ついに残り数話となりました。
引き続きお付き合いくださいませ!
―2029/7/8 15:58 Battleship Tancred―
主要大国の潜水艦が公海上、また領海内訓練中に次々と消息を絶ったという急報がもたらされてから、一時間と経たない内にスターセイバーの元へ届けられたのは想像しうる最悪の報告だった。
「乗っ取られた―?」
各国からの狼狽しきった報を総合するとそうなる、と告げたブレイバーの顔には、起きてしまったことを今さら議論しても始まらないとでも言いたげな諦めの色が濃い。
思わず指揮席からのめるように腰を浮かしたスターセイバーの動揺が、艦橋に詰めた下官達に余計な不安を与えないよう片手で制して、ブレイバーは頷いた。
「潜水艦の強奪自体は侵入するための端末の収集です。こういう事は間を置かず決定打を打たないと、結果は得られませんからね。一つずつ手に入れる肚でいたら気付かれる確率も上がりますし、防御体制も堅くなる。実に優秀なやり口です」
それで、とスターセイバーは鸚鵡返しに、変わるはずのない答えを求めて聞き直した。
「地球上の軍事ネットワークのほとんどを、易々と乗っ取られたというのか?彼に」
「計算では八十八パーセントを掌握された事になります。おそらくハッキング時、プログラムの優位配列の書き換えと同時に我々が使う言語プロットのワームを蒔いたでしょうから、潜伏しているものも含めれば九十五パーセントを超えます」
「どうにも、絶望的な数値だな‥‥」
「これで地球そのものを人質に取られた訳ですね」
付け足したブレイバーのどこか観念した様子の口調に、ふと目だけ上向けて、スターセイバーはゆっくりと首を振った。
「いいや、〈サイコ〉が現れた時点で地球は―地球人の命は彼に握られていたんだよ。数値や対象物に置き換えられるものをわざわざ奪ったのは、サイバトロンに対する抑止力の為だ。彼が地球の保有する軍備を自由に実働できると判れば、我々は彼がそれを使用するかもしれない事を恐れて迂闊に攻撃できないからな」
例えば弾道ミサイルが一発、どこかの国から誤発射された段階で、その責任は軍事ネットワークを犯したフェニックスではなく『発射させた』サイバトロンに跳ね返る。簡単な仕組みと集団心理の陽動だ。これが地球人の戦争ではなくトランスフォーマーの戦争だと証明できるのだから。
「所在不明になっている潜水艦は発見できたのか?」
「はい、それが数艦だけ元のポイントに出現したそうです」
領海内で自軍の艦を捜索していた国からの目撃報告では、常に〈サイコ〉が空間移送の際に使う孔が現れ、海上に艦を吐き出して消えたという。
「戻されたのは半数。残りは太平洋の公海上に密集しているところを捕捉したので、エルミニアでブラッカーと大隊が向かいました。乗員は例の脳内攻撃で失神状態で、死亡者は今のところゼロです。ただ艦の着水時に重傷者が数十人‥‥」
「そうか。彼自身に地球人を傷付ける気がなくとも、〈サイコ〉がそれをどう判断しているかは判らないからな」
「それと残念な報告ですが、国連を通して、次の迎撃地点に貸与できる地域はないと回答がありました」
「では、生憎と私は戦闘地域を決められる立場に無い、と応えておいてくれ。非常に残念ですが、とね」
ブレイバーはほんの少しだけ苦笑を残して、膝に組んだ腕の中に頭を落とすスターセイバーの前を辞した。
入れ代わり、艦橋の一角に座を与えられていたフォートレスが忍ぶような足取りで傍らに歩み寄る。スターセイバーはその気配に顔を上げ、フォートレスがつと視線を送った前面の全方位パネルに目を向けた。艦橋の四方を取り巻く画面には、衛星軌道上から眺める美しくも柔らかな地球が反射する蒼の色彩が満ち、地上で起こったいくつもの出来事を拭い取るような穏やかさを投げ掛けてくれている。
この、銀河にも稀な景色をトランスフォーマーの多くが愛したのだ。守るべき至宝として、また欲望の対象として。しかしトランスフォーマーが愛でるほどに、この惑星は苦難を味わった。いっそ地球の生物が宇宙に唯一の生命体であれば良かったと嘆く者達を生み出すほどに。それが同族同士の血の歴史を繰り返すだけの、不毛なものだったとしても。
「‥‥
スターセイバーは低く問うて、フォートレスの顔を探るように見た。
ブラッカーがガラタの谷で目撃したものの話を受け、フェニックスと共に〈サイコ〉の体内に居たという少女の素性を密かに捜査させた結果、それが〈サイコ〉に破壊されたと思しきコルカタの教会に葬られていた聖女―俗名アグネス・ゴンジャ・ボワジュの蘇生体だということは確実になった。
