引き続きお楽しみください。
―2029/7/6 7:02 Paris―
夏の最中でも二十度以上の気温に届かないパリの朝は、薄着で出歩くのを躊躇いたくなるほどひんやりと澄んでいる。それでもコンコルド広場には、身支度の整った出勤途中の者達や、西岸海洋性気候を甘く見た服装の外国人観光客達が行き交い、早い時間にも関わらず観光地らしい賑わいに包まれていた。
かつてルイ十五世広場と呼ばれていたコンコルド広場は、エッフェル塔からルーヴル美術館を結ぶシャンゼリゼ通りのほぼ中間に位置する。フランス革命当時、この広場はギロチン台が常設された処刑場であったが、その後、一八三一年に当時エジプトの副王であったムハマッド・アリから贈られたルクソール神殿のオベリスクが移設され、フランスの新時代を象徴する場所となったことで、現代に至るまでパリを代表する名跡の一つとなった。
先端に行くほど先細りになり、美しく均整の取れた三角に頂点の四面を切り取られた『方尖塔』と称されるデザインのオベリスクは、土台を含めるとその高さは二十三メートルにも及ぶ。広場を訪れる者の多くはやはり、天に向かってそそり立つこの巨大な石碑に目を奪われ、遥かエジプトの地に残された対の姿に思いを馳せながら塔を見上げる。その表面に刻まれた象形文字の意味など解らなくとも、朝の清らかな空気の中に、歴史の息吹は誰にも等しく間近に感じられることだろう。
今時珍しいライカのファインダー越しに、オベリスクの全景を何とか収められないものかと、朝食前の散歩にコンコルド広場へと足を運んできたアメリカ人の老夫婦は思案していた。石碑の真下から一歩、また一歩と後退りながら、ファインダーを覗いては顔を見合わせてまた一歩下がる。結局、五十メートル近くもオベリスクから離れてしまってから、やれやれ仕方ないねと諦めてカメラを再び持ち上げた時、
「あらッ‥‥?」
訝しがるような声を上げて、老婦人が不意に夫の肘を引っ張った。その弾みで、一度ファインダーに収めた図が上下にぶれてしまい、夫は渋々ライカを下ろす。
「何だい、一体。折角いい構図だったのに」
少しばかり気分を害されたことを示すつもりで問い返してみたが、妻の方は夫を見もせず、朝日に照らされたオベリスクを不思議そうに指差している。
「ねえ、あなた。あそこに誰か立ってるわ」
確かに広場中、群集とはいかないまでも時間が経つに従って人々の往来は引っ切り無しに増えてきたが、今さら改めて気にすることでもあるまい。夫は再びライカを上げて、ぼやけたピントを丁寧に合わせながら言った。
「仕方ないよ、観光地なんだから。写真に他人が写り込むのは勘弁してもらわないと」
「違うわよ、そうじゃないの。ほら、あそこよ、あそこにいるの。危なくないのかしら」
普段は落ち着いている口調が次第に焦りを帯び出した。ファインダーに当てた目をちらりと流すと、老妻は眸を瞬かせて一点を指し示したままでいる。だが、指の角度がおかしい。オベリスクを指しているはずなのに、白い指先は同じ方向の随分と上に向けられているではないか。老夫は吸い寄せられるように、妻が凝視している方へレンズを上向けた。
最初、それは巨大な旗のように見えた。
真っ白い柔らかな布が、地上よりも高いオベリスクの突端の気流を孕んでバタバタと右に左に、今にも捥ぎ取られそうな激しさではためいている。その一時の、気まぐれな嵐のような風がぴたりと息を潜めた途端、それまで宙に踊り狂っていた白い布地が羽ばたくのを止めた蝶の翅のごとく、ゆらりと広がってすぼまった―人間の輪郭を縁取って。
あッ、と老人は畏怖の吃音を発して、咄嗟にシャッターを切った。
片足を乗せることも容易でないはずの切り立ったオベリスクの突端に、洗い立ての清潔なシーツのようなものを肩からすっぽりと被った青年が、まるで重みなど感じさせない超然とした気配ですっくと立ち尽くしていたのだ。
