TITANIA   作:宇宙の正面

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第2巻の3話目です。
プリテンダーの過去の出来事などが続きます。


TITANIA第2巻#3

 

―2029/7/6 1:22 California―

 

 手際よくシンクに溜まった食器を洗いながら、ミネルバは隣で濯ぎの終わった皿を一心に拭いているキャンサーの横顔に敏い目を走らせた。

 出会ってからの十年は、あの頃ミネルバの肩にも届かなかった中国人の少年を、頭一つ見上げるほどの青年に変えてしまっている。それでも話しかけようとするとやはり、年下のやんちゃな弟に呼びかけるような親愛の情が滲んでしまうのは、当時の記憶が強烈なせいだろうか。

「ねえ、キャンサー。ここはいいから休んだら?貴方、ほとんど寝てないでしょう?」

 手は規則的に動いていたが、どうやら意識は半分眠りに落ちていたらしい。呼びかけられた途端にキャンサーははっとして、皿を取り落としそうになった。

「えッ、あ、何?なんか言った?」

「眠ったら、って言ったのよ。ダイバー達は眠らなくても平気だけど、私達はちゃんと休息しないと、いずれ参っちゃうんだから」

「でも、寝てなんて―こんな時に」

 頑とした眉根の辺りに、強がりの面影が残っている。ミネルバはつい微笑んで、首を振った。

「辛いのはみんな一緒よ。だけど貴方が倒れちゃ、逆に心配かけるわ。エリカだってワシントンに一人じゃ心細いだろうし、一度帰ったらどうなの?」

 立て続けに起こる事件の全体像が報道規制されているとは言っても、エリカは近親者と呼んで差し支えないキャンサーの婚約者だ。それなりに事の流れは伝わっているだろうし、その渦中にある身を案じていない訳がないと暗に含ませたつもりだったが、ミネルバの言葉にもキャンサーは首を縦にしなかった。

「電話で話したから、ここを離れたくない俺の気持ち、エリカはわかってくれてるよ。彼女の事はワイルダーのとこで面倒見てもらってるし、心配ない」

「そういえば、近所に住んでるんだったわね」

「うん。マーガレットも子供たちもエリカと仲良いから、あそこに居てくれるだけで安心なんだ」

 十九歳の時に職場で出会ったマーガレットと結婚したワイルダーは、七歳の息子と四歳の娘がいる二児の良きパパだ。マスターフォース戦争に関わった地球人の中で、真っ先に「当たり前の家庭人」に納まってしまったワイルダーを、ミネルバは随分うらやましく感じたものだった。そして、自分の力だけで幸福を手に入れた意志の強さに、感歎もした。キャンサーが今でもワイルダーを慕ってやまないのは、彼が曲がることを知らない鋼のような芯の持ち主だからかもしれない。

「ワイルダーはこっちへ来ないの?」

「守るものは別にしようってさ。俺がこっちで協力するなら、その間、むこうは自分が守っておいてやるって。ワイルダーらしい言い方だと思わないか?」

「そう‥‥悔しいけど、言う通りね。秀太に無理言って意気込んで飛んできたけど、できることって言ったら食事作るくらいで、なんだか情けなくなっちゃってたの」

「でも、食べるのは大事だよ。役に立ってないってことはないと思う。ミネルバの料理、美味しいし」

「お上手」

 二人は顔を見合わせて一頻り笑った。笑い止むと、キャンサーは皿拭きに戻りながら言った。

「秀太が心配するのわかるよ。やっぱり、大事な人は危険な事に巻き込みたくないからね」

「危険な事?フェニックスの身を心配するのが?」

 そんな訳ないわ、と拗ねたように唇を尖らせて反駁すると、キャンサーは少しだけ首を傾げて付け足した。

「何が起こるか、誰にも予測できないって事がさ」

「キャンサー‥‥怖いこと言わないで」

 ミネルバは受け流そうとしたが、ふと、シンクに波立つ泡の白さに目を落とすと、その白の奥底にまで闇が潜んでいるように思えて黙り込んだ。

 誰にも、何もわからない。わかっている者が一人いるとしたら―それは囚われているフェニックス自身なのではないか。予言者が自らにしか理解できない言語を連ねて、誰からも隔絶されるように。