三十年も前に摂理としての寿命を終えた地球人。その幼体が現実に存在している。これがどういう反倫理的な技術を駆使した成果かは説明するまでもない。スターセイバーがあえて『聖女』と譬えたのは、アグネスが今のこの瞬間も〈サイコ〉の内部で成長を続けているだろう推測の為だった。表立って語られはしないがトランスフォーマーにはそれだけの再生技術があり、フェニックスがそれを望んで実行したのだ。
フォートレスは静かに、否定ではない意味に首を振る。
「理解できない事とは思いますが、総司令官、今の彼には善と悪の区別がありません。すべての行為が目的の為であり望みの為であって、それ以外の外的要因は彼自身を脅かさない限り無関係な事象でしかないのです。事実、サイバトロンが追わなければ彼は抗戦もしないでしょう。ただ、通り過ぎるだけです。そう‥‥そうあるように、刷り込まれているのですから」
最後の吐き出すような一語が、フォートレスの唇を歪ませる。ややもすると自嘲に襲われそうになるのを堪えて再び首を振り、スターセイバーに向けた眼差しは厳しかった。
「仰るとおり、地球の軍事ネットワークが指示下に盗られたとしても、それ自体はなんら脅威とは言えません。彼にとってそんな事は、これまで必要性を感じなかっただけで何時でも可能だったはずです。地球人が無機的コンピュータを構築し始めた瞬間から進化を見続け吸収してきた彼自身、図らずも地球のネットワークの頂点と言える存在です。それだけの秀でた才能があり、今は巨万の〝容量〟をも手に入れた」
「〈サイコ〉自体が、地球そのものを掌握できるバックボーンという事ですね?」
「はい。しかし彼が自我を失っていない限り、我々が予測するような行動は決してしない。恐らくその鍵が―」
「あの聖女にあると?」
「そして今は皮肉な事に、ホーク達の元で蓄積してきた大量の記憶が彼を、結果的に完全体たらしめない楔になっている。彼はあまりにも多くのものを愛し過ぎました‥‥両親を友を、地球人を、地球そのものを‥‥」
と、目頭を押さえたフォートレスが俯き加減に顔を背ける。その肩が小刻みに震える様を見守るしかできないスターセイバーの胸を、自戒の入り混じった痛みが掠めた。
地球を愛した。そして地球人を。だが何の責がある?
フェニックスと同じ運命を負わされていたら、ジャンを愛しい息子だと想う自分もまた、〈サイコ〉のように成り得たのだろうか。愛するが故にこの惑星を離れられず、この惑星の在り様を憂うのだろうか。
地球人が繰り返してきた血の過ちの先に続く、未来を。
「―‥‥!」
スターセイバーは、真闇の底に浮かぶ地球の姿を視界から遮るように揺らめき立った赤と青の人影に、はっと息を飲む。艦橋の中央に立ち現れたウルトラマグナスは、忙しく行き交う騎士達がその実体を持たない影の内部を突き抜けていくのも構わず静謐な眼差しでスターセイバーを見やったと思う間、不意に誰かに呼び戻されでもしたように踵を返すと、吹き散らされる焔のように跡形も無く掻き消えた。
艦橋に残されたざわめきが、急かす口調で総司令官を呼ばう。スターセイバーは指揮席から腰を上げると、
「‥‥きっと、私達に道をお示しくださいます」
傍らで粛然とウルトラマグナスの消えた辺りを凝視していたフォートレスを見やり、小さく頷いた。
―950 million years ago―
粉塵や煤で汚れた顔を両手で拭いながら玄関へ回ると、開くドアを押し退けるような勢いで母がまろび出して来、フェニックスは思わず両肩を縮めて立ち竦んだ。
昼夜の区別が無いセイバートロン星には、独立内戦終結後も規則的な時間の流れが未だ明確に定められていない。生活の基礎としてその概念を取り入れている居住区の外に遊びに出ると、頭では理解していてもついつい刻を数えるのを忘れてしまい、帰宅が大幅に遅れて大目玉を食らうのは、実はこれが初めてではなかった。
次はきちんと約束の時間に戻る、と父に誓いを立てさせられたのは、ほんの数日前のことである。それをいともあっさり破ったからにはどれほどの雷が落ちるかと覚悟したが、次の瞬間、竦み上がっていた幼い身体を押し包んだのは母ルシータの暖かな両腕だった。
金属体の肌が「暖かい」などというのはもちろん錯覚なのだが、母の華奢な肩口に押し当てるような格好になったフェニックスの頬は確かに母親の温もりを感じ、急に自分のしでかしたことが恥ずかしく思えた。
「フェニックス、ああ、どこまで行っていたの?こんなに汚して、本当にもう‥‥」
そう諫めた口調は気丈だったが、頬にこびり付いた汚れを拭おうと触れた指が震えていた。母と呼ぶにはもう若くないその面輪に心労を見て取って、フェニックスは俯きながら所在無く両手を背に隠した。
「‥‥ごめんなさい‥‥」
「お父さんが帰ったら、ちゃんと訳を話して謝りなさい」
「父さん、許してくれるかな?」
