上がって出来た黒鋼の小山のようだろう。
ビクトリーレオは十キロほど手前で停止し、確認できる限りの映像をジンライの元へ送った。暗視画像をズームで補正すると、船体に付された型番と名称が取得済みの軍備データと瞬時に照合され、モニターに船体の所属国籍が羅列される。
ジンライはつい不謹慎にも、ヒュウっと口笛を吹いていた。
アメリカ、ロシア、中国、インド‥‥およそ太平洋上で同時に、しかもまったく同じ地点で航行不能状態に陥るとは思えない大国の艦ばかりが名を連ねている。中には主要航路が大西洋に限られている艦すらあるではないか。
「これってどうなってるんだと思う?ビクトリーレオ」
〈判らないが、近くに敵影はない。意図して俺達を誘い込むための罠じゃなさそうだ。メルトダウンを起こしている艦もないし、相変わらず中には生体反応もある〉
「じゃあ、ちょっと行ってみるか。どれでもいいから近くに着けてくれ」
〈乗り込む気かッ?冗談だろう、いくら何でも〉
「乗員が無事に生きてるかどうか確認したら戻る。危険はなさそうなんだろ?今のところは」
〈潜水艦の内部には詳しいのか?〉
「ガキの頃に図鑑で読んだきりだ」
ビクトリーレオは尚も反駁しかけたが、ジンライが拳で軽くモニターをノックして気楽に合図を送ると、諦めたように呼気を落として浮上を始めた。
海上には星々の瞬き以外に目ぼしい光源もない。ビクトリーレオは波に逆らわないようにするすると波頭を避け、一艦の側面に取り付いて主翼の片方を指し伸ばした。ジンライは外へ出ると海水に濡れた翼を駆け渡って、潜水艦の上部へ飛び移る。左右を見回すと、エアロックの入り口はすぐに見つかった。バルブ式の分厚い扉と認証コード式の鋼板が内側から半開きになって、高い波がかかる度に海水が流れ込んでいる。逃げようとした乗員がいたのか、それとも別の―
ジンライはビクトリーレオに手を振って離れるように指示を出し、ハッチへ滑り込んだ。
エアロックの真下の通路は海水で水浸しだった。梯子を伝って滴る水音だけが静まり返った艦内に響き渡り、ぞっとするような緊張の糸をそこかしこに張り巡らせている。
船首に近い部分に操舵室があったはずだと方向を定めて隔壁を一つ越えたところで、ジンライは通路に転がった軍服姿の青年を踏み付けそうになり、慌てて飛び退った。見れば、その先に伸びる狭い通路に累々と昏倒した乗員の姿がある。誰もに取り乱した様子がないのは、ある一点で突如、何の前触れもなく全員が失神した証拠だ。酸欠や伝染病ならこうはいかない。
屈み込んで一人の首筋に指を当てると、力強い拍動が感じ取れた。呼吸も浅くはなく、しっかりしている。
(気を失ってるだけか‥‥)
だが、どんな衝撃を与えたら艦内の人間を残らず失神させることが出来るというのだ?
すうっと、舞い降りた冷気が首筋を撫でた。
そうだ、これはパリと一緒だ。
「―フェニックス‥‥ッ」
ジンライはその名を呟きながら跳ね立つと、倒れた者達で埋まった直線の通路を駆け、操舵室の開け放たれた扉の前に立ち塞がった。
慣れない者には息苦しいほど狭い艦橋の床には艦長らしき者を含めた数人がくず折れ、またある者は無骨な機器だらけの席に突っ伏した格好のまま、だらりと弛緩して気を失っている。ぴくりとも動くもののない異様な空間に、鈍い黄色の照明を浴びた裸身が、ジンライに背を向けて佇立していた。コンソールに乗せた五指はばらばらの方向にねじ曲がり、指先から別物のように突き出した細いケーブルが、外部端子やパネルの隙間に無理矢理接続されている。
青灰色の頭髪が微かに揺れ、肩越しにフェニックスの視線が、息を呑んで立ち竦むジンライを捉えた。
一瞬の沈黙―それは激しい狼狽をジンライにもたらした。
フェニックスの眸には何もない。動揺も悲嘆も、後悔さえも―親愛も。
「―掌握した」
氷刃のような呟きが、ジンライをはっと現実に引き戻す。フェニックスがコンソールに置いた手を無造作に持ち上げると、端子に潜り込んでいたケーブルが微細な生き物のように身をくねらせながら指先から体内へ吸い込まれていく。その刹那、コンソールのモニターすべてが機能を停止し、一拍遅れて火を噴くような赤光が艦橋を染め上げた。だが警報は鳴らない。
低い稼動音だけが這い回る靴底を擦るように一歩進め、ジンライは押し殺すような声で、剥き出しの身体を赤い灯に照らされたフェニックスに問うた。
「何を、してるんだ?」
原子炉を暴走させようというのなら、こんな大海の只中では意味がない。〈サイコ〉ほどの能力値なら、潜水艦ごときの武器を密かに手に入れる必要もないだろう。目的はそれ以外にあるはずだ。それにあの言葉。
掌握した、とはどういう意味だ?
