引き続きご覧ください。
―2029/7/6 14:48 London―
そこに見知った景色はすでになく、ランダーは雑草が刈られたばかりの四角い空き地を、しばらく無言で見詰めていた。
テムズ河の南岸、ロンドン・ブリッジ駅から南に延びるウエストン通りの横路地を二本折れ、戦前からの古いフラットが立ち並ぶ一角。更地にされて久しいらしいこの場所に、第二次世界大戦が始まる直前まで四人で暮らしたジョージ王朝風の庭付き二階家があった。
一方通行の狭い路肩に停まった、下町の旧態然とした風景に不似合いなライトグリーンのポンティアックが、周囲の往来がない隙をうかがって声をかける。ラスターに命じられてパリからロンドンへランダーを乗せてきた、若いサイバトロン騎士である。
「場所はここで間違いありません。目撃された姿格好も、パリでのものとほぼ同じだったようですし‥‥」
一時間ほど前、パリで残務に当たっていたラスターの指揮部隊に、ロンドンから情報が届いた。昼下がりという人目に立ちやすい時間帯にも関わらず、住宅街の空き地にぼんやり佇んでいる幽霊のような男を通行中の何人かが目撃し、警察に通報が寄せられたのだ。パリの一件でサイバトロンから内密に通達が行っていたおかげで、年恰好や様子から、その人物がどうやらフェニックスらしいと知れ、ランダーがロンドンに急行した。連絡はジンライ達にも伝えられ、ダイバーと、こちらが地元のロードキングが向かっている途中だった。二人はロンドンに入った後、二手に分かれて周辺を捜索する手筈になっている。
ポンティアックの騎士は、立ったまま三十分近くも動かないランダーに焦れた様子だった。
「我々も少し、近隣を見回った方が良くはありませんか?もしかして保護できるかもしれません」
若者らしい硬質な口調を聞き流し、ランダーは言った。
「昔、ここに住んでた。この場所に家があって、あいつは庭の薔薇の垣根に水をやる係りだった」
「あの‥‥?」
「二階の角部屋でホークがヴァイオリンを弾くと、向かいのフラットから年寄り連中が顔を出して聞き惚れて、あいつは自分の手柄みたいに、いつも俺に自慢した」
焼き立てのパンの匂いも、路地裏を駆け回る子供達の歓声も、目を閉じれば鮮明に浮かび上がってくる。ランダーは固く目蓋を結び、ほんの一時前、この場所に立っていたはずのフェニックスの痕跡へ問いかけた。
どうして、ここに来る必要があった?ここで何を見ていた?過ぎてしまった時代の、何を。
「幽霊、か」
音もなく空き地の前に佇むフェニックスを見かけた人々は、気味が悪かったに違いない。
幽霊―〝実体でない存在〟
この語に含まれた的確さを、ランダーは改めて噛み締めた。だとしたら、現実にフェニックスの身体はどこにいるのだろう。何の理由があって戻ってこないのだろうか。
「―ランダー!」
目を上げると、路地の曲がり口にダイバーの姿があった。ダイバーは路肩のポンティアックをそれと見止めて軽く挨拶し、ランダーに歩み寄る。トランスフォーマーのタフな身体に疲労の色はなかったが、憔悴は隠しきれていない。
「ロードキングはシティの方から見回ってくれてる。俺達でこの辺を探そう」
「見つかると思うか?あいつはどんな時でも、自分が戻りたくなったら勝手に戻ってきた。GCCSに攫われた時も―それなのに、どうしてパリから消えたんだ?探し出して、それでも、もし戻らないと言われたら、」
「馬鹿なこと考えてる暇があったら、まず探せ」
拳でランダーの胸を小突き、ダイバーはポンティアックの眼を避けるように顔を寄せて口早に囁いた。
「俺達は監視されてる。余計な言動は避けろ」
さっと眼窩に緊張が走る。だが、ダイバーが通りの先へ押しやるように突き飛ばした時には、一瞬の動揺は見事に覆い隠されていた。
ダイバーは踵を返して反対の通りを指す。
「俺はテムズ河の方に出てみる。お前はサザークを廻ってくれ」
「‥‥わかった」
「小官はどうしたらいいでしょうッ?」
二方向に分かれて走り出した背に、慌ててポンティアックの問いが飛ぶ。ダイバーはライトグリーンの車体に素早く別の通りを指し示した。
「その姿で裏路地は無理だ。トラファルガー広場辺りを走ってくれ」