「嘘を付かなければね。どうせまた〝テーベ〟へ降りていたんでしょう?」
息子の行動範囲などお見通しだと言うように苦笑してフェニックスの頬をひと撫ですると、ルシータはやっと安堵した様子で、こじんまりした一軒家に似合いの清潔なプラチナブルーに統一された玄関ロビーへ息子を迎え入れた。
現在、セイバートロン星の市民のほとんどがこうした、惑星の第四層〝テラス〟に建設された居住区の一軒家なり共同住宅に暮らしている。
テラスは、独立以前までセイバートロン星の最表層であった第三層〝テーベ〟の上に造られた階層で、テラス自体が独立後にトランスフォーマーの独力で建設され、発展した場所であることを鑑みれば、ここが最も安全な実質的生活圏であった。事実、奴隷制時代の建物や施設が今も廃墟のまま残るテーベは下部街区とされ、猥雑な繁華街や闇市場などがぽつぽつとあるだけの地下であり、奴隷としての生を経験した者達にとっては一種の禁域でもあった。
フェニックスが、大人達が忌避するテーベを遊び場に好んだのは単なる好奇心からではない。テーベが治安の悪い―メガトロンと名乗る男が率いる略奪部隊が根城にしていると噂の―階層だということは知っていたが、そこに打ち棄てられたままの古い機材や新品同様の部品が宝物のように魅力的で、それらをどんな物に組み立てようかと想像しながら拾い歩くのが楽しくて仕方なかったからであった。
フェニックスのような育成型がまだ少なく、近所に同年代の友人がいないことが、危険を忘れて一人で遊び回る原因になっていることを知っている父バルサーは、息子の行動を戒めながらもテーベへの降下それ自体を禁じはしなかった。自らも腕のいい技術者としてあちこちの街区造成に携わっていることもあって、フェニックスが同じような機械いじりに興味を持ったことが嬉しくもあるのだろう。
「さあ、フェニックス。顔を洗って綺麗にしたら台所へ来て手伝ってちょうだい」
はーい、と素直にバスルームへ飛んで行って、透明な筒状のボックスで洗浄剤の霧を浴びると、フェニックスは乾くまでの数分がもどかしげにバスルームの扉越しに声を上げた。
「今日はね、すごい大発見したんだよ!この前見つけた工場に入ったらエレベーターがあってさ、壊れてるかと思ったけど、ちょっと直したら動いたんだ。あれって地下に通じてるんじゃないかなあ?テーベの下ってどんな風になっ―」
床を叩き付ける激しい落下音が、続く声を掻き消した。
「母さん?!」
バスルームを駆け出た足でフェニックスが台所に飛び込むと、ルシータの細い背中が、床にぶちまけた食器を膝をついておろおろと拾い集めている。フェニックスはその隣に屈んで、ルシータが取り零した食器を集め始めた。
「‥‥駄目よ」
最初、それが自分の手元を指しているのかと思ったフェニックスの耳に、次にははっきりと罅割れたようなその言葉が飛び込んだ。
「駄目よ、フェニックス。テーベの下へ降りては駄目ッ」
「え?‥‥母さ、」
「〝テノール〟は絶対にいけないの!二度とそこへは近付かないって、約束してちょうだい!」
せっかく集めた食器がまた音を立ててルシータの両手から零れ落ち、床で悲鳴を上げる。ルシータはフェニックスを固く抱き竦め、お願い、と消え入るように喉を震わせた。
母親はとても子供を心配するものだ、とバルサーはよく言った。だから心配をかけてはいけないと。だがどんな悪戯をしても約束を破っても、これほど狼狽したルシータを見たことはない。自分は何かとてつもなく悪いことを―母が悲しむようなことをしてしまったのだ。
震えるルシータの腕の中で、フェニックスは理由を考えようとして、止めた。抱えた食器が酷く重い。投げ出すと空いた腕で母の背を抱き締めることが出来た。
「‥‥どうして、降りちゃいけないの?何があるの?」
「あそこにはね‥‥お前をいじめる子が隠れているのよ。だから行っちゃ駄目なの。わかるでしょ?」
「いじめっ子が、いるの?」
「そうよ。―〝逃げろ 逃げろ テニスコートの中は いじめっ子でいっぱい〟―ね?」
子守唄代わりに幾度となく聞かされた歌をか細く口ずさんだルシータは、まるで縋るように息子の身体を押し包んだ。
低く低く、溢れる嗚咽を噛み殺しながら。
―2029/7/8 12:29 Puerto Rico Trench―
取り上げると、ティーカップはすでに冷えていた。
ライトフットは口を付けずにソーサーへ戻し、まだ戻らないジンライと、海面近くで彼の帰りを待っているグランドを除いた全員が誰言うともなく顔を揃えた食堂内に長い沈黙が過ぎたことに気付いて、テーブル越しのダイバーを見た。その横に掛けたホークの肩が咎められた者のように軽く跳ね、握った手が微かに震えて爪が卓上にカチリと音を立てる。
「‥‥つまり、クローンは造れるという事ですよね?」