 唇を噛み締めて、ミネルバは零れそうになるものを耐えた。

 

 ライトフットの指がタッチパネルに踊ると、最大まで引き伸ばされた画像が鮮明になり、朝早いパリの空に聳え立つオベリスクを描き出した。画面の隅で、コンマまで表示されたタイムカウントが目まぐるしく経過していく。

「ここ!ここです。一瞬、被写体が雲の切れ目にずれて‥‥」

 オベリスクを含んだ遠景に映像が戻った時、そこに真っ白い布を全身にまとったフェニックスの姿が映し出されていた。映像が一時停止し、カウントが細かいアラビア数字の羅列で残る。

 モニターを囲む半円のソファに陣取っていたジンライ達は、しばらく食い入るように画面を見やってから、一様に奇妙な表情をした。広い室内は煌々と照明に照らし出され、モニター側以外の三面を囲む窓外は真夜中の色を吸って黒一色に塗られている。真昼のような明るさの下でロードキングが、つまり‥‥と言葉を繋ぐ。

「フェニックスがそこに現れるまでに、何秒もかかってないってことか?」

「およそ二秒ってところですね」

「ぱっと、急に現れたって訳か?」

 レインジャーが太い両腕を組んで問う。

「瞬間移動とか呼ぶべきなのかな、それってのは」

 と、ロードキングは言いながら両手をぱっと、火花が散る様子に見立てて広げた。ダイバーがその仕種に少し眉をひそめる。

「トランスフォーマーは超能力者の集団じゃない。中にはそういう能力の持ち主もいるが、フェニックスは違う。もちろん俺やホーク達も」

「それはわかってます。ですから多角的に検証したいんです」

「多角的って?」

 ライトフットの言葉にジンライが問いを被せた。頷いて、ライトフットは一時停止したままの画面に目を戻す。

「トランスフォーマーの中では、いわゆる地球人の言うところの超能力を〈Psi(サイ)〉と呼ぶそうです。でもほとんどが先天的な保有で、後から発現する確率は稀な上に、大概は因子を発見されて保護されるケースが多いとか」

「不思議な話しだが、トランスフォーマーの社会でも異質な力は良いにつけ悪いにつけ、特別に目をかけられるんだよ。軍としては、独自の能力を持った相手を民間に下らせるより、保護して軍人の道を歩ませる方が得になるし、命令の及ぶ範囲に置いておく方が安心だ」

「デストロンに強奪される心配も減る?」

 レインジャーが引き取って付け足した一語は、サイバトロン軍の利己的な『事情』を的確に言い当て、ダイバーを苦笑させた。奇妙そうに片眉だけを上げてロードキングが問う。

「けど、フェニックスはその、〈Psi〉ってやつじゃない訳だよな?」

「検証したいのはそこです」

 ライトフットの応えが、生真面目な性格そのままに硬い音を帯びる。

「〈Psi〉でないからこそ、記録されたような特殊な行動がなぜ取れるのか。それとも、何らかの外的要因のために〈Psi〉能力が発現しているのか。もう一つ、ここに映っているのが真実、フェニックス自身なのか」