「答えてくれ。こんな場所で一体なにしてるッ?」
聞こえているのかいないのか、あまりの反応の鈍さに二度目の問いが強張る。ようやくの間を置いてゆらりと踵を返したフェニックスの、雌雄を失った滑らかな身体は、間近で眺めると奇妙な陰影を作っていた。
ジンライの顔を真正面から眺めやった両の眸に、闇が凝る。フェニックスはひたとジンライを見据え、闇を吐き出すような冷たい声音で囁いた。
「‥‥これで誰にも手出しさせない。俺を止めようしたら、結末が早まるだけだと伝えろ」
「―お前―」
そんな訳は無い、そんな馬鹿なことがあるはずはないと頭のどこかで否定していたのに、浴びせられた冷徹な言葉が無残に事実を抉り出す。身じろぎしかけて、両足が棒のように竦んでいた。絞り出した問いに縋るような響きが混じるのを、ジンライは痛みのように自覚する。
「俺が、わからないのか‥‥?フェニックス‥‥ッ」
嘘だと言ってくれ。喉元まで出かかった言葉を飲み下すジンライの苦痛に満ちた顔を、奇妙なものでも眺めるように見据えていたフェニックスの眼窩に、ぽつりと染みが広がった。その染みは滲むように急速に酷薄な眸の中を塗り替えていく。忘却の彼方に消えたはずの己の名をその時初めて取り戻したように、見開かれた目にジンライの像が結ばれた。
その一瞬の劇的な変化を、どう表現すればいいのだろう。
衝撃。狼狽。恐怖。それ以上の、耐え難い絶望。
それまで〈サイコ〉そのもののように感情の一切を手放していたフェニックスが、喘ぎながら唇を戦慄かせたかと思うと何かを否定するように弱々しく頭を振って、ジンライを制した。
「傍に来ちゃ‥‥駄目‥‥だ‥‥」
「心配するな、フェニックス!俺達は―」
「もう俺は飛べない‥‥堕ちたら、そこには戻れない」
「今すぐだって戻れるさ!大丈夫だから行こう。ホークもダイバーも、皆待ってる」
「ジ、‥‥ライ―俺を、助けないでくれ―」
フェニックスはふっと悲しげな笑みを浮かべて見せると、ジンライが意味を取りかねて怯んだ隙、不意に床を蹴り付けて飛び掛った。狭い出口を塞いでいたジンライは生身のままぶつかる危険に咄嗟、両腕を上げて身体を庇う。擬体のままでもトランスフォーマーのフェニックスに衝突されれば、地球人の脆い身体など一溜まりもない。まして逃げ場のない潜水艦の中では吹き飛ばされただけでどうなるか。
(近過ぎたッ)
膝を落として衝撃に備えたジンライは、しかし、掠め飛ぶような風が頬に当たったと同時、両肩に触れたしなやかな感触にとんと弾き出されてたたらを踏み、艦橋の床に倒れ込んでいた。慌てて身を起こすと、怪我を負わすでもなく逃げるように頭上を跳び越していったフェニックスの背は、とうにどこにも見えない。
「あいつ、どうして―ビクトリーレオッ」
いま外に出たら鉢合わせしてしまう。それよりも〈サイコ〉はどこだ?フェニックスの傍から、あれが離れている筈がない。近くにいるとしたらビクトリーレオの身が危険だ。
フェニックスがこの艦橋で何をしていたのか確かめている余裕はない。ジンライは後ろ髪を引かれる思いで立ち上がると、フェニックスを追って駆け出した。