回答を求めた訳ではなかったが、〈サイコ〉の体内に居たアグネスと呼ばれた少女の存在を問えば、それは離れ難くこの説明に直結している。ライトフットは問うた自分がこの現実を知らされて後悔しているのかどうか、折り合いをつけられるまで口を噤んだ後、ようやくそう問い返すことができた。
ダイバーは首を縦にして、躊躇わずに答えを口にする。
「技術的には可能だが、ノンフレーム法で組成は禁止されてる。デストロンではどうだか知らないが、民間やサイバトロンでは、クローンを誕生させてはならない決まりだ」
「技術があるのに禁止?地球人がそれを嫌ってるのは宗教とかの観念からだろうけど、トランスフォーマーが?」
深海を見渡せる窓辺に陣取っていたレインジャーが不思議そうに聞き返すと、ダイバーは首を振った。
「クローンは人権侵害に当たるって意味で駄目なんだ。つまり‥‥例えば、親が死んだ子の生体データからまったく同じ組成の我が子を生み出したとする。だが、成育環境をまったく同じに繰り返せたとして、死んだ子と等価になる確率はどれくらいだと思う?」
「まあ、ゼロだろうなぁ」
「そう、死んだ子が帰ってくる訳じゃない。だから死者と死者を模倣させられた生者、双方への人権侵害だと捉えるんだ」
「ああ、それなら理解できる」
食卓用の椅子を適当な場所まで引っ張って行って、背もたれを前に腰掛けていたロードキングが指を鳴らして同意する。
「それと同じで、身体を再構築して生前のデータをインストールしたとしても、主観が多分に入らないとは限らない。よくあるのは恐怖の記憶を外したり、一度『死んだ』のだという事実を教えない事だ。そうなればもう、死んだ子と同じ人間とは言えない」
「亡くなった人間は何があっても復さない‥‥復しようがないって考えるんですね」
ライトフットの呟きに、ホークが耐えるようにきゅっと眉根を寄せる。その胸中を吹き抜けて行ったものは何だったのだろう。ランダーをカリン島へ送り出してからホークは酷く寡黙になって、一心に凍った塊を飲み下そうとしてでもいるような様子だった。
トントンと踵で拍子を取ったロードキングが、じゃあ‥‥と背もたれに顎を乗せながら問いを重ねる。
「〈サイコ〉の中にいた女の子ってのは、フェニックスがコルカタの教会から持って行ったその―もう死んでる彼女の、遺髪から再生させた身体って事になる訳だよな?それが急激に成長してるとなると、仮に目覚めても『記憶』そのものは、フェニックスが刷り込んだデータって事になるのか?」
「そうなるだろう」
「なんでだよ。そんなの意味ないこと判ってて―」
呆れながら言いかけて、ロードキングははたと、己の軽率さを恥じるように口を閉ざす。
そんなことは意味がない―フェニックスが理解していないはずはないのだ。甦らせた女性がどれほど寸分違わぬ容姿をしていても、自分の中にある記憶の一部を容れて形を成した者が、彼の地に赴いた人と同じではないことなど。
それでも、今この時に愛した人を取り戻そうとしているのは何故なのだろうか。馬鹿な真似をしていると判っていて尚、フェニックスが彼女に求めているものは、行き場をなくした愛情以外の何なのだろう。
心を分かち合う存在なら、ここに居るというのに。
「きっと‥‥アグネスしか与えられないものがあるんだ。あいつにとって今、何より必要なものが‥‥」
敗北を認めるのにも似たダイバーの呟き。己を納得させる答えを探しあぐねて座を包んだ深い沈黙の底で、ふと、嘆息ともつかない呼気を落としたホークが身じろいだ。顰められていた柳眉が溶け、秀麗な面に穏やかな気色が浮かぶ。それは意外なほどに真っ直ぐに、ライトフット達の胸を突いた。
「‥‥闇を知った心の底は誰にも解らないかもしれないが、フェニックスがアグネスを愛したように、私達もフェニックスを愛してきた。取り戻したい理由ならそれで充分じゃないか。意味も過去もすべてを受け入れて、痛みや悲しみを共有できる存在になるんだ―もう一度、始めるんだよ。それが出来ないと諦めたら、何もかも傷付ける事になってしまう。フェニックスも‥‥ランダーも、」
絞るように付け足された名に察するものがあったのか、ダイバーが僅かに瞠目した。
「ホーク、お前―」
問おうとして、言葉が途切れる。
黒一色で塗り込められた海中に面した窓から目映い照明が斜めに差し込み、食堂の内側を横切って行過ぎたと思う間に、海溝の切り立った斜面を潜行してきたマキシマス戦艦がサルベージ基地の真横に滑り込んだ。急停止した艦側が対流を生み、基地全体が鳴動する。その衝撃が去ると、階下に慌ただしい足音が響いた。