いつどこから現れたのか、いや、そもそもあんな場所に人が立つことなど出来るのか。呆然と見上げれば、その青年はあまりにも世俗的な革のサバイバルブーツを履き、薄汚れた迷彩柄のズボンを布地の下から覗かせながら、それでも奇妙に現実離れした現象を当たり前のように見せ付けてくる。ここが野天の広場でなかったら、教会でも、例えば戦場でもあったなら、一体どれだけ崇高な存在に見えることだろう。その姿を仰ぎ見た者達は皆、平伏すことも厭いはしないに違いないとすら思われた。
呆けて見続けるしかできない老夫婦の周囲で、オベリスクの上に佇立する者に気付いた人々が騒ぎ始めた。危ないと声をかける者があれば、サーカスのアクロバットでも見るように口笛を吹いて、何が起こるのかとビデオを回す集団もいる。
パリ市民らしい誰かがフランス語で叫び、警官を呼びに走っていく。
朝の穏やかさは瞬く間、喧騒の渦に巻き込まれた。
(―早く―逃げてくれ―)
眼下にいくつかの群を成し、高揚の眼差しで一心に自分を仰ぎ見る者達の顔を眺め渡しながら、フェニックスは乾いた唇を震わせた。声になるかと思ったが、歯車が空回りしているような空疎な感覚が残っただけで正しい音節を紡がない。焦りだけが冷たい泉のように胸郭を満たし、フェニックスを混乱させた。
ここはどこだ?
足元に広がる灰色の石畳。
好奇を隠さない人々の顔、顔。
頭上を覆う湿った青の空。
雲。
風。
(‥‥逃げなくちゃ‥‥)
そうしないと、捕まえられてしまう―
「―‥‥げて‥‥」
枯れ切った喉から絞り出す声はか細く、地上のざわめきに押し潰される。視界の隅に赤色灯を閃かせたパトカーが飛び込み、転がるように降りた数人の制服警官が野次馬を掻き分けて走り寄ってくる。
ゆっくりと、フェニックスは首を振った。
「来るな‥‥ッ、逃げて‥‥―逃げるんだッ!!」
瞬間。
闇よりも濃い影が地上に落ちた。
オベリスクを見上げていた者達の目が恐怖に見開かれ、すべての視野を肥大した影が覆う。
「きゃああッ!!」
一つの絶叫が、凍り付いていた人々すべての悲鳴の引き金だった。
オベリスクの上空に突如、空を裂いて膨れ上がるように出現した影は、胎児のごとく縮めていた機械の四肢をゆるゆると伸ばしながらその白銀の表層を輝かせると、逃げ惑う地球人に一瞥をくれるでもなく悠然と、コンコルド広場に降り立った。神のように―悪魔のように。
「あなた、早くッ」
「ああ‥‥ああ、何てことだ‥‥」
取り落としたライカを拾う間もなく、妻と手を取り合って広場の外へと逃げながら、老人はふと振り返ってオベリスクを見た。
すでに白い旗の影も形も消えた塔の上には、風だけが唸りを上げていた。
モニターを監視していたオペレーターの悲鳴に、スターセイバーは簡素な司令室のメインパネルを叩き付けるようにして展開した。
「出ました!!フランス―パリ中心部、地上面です!!」
熱源を示す光点が蜘蛛の巣状に広がる市街地のほぼ中央、セーヌ河沿いのコンコルド広場に閃いている。突如としてレーダーに現れた像はその存在を誇るように、同時展開したエネルギー波形を急上昇させた。まるで、いつ何時でも、月基地を吹き飛ばした時と同じ攻撃に移れると言わんばかりに。
「すぐに出撃する!誰かフォートレス・ロードに連絡を―」
鋭い指示を飛ばしながら素早く踵を返したスターセイバーの背に、短い驚声が追い縋った。
「あッ―あ、ロストしますッ。放射エネルギーが急激に低下して‥‥ッ」
急いで見上げたモニターの中で淡い灯の名残に似た点滅が数度続き、それは現れた時と変わりない唐突さでスターセイバーの視界から掻き消えた。後には簡素なパリの市街図が一筋の傷も受けずに残されている。追い立てられるようにキーを叩くオペレーター達の、固い指先の音だけが司令室を支配し、スターセイバーを孤立させた。
「一体‥‥〈サイコ〉はどこへ消えた?移動しただけなのかッ!?」
「申し訳ありません、司令。モニタリングが間に合わず―見失いました」
「どこかに出現した形跡は?」
「現時ではどの地点にも観測されません。以前と同じように完全ロスト状態です」
「じゃあ、何が目的で‥‥」
およそ、パリ市街で姿を晒していたのは三分がいいところだ。その間〈サイコ〉は移動もせず、何らかの破壊活動を起こすでもなく、棒のように広場の中に突っ立っていたことになる。だが、何のために?