「了解しましたッ」
運転席を空にした車体が唸りを上げ、急発進して駆け抜ける。ダイバーはランダーの去った方向を確かめてから、路地を走り出した。
様変わりしていても、八十年近く前には暮らしていた街だ。ひょっと思わぬところにカフェが出来ていたり、フラットだった建物がモダンなオフィスビルに変わっていても、道筋はほとんど元の通りで探し歩くに支障ない。
テムズ河畔の方角へ伸びる道はいくつもあるが、ダイバーの記憶に一番残っているのは何艘かの漁船が並ぶ小さな船着場の前へ出る路地で、フェニックスがよく、船の具合を見てやる代わりに漁師達から魚を貰ってきたものだった。
意味があって―何らかの理由で過去を辿る必要があって―このロンドンへ現れたのなら、当時の思い出が残る場所を巡っている可能性は高い。
(何故パリはあんな事になったんだ‥‥ッ)
フェニックスが原因を作ったとは思いたくない。しかし状況がそれを示唆している以上、一刻も早くフェニックスを連れ戻さなくては、サイバトロン上層部の疑いが深まる。
(関係ないと証明できさえすれば―)
フラットの煉瓦壁に挟まれた薄暗い路地を抜け出ると、ダイバーの視界にテムズの水面が飛び込んだ。ゆったりと日差しを吸って流れ行く川面からは、汗ばむ夏の気温を和らげる涼しい微風が駆け上り、河畔をそぞろ歩く家族連れや恋人達を包んでいる。漁船の船着場はすでに無く、護岸工事によって整備された真新しい腰高の煉瓦塀が立て回されていた。
対岸に牢獄として使用されたロンドン塔、右手にはテムズを跨ぐ偉容を聳えた名所、タワーブリッジが見える。ヴィクトリア王朝様式の対の塔で構成されるこの跳ね橋は一八九四年に完成し、シティ―いわゆるテムズ北岸にあるロンドンの中心街が対岸地区サザークに広がる一因にもなった。この為、ロンドン塔のほぼ真正面にガラス張りの近代的なロンドン市庁舎が座し、歴史が渾然一体となった景色を生み出している。
突然、ダイバーは時代の区別を見失って狼狽した。
頭を振って不要な想像を追い払う。右、左、対岸にも眼を凝らすがどれも知らない顔だ。フェニックスはいない。
自然と漏れ出た長い溜息に苦笑して護岸壁に背を預ける。煉瓦は午後の日差しを吸って、まだ熱かった。
「これじゃ、あの時と同じだ」
セイバートロン星の、避難民でごった返す宇宙港の中をランダーと二人、フェニックスを探して駆け回っていた時と。あの時は逃げられそうになった所をランダーが捉まえてくれたが、今度はそう上手くはいかない。何と言っても地球上をくまなく捜して回らなければならないのだから。
「どうしたって、迷子を捜すようにはいかないな」
だが、フェニックスの亡くなった二親と交わした約束を裏切ることは出来ない。助けると言った。
助ける、と誓ったのだ。
不意に汽笛が鳴り響いた。テムズ河を航行するリバーボートの一隻が、大勢の観光客を乗せて近付いてくる。観光客達は何故か船べりの片側に殺到して水面を覗き、口々に喚き立てていた。と、再び鋭い汽笛が響く。
影が―前触れもなく、激しい水柱を突き立ててダイバーの背後に伸び上がった。
三度目のけたたましい汽笛に身体が反射的に反応し、地球人には不可能な跳躍力で飛び退く。が、テムズの水面から突き出た巨大なトランスフォーマーの左腕は、目にも止まらぬ速さで目測を誤らずダイバーに襲いかかると着地寸前の身体を鷲摑み、そのまま一気に河の中へ引きずり込んだ。
飛沫の柱が、急停止したリバーボートの上に激しく降り頻る。船内に飛び交う悲鳴と、警告を意味する激しい警笛が何度も何度も、テムズの両岸に響き渡った。
ダイバーは急激な水圧の中で、瞬く間に頭上へ遠ざかる川面の反射光を見上げ、偽肺に溜めていた空気を全て吐き出した。水面下で地球人のふりは必要ない。もともと水中労働用に生み出された身体にはむしろ、この場所の方が向いている。
口から白い気泡が抜け切ると視界が鮮明になった。この五十年ほどで浄化計画が進んだとは言え、まだ濁りの残る河水を透かして、川底に映像でしか知らなかったその姿が見える。
白銀の、刀身を連想させる巨体。
感情の一切を排した紅蓮の双眼。
(これが〈サイコ〉―!)