「二つ目と三つ目の可能性って、あり得るか?」

「無いとは言えないと思いますよ、ロードキング。僕としてはむしろ、その二つのどちらかが当て嵌まるような気がしてるんです」

 じっと耳だけを向けていたホークが不意に、いや、と片手を差し上げた。

「三つ目の推測は外してもいいだろう。映像の解析は月基地でも進めているはずだから、仮に〈サイコ〉が作った立体映像や幻視の類なら、もう情報が下りてきている」

「信用できるか?」

「何だって‥‥ジンライ?」

 ホークは予想もしていなかった反論を受け、微かに狼狽しながらジンライを見返した。ジンライは意味ありげに目を眇めてダイバーを見、嘆息する。

「正直、俺は〝上〟にいる奴等を全面的に信用しない方がいいと思う。もちろん何人かは無条件に信頼できるが、組織として見るなら疑わしい」

「それはどういう意味だ?彼等だって月面攻撃に晒されて、それでもフェニックスの探索に時間も労力も費やしてくれているんだぞ。現にパリがあんな事になって―」

「隠し事してる」

「え?」

「俺達に何か隠してる。〝上〟は」

「まさか、そんな事を推測で―」

「いや、ホーク。ジンライの言い分には俺も少し思うところがあるんだ」

 遮るようなダイバーの言葉に、ホークは一瞬息を呑む。

「ダイバー。お前までそんな、」

「意図的に、俺達へ伝えていない情報があるのは確かだと思うんだよ。お前が眠っていた間に総司令官達と話したことは言ったが、その時にな。奇妙だと感じる点があった。ジンライとはその辺りを随分話し合ったんだ。俺達に伏せておきたい情報があるとして内容は‥‥それ以前に、どうして隠さなければならないのか」

「それは―軍事機密に抵触する情報なら、あるいは―」

「それじゃ答えにならない。わかるだろう?」

 ホークは黙り込んだ。

 自分の説明が、ジンライ達の感じている軍部の意図した隠匿と違っているのは理解できる。機密に抵触する箇所が含まれた情報ならば全てを隠してしまう必要などなく、単に開示できない部分だと明らかにしておけば良いだけの話だ。

「‥‥ホーク、外が見えますか?」

 ライトフットがなだめるようにそう問いかけ、左手側に視線を誘った。外は相変わらず一面の黒。だがトランスフォーマーの視覚器官でなら、黒の中にも海面と空と、数キロ離れた海岸線に張り出した岩場の岬が判別できる。

 と、車道も延びていないはずの岬の突端に、白い車体がひっそりと止まっているのが見えた。ツードアのスポーツカー。サイドに赤と黒のラインを入れ、ウィンドウ全部が特徴的な藤色をしたRX‐7。

「ライトフットです」

 自分と同じその名を懐かしい箴言のように告げて、ライトフットが微笑んだ。確かに見覚えのあるあの車体は、マスターフォース戦争を共に過ごしたライトフット自身のもう一つの姿―今は素体を離れ、ビクトリーレオと同じように一個のゴッドマスターとして自我を持った彼であった。

 だが単独に、しかも目立たぬような距離を置いているのは何故なのか。ホークが問うと、パリの事件があって間もなく、ビクトリーレオから連絡が入ったのだとジンライが答えた。内容は単純明快だったと言う。

「俺達の動向を監視しろと、内々に総司令官命令が出た。気付かれた時に言い訳が立つよう、事はゴッドマスターのみで当たるようにと。これはグランドにも知らされてない任務だ」

 ビクトリーレオは承服しかねる指示だとスターセイバーに噛み付いたが、自分の判断だけで命令の意図が話せる段階にないと言葉少なに詫びられ、結局、従わざるを得なかったと告げた。だが考えようによっては、命令だけを遵守する者達がこの任に就くより、ゴッドマスターで任務に当たった方が監視の名目で密かにジンライ達を警護できると踏み、ビクトリーレオはこの事実を率直に伝えてきたのである。そして、まだ自分も知らない何かが隠されているのは間違いない、という推測も。

「ビクトリーレオにも理由は判らないが、〝上〟は俺達を見張れば手掛かりが得られると思ってる節がある。フェニックスが戻るか―」

 代わりに〈サイコ〉が接触してくるか。

 ぞっと首筋を撫ぜた悪寒に、ホークは身震いして首を振った。

「まあ何にせよ、俺達の味方は俺達だけ、って事だな」

 明日の天気でも語るように、レインジャーが暢気にそう呟いた。

 

 

―2029/7/6 18:37 Calcutta―

 