ニューヨークでの事件はすでに全世界へ配信されており、フランス国内でもほとんどの者がニュースなり新聞なりで目にしているはずだが、サイバトロンの月面基地が攻撃されたことは報道協定によって伏せられている。人々の恐怖心を喚起するためだとしても、〈サイコ〉が自身の姿を白日の下に現すメリットは少ない。むしろ、サイバトロン側が非常時体勢を取っているであろうこの時点で人目に付くのは、追尾や攻撃を受ける可能性を予測しても、極力避けるのが戦略というものだ。これではわざわざ追跡を促しているようなものではないか。それとも、追えるものならという自信の表れなのか。
スターセイバーは平時に戻ったモニターを凝視しながら、自問を繰り返した。
それでも疑問は残る。
パリを選んだ理由。それも早朝の、まだ多いとは言えない人通りの広場。
「軌道衛星からの地上遠視映像が出ます」
地球の各国が打ち上げているものとは比べ物にならないほど解像度の高いサイバトロン専用の地上遠視衛星は、道端に咲くスミレの花弁まで数えられるほど、極限まで精度が上げられている。プライバシー保護の観点から地球人の感情に配慮して、その存在自体が公にはされていないが、地球上に起こる災害などの異変をいち早く把握するために国連の許可を得て運用されているものの一つであった。
その衛星から淡々と送られたコンコルド広場の映像が展開された瞬間、司令室全体が息を呑んだ。
石畳に包まれた広い敷地の中を行く宛てのない影のように彷徨い歩く人々だけを残して、広場から一歩外れた外周沿いに累々と大勢の地球人が倒れ伏し、車道に溢れた色とりどりの車体はすべて、時を切り取られた玩具のように沈黙している。広場を中心に、およそ半径一キロ四方。シャンゼリゼ通りを象徴する円形ロータリーは言うに及ばず、北はサントレノ通り、セーヌ河を挟んだ南側に集中する省庁の一角までが廃墟のような静寂に覆われていた。
ただ一滴の血の色も、炎も確認できない。まったく突然に世界が透明な壁によって閉ざされたような、不気味な光景。
「―死んで‥‥いるのか?」
恐ろしい問いだと、スターセイバーは自身を責めた。
もし、こうして眺めているものが骸の山だとしたら、どうなる?取り返しがつくものか?