フェニックスを連れ去った、デストロンの脱獄囚。
ダイバーは引き戻される手の中で抗い、自身の手首を重ねた。プリテンダースーツが全身に纏いつき、金属化する。
〈サイコ〉の指が緩んだ隙を突いて、ダイバーは身体を捻り出した。
「プリテンダー!!」
濃紺の肢体が伸び上がり、膨張する。テムズの水流に逆らってプリテンダーの姿に戻ったダイバーは、川底に膝を折って蹲る〈サイコ〉と距離を取って対峙し、右手にブラスターを引き出した。しかし、撃つには場所が悪い。水中とは言え一発でもかわされたら、両岸にひしめくロンドン市街がどれだけの被害を受けるか判らない。戦闘はどうあっても避けなければ。
ゆっくりと銃身を上げ、構えを整えながらダイバーは通信回線を開けた。
『‥‥お前の正体は聞いている。脱獄囚〈サイコ〉、俺達の仲間をどこへやった?』
〈サイコ〉の表情に変化はない。真っ直ぐにダイバーを見詰めてはいるが、蹲った姿勢のままで攻撃に転じる様子も見せない。不気味なほど落ち着き払ったその態度は、むしろ恐怖感をいや増した。おそらくは、今とほとんど変わらない状態で月面基地を壊滅状態に陥れた相手なのだ。
『聞こえているだろう?答えろッ』
指一本の動きも見逃すまいと、ダイバーは全身の感覚を研ぎ澄ませて〈サイコ〉を注視しながら問いを重ねる。
澱んだ流れが時折〈サイコ〉の巨躯に阻まれ、不規則な潮流を作ってダイバーを押し流そうとした。川面に、リバーボートの連絡を受けた水上警備の舟艇が次々と滑り寄ってくるスクリュー音が反響する。
『逃げられると思うな。仲間を解放しろ』
これははったりだ。地球人の警備船がどれだけ集まったところで、〈サイコ〉を抑えるほどの力はない。だが優勢だと思わせなければ攻撃される。
『―ケシ、タ―』
回線を通して響いた声音に、ダイバーは瞠目した。
初めて聴覚器官に記録されたその声は低く、深く、冷たい。焔の色に固めたアイグラスの対極にあるような、深海の氷の色しか連想させない。音質に感情を読み取るとしたら、あるのは冷酷―酷薄だ。
『消した‥‥?どういう意―』
繰り返しながら、舌に上せた言葉で胸郭が凍り付く。最悪の想像が掠め飛び、ブラスターの引き金にかけたダイバーの指は無意識に震え出した。
〈サイコ〉の右手が水流を裂いて、何かを支えるような格好で持ち上がっていく。そっと、ぎこちない動作で開き切った太い指の間に、陽炎のような人影が揺らめき立った。
『―フェニックス!!』
白いシーツを身体に巻きつけたフェニックスの痛ましい姿は、叫んだダイバーを力無く見上げたと思う内、無数の気泡に変じて流れの中に砕け散った。
『―コノ、マチハ、キエタ』
『街が消えた?!ロンドンがッ?何を言ってる!』
『キエタ。クルシミノ、キオク』
『記、憶‥‥?まさか、フェニックスの―お前―』
固く結ばれた〈サイコ〉の唇が微かに、笑みを湛えたように見えた。
突然の轟音が、それを確かめる隙を奪う。
〈サイコ〉の右手が川底を叩き付けた瞬間、ダイバーの身体は爆風のように巻き上がった凄まじい潮流に飲み込まれ、垂直に突き上げられていた。
巨大な槌で殴り飛ばされたような激痛が四肢を駆け抜け、遠ざかった意識が回復するまでは一瞬。しかし周囲の景色を視界に取り戻した時、ダイバーは水面から遥か十数メートルも上空に飛沫と共に弾き出され、テムズの河岸へ向かって落下し始めていた。
(まずいッ)
トランスフォーマーの巨体で地面に叩き付けられれば、衝撃で周辺が破壊されてしまう。
体勢を戻そうともがいたが、手足が痺れて思う通りに動かない。迫る地表に、制服姿の警察官や救急隊員の姿が走り回り、喚き立てている。
迷っている暇はなかった。ダイバーは呻くように短く、プリテンダーの肉体を封じる語を唱えた。