ジンライは食堂に駆け込むと、腰を浮かした格好のまま虚を突かれた表情で彼を迎えた仲間達の視線を浴びながら、ドアにもたれかかって乱れた呼吸を整えた。汗でべったりと額に張り付いた髪を掻き上げようとして、それが潮臭い海水のせいだと気付く。潜水艦の上でか、ここのハッチに急いで上がった時か、髪も服もすっかり湿りを帯びていた。
「ジンライさん、一体―グランド、何があったんです?」
手近なタオルを取ってジンライの傍へ駆け寄ったライトフットが、一足遅れて姿を見せたグランドに言葉尻を向ける。
ランダーを無事にカリン島へ送り届けたという連絡の後、ビクトリーレオとジンライが当初の予定時刻から到着が遅れているのはサイバトロンの哨戒を警戒しての事だろうと気にもしていなかったが、ジンライのただならぬ様子を見れば不測の事態が起こった事は察しがつく。
プリテンダースーツのバイザー越しに眉根を歪めて、グランドは一瞬、何故か言い澱んだ。その躊躇いの意味を問う前に、肺一杯にジンライが喘いだ。
「フェニックスに、会った。早く止めないと、あの化け物に飲み込まれちまう‥‥ッ」
「会ったって、どういう事だ?どこで?」
聞き返したホークを見、ジンライは項垂れて、太平洋上で起こった事の経緯を掻い摘んで説明した。潜水艦を集めた目的が軍事ネットワークへの介入であろうという、ビクトリーレオの見解も添えて。
「あいつ、記憶が全部曖昧になってきてるんだ。俺の事が理解できなかったり、急に喋り方も声も変って、〈サイコ〉に乗り移られてるみたいな感じで、あれじゃあいずれ―」
もう戻れない、と告げたフェニックスの悲痛な声が耳の底から剥がれない。戻りたくても戻ってはいけないのだと、フェニックスはそう言いたかったのだ。このまま記憶が消え続ければ遠からず自己を見失い、ジンライ達を認識できない人格に取って代わられる。その時、近くに居ればこちらの命も危うくしてしまう。ランダーを傷付け、もしまた同じ過ちを犯してしまったら、フェニックスは。
「とにかく一刻も早く手を打たないとまずい。サイバトロンに先を越される前に見つけて、〈サイコ〉と引き離す他にない」
「いや、ジンライ。少し待ってくれ」
突然、グランドが凍ったような厳しい声音でそう制して、ジンライの肩をぐいと引き戻した。
「フェニックスは君に、〝助けないでくれ〟と言ったと言ったな?」
「助けるな?」
疑うようなダイバーの問いに、ああ、とジンライは認めて、服を通しても伝わるアーマーの硬い五指の感触に眼を戻す。
「確かに一度正気に戻って、そう言った。けど、それは俺達をこれ以上巻き込みたくないから、そう言うしかなかったって事だろう?誰も本気だとは思わない。違うか?」
「それは正しい。だがフェニックスが本心からいま助けられては困ると思っている可能性を、無視する訳にはいかない」
「馬鹿なこと言い出すなよ、グランド!」
「ああ、馬鹿な事だ。私を含めて、フェニックスが〈サイコ〉と結びつく理由はどこにもないと全員が思っていたからな」
「何の話だ?解るように話してくれ」
知らず知らずの内に力を込め過ぎていた指をグランドが緩めると、解放されたジンライの身体がするりと一歩前へ泳ぎ、手を伸ばしたライトフットの肩に抱き止められた。
説明を、とホークの強張った声が沈黙の先を促す。頷いて、グランドは続けた。
「これから話す事は、私が月面基地を出る前、フォートレス閣下から伝えられた事実そのままだ。〈サイコ〉が何故、他の誰でもないフェニックスを連れ去る必要があったのか―出発点は遠い過去にある。まだトランスフォーマーがクインテッサ達の従属物だった時代だ。ジンライ、君達はその頃の話を聞いた事があるか?」
「少しだけなら‥‥奴隷制の時代があったって」
ジンライ達にとって、生まれた時から地球上にその存在が認められていたトランスフォーマーは、かけ離れた別世界の高性能なロボット、知的機械生命体という認識でしかなかった。自らがゴッドマスターとして関わりを持つようになって初めて、彼等が『創造主』と呼ぶ宇宙の死の商人、クインテッサ星人達に奴隷として使役され、売買されていた負の歴史を教えられたのである。その時代を生きたダイバーやランダーの記憶には、生々しい染みが滲んだままであることも。
「その頃、閣下はとある研究所に従事させられていた。クインテッサが商品として他星系へ送り出す、高性能の生体戦闘兵器を開発するセクションだ。そこにフェニックスの両親‥‥バルサーとルシータも従事していた」
そうだったのか。フォートレスがフェニックスの養父母と面識があったのかと問うた理由が、ダイバーにもようやく理解できた。フォートレス自身が彼等と共に兵器開発に携わっていたからこそ、こちらがどこまで過去の事実を把握しているか確かめる必要があったのだ。フォートレスがバルサーが、どこで何をしていたのか―生体兵器の、開発?