 夕のスコールが過ぎたばかりなのだろうか。

 熱気に目を覚ますと、まず、濡れた地面から追われるように立ち上る芳香が鼻腔を撫でた。傾いたと言っても陽はまだまだ高く、高窓から強烈に差し込むサバナ気候の日差しは、ベッドの周囲を覆った薄物を通しても衰えを知らない。

 賑やかしい往来の音に、磨耗した車輪で引く荷車の響きや中古車の割れたバックファイアが混じり、早口のヒンドゥー語が悪態をつく。

 大抵の外国人にとっては耳馴染みのない、その言語の意味をフェニックスは瞬時に理解して、苦笑のために洗いざらしたシーツの中で身じろいだ。ぱさりと音を立て、額に乗せられていた冷えたタオルが滑り落ちる。

 その気配を察したものか、天蓋の端がそっと持ち上がり、淡いブルーを基調にしたサリー様式の胴衣をまとった修道女が顔を出した。歳は四十の半ば辺りか、慈愛に満ちた黒玉のの双眼とモカ色の健康的な肌が、中央アジアの出身を物語る。

「ああ、よかったわ‥‥気が付かれましたのね」

 修道女は母親のように笑み崩れてベッドの傍らに屈み込むと、落ちたタオルを手早くたたみ直して、まだ幾らか冷たい箇所をフェニックスの額へ戻した。

 フェニックスはシーツの感触に身を預けたまま、修道女の笑みに問いかけた。

「君は‥‥」

「アイシェです。私を覚えておいでですか?フェニックス様。貴方がマザーの所へおいでになった時、お茶をお出しするのが私の役目でしたわ」

「そうだ、アイシェ‥‥覚えてるよ。大きくなったね」

 目を細めて、幼い少女を見るように緩く微笑むフェニックスへ、アイシェは照れ隠しの苦笑を返す。

「私はすっかり皺だらけになりましたわ。フェニックス様はお変わりなく‥‥昔のままですのね」

 フェニックスが、アグネス―地球人達の間で〝マザー〟と呼び称された聖女が身命を賭して設立したコルカタの施設に足を運んでいたのは、彼女が心臓病の悪化によって世を去った二十世紀の終わり頃までである。

 当時も貧富、宗教に関係なく、死を待つばかりの人々を受け入れて奉仕するのはアグネスの尊い意志を慕って集まった修道女達で、中には神学校へ行く代わりにアグネスの手元に預けられた、十歳になるやならずの見習い修道女が幾人もいた。アイシェもそんな一人で、聡明な物言いがすでに将来を嘱望させる娘だった。だからこそ、九十歳を越えたアグネスがただ一人、二人きりでの面会を許していた風変わりな青年に引き合わせたのだろう。アグネスの直近にあっても、ほんの数人しかその正体を知らされていなかったフェニックスと、アイシェはそうして出会ったのだ。

「当時、他のシスター方は使徒様とお呼びしておりましたわね。粗相のないようにと、いつも注意されましたわ。あの頃の私には、マザーがフェニックス様と二人でお会いになる事がどうして秘密なのか不思議で仕方がなかったものですけれど、今はちゃんと理解しております。ですから、またお会い出来て光栄に思いますのよ」

「アイシェ‥‥」

「シスター・カタリナと、今はそう呼ばれております。これでも、もうここの責任者ですの」

 アイシェ―カタリナは言って、ベッドからふらつく身体を引き剥がそうとするフェニックスの背を支えてやる。

 フェニックスはシーツの下に何もまとっていなかった。身体は丁寧に汚れを拭われ、あちこち傷を治療したらしいガーゼが貼られてある。うろたえて周囲に視線を迷わせると、カタリナは優しく、安心するようにと言った。

「井戸の側に倒れていらしたのを、シスター見習いが見つけたんです。お顔を拝見して貴方だと気付いたので、院で働いてくれている男性方にここへ運んでいただいて」

「じゃあ服や、この手当ては君が?」

「私と、他のシスター達でいたしましたわ。服はぼろぼろで酷い血の染みが‥‥黙って勝手な処置をするのは申し訳ないと思いましたけれど、病院や警察に通報すると、きっと大騒ぎになりますでしょう?そのお身体では―」