突如、ひしめくような星屑の中央に漆黒の孔が穿たれたかと思うと、押し広げられた深淵は波間に漂い浮かぶ艦の一つを、摘み取るように軽々と吸い上げていった。
艦尾から持ち上げられた潜水艦はほとんど垂直になって海面から引き剥がされ、ビクトリーレオが呆然と見上げるうちに孔の奥へと消えていく。艦首が呑まれて見えなくなると同時に、捕捉していた一艦分の質量が丸ごと走査範囲から消失し、ビクトリーレオは舌打ちした。
「化け物か、あの野郎ッ」
自らの一個体を転送するのすら、トランスフォーマーであっても自力ではほとんど不可能だと言われている。それをこうも容易く、別の物体を右から左へ移動させるというのだから、一体どれだけの潜在能力が与えられているのか考えるだけで恐ろしい。
空間の歪みに沿って伸ばされた紙のような孔は、獲物を捕食するように次の艦を吸い上げ始めている。絶妙なバランスで互いを支え合っていた艦が一つ、また一つと抜き出されたことで不規則な波が周囲に湧き上がり、残った艦が海上で激しくぶつかり合う。その衝突が起こした更なるうねりが甲高い金属音を上げさせ、艦体を闇雲に揉みしだいた。
ジンライの乗った艦も、今しも波間へ沈み込みそうに揺さぶられている。船体に取り付けば抑え込むことは出来そうだが、それにはあの巨大な黒い孔の真下へ飛び込まなくてはならない。艦ごと孔の向こう側へ呑まれるかもしれないが、このまま沈没するに任せておくよりはいい。
どっちへ転ぶのも一か八かの賭けだ。ビクトリーレオは飛行形態を解いてロボットモードに変じると、バーニアを目一杯に噴かせて海面を疾駆した。黒光りする船体に手を伸ばし、横抱きにするように両腕を回す。膂力はある方だと思っていたが逆巻いている波の干満力まで抑え込む訳にはいかず、ビクトリーレオにも沈没を防ぐのが精一杯だった。
とにかく、ジンライが戻るまでは船体を海面に押し留めなければならない。
(いくらなんでも、長くはもたないぞ)
高波は容赦なくハッチの上に覆い被さり、唯一の出口を絶え間なく大量の海水で塞いでいる。早く戻れと祈るような気持ちでハッチを凝視していたビクトリーレオは、その縁から不意に突き出された片腕の、剥き出しの肌に息を飲んだ。
圧し掛かる波頭を掻き分け、重力を無視した身軽さで裸身が飛び出す。暗夜を背負って船体の上にぴたりと着地したフェニックスはずぶ濡れのまま、艦に取り付いているビクトリーレオの、ほんの数メートル先に一刀のごとく立ち上がった。
「フェニックス―!」
咄嗟に呼んだが声が続かない。掴まえようにも、船体を放せばただでさえ揺れている足場ごとひっくり返ってしまうかもしれないのだ。それにジンライはどうなる。沈み始めれば、とても一人では掬い上げられない。
「くそ‥‥ッ!」
ビクトリーレオは歯噛みし、動けない状況に悪態を漏らすしかない自分を、どこか半分惚けた表情で見守っているフェニックスを見返した。艦内でジンライと何がしかのやりとりがあったのか、そのせいで事態が上手く飲み込めていないような様子だった。
背後から、また艦が吸い上げられる鈍い軋みだけが届く。
残りは幾つだ?いつこちらへ牙が剥く?どうにかジンライとフェニックス、両方を連れ出す手立てはないか?