濃紺と白の金属体が空中で急激に収縮し、地球人の擬態に変じた身体はそのまま地上に叩き付けられると、二度、三度とゴム鞠のようにバウンドして転がり、固いブロックの上でようやく止まった。
わあっという怒号が川面にどよめき、二度目の水柱が空高く突き上がる。その先端から宙に現れた〈サイコ〉の巨躯が飛翔速度を増し、白銀の肢体が矢のようにタワーブリッジを越える高さへ舞い上がる。
「ダイバー!!」
路地から飛び出してきた白を帯びたランダーの巨体が、倒れたダイバーを庇うように立ち塞がった。握り込まれたライフルの長い銃身が〈サイコ〉を追い、タワーブリッジと重なる後背へ向けて照準を絞り込む。
すうっと、ランダーの身から鋼のように細く縒られた殺気が染み出した。
「―撃つなッ、ランダー!」
その声に引き金の指がはっと緩み、途端、全身を貫いた悪寒にランダーは息を殺してダイバーを見下ろす。
止められなければ、何も考えずに撃っていた。タワーブリッジとその展望橋にいる地球人を巻き込む事になったとしても、当たろうが外そうが関係無く。
よほど痛むに違いない身体を破れた衣服のまま引き起こして、ダイバーは否定の形に首を振った。
「撃つな。もう
「ダイバー、お前、」
「―ダイバー!ランダー!」
幾つものサイレンと駆け寄ってくる救急隊の制服に混じって、転がるようにこちらへ向かってくるロードキングの姿に、ダイバーはほっと安堵の呼気を吐いた。
―four million years ago―
見せてみろ、と溜息混じりに言われて、フェニックスは渋々と頬に当てていた左手を下げた。
ダイバーの口から、溜息がさらに一つ落ちる。頬に残った拳の痕は如実に、喧嘩の度合いを示していた。
「手酷くやられたな。へこんでるぞ」
「その分、殴り返してやった」
「じゃあ、後でランダーの傷も見ておこう」
不貞腐れた様子を隠さず、フェニックスは睨み上げるような目線だけで不満を露わにすると、聞こえるかどうかの声音で一緒くたに文句と言い訳を口にした。
ダイバーは医療セットから自己修復の増加を促すエネルギー補助剤を取り出し、馴れた手つきでアンプルをフェニックスの経口管に注入する。痛みはないはずだが、フェニックスの顔が僅かに歪む。
「喧嘩の原因は?」
穏やかに問うとフェニックスは肩を竦め、咎められるのを覚悟した面持ちで呟いた。
「セイバートロンに戻りたいって、言ってみただけ」
「ああ、それじゃあ怒ったろう」
「帰りたいなんて思った事ないって言うんだ、ランダーの奴」
「そうだな」
「故郷なのに?父さん達の事はさ‥‥まあ、いいんだ。もう解ってるし。でも俺達の故郷には変わりないだろ?懐かしいとか、今どうなってるだろうとか、普通思わないか?」
「ランダーの普通が、お前の普通と同じかは解らない」
フェニックスはダイバーの軽い苦笑に少しむくれ、その点だけは素直に認めた。
大体が、真面目一辺倒で良識的な父母としか暮らしたことの無かったフェニックスにとって、ダイバーはともかく、ランダーの奔放な―ややもすると放蕩としか思えない快楽主義の―生き方は、『普通』の模範とかけ離れているばかりではなく、面食らうことばかりなのだ。
寄港の先々で日毎夜毎に遊ぶ女性を変え、酒場で演説を打ち、見事なイカサマで賭場から大金をせしめてくる。良く知ろうとしなければただの無頼で、良く知れば、尚更どんな男なのか判らなくなる。そしてランダー自身が、良く知ろうと歩み寄って来る相手を最も信用しない。
ふと、フェニックスは飲み込んだ痛みを堪えるように目を伏せた。
「ダイバーはランダーと付き合い長いんだよな?」
「まあ、そうなるな」
「て事は、ダイバーのことは信用してるんだ?」
「か、どうかは聞いてないが」
「でも、俺には話さないことダイバーには話してるよな?」
「‥‥話して欲しいのか?」
随分と長い沈黙の後、きっぱりとフェニックスの首が横に振られる。