 改めて、フェニックスは自身の身体を見下ろした。一見、肉付きはどこも変わらない。見た目の年齢からすると平均的な地球人男性よりは筋肉の張りが大きく、スポーツマンタイプと言える部類に振り分けられるだろう姿を模している。洋服を身に付ければ、すぐにも人ごみに紛れてしまえるはずだ。

 しかし今、自分で確かめた身体は、明らかに普通と呼べない様子に変じていた。

 裸体にあるべき物が、無いのだ。胸の突起も、腿の付け根にあるべきそれも。

 結局はトランスフォーマーそのものに必要な部分ではないのだが、もし病院に担ぎ込まれでもしていたら、この異様な身体は忽ち衆人の知るところとなっていたはずである。

「どのような事情かはお聞きしませんわ。手伝ったシスターも皆、信頼の置ける者ばかりですから、ご安心なさって」

 ゴムのような質感を残した胸板をぼんやり撫でているフェニックスの横顔に、カタリナは問うた。

「どなたにご連絡いたしましょうか?心配なさっておられる方達がおいででしょう?」

 フェニックスの両肩が跳ね上がるほどに震えたのは、カタリナの見間違いではなかった。フェニックスは両手で、破れるかと思うほどに固くシーツを握り締めると、激しく頭を振って叫んだ。

「駄目だ!駄目なんだ‥‥ッ、誰の所にも帰れない‥‥」

 そこまで言うと、フェニックスは震え続ける体を抱くようにして身を縮め、呻くように囁いた。

「アグネス‥‥アグネスに会わなくちゃ―」

 カタリナは一瞬だけ驚きに目を見張ったが、やがてフェニックスの剥き出しの肩に手を差し伸べながら発した声音は、変わらずに穏やかなままだった。

「‥‥マザーは三十年も前に亡くなりましたわ。フェニックス様、どうかもう少しお休みになって、墓参でしたら明日参りましょう。私もご一緒いたしますから」

「眠りたく、ない―」

 フェニックスは子供が駄々を捏ねるように、寝かしつけようとするカタリナの手に抗った。だが、普段から眠りを恐れる病人達を癒してきた修道女の、慈愛に満ちた両手が温かく頬を滑ると、強張っていたフェニックスの身体はようやく静かにベッドへ潜り込んだ。

「眠ると‥‥忘れていくんだ‥‥」

「忘れてしまうの?」

 そうだよ、と答えたフェニックスの声は嗚咽を殺していた。

「大事な奴の顔も、思い出も、忘れさせられる―」

 

 

―1942/5/25 21:29 Bletchley Park―

 

「―君はユダヤ人か?」

 そう問うてから、マクファーレンと名乗った数学者は自分の推測を疑うように目を眇めて、フェニックスをもう一度見た。

 くたびれてはいるが仕立ての良い紺のスーツが、マクファーレンの学者然とした四十の外貌を三つ四つ若く見せ、鳶色の眸と髪が明晰さを物語る。頬は幾らかこけていたが、待遇も食事も充分過ぎるほど与えられているはずだから、精神的な疲労の所為だと見当が付いた。腰掛けている窓際のベッドは毎日誰かがシーツを代えに来ているらしく、マクファーレン自身よりも余程清潔な印象だった。

 有無もなく身包みを剥がされ、真新しい紳士然とした洋服を着せられてこの部屋に押し込まれたフェニックスが、壁側に置かれたもう一つのベッドに行儀よく座っていたのはほんの数分で、今はすっかり大の字に寝転がってしまっている。マクファーレンはそんな肝の太さが理解できない様子で、何度も所在無く視線を迷わせた挙句の―おそらく彼としては最もまともな―問いだった。

「ああ、いや―そんな訳は無いな。うん。気に触ったなら謝罪するよ。君はその、あまりイギリス人には見えなかったものだから―と言うのも失礼だが―」

 まごついて取り繕おうとするほど、マクファーレンは墓穴を掘る。フェニックスはぴょんと半身を起こすと、右手首から奪い取られた時計型通信機の跡を無意識にさすった。と、悪戯っ子のように笑って自分の顔を指差す。