だが、返答までの間は一瞬で過ぎた。
「いえ、生体反応があります。おそらく全員、生存しているものと思われます、司令」
「昏倒しているだけ?あの数が、全員?」
現実感がようやくスターセイバーを立場へ押し戻す。命令は矢のように飛び出した。
「救護班をすべて向かわせろ!コンコルド広場の半径一キロを封鎖!外縁の一般人を直ちに避難させる!」
「フランス政府への連絡はどうなさいますか」
「国連を通してホットラインを。現場の指揮にはブラッカーを―」
言いかけて口を噤み、気を取り直すように首を振る。ブラッカーが治療中で動けないことは承知していたはずなのに、いざとなると真っ先にその名を挙げてしまうとは、甘えすぎも甚だしい。それでも、もし自分が頼ればブラッカーは己の怪我など顧みずに現場へ飛んでいくだろう。
それがスターセイバーは怖かった。
「―いや、ラスターを充ててくれ。データはすべて、逐一転送するようにと。私はブレイバーと状況の解析にかかる」
「了解しました」
スターセイバーは、別室に籠もり切りで月面基地襲撃時に得られた貴重な〈サイコ〉のデータと睨み合っているブレイバーの元へ足を向けたが、手狭な通路を曲がった所で前方から足早にやってくるフォートレスと行き会い、苦い思いで互いに表情を曇らせた。
フォートレスの背についてきたパーセプターが、彼独特の堅い物言いで溜息混じりに苦言を零す。
「パリに現れたと聞きましたが、取り逃がしましたか」
「パーセプター殿」
フォートレスがたしなめて軽く首を振ると、パーセプターは総司令官への謝罪を目顔に上せて、ばつが悪そうに肩を竦めた。スターセイバーは苦笑し、非を認めた。
「弁解のしようもありません、閣下。今度も後手に回ってしまいました。パリ市街は混乱状態で詳しい報告はこれからですが、死傷者は出ていないようです」
「それは何よりだ。私達もデータの検証に加わりたいのだが、構わないかね?総司令官」
「そうしていただければ、有難い限りです」
「しかし、パリとはな‥‥」
「ええ、軍事拠点という訳ではありませんし、確たる目的があっての行動なのかどうか、判断がつきかねます」
「―これが、誰の目的なのか―」
「‥‥?」
聞き取れないほど微かなパーセプターのその呟きが、スターセイバーの胸郭に、押し込めていただけの黒い不安をさざめき立たせた。
―2029/7/6 9:13 Paris―
拾い上げると、石畳にぶつかった角の部分は少しへこんでいたが、ライカのがっちりとした作りは落ちた衝撃に耐えて無事だった。製造当初の値打ちのあるレンズも傷一つ付いておらず、フィルムを守るカバーもずれていない。これなら中の写真を現像するのに何の問題もないだろう。
ランダーは手の中で二、三度、そのライカを懐かしく眺め回すと、規制線を張られて人っ子一人いなくなった広場の中央を横切り、広場の北側に建つ一流ホテル、オテル・ド・クリヨンの前に集まった救急車やパトカーの群に近付いた。遠目には普通の緊急車両だが、その周囲で忙しく動き回っているのがトランスフォーマーの巨体だけなのを見止めれば、車両もすべてトランスフォーマーの変形体だと、誰でも気付くはずだ。しかし今、封鎖されている二キロ圏内に地球人は一人も残っていない。
何らかの原因によって昏倒した人々は、時間的な幸運も重なり一万人には満たなかった。それも広場から離れれば離れるほど症状が軽微で、サイバトロンが封鎖を完了するまでにおよそ七割が意識を取り戻し、簡単な検査のために各医療機関へ搬送されていた。残り三割は覚醒した者もあり、未だに気絶したままの者もありだが、精密検査の結果では特に異常は見受けられないと言う。
医療部が最も重要視したのはむしろ、コンコルド広場内にいて〈サイコ〉を間近に目撃した人々の方だった。