「話してくれなくたっていいんだ。あいつが言いたくないことなら。その代わり、今一緒にいる俺まで誤魔化すような態度、取って欲しくないんだよ」
「誤魔化すって?」
「女の子と遊び回って、適当に人生楽しんでますって顔してるけど、時々、何となく感じるんだ。いい加減な奴に見られるように、自分から仕向けてるんだなって」
意表を突かれた様子でダイバーは目を瞠り、そっと右手でフェニックスの頬を撫でた。フェニックスはひたすらな眼差しをダイバーの面に当てたまま、何がしかの納得できる答えを待ち侘びている。やがて、ダイバーは頷いて微かに上体を曲げ、大切な事を言い聞かせる時の仕種をした。
「俺やランダーはお前より長く生きてきたから、その分たくさんの傷がある。傷ってものは厄介で、綺麗に治って怪我をしていたことすら忘れてしまう場合もあれば、痕になって、怪我を負った時の情景まで鮮明に残ってしまう場合もある。そういう傷は、見られないように隠したいと思う。その傷を他人が見て、詮索されたり同情されたりするのを防ぐためにな」
「ダイバーもあるのか?そういう傷」
「そりゃ、あるさ。お前だって今はなくても、これからそういう傷を負わなきゃいけなくなるかもしれない」
一生涯、誰にも見られたくない―〝傷〟。
そのものから他人の目を逸らすために、別の顔すら演じなくなくてはならないほどの。
ランダーにはそれほどの、痛みも薄れない深い傷があるのだろうか。それを隠し通すために、放埓な自分を殊更に見せつけようとしているのだろうか。他者が無遠慮に立ち入ってこないよう、境界線を引くように。
ポン、とダイバーの手が優しく頭に跳ね、フェニックスは顔を上げる。
「大丈夫だ、フェニックス。これだけ派手に喧嘩が出来るってことは、あいつもお前を気に入ってる。ちゃんと本気で向き合うつもりがあるんだよ。だからもう少しだけ、お前の方が待ってやれ」
「ランダーの警戒心が解けるまで?‥‥なんか、野生動物みたいな言い方だな。聞いたら怒りそうだ」
「言うなよ?」
人差し指を唇の前に立ててダイバーが声を潜めると、フェニックスはくつくつと笑いを殺して、
「言わないってば。絶対」
約束だと親指を上げ、ひらりと身を翻した。
紅蓮の色の鮮やかな肢体が先程までとは打って変わって軽やかに駆け去ると、ダイバーは医療セットを丁寧に片付けながら、機器の陰に声をかけた。
「立ち聞きは罰金ものだぞ、ランダー」
咳払いが一つ聞こえ、不貞腐れた声だけが返る。
「‥‥俺が野生動物だったとは驚きだ。て事は、あれだな、女を求めるのは本能ってやつだったのか」
「なるほど、そういう言い逃れもできたか」
ダイバーは笑って、顔を見せないランダーの気配を相手に言い差した。
「フェニックスはお前が好きなのさ。だから突っかかるし、構うんだ。その位はちゃんと気付いてたろう?時間がかかってもいいから、俺と話すようにあいつとも話してやれよ」
「女の口説き方なら、いつでも教えられるんだがなぁ」
「それは、もう少し成長したらにしてくれ。今から女遊びを覚えられたんじゃ、二人分の面倒は見切れん」
「‥‥面倒かけてばっかりか」
動かす手を止めて、ダイバーはその苦しげな言葉が零れた方へ目を凝らす。ぼんやりと滲んだランダーの影が身じろいだ。
「俺の〝傷〟を見て、それでも相手にしてくれたのはお前だけだった‥‥フェニックスも知ったらきっと離れていく。俺は結局、どうしたって―」
「ランダー、それならフェニックスにまで繕って見せるな。あいつが知りたいのは今生きてるお前の本心だ。昔のお前はもう、傷以外のどこにも現れやしない。そうだろ?」
床を踏む忍びやかな足音が遠ざかりながら、ランダーの小さな、祈りのような呟きを運んだ。
「‥‥だといいんだがな」
―2029/7/6 16:07 The Moon―