ビクトリーレオは頭の中で目まぐるしく最善の策を講じながら、立ち尽くすフェニックスに近付こうと腕をずらそうとし―瞬間。
見えなかった。視覚野の処理速度が追いつかなかったと言う方が正しいのか。
「―よせ」
鞭打つような凍えたフェニックスの声が聞こえた時、ビクトリーレオの鼻先には、フェニックスの頭上に開いた漆黒の孔から逆さに覗いた〈サイコ〉が繰り出した左手の、鋭く窄められた矢のような指先が数センチの距離に停止していた。止める者がいなかったら確実に、頭部は粉々に砕け散っていただろう。理解が及ぶ前に。
ぎしり、と〈サイコ〉の関節が鳴る。ビクトリーレオは喉元にせり上がる絶叫を堪えた。視界一杯の指先の陰に見え隠れしているフェニックスがちらりと頭上を睨める。
「‥‥彼に触れるな。彼は俺に触れてない」
命令でも懇願でもない言葉がかかると、〈サイコ〉は突然、叱られた子供のようにしおしおと腕を引き戻して、フェニックスの盾になるようにその裸身の傍へ優しく左の五指を下ろした。よく見れば、吹き飛ばされた右の腕は付け根からすっぽりと無くなったまま、表皮に溶けた跡を残している。
まるで大型の獣が主人に懐いてでもいるような様に、ビクトリーレオは一時の恐怖から立ち返ると、艦を抱えた腕に力を込め直して言った。
「フェニックス、一緒に戻ろう。サイバトロンからもそいつからも、俺達がきっと守る。約束する。ガラタの谷へ現れたのだって戻りたかったからなんだろう?だったら何も心配いらないんだ、皆がお前を、」
「違う‥‥あれは、ケシテ‥‥」
「落ち着け、俺達はお前の味方だ。それは解ってるな?」
「そんな事、わかって、イラナイ‥‥そうじゃない―そうじゃない!!」
張り上げた怒声を砕くように、船腹にぶつかった波がフェニックスを押し包む。よろめいて倒れるかに思えたフェニックスは〈サイコ〉の手に縋り付いて耐えると、髪からも睫毛からも頤からも冷たい滴を滴らせながら顔を上げた。
冷徹な、別人のような眸をして。
「ワタシニハ、ワタシガイル」
血の気の失せた唇が囁いて、薄く微笑んだ。
〈サイコ〉の掌が奪うようにフェニックスを包み、宙へと掬い上げる。
「待てッ!フェニックス―」
思わず伸び上がるように片腕を伸ばしたビクトリーレオを無視して、〈サイコ〉を吸い込んだ孔は一気に収縮し、点となって弾けた。その途端、上空に展開していた孔のすべてが消滅する。空中に半分まで持ち上げられていた艦は、突然手放された玩具のようにぐるりと回転しながら落下すると、横倒しになって海中に沈み始めた。
ビクトリーレオは落下の衝撃が生んだ高波の第一波から抱えた艦を死守すると、沈没しかかっている艦と海面の隙間に向けて冷却剤を噴射した。広範囲とは行かないが、水面が凍り付いたことで艦自体の沈下が辛うじて止まり、ようやく波が静まる。
ハッチを乗り越えてジンライが顔を出したのは、ビクトリーレオが呆然と、フェニックスの消えた夜空を見上げていた時だった。その困憊した様子に何があったか察して、ジンライはビクトリーレオの腕を伝って分身の顔の間近へ寄ると、労わるように頬を撫でた。
「フェニックスが艦橋で何かしてたみたいなんだ。身体を接続して、〝掌握した〟とかなんとか‥‥俺じゃさっぱり意味がわからなかったんだが、どういう事かわかるか?」
「掌握?」
「ああ、そのために潜水艦を集めたのかも」
「―そうか、端末が必要だったから、一箇所に世界中から運びやすい機体を―」
ビクトリーレオはざっと、〈サイコ〉の退場で放置されたままになってしまった潜水艦の内部を熱源走査すると頷き、ジンライを攫い上げて海面を飛び立った。ジェットブースターに転じる間も惜しんで飛沫を切りながら飛翔を続け、乱雑な潜水艦の群をぐんぐんと後方に引き離す。
ジンライはビクトリーレオの手の中で潮臭い突風に身を縮めながら、あらん限りにがなった。
「ビクトリーレオ、何か解ったのか!?」
「よく聞け、ジンライ!フェニックスが潜水艦を集めたのは一度に多くのネットワークに侵入するためだッ。今頃、大変な事が起こってる―あそこにはすぐサイバトロンが押し寄せてくるぞッ」
「ネットワーク‥‥だって?」
「そうだ。サイバトロンのじゃない、地球のな」
ビクトリーレオの指の間に顔を押し付けて、ジンライはもはや点ほどにも見えない海上の機体を探しながら、あの時、肩に触れたフェニックスの手の感触を思い返していた。倒そうとすれば充分に可能だったはずなのに、怪我すら負わせないようにとただ掠めて行っただけの、指の優しさを。
《続く》