広場の外にいた者達が昏倒し、近隣の電子機器の類がすべて停止状態に陥ったというのに、実際、その中心点にいた人間の方が影響を受けなかったという事実。これは興味深い現象だ。
「脳共鳴と言うか、シナプス感応と言った方が正確かもしれませんが、地球人が昏倒したのは〈サイコ〉の発する感応波に耐えられなかった為と見るべきでしょう」
オテル・ド・クリヨンの車寄せに腰を下ろしたラスターと、救護班の医師らしき中老の騎士の話し声が、ランダーの耳に届いた。臆する様子もなく話の輪に近付いてきたランダーの姿を地球人と見間違ったらしく、医師は驚いたように言葉を呑んだが、ラスターが続けるよう促すと事情を察して報告に戻った。
「広場にいた全員から聞き取りをしたところ何人かが、〈サイコ〉が現れる直前、オベリスクの上に若い地球人男性が立っていたと証言しています。その〝地球人男性〟が逃げろと叫んだ途端、巨大なトランスフォーマーが現れたと。これは広場で押収した録画テープからも確認しました」
ラスターの視線が躊躇いがちにランダーの頭上を掠めた。オベリスクの先端に普通の地球人が立てるはずなどないのだから、その意味するところは暗に一つの結論を示している。
ランダーはライカを弄びながら、ラスターの声を聞いていた。
「医療部としてはどう推測する?」
「広場に居合わせた全員が、逃げろ、という言葉を聞いているのは、それ自体が発声音ではなかったという証拠です。地球人の声帯器官では、広場中の者の耳に届く音を発するのはほぼ不可能ですから。おそらく、その警告の言葉も感応波の一種で、〈サイコ〉が発した感応波を遮断したものと思われます。どこまで相殺されたのかは疑問ですが、〈サイコ〉が感応波による攻撃で生命活動を寸断しようとしたことは、確実ではないでしょうか」
「―いや、違うな」
冷ややかな声で医師の言葉尻を否定したランダーは、不満げに向けられたトランスフォーマーのアイグラスを、射抜くように睨め上げた。
「そんな
医師のアイグラスに映り込んだ自分の冷たい表情に、ランダーは唇だけで皮肉に笑いかける。嘲笑のような態度に、医師は声音を硬くして言った。
「手間ですって?広範囲を一瞬で沈黙させるには、脳内攻撃は有効な手段だと思いますが」
「あれだけの戦闘力がある奴なら、街一つ殲滅するのだって訳ないはずだ。第一、焦土にしてしまった方がよほど綺麗に手に入る」
意味の通らないことを傲然と告げるランダーを憮然と見下ろしていた医師は、地球人としか思われないその顔に薄ら寒い、氷像のような酷薄さが掠めた瞬間、得も知らずぞっとして声を呑んだ。
「あんたは知らないだろう?何百何千という地球人の骸がぐずぐす腐敗する時の、耐え難い臭気や穢れた肉の色も。あれが全部、土に返るのをじっと待つぐらいなら、焼き尽くしてしまった方が始末が楽なんだよ。まったく―地獄そのものだからな」
謳うように軽やかに、塗り込められた歴史の闇を音節に変換するランダーの口調はどこか楽しげにすら聞こえて、金属の巨体ばかりが行き交う異質なパリの風景を一層深く凍えさせた。
―1945/4/30 15:21 Berlin―
地下壕の空気は黴臭く、酷く澱んでいる。
新首相官邸の地下に三段階を経て増設された広大な退避空間は、表向き、総統の耳を憚って地下要塞と呼ばれていたが、各部屋を照らすのは裸電球の鈍い光一つ、お粗末な空調設備が臍を曲げれば人間の発するあらゆる悪臭で満たされるという劣悪極まりない環境のここは、これでも下水道に逃げ込むよりはいくらかましだという程度である。
軍靴で蹴りつけるコンクリートの床は鈍い音を反響させるだけで、二メートル強の分厚い壁も地上の混乱と悲鳴を届けることはない―累々と転がる死体の山も、その臭いも。