押し殺していた呼吸を平静に戻すと、スターセイバーの視線はしばらくの間、太陽光の当たらない月面裏の漆黒が支配する窓外を彷徨った。
月面基地が〈サイコ〉に破壊され、この第二基地に本部を移して丸一日以上が経つ。主要な部局の情報網やオペレーター人員のほとんどは移設し終わったが、構造上、騎士の収容人数には限りがあり、スターセイバーを始めとした直属部隊とフォートレス等以外は、地球の各地に降下させたままの状態であった。
本来なら〈サイコ〉出現時に即座に対応できるよう、幾らかの部隊を月面に残存させておきたかったのだが、再度の直接攻撃を考えれば戦術的にも兵力の集中は避けねばならなかった。判断としては痛し痒しである。
だが、それ以上にスターセイバーの心を重く塞ぐのは、自らが望んだことではないにしろ、ビクトリーレオにホーク達の監視を命じたことだった。〈サイコ〉の動向を見極める為とは言え、プライバシーを無視した監視など、これまで地道に信頼関係を築いてきた相手を裏切るような行為ではなかったか。ビクトリーレオが最初、顔色を変えて拒絶したのは当然で、それを総司令官の権威で押し切られてしまったことに、彼自身が失望しているのは明らかだった。
本心を言えば、スターセイバーもこれ以上はないほど己に失望した。今すぐに全ての肩書きを捨て去ってしまいたい衝動に駆られたほどには。
「‥‥話を続けましょう、総司令官」
打ち沈んでいるのとは違う、眼前の絶望から這い上がろうとしているような意志の強い声に、スターセイバーは室内へと目を戻す。照明を落とした、こじんまりとした会議室のテーブルを挟んで、スターセイバーとフォートレスの視線がぶつかった。
フォートレスの隣にはパーセプターが座し、手元の操作盤を忙しなくタッチする音は止むことがない。指が滑らかに走ると、テーブルの中央に再び立体モニターが浮かび上がった。
映像は先ほどスターセイバーが止めさせた瞬間の、〈サイコ〉の手の中で無数の泡に変わるフェニックスの姿を映したままだ。テムズの濁った水流が邪魔しているとは言え、ビクトリーレオに命じたのとは別にプリテンダーそれぞれへ付けていた監視要員が記録した映像は、報告書の一文よりも明確で鮮明である。
『これで、一つははっきりした』
壁面を陣取る巨大なモニターに、存在の大きさを敢えて知らしめるように小さく映った人物が、嗄れた声で牽制した。スターセイバーも二度ほど顔を合わせたことのある、元老院を束ねる最長老―名も伏せられ、存在の痕跡すら消された老人であった。
遠くアセニア星の人工山間部に在る、十人の議員からなる諮問機関、元老院。
宇宙軍総司令官の最終任命権を持つ元老院は、サイバトロン上層への発言力と決定権を併せ持った存在でありながら、軍とは全く異なったものとして絶大な権威を誇り続けている一機関である。かつてロディマスコンボイの総司令官任命に関わる摩擦があり、以来、サイバトロンと元老院の距離は適度な、可もなく不可もないものに保たれてきたが、決して元老院の権威が薄れた訳ではない。事実、叡智マトリクスを持たないスターセイバーを宇宙軍総司令官として「認めた」のは彼等であり、またロディマスコンボイが選んだフォートレスの退官を「許した」のも彼等なのだ。
そして今、元老院はその名を免罪符に彼等の―いや彼等が言う所の宇宙全体の平穏のために―〈サイコ〉の一件を動かそうとしている。
『あの
フォートレスが色を失くし、慌てて抗弁した。
「そのお考えは早計です。
『その考えこそ浅薄であろう、フォートレス・ロード。この映像を見れば明らかだ。フェニックスなる騎士は、もはや元に復するまい』
「彼を〈サイコ〉の手から救い出すためにこそ、私は―」
『過去の罪を贖いたいのなら、むしろ決断されるが良い。あの怪物どもを追い続けるほど破滅の脅威は増すのだ。地球だけではなく、いずれ全宇宙が危険に晒される』