爪先を駆け上がった悪寒が膝を震わせる。
「彼等が生み出していた生体兵器はその名の通り、戦闘能力のみを最大限まで特化させた生きた兵士だった。破壊と殺戮を目的とし、戦闘区域を圧倒的な力で制圧するオールドドール。最も優秀な研究員だったフェニックスの二親は、研究所の設立当初から特にその開発に携わっていた」
戦闘用奴隷を大量に売買するより、飛び抜けた能力値を誇る一個体を高額で売り付ける。その方が輸送の手間暇を考えれば効率的だと始められた生体兵器の開発は、当初から予想以上の利潤をクインテッサにもたらした。宇宙中を攫えば、騒乱の火種はあちこちに転がっている。バルサー達の〝生きている機械兵士〟はあらゆる星系へ飛ぶように売れたが、やがて新たな難題を抱えるようになったという。
曰く。生きてはいるが、思考がない。
「兵器としては完璧な性能だった。太陽系程度の制圧なら三個体もあれば事足りたが、敵軍だけでなく友軍をも殲滅させて、一個体が残るまで同士討ちが止まらないという事態を招いた。『破壊し、殲滅せよ』という命令を、言葉通り忠実にこなすだけの思考しか与えられなかったのが原因だ」
劇的な勝利を得られても、自軍にまで被害をもたらす様な兵器はどこでも扱いに苦慮する。クインテッサは、急激に売り上げの落ち込んだ生体兵器の改良を研究所に課した。
「その改良に、バルサーとルシータが取り組んだ。戦闘能力値を下げる事なく、敵と味方を区別できる的確な思考と人格を備えた生体兵器の開発だ」
「そんな事、可能なんですか?人格を与えるって、感情を持たせるという事でしょう?」
ライトフットが上せた疑問に、グランドは首肯する。
「焦土に変えるまで殲滅する冷酷さは、感情がないからこそ完璧に遂行できるものだ。無情な破壊と殺戮に、友軍を識別する思考は相容れない。そのせいで感情を与えると、生体兵器として生まれた〝苗〟と称された者達は、肉体と思考の激しい乖離に耐え切れず次々と発狂していった」
「うわ‥‥ッ、最悪‥‥」
吐き気を堪える様に口を覆って、ロードキングが顔をしかめる。全員が胸底からせり上がる泥のような塊を抱えたまま、グランドを注視した。
「能力値を上げれば感情は伴わず、感情を重視すれば兵器に成り切れない。試行錯誤の開発は繰り返し続き―バルサーはまったく視点の違う新しい組成に行き着いた。それが、」
迷う、刹那の呼吸。告げる言葉が運ぶであろう動揺への懼れは、グランドの口調に色濃く混ざり込んでいた。
「感情と肉体を、分離する方法だった」
感情の後付けが発狂の原因なら、逆に通常の人格を有した個体から備わっている感情のみを取り出して、別個に育成しておけばいい。異なる二つを一つにするのではなく、一つを作為的に二つに選り分けておく。そして肉体には最高の戦闘能力を、感情には己の守るべき対象を認知する情報を。
「『肉体』に心はなくなるが、取り出した『感情』を胎生のうちから教育して、自分が守るべき側を認識させておく。戦地に送る時それを統合させれば、希望通りの生体兵器になるという仕組みだ」
元々同化していた肉体と感情は、一つの種から伸びた、二つの枝葉。
ダイバーの肩口に縋ったつもりの指が滑り、派手な音を上げてホークは椅子に崩れ落ちた。
「フェニックスは―じゃあ、あいつは―」
「〈サイコ〉の‥‥『感情』‥‥」
たちの悪い冗談だと、誰か笑い飛ばしてくれないのか。いずれ一個の生体兵器となる為に、引き剥がされた半身同士?離れられない、戻れない‥‥助けられない。そうある為に生まれた、決定付けられた宿命?何故、何故だ。
「合体機能と根本的に違うのは、二つが同化された段階で、まったく別の人格が再構築されるという点だ。その第一世代が完成すると、育成用の巨大な地下施設は彼等を育てる為の部屋―〝二人の苗床〟と呼ばれたそうだ。フェニックスは‥‥そこで生まれた。〈サイコ〉の中から」
「あの歌‥‥そうか」
ダイバーは、埋めるように顔を覆って現実を必死に遮断しようとするホークの肩を包みながら、フェニックスが繰り返し口ずさんでいた歌の一節を思い出していた。母親が聞かせてくれたという、どこにでもあるような子供向けの童謡。随分長くセイバートロン語以外の音律で耳にしすぎて、本来の言語で考えることも忘れていたけれど。
「二人の苗床―語音を変換すると、一番近いのがテニスコート、だな。あいつ、いつも英語に訳して歌ってたから気付かなかった」
ルシータは、負わせてしまった罪深い定めに、母親として精一杯の警告を残そうとしたのではなかったか。そして、遠くへ連れて逃げてくれと死に際の弱った手を伸べて懇願した、バルサーの父親としての深い想い。
逃げなさい〝
「独立内乱が始まって研究所が閉鎖された後、閣下は二人がフェニックスを連れ去るのをご覧になったそうだ。この一件が起こるまで、彼がその時の胎生だとは思いもよらなかったそうだが、閣下はとても後悔されている。命じられて行った所業とは言え、こんなにも刻が経ってから、何も知らずに育った彼の心を滅茶苦茶にしてしまったと。そして君達の絆や想いまで‥‥!」
誰からともなく零れた嘆息が、夜気のように暗く静寂を埋めていく。フォートレスが責任を感じたところで、フェニックスが戻る訳でも事態が好転する訳でもない。ただ、絶望が深い穴を穿っていっただけだ。それでも、恨み事を吐き出す者はいなかった。