薄暗く手狭な、名ばかりの作戦会議室を素早く抜けて秘書室に入ると、突き当たりに地下施設には不釣合いと言わざる得ない、質素だが重厚なオーク材で出来た執務室の扉が現れる。てっきり総統信奉者の有能な秘書、トラウデル・ユンゲ女史がいるかと思ったが、閉ざされた扉の前にいたのはドイツ帝国の軍服で身を包んだ、見るからにアーリア人種の特徴を色濃く遺伝したと思われる金髪碧眼の伝令兵―ハインツ・リンゲ一人で、彼は少し酒の芳香をさせたまま、扉を見守るように所在無く立ち尽くしていた。
ランダーは彼の前につかつかと歩み寄ると、しなやかな敬礼を施した。通称SSと呼ばれるナチス親衛隊の軍服は、こんな状況下でも今だに絶大の効力を誇ると見えて、リンゲは俄かに緊張の色を上せてランダーに最上級の礼を執る。
あまり気分の良いものではないが、仕方ない。この任務を完遂するためにわざわざドイツ軍の上層へ食い込んだのだから、とランダーは口中にごちる。まして誰も口にはしないが、もう一つの肩書きは単なるSS将校として遇する訳にはいかない、密かな権力を暗示させるのだ。
「‥‥君は下がっていい。私が役目を引き継ぐことになった」
一瞬だけリンゲは、不安と不満を角ばった顎の線に浮かべた。しかしあからさまに非難の声は上げない。
「よろしいのでしょうか?」
この問い方は控え目だ。この場にいなければいけない義務感と、逃げ出したい焦燥感がせめぎあっている。持ち場を離れることが罪ではないと教えるために、ランダーは軽く微笑んだ。
「ラウンジの前で待ちたまえ。ギュンシェ少佐が方々とおられるから、そうだな‥‥十分したらこちらへお呼びするように」
「了解いたしました」
生真面目に踵を鳴らして復唱すると、リンゲは秘書室を出て行った。扉は半開きだが、空調機と発電機の唸りが喧しく、一部屋遠ざかっただけで大抵の音は聞こえなくなってしまう。
ランダーは執務室の取っ手にそっと手をかけ、押し開けた。ここまでは段取りの通りに進んでいる。
「―ミハエルッ!」
迎え入れたのは、切羽詰った甲高い女の声だった。そして駆け寄ってくる、鮮やかな青のナイトドレスをまとった小柄な身体。
「来てくれたのね、ああ―よかった!」
ほんの一日半前、長年の「愛人」という地位からドイツ帝国総統の正式な妻となったエヴァ・ブラウンは、夫の目があるにも関わらずランダーの首根に取り縋り、自慢の豊かな金髪を乱して抱擁を続けた。ランダーはエヴァの肩越しに、執務室の四方を素早く見回す。花柄の長椅子と肘掛け椅子が一客ずつ。執務用のデスク。絨毯敷きの床。壁にはフリードリヒ一世の肖像画。
その絵を見上げていたのだろう。恋人同士のように抱き合うランダーとエヴァの姿を壁際から、灰色の軍服に醜怪な老いの肉体を押し込めた男が―総統アドルフ・ヒトラーが暗い眼差しで注視していた。
一介のSS将校だったランダーを自らエヴァの専属護衛官に任じておきながら、ヒトラーが向ける眼はいつも猜疑と嫉妬に澱む。エヴァが護衛官への信頼だけでない感情をランダーに抱いていることぐらい、ヒトラーの側近達で知らない者はない。ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンの「情夫」―その肩書きがあるからこそ誰もがランダーには当たらず触らず、おかげで、何につけても付け入る隙が勝手に転がり込んできたのだ。SSのヒムラー長官が総統を裏切るように仕向けた内部工作も、拍子抜けするほど簡単だった。ヒトラーの側近達は戦火が拡大するにつけ、狂信的な崇拝者と現実的な利己主義者に二分されていたからだ。
この不毛な戦争は負ける。ベルリン陥落の恐怖を鼻先に突き付けられているヒトラー自身が、とっくに気付いていることだと言うのに。
だからこそエヴァは密かに今日、ランダーを呼んだのだ。西側へ脱出させる裏の手立てがある、という言葉を無邪気に信じ切って。
「さあ、ミハエル。一刻も早く西へ連れて逃げてちょうだい。時間がないわ」