「俺、宇宙人なんだ」

 もちろん冗談を言ったつもりではなかったが、一瞬マクファーレンはきょとんとし、やがて何とか自分の中で答えに折り合いをつけたらしかった。

「なるほど、確かに私達は宇宙人とも言える訳だね。君は面白い発想をするな。そういう想像の翼が広いほど天才的な閃きを生みやすいのは、自明の理だ。君は‥‥」

 乾いた唇を湿らせ、真摯にフェニックスを見据えたマクファーレンの眼が奇妙な色を宿す。

「君は、アランの作ったあのクロスワードを、ものの十分で解いたそうだな」

「‥‥〝女王陛下万歳〟?」

 おかげでこんな目にあってる、と愚痴を言いたかったが、フェニックスは諦めと共に続きを呑んだ。

 第二次世界大戦の戦禍を逃れるため、四人がばらばらに暮らし始めて三年。ホークはパリへ、ダイバーはアメリカへ、ランダーは望んでナチスドイツの深部へ潜行し、フェニックス自身は一時期を四人で暮らしたロンドンから離れ難く、逆に人目に立ちにくい中心市街地に居を置いて暮らしていた。それがなぜ、こういう面倒な事態に巻き込まれているかと言えば、事の起こりは実に単純だ。

 小さな三階建てのフラットに引っ越して、フェニックスは窓が向かい合わせに建つ隣のフラットの青年と知り合った。あまり知られていない零細新聞社の記者をしている彼と親しくなるうち、ロンドン中のあらゆる新聞、タブロイド誌に、懸賞金付きのクロスワードパズルが定期的に掲載されているという話を聞かされたのである。

 大金を投じて掲載させているのはXと名乗る正体不明の人物で、奇妙なことに、そのクロスワードには『正解』がない。指定された文字を並べても、意味を成さない羅列にしかならないのだ。つまり最初から懸賞金など貰えるはずのないパズルが、なぜか掲載され続けているのだと言う。

 興味を惹かれたフェニックスは、早速この難攻不落のクロスワードに取り掛かった。

 そして―導き出した『正解』。

〝女王陛下万歳〟

「あんなパズル、ほいほい解く奴が出る訳ないもんな。順番通りに文字を並べるのが正解なんじゃなく、クロスワードの図柄そのものが位相幾何学の応用問題な上に、アルファベッドを一旦、代用数列に置き換えて設問自体を読み替え‥‥まあ、いいや。それはあんたの専門だよな」

「だが、君は見事に解いた。私は専門家なのに、あれを解くまで二日かかったよ。それでも仲間内では最も早い方だったが、アランは随分、落胆してね‥‥」

 長い溜息をつき、マクファーレンは肩越しに暗い窓の向こうを見やった。

「君は頭がいい。ここがどこか、もう見当はついているんだろうね」

 黙ってフェニックスは頷いた。

 例のパズルが高等数学を基に組み立てられていることに気付いて導き出したフェニックスの回答は、すぐに新聞社を通して、Xなる人物に伝えられた。相手は驚愕し、ぜひ懸賞金を手渡したいと丁重に申し出てきたが、フェニックスは断った。最初から金銭が目的だった訳ではないし、久しぶりに骨のあるゲームをした、くらいの気持ちだったのだ。