ジンライが顔を上げ、天井を仰ぐ。ライトフットの手から捥ぎ取ったタオルで力任せに拭うと、グランドに投げた視線は凛然とした戦士のそれに変っていた。
「フェニックスは何をしようとしてるんだ?今のあいつに殲滅しなきゃならない敵がいる訳じゃない。だったら、望みはなんだ?愛した女を間違った方法ででも取り戻す事か?」
「そこがはっきりしない。本来、限定された情報管理下で成育されるはずだったがフェニックスが〈サイコ〉の中に持ち込んだ豊かな記憶は、奴を混乱させ、統合を妨げている。閣下は〝変質〟と呼んでおられたが、その不確定要素が生体兵器という枠から存在そのものを押し出してしまった。正直、フェニックスが何故アグネスという女性を再生させる必要を感じているのか、それがどういう意図なのか‥‥」
「わかった。もう、わかったよ」
か細い声に震える唇を真一文字に引き結ぶと、ホークは肩に回されたダイバーの手に触れ、頷いた。
「フェニックスは自分自身を憎んでる。トランスフォーマーという血を、アグネスを奪った刻の流れを、この争いに満ちた宇宙を、地球を―憎んで、愛している。彼女が見捨てずに愛してくれと望んだ世界だから、終わりにしたいのにそうできない。彼女がその言葉を与えてくれない限りは」
ライトフットは泣き出しそうな顔をして、ホークをじっと見つめていた。ジンライの目が現実を憂い、ロードキングの呻きが、レインジャーの溜息が地球に生まれた者の嘆きを運ぶ。
間違っていようとも、突き詰めればそれはあまりに単純な単語で表せてしまうのだ。
簡単過ぎて、疑いたくなるほどの。
―878/5/15 18:06 C(<)echy―
ヴルタヴァ川の東岸、ズベチノの一帯に広がる深閑とした森林地帯は、逞しくも瑞々しい木々の芽吹きによって一層濃い緑に覆い尽くされ、自身の霊感に導かれるまま樹間を彷徨い歩くリブシェの爪先を、澄んだ露で濡らしていった。日没を前にした森の底はすでに薄暗く、梢から差し込む紫紺の色だけが冠雪のように白い肌と、ヴェールで包んだ腰まであるたおやかな金の髪を微かに浮かび上がらせている。
居城リブシーン城から果てなく臨める厚い森に日暮れから好んで足を向ける者など、この地を治める自分以外にいようはずもない。昼間は労働の合間に民が身を憩わす場所であっても、やはり森は獣や精霊達の住処であり、静寂と闇が蟠る間は人間が侵していい領域とは見なされないのだ。ただ、知恵ある領主としてこの地と、今は二人の姉達にそれぞれ任されている領地を一手に統治していた父クロクの元で、幼い時分から霊感による予言を行っていたリブシェにとって、誰も立ち入らない森の深奥は新たな霊威を得る為の神域であった。
狼の遠吠えに足を止めて耳を澄ませているうちにも、リブシェを押し包む夜闇は色と重みを増していく。天蓋のような茂梢を透かし見れば、今夜は月がなかった。代わりに夜空は白銀の星々が集まる帯状の連なりで輝き、視界をほんの僅か照らしてくれていた。
柔らかな苔の匂いに混じる水辺の気配に向かって、不安げない足取りで歩を進めたリブシェの前に、五人がかりでも抱え切れそうにない根太を張った古木が現れた。岩肌のような朽ちた色味の幹は濃緑の苔の衣をまとい、巨体を傾げるようにして傍らに湧いた泉の中へ根の半分を浸している。幾本もの枝を分岐させながら天を突いて伸びた梢は、若葉同士を重ね合わせて屋根よりも強固な天井を作り上げ、リブシェと星空とをすっかり分断させていた。
不思議なものだ。この巨木の下は森中の獣達の声まで遮ってしまう。精霊達の―彼等が宿る古木の漏らす息遣いだけが聞こえる。
そして、濃紺の水面を思わせる愛しい声音が降りてきた。
「どうしてこんな晩に来た?リブシェ」
ダイバーは戸惑いの表情を見せたまま大木の陰から進み出ると、泉の畔に微笑を上せて佇むリブシェの前へ、張り出した根太を乗り越えて歩み寄った。
彼等の風俗に倣ったドレープのある衣服になめし皮の胸当てと短剣を吊るした革ベルトをまとった姿が闇を避けて間近に立つと、蕾が綻ぶ様に似た美しいリブシェの顔がほの白く輝き、笑みが深まった。形の良い耳の際から垂れた金糸の髪がひと房、夜に着て出るには随分と薄手の衣の胸元で踊る。
「お会いしたくて、参りましたの。月の隠れている夜は森へ入るなと母からも言いつけられておりましたけれど、精霊はちゃんと私を貴方のところへ導いてくださいました」
「真闇の中だと獣達が騒ぐ。君の安全の為に言ったんだ」
「それは充分に。でもお話したかったのです、すぐにでも」
聞き分けのない我儘を目だけで諫めて、つと差し伸ばしたダイバーの手に、リブシェは甘えるように滑らかな頬を摺り寄せた。ダイバーの骨張った指の感触はリブシェの中で記憶の幾つかと明確に結び付き、己の上だけを駆けるように過ぎ去った刻の長さを教えていた。
「貴方が、我等の父祖チェフと共にこの地へ参られてから、どれほどの刻が流れたのでしょう。父祖亡き後、貴方は常に民の良き導き手であられました。一族に公明正大な裁きをもって遣える役目をいただいた父も私も、この森に貴方が居てくださる事が長らく心の支えでありました。ですが、私はもう民への役目を果たせそうにありません」
「一体、なにがあった?」
ダイバーを見つめていた瞳が苦しげに伏せられると、高い鼻梁の傍に長い睫毛の作る陰が落ちた。