懇願するエヴァの声は、微かに震えているようだった。無理もない。ラウンジで息を殺している部下達は皆、ヒトラーとエヴァが残した別れの儀式の意味を、一つの確然たる事象として捉えている。二人がここから姿を消したら、それは耐え難い裏切りだ。追っ手をかけられ、殺される危険すらありうる。
「本当に‥‥逃げられるのだろうな」
問いは這うように、ヒトラーの喉から転げ落ちた。ランダーは小さな笑みを浮かべて、総統の短躯を見据えた。
第三帝国と僭称して世界を相手に戦いを挑み、恐怖政治と人種差別を推奨した男の影は、もはやどこにもない。髪は汚れ、目は血走り、色の悪い皮膚は垂れ下がり、ただ軍服の勲章だけが磨き上げられている。
口角から泡を飛ばして、ヒトラーは声を荒げた。
「逃げられるのだなッ?私はこんな場所で死ぬ訳にはいかない―絶対にだ!私が成すべき世界のためにッ」
「ベルリンは後一日、二日で占領されるでしょう。軍も瓦解している。逃げて再起の当てでも?」
「私が生き延びておると知れば同志が参集する。その時こそベルリンを奪還し、再蜂起する。それに‥‥私にはまだ最後の兵器があるのだ」
ああ、そうだとも、とヒトラーは自身の言葉に勇気付けられて、何度も激しく頷いた。
「
「最後の兵器、ですか‥‥」
「そうだ、ここから脱出した暁には特別に見せてやる」
病的な引き攣れた笑いを高らかに発して、ヒトラーだけが満足そうに悦に入っているのを、ランダーの胸に頬を預けたままのエヴァが掠め見た。顰められた眉に嫌悪を滲ませて、エヴァは小声で口走った。
「ミハエル、早く。私を逃がしてッ」
ぴたりと笑声が途切れた。眼を見開いたヒトラーの、呆け切った顔が薄明かりの中に浮かぶ。
「ブラウン嬢―何だと?」
愛人であった時期が長すぎたのか、妻と呼べずに相変わらずエヴァの旧姓を口にして、ヒトラーが問い返す。エヴァは昂然と顔を上げると、ランダーの片腕にすがって言い放った。
「脱出するのは私とミハエルだけです。総統がベルリンを離れる訳には参りませんわ。けじめを、お付けにならなくては」
「私を置いて、逃げるというのかッ?この期に及んで、そんな男とお前は―」
「ええ、そうです。私は別の世界で生きていきますの。ここまで忠実にお慕いしたんですもの、もう充分でしょう?お願い、ミハエル。総統にはっきり言ってちょうだい」
「‥‥ああ、エヴァ。君は頭のいい女性だ」
ランダーはそれまで彼女にしてきたように、丁重な手つきでドレスに包まれた腰を引き寄せた。
「でも、少し良すぎたな」
口付けがエヴァの問いを塞いだ。
その舌が口中に広がる嫌な苦味を感じ取った時、ヒトラー夫人は全身を駆け巡った青酸カリの毒によって数度もがいた後、だらりとランダーの腕の中で息絶えた。眠っているような死に顔とはこういうものだろうと思えるほど、エヴァの白い頬は仄かに綻んでいた。
死者の唇を解放するとランダーは、立ち竦んでいるヒトラーにゆっくりと不敵な視線を戻した。
「生憎、毒の効く身体じゃないんでね。それくらいはとっくに確認済みだろうが」
腕の力を緩めると、エヴァの身体がどさりと床に落ちる。
ヒトラーは思わず後退りながら愛銃、ワルサーを引き抜いたが、指先が震えて銃口の位置が定まらない。ランダーは大股に一歩踏み込むと、不遜な笑みを返した。
「そんなもので撃っても、俺には傷一つ付けられないぞ」
「貴様―まさか―ティタンの末裔―」
「‥‥盤古、ミーミル、プルシャ‥‥呼び方はなんとでも。結局どれも正解じゃない。ああでも、俺は結構、ティタンって呼び名は気に入ってるんだ。兵器、と呼ばれるよりはな」
あっと言う間に、ヒトラーは壁に追い詰められた。湾曲を帯びた背が分厚いコンクリートにぶち当たり、体温を奪う。指は引き金にかかったままだが、威嚇にも撃つことは出来なかった。ランダーの言うように、何発撃ち込んだところで致命傷など与えられないことは、これまでの度重なる実験で充分に承知していた。