「それは理解しています。ですが、全ては彼の罪ではありません。まして、彼の仲間は何も知らない。一体何が起こっているのかも」
『では知らせぬままが良かろう』
「それはあまりな言い様ですッ」
思わず語気を荒げて、スターセイバーが叫んだ。モニターの中からゆるゆると、老いてすら鋭い眼光が氷刃のように振り向く。発せられた声は視線よりもなお冷ややかだった。
『 “ヴァーチャーズ”スターセイバー、勘違いをなさっては困る。君の務めは秩序を守ることであって、人助けではない』
「一人も守れずに、誰を守れるのですかッ」
『一人の命で万人が守れる場合も、往々にしてある。それが判らぬほどの理想主義者だとは思いませんでしたな』
反論に窮して、スターセイバーは卓の上で拳を握り締めると、今にも怒声に変わりそうな喉を叱咤して言葉を重ねた。
「‥‥院のご進言に従って、プリテンダーの面々には二重に監視役を付けました。しかし、彼等が何も知らず、本心から仲間の安否を気遣っているのは、この映像からも明らかです。必ず救い出せると信じている。その思いを無視して私達が〈サイコ〉を攻撃対象とすれば、どうなるか‥‥!」
『攻撃ではなく、殲滅だ』
老人の平板な応えは、現実感を切り離した次元から零れ落ちる音階のように、静まり返った室内に満ちた。
「―殲滅、と言う言葉は、二個体に向けて使用するものとしては、いささか語弊があるのではないかと思われますが?」
カタリ、とエンターキーを押し込んで、パーセプターが堅苦しい持って回った問いを上せるまで、スターセイバーとフォートレスは恐ろしいほどの間、凍り付いていた気がした。耳に潜り込んだ言葉の意味が正確に理解へ達するまで、何秒かかったのか。だが、反芻するのすら忌まわしい。
無意識に睨み付けたモニター越しの老人は、後ろめたさも笑みも浮かべてはいなかった。笑ってでもいたのなら、この嫌悪を昇華する先を見つけられたろうに。
総司令官とその前任者、二人の忌避に満ちた眼差しを無視して、元老院を統べる最長老は厳命のように口を開いた。
『では、言い換えるとしよう。排除しなければいけない、と。生死を問わず』
「馬鹿な!それでは、諸共に殺せとおっしゃっているも同然ですッ」
椅子を蹴り飛ばして立ち上がったスターセイバーをフォートレスは静かに制し、その目をじっと、遥かな光年を隔てた場所にいるはずの老いた残像に注ぐ。
これは、黒い染みだ。
フォートレスは眼を眇めた。
初代総司令官コンボイを失い、母星を破壊尽くされ、それでもなお希望を抱いて、新たなトランスフォーマーの新天地を求めたロディマスコンボイが旅立つ日、新総司令官に指名されていたフォートレスは叡智マトリクスの継承を拒んだ。そのことが元老院を激怒させ、それまで総司令官に与えられていた“オプティマス・コンボイ”の尊称はあれ以降、下賜されることがない。
元老院がサイバトロン上層部を敵視するのは一向に構わないし、事あるごとに批判しようと、勝手にすればいい。しかし、自分達の反目を一介の騎士の命にまで持ち込むのは、やり方が汚すぎるではないか。かの老人達の進言を悉く無視すれば、すなわちサイバトロン宇宙軍全体の叛乱とも取られ兼ねないが為に、従わざる得ないと言うことを知っていて。
毒を封じるには、結局、果てるのを覚悟に飲み込まなければいけないのだろうか。
スターセイバーを押し留めたまま、フォートレスは死の宣告に加わる医師のように首を縦にした。
「その代わり、あらゆる手段を講じても〈サイコ〉の捕獲が至らなかった場合に、その命を実行いたします。全軍への発動権はスターセイバー総司令官閣下に一任いただきたい」
『よろしいでしょう、フォートレス・ロード。元老院としても、こんな下らない事で“ヴァーチャーズ”スターセイバーの戦績を差し引きたくはないのです』
それに、と掠れた声が、秘密を共有する罪を負わせるように続いた。