 しかし数日後、真昼間の裏通りで見知らぬ男達に声をかけられ、拉致同然に連れて来られた―ここへ。

 目隠しはされていたが、タイヤから伝わる振動の変化や時間経過で、大体の察しはつく。

「ステーションX」

 言うと、マクファーレンは乾いた声で笑う。

「そう呼ばれていた時もあったようだね、昔のことだが」

「じゃあ、GCCS。それとも普通にブレッチリー・パーク?」

「そっちがいいだろう。なんと言っても君はまだ、正式な一員ではない訳だからね」

 ロンドンの西北に八十キロほど離れたブレッチリー・パークは、秘密情報局MI6が所有する広大な公的用地である。第二次世界大戦の先端が開かれるとすぐ、この場所には暗号解読専門の部署を要する通信傍受施設が設けられた。イギリス政府暗号解読学校、通称GCCS(British Government Code and Cypher School)がこの地に移転したのもその頃で、以来、ブレッチリー・パークは暗号解読の中心地となり、従事者の数だけでも数千人という一大軍事施設となった。傍受の対象は主にドイツ軍の通信で、解読された敵国の暗号は自軍の貴重な情報源となる。

「アランは、何としてでも才能ある君を引き止めるよ。元々あの無茶苦茶なパズルは、市井に埋もれている天才を見出すための苦肉の策だったんだ。君は、仕事は何を?」

「今は修理屋、かな。ミシンから戦闘機まで、とりあえず何でも直せるよ」

「それは凄いな。数学を齧ったのはいつ?」

「基礎も習ってない」

「高等数学を学んでない?」

「プロトコルでは情報言語を専攻してた」

「プロトコル?」

 フェニックスは、ああ、と曖昧に手を振ってごまかす。

 プロトコルとはセイバートロン星が独立内乱後に建てた学究施設で、地球式に言い換えれば大学院とでもなるだろうか。トランスフォーマーは大抵、基礎科学の類をブレインサーキットに刷り込んでしまうから、マクファーレンの言うような『子供の学習』の段階がなく、フェニックスがプロトコルに入学したのは、わかりやすい年齢に換算すると十歳かそこらだったはずである。ただ、長くは在籍できなかったが。

「プロトコルは学校って意味さ。戦争が始まったから通えなくなって、辞めざる得なかったけど」

 戦争、の指すものをマクファーレンは勝手に誤解してくれたらしく、フェニックスへ同情の眼差しを向けた。

「本当に、戦争のせいで何もかも変わってしまったね。わかるよ」

「だからまあ、お眼鏡に適ったのは光栄だけど協力する気はない。興味ないし。暗号解読なんて」

 フェニックスはつまらなそうに、再びベッドへ寝そべった。

 言葉には少し嘘がある。暗号解読は好きだが、地球人が採用しているレベルの文字配列など、わざわざ解読するほどの労力を有しないのである。その上、他星での歴史干渉を厳しく戒められている身では、協力しろと脅されても最初から拒むしか道は無い。

「そうかい。今の言葉を聞いたら、アランはさぞがっかりするな」

 マクファーレンのやつれた頬に意地の悪い、明らかに言葉とは裏腹な微笑が走る。フェニックスは見えなかったふりをした。

 マクファーレンが度々口にする、アランという男。

 アラン・チューリング―このブレッチリー・パークで現在、最も影響力を持つ民間人。ケンブリッジ大学の天才数学者にして、暗号解読の権威。そして最初期のコンピュータ理論を提唱し、イギリス軍を勝利に導く暗号解読機『コロッサス』を生み出すことになる人物だ。その功績は大戦の陰に包み隠され、生前に光を浴びることは無かったが。

 全身が萎み切ってしまうのではないかと思われるほどの溜息を吐いて、マクファーレンはじっとフェニックスを見つめた。眼窩にある憂いが染みのように絶望へと変わる。一拍の間を置いて、マクファーレンは誓願の一節でも諳んじるように喋り始めた。

「‥‥年が明けて間もなくだったよ。私達は、傍受した敵国の暗号文がさっぱり解読できなくなってしまった。これまでの数年間、奴等が使用している『エニグマ』暗号機の符号は全て、私達の『ボンブ』で解読できていたのに、ついに向こうも解読されていることに気付いて、何らかの手を打ったんだろう。アルファベット・シリンダーかプラグ盤が変更されたのは見当がついたが、私達の推測はそこから前に進めないんだ」