最後の兵器―ヒトラーが、戦術戦略にオカルトや占星術を多用している事実は司令部において公然の秘密だったが、そのヒトラーが第二次世界大戦の開戦直前から秘密警察に特命を下して探索させたのが、〝ティタンの末裔〟と呼んだ巨神の存在だった。
古くはアレキサンダーがその存在を求めて東征を試み、また秦王朝の始皇帝が不老不死の源を持つ者として渇望したように、ヒトラーも未知の巨神を他国を圧倒する『兵器』として掌中に収めようとしたのである。
国一つを動かしての探索の末に、パリに身を隠していたホークを発見したヒトラーは、一九四〇年、フランスへ侵攻を開始した。地球人を傷つけることを恐れて従順に捕虜となったホークは、アウシュヴィッツへ送られ、医学実験所で耐えがたい苦痛を受けたのである。
巨神としての力をナチスドイツに供すると承諾するまで、強制収容所の捕虜達を眼前で一人ずつ殺害していく、という凶行の一部始終を味わわされたのだ。
どれだけの恐怖―絶望だったか、想像に難くない。しかし、トランスフォーマーとしての能力を戦争の道具にすればどうなるか、荒廃した母星を思えばヒトラーが敵視する者達どころか、地球そのものを傷つけてしまうのが目に見えていて、諾と応じることはできない。自分のために絶たれてゆく何万という命を直視しながら、ホークは最も手厚い『待遇』を受ける虜囚であり続けたのである。
しかし今頃は、別働隊として向かったフェニックスがホークを救い出しているはずだ。
ランダーは、逃げ道のなくなったヒトラーの手から短銃を捥ぎ取ると、弛んだ涙嚢の奥にある怯え切った双眼を、真っ直ぐに睨め付けた。
「‥‥お前は身の程も弁えずに、俺達を思い通りに動かそうとした。俺が守るべきものを穢したんだ。その罪の深さを少しでも感じられるか」
言いながら、地上を焦土にしてもなお己の権力を信じて疑わない矮小な男に、底意地の悪い嘲笑を放つ。
「これだけ殺しても、まだ足りないか?こんな辺境の星の、掃いて捨てるような国土が欲しいか?誰も言わないなら、俺が言っておく。お前はもう狂ってる」
す、としなやかに持ち上げられた手の中でワルサーの撃鉄がカチリと囁き、ヒトラーのこめかみに冷えた金属の丸い感触が、捻じ込むように押し当てられる。ヒトラーの胸板がいったん上下動し、やがて萎んだ。
「私も殺すのか―この私も―」
「俺がエヴァに吹き込んだ通り、全員の前で遺言はしただろう?お前とエヴァの死体はすぐに焼かれて、死に方なんてわからなくなる」
そうでなくとも、ベルリンは陥落するのだ。誰が死んだ人間の「最期」を振り返って悼む暇があるだろう。
いやいやをするように、堕ちつつある帝国の首魁は無様に首を振った。
「貴様の仲間なら返すッ。二度と手は出さんと誓うッ。望むなら無条件降伏を呑んで停戦してもいい、だから―」
「いいことを教えてやるよ」
「いい、こと‥‥?」
「曰く、〝文明後進星での歴史介入は、如何なる理由を於いてもこれを禁ずる〟」
異星への入植者は、母星の叡智を以てその星の歴史を都合よく軌道修正しないこと。
これは宇宙進出を果たした高度知性体種族に共通した、一種の通念である。良く言えば崇高、悪く言えば傲慢。この一語のために、地球での生活は時に逃亡と隠棲の連続をもたらした。そして、意図しない迫害や崇拝をも。
一拍だけ、ランダーは呼吸を整えるために地下室の悪臭を吸い、眼を眇めた。
「ホーク達にはこの文言が重すぎて、どれだけの仕打ちを受けても絶対に手を下せない。でも俺は、元々あいつ等とは違うように出来てるんだ。邪魔な地球人ひとりを殺したくらいで、心は痛まない」
頭蓋に反響する鈍い振動の後、ヒトラーの意識は瞬時に、漆黒と無音の虚無へ投げ落とされた。
《続く》