『今の局面で、宇宙軍総司令官の交代劇を演じるのは、誰にとっても醜態でしょう』
スターセイバーは嘲笑に近いものが頬に広がるのを感じて、モニターから素早く目を逸らす。本音は多分にそんなところだと理解していても、悪びれる様子のない老人の口調に胸底が粟立ち、吐き気がした。これでもまだ、総司令官の肩書きに一片の敬意を払うだけましと言えるのか。
口を開いた途端に罵りの言葉が飛び出すような気がして、唇を噛み締めることしか出来ないでいるスターセイバーを痛ましげに見、フォートレスは極力静かに言葉をつないだ。
「先の〈サイコ〉の攻撃で、第一方面軍の兵力は三割減少しています。つきましてはアセニア星駐留軍から増援を呼び寄せることになりますが、その間の防衛を元老院付直属艦隊にお願いできれば」
『では
「成果ではなく―罪過です」
『トランスフォーマーの歴史に、罪過と等価でない成果などあった
「確かに、そのようですね」
応じて、フォートレスは淡く微笑んだ。
総司令官、と囁いて促すとスターセイバーの両肩がびくりと跳ね、嫌忌に沈んだ双眼が挑みかかる烈しさでモニターを見上げる。ゆっくりと、噛み締めるように紡がれた声が、意に副わぬ諾を告げた。
「ご進言に従って、この度の一件はご期待を裏切らぬよう、迅速に処理いたします」
『報告をお待ちしています、 “ヴァーチャーズ”スターセイバー。ああ‥‥それから、』
と、突然思い出したような口振りで、老人は抑揚のない台詞を付け足した。
『何かと邪魔になるといけない。事が滞りなく片付くまで、地球のご友人方は、然るべき場所へでも留め置かれるがよろしい』
「―ッ」
然るべき場所―
全身が軋みを上げる間に、プツンと途切れたモニターの中は無音と闇に塗り込められ、取り残されたスターセイバーとフォートレスの白い顔を映し込む黒い鏡に変わっていった。
「非人道的なことを随分と簡単に‥‥やはり、曲者ですねえ。あの年寄り連中は」
「‥‥記録しておいてくださいましたか?パーセプター殿」
フォートレスのその問いにパーセプターはしたり顔で頷き、満足げに最後のキーを弾いた。
「もちろん、ご指示通りに残らず」
場違いに軽い電子音が響き、テムズの濁った映像が瞬時に消え失せる。と、スターセイバーの前にスリットが持ち上がり、ディスクを吐き出した。
フォートレスが取るように手で示す。スターセイバーは掌に収まってしまうほどのそれを丁重に受け取った。
「勝負を左右するのはジョーカーだ。それは君が持っているといい」
「しかし、ロード―」
「君は信念を曲げてでも、今は元老院の望む通りに動かなければ危険だ。代わりに私は、私のやり方で彼を―フェニックスを救い出す道を探す。だが、極秘に」
「ではやはり‥‥ホーク達を勾留しろと?」
「彼等にも確実に危険は迫っている。手をこまねいている間に彼等がフェニックスと接触したら、何が起こるか私にも解らない。これまでの〈サイコ〉の行動は、かつて
スターセイバーは気を静めるために一呼吸黙って、手の中にあるディスクを見つめる。湧き上がる無数の疑問から一つを選り分けるまで、また数秒。最後に唇へ運んだそれは、問いと言うより確認だった。
「それでも、〈サイコ〉には彼が必要なのですね」
自分にビクトリーレオという、合体機能を分かつ存在があるのと同じに。
時折、その感情は狂おしいほどの愛に似ている、とスターセイバーは思った。離れれば存在価値を失い、近すぎれば重荷になる。
それでも、いてくれなければ生きてはいけない。
「―プリテンダーの、捕縛命令を出します」
蹴り付けるように踵を返したスターセイバーの背が、決然と言い放った。
《続く》
第2巻は次回で最終話です。
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