 エニグマ暗号機をトレースする『ボンブ』が解読不能に陥ったことで、イギリス軍はこの数ヶ月の間に過去数年分にも等しい軍備と補給を失ったのだと、マクファーレンは肩を落として呻いた。

 戦火は野を焼く熾き火のように長引き、終息の気配もない。疲弊する国民と、目減りしてゆく物資。暗号一つがどれほどのものかと戦時下に暮らす者達は思うだろうが、いつも戦争の勝敗を握るのは、戦力ではなく戦略なのだ。たった一つの情報が大きく時代の流れを右から左に押し返す。

 エニグマの改良によって、少なくとも現戦況は一変したのだ。これだけのきっかけで、戦闘は数年延びるかも知れないのである。

 誰よりもこの状況下で焦慮に駆られているのは、アラン・チューリングに他ならない。彼が秀逸と認めるマクファーレンを始めとした学者陣を総動員してすら、エニグマ解析の一端にも辿り着けないという現実が、彼をして、広く市井に才能を求める手段を取らせたのだ。万人が目にしながら疑われず、秘密裏に他者の隠れた頭脳を推量できる、パズルという形で。

 そして発見された特異な天才の一人目が、フェニックスだったということになる。この後、大戦終結までにブレッチリー・パークでは、実際に数学に限らない他分野の学者やチェスの名人などが暗号解読の人材として登用されることになる。

「とにかくどんな手段を用いてもいいから、エニグマ暗号の解読に突破口を作らなくてはいけない。もっとも君が協力しようとしまいと、私はそろそろお払い箱だろうが」

「お払い箱って‥‥解雇されるって事か?」

「それだけなら、まだいいんだが」

 言ったマクファーレンの笑みは影に窪み、荒んでいた。

 不吉な想像が掠め、フェニックスはのそりと起き上がる。

「まさか、口封じなんて非道はしないだろ?あんたは民間人だ」

「しかし、内幕を知った人間に自由があると思うかい?鎖を切った途端に敵国へ寝返るかもしれない。捕虜になるかも‥‥報道網に内情を暴露するかもしれない‥‥そんな危険な存在を、ここからぱっと自宅へ戻す?私がここの責任者なら、絶対に許さないだろうね」

「おかしいだろ、それ」

「戦争しているんだから、世の中は歪んでいて正常なんだ。私は多分、どこか別の施設で軟禁される。妻と娘には今まで通り、私が特別な研究のために遠くで暮らしているような手紙と生活費が送られて―」

 軍部の監視が付く。マクファーレンの唇が震えて、その言葉を無音に変える。

 戦争が終われば帰されるだろう。だが、帰されないかもしれない。何年、何十年待とうと。与り知らぬ所で死亡証明が出され、戸籍を抹消され、存在を失い‥‥

 骨張った両手の中に顔を埋めて、マクファーレンは嗚咽していた。

「私が消えたら妻は、娘はどうすればいい?このまま戻れなかったら、私は一体どうやって生きていけばいいんだ?戦争を始めたのは政府じゃないか、私には何の関係もない―関係ないのに‥‥ッ」

 フェニックスはベッドを下り、マクファーレンの隣に腰かけると、痩せた数学者の肩先をそっと叩いた。

「関係なくても責任はある。人間の心が始めた戦争なら受け入れなくちゃならないんだよ。俺は、そう思う」

「君だって、このまま戻れなかったら、きっとご家族が死ぬほど心配するだろうに」

「両親はもう死んでる。今は、一緒に暮らしたりする仲間がいるだけ。連絡しなかったら、ちょっとは心配するだろうけどな」

「心配するに決まっている」

 やけにはっきりと言い張って、マクファーレンの赤く滲んだ目元がフェニックスの優しさに応えるように、穏やかに緩む。

「君にとっては、その友人達が大切な家族なんだろう?」

 ほんの一瞬、フェニックスは虚を突かれて言葉を失い、

「‥‥うん。家族だよ」

 やがて、その事実にやっと気付いたような声で呟くと、思案顔で通信機のない手首をもう一度さすり始めた。

 

 

《続く》

 

 

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