戦乱に追われた一族を率いて、人の手の及んでいないスラブの奥―後に彼の名を取ってチェヒと名付けられる事になる―深山の地へ旅立つつもりだとチェフから聞かされた時、ダイバーが同行を申し出たのは少なからず好奇心からであった。地球には数多の部族がひしめき合い、日々、文明の盛衰が繰り返されているが、何の素地もない土地に新たな国が興る様を目の当たりにする機会など無いに等しいからだ。
事によれば別の戦禍に出会うこともあったかもしれないが、チェフは見事に大役を果たし、一族をヴルタヴァ川に沃されたジープ山の麓へ定住させ、小国と呼べる領土を開拓してみせた。そのチェフを失って後、民が心正しき裁定者として選んだのがリブシェの父クロクである。そしてダイバーはただ一度だけ、不死の友と崇められるのを疎んで隠れた森の奥深くから、若きクロクの前に現れたことがあった。
首を傾げて応えを促すと、リブシェはゆるゆると顔を上げたが、畏れるように視線を外して囁いた。
「私の裁きは女の浅知恵だと罵る者がおります。女の法は屈辱しか生まない、民の統治者は男であるべきだと‥‥」
「馬鹿な事を!クロク公には従ったものが、君たち姉妹を軽んじるのか?君も、カジもテタも、立派にこの地を治めているよ。他の様々な国と比べたら、ここがどれほど平和で平等か、世界を知らない者の愚かな言葉だ」
「そうです。民のほとんどは他の土地のことなど存じません。皆が不死人である貴方の様に、敏い智慧を持つ者ばかりではないのです」
不死、という言葉に込められた誤解を解こうという努力は、この数十年でとうにやめていた。ダイバーは悲嘆を眉根に浮かべただけで、打ち消すように首を振る。胸元で固く組まれたリブシェの手を取ると、華奢な指は悴むように震えていた。
生まれたばかりの頃に握った手は山桃のように小さかったのに‥‥奇妙にそんな懐かしさが胸を掠めていく。
「このまま民を見捨ててしまう気か、リブシェ?それとも自分が何をするべきか、もうわかっているのか?」
禁を破って、ただ話をする為だけに来た訳ではあるまい。答えはすでにリブシェの胸へ天啓として舞い降りているに違いなかった。
その問いかけに怯えたように身を捩ったリブシェは、ダイバーの胸先に引き戻されてよろめき、頭を預けるように項垂れて言った。
「彷徨い歩いている間、私の耳元に絶えず精霊が囁きかけました。私の夫となる者の名‥‥プシェミスル‥‥民は女がもたらす安寧と公平よりも、男がもたらす枷と服従を望んでいるのだと―でも私は、貴方のお傍に居たいのです。どこへなりと共に参りますから、どうか―」
「リブシェ、それは無理だ。君と俺の刻の流れは違い過ぎて、共に行く事はできない。わかっている事だろう?」
「ええ―ええ、わかっています」
全身を絡め取る何かを振り払うような強い口調で、リブシェは己の唇から吐き出された言葉までを否定すると、ダイバーの掌に押し包まれた指を引き抜いて逃げるように一歩後退った。ヴェールが風にそよぎ、一瞬の表情を覆い隠す。その下から真っ直ぐに向けられた眼差しが闇を裂いてダイバーを見た。
そこにいるのが触れることを拒む異界の化身であるように。
「共にある事が叶わないのなら、私に命じてください。私達の母に、父クロクの元へ行くようお命じになった時のように。そのお言葉があれば、私は喜んで夫となる者を迎えます」
「リブシェ―」
ただ一度だけ―ダイバーはクロクに会い、その妻となる娘を託した。マジャール人にキエフの地を追われ、この深い森の中で親兄弟もなく行き倒れていたところをダイバーに救われた娘は、雷神ペルンに遣える巫女だと名乗り、輝石のように美しく聡明で、異なる国の知識と言葉を持っていた。
彼女がクロクに分け与えるであろう見識は、この地を更に豊かにするだろう。
引き合わせた二人の間にやがて、薬草の知識に富んだカジ、託宣の能力を持つテタ、予言と裁定に優れたリブシェが生まれると、ダイバーは常に、母に手を引かれてこの森に連れて来られる三姉妹の良き教師として多くの時を過ごした。娘達の成長を見せたいのだと言って微笑んでいたリブシェ達の母が、どんな想いを秘めているのか気付かぬふりをして。
リブシェはたおやかに笑むと、突き付けられたものの鋭利さに竦むダイバーを労わりの眼差しで撫でた。
「母は父を深く愛しました。それを貴方がお望みになったから‥‥ならば私もそれができるでしょう」
「俺に君の行く道を選ばせるのか?そんな大切な事を、他人に委ねていいはずがない。俺にはそんな資格も―」
「いいえ、どうかそうしてください。その答えが私の心を生かそうと殺そうと、貴方のお言葉に従う事だけが私が最初で最後、貴方へ示せる真実の愛の証なのですから。そしてこれだけは解って頂きたいの‥‥今日限りお会いできないとしたら、生涯苦しみ続ける事になったとしても貴方を忘れ去るよりはずっと幸福なのです」
その姿も声も、この日の記憶が忘れさせてはくれない。
朽ち果てるその日まで。
この星の人間達が愛と呼ぶものが、トランスフォーマーの獲得しえたものと同じなのかどうか、こんな言葉を聞く度に酷く疑わしくなる。犠牲と残酷の狭間に在ることを、進んで甘受する想い。抱え込んで秘めてしまうだけの、愛。
どうか、と懇願を口にして、リブシェの白い指がそっとダイバーの頬を包んだ。
《続く》