後書きに用語解説を付けておりますので
そちらもぜひご覧ください。
次回より第3巻に入ります!
―2029/7/6 22:38 Calcutta―
聖トーマス教会の周囲は夜の帳に包まれ、その地に永遠に眠る聖女を起こさぬようにひっそりと静まり返っていた。
コルカタの市内であるにも関わらず、夜を破る人工の明かりは遠く、熱を持った夜気の他にフェニックスの肌に纏いつくものはない。誰がいつ何時訪れても構わぬように聖堂の扉は片手で難なく開き、暗い堂内の輪郭を浮かび上がらせた。
フェニックスは灯火に誘われる弱々しい羽虫のように、覚束ない足取りで中へ踏み込み―と、爪先に目を落とす。
裸足だった。ぺたりと床についた足裏に、石造りの建物が持つひやりとした感触が伝わる。
唐突に、何一つ身に着けていないことに気付いたが、地球人にとっての雌雄の区別を失った身体はむしろ外的要因からも切り離され、ただ自由であった。
見られても咎められても、構うことはない。
自分は元々、こういう生き物だったではないか。
フェニックスは飛ぶように身廊を進み、祭壇を正面に見据える交差廊の手前で足を止めた。色の濃淡で美しい幾何学模様を描くタイルの床が一角だけ大きく正方形に切り出され、大理石で出来た石版が埋め込まれてある。爪先から忍ぶように近付いて石版の縁に跪くと、かっちりと彫られた英語の碑文におずおずと手を伸ばす。
生没年号と名。それ以外の、生前に受けた限りない賞賛や評価の一切は一文も記されていない、簡素で簡潔で、人柄そのままの墓。
身を屈め、フェニックスはそっと石版に口付けた。
「戻ったよ‥‥アグネス‥‥」
国葬で送られた葬儀の日、教会へ続く二キロほどの道は、白い弔花や死を悼む言葉が書き付けられたボードを手にした数千の人々に埋め尽くされ、世界各国の報道陣がひしめき合っていた。フェニックスはカメラの列を避け、一つの渦のようになった人々の遥か後方から、しずしずと運ばれる棺を見送っていた。
死の瞬間に立ち会うことを許され、彼女が生涯でたった一人、地球に在る神以外で心の全てを捧げてくれた自分が、葬儀の席に並ぶこともできない―現実を凌駕することは、異星人である以上不可能なのだと思い知らされた、耐え難い一日だった。
あれから三十年以上、人目を避けて何度この場所へ戻ったか知れない。そして何度、こうして話しかけたか。
もう二度と生きては会えないのだと納得していても、地球上からアグネスが消滅してしまった後の日々には慟哭と悲嘆が嵐のように押し寄せて、フェニックスを苛んだ。
「君がいない。どこにも―」
碑文の名をなぞる指先に呟き、分厚い石の下に隠された懐かしい面輪を思い描く。少女の顔、修道女の顔、聖女の顔‥‥どれも確かにアグネスの顔だ。数十年の間、フェニックスが真っ直ぐに見守り続けた顔。
寒くはないのに、死者の国へ囁きかける声は震えを帯びて、唇をかじかませた。
「俺は、君の願いを知っていると言った‥‥君は、俺の願いを知っていると‥‥同じものを、探しているんだって‥‥」
問いは冷えた床に跳ね返り、フェニックス自身の耳へ木霊する。
同じもの―言葉で表してしまえば余りにも簡単なそれを別々の形で探し続けたけれど、二人ながら手に入れることは叶わなかった。いや、叶わないと解っていたからこそ、探し続けたのだ。せめてこの願いの欠片だけでも、他者に分け与えられるようにと。
「約束もしたよな。この星をずっと見守る、愛するって。そうだよ‥‥愛してる。でも愛してるからこそ、俺にはどうすればいいのか判らない。あいつは、」
そう言った喉が焼け付くのではないかと怯えるように息を呑み、フェニックスは告げた。
「あいつは、俺と違う。愛してない、何一つ。君も、ホークも、ダイバーもランダーも、ジンライ達も、地球も―父さんも母さんも」
石版に乗せた手が無意識に拳を作る。フェニックスは何度も首を振り、額を床に摺り寄せた。
「俺はあいつのものにはならない。どれかを選ばなくちゃいけないなら、選び方は自分の意思で決める。だから君に、見ていてもらわなくちゃ駄目なんだ」
それが正しいことか、間違いか。
「一緒に、行こう」
大地を抉り取るような激しい震動が、ずうんと鳴って教会の床を波打たせ、フェニックスはゆっくりと顔を上げる。
夜光を吸った青白いステンドグラスの向こうに、巨大な影が覆い被さった。
ビクトリーレオは、思わず高々と構えた右の拳を苛立ちと共に壁へ叩き付けると、短い罵声を吐き捨てて、スターセイバーの悄然とした表情から目を逸らした。スターセイバーの眼窩に一層濃い疲労が走るのを視界の端に捉え、フォートレスの引き結んだ口元が歪む。
絞り出されたビクトリーレオの声音が、三人きりの執務室に闇を運んだ。
「ふざけるなよ‥‥!元老院のジジイがどう言ったにしても、フェニックスを見捨てようってのかッ?追っかけるより、殺す方が楽だって?」
「それは最終的な案としてだ」
「だったら、ホーク達を拘束するなんて馬鹿な話を、なんで受け入れなくちゃならないんだ!フェニックスを〈サイコ〉と一緒くたに攻撃することになったら、あいつ等に居てもらっちゃ困るからだろう?!」
ビクトリーレオ、とフォートレスが言い様を咎めたが、ビクトリーレオは傲然と顔を上げて二人を睨め付け、皮肉な笑みを片頬に刻んだ。
「スターセイバー、どういう事になるか解ってて、俺にそう命令するのか?」
「私だって納得している訳じゃない。これは苦渋の決断だ‥‥君は君の決断をすればいい」
最後の一語を突き放すように付け足したのは、スターセイバーに出来るせめてもの謝罪だったのかもしれない。
瞠目し、ビクトリーレオはやがて理解したように頷いた。
「ああ、そうか―それなら好きにさせてもらうよ」
「ビクトリーレオ!」
さっと疾風のように踵を返して立ち去ろうとする背を、フォートレスが呼び止めた。
「彼等に、フェニックスの生体データを残らず破棄するよう伝えるんだ。彼を亡骸としても取り戻せなかった場合、おそらく元老院が何らかの理由をこじつけて接収しようとするだろうが、決して渡してはいけない」
「生体データを‥‥?何故です」
「今は説明できない。だが、この言葉だけは信じてほしい」
ビクトリーレオはゆっくりと二歩後退ると、軽く開いた扉から通路へ半身を押し出しながら頷き、素早く姿を消した。
労わるように伸びてきたフォートレスの手が肩先に触れ、スターセイバーは諦めの笑みを零す。
「私が最初に彼を裏切ったんです。遅かれ早かれ、これが当然の成り行きでした」
「そうだとしても、大変な決断をなさった。総司令官、すぐにパーセプター殿とアセニアへ向かうんです。我々が助けを乞える相手は、最早ただお一人しかおられない」
フォートレスの決然とした眼差しの奥を覗いたスターセイバーは、
「‥‥嘆きの部屋へ?」
一瞬だけ呼気を吸い込み、畏怖するようにその答えを口にした。
真っ直ぐに出撃用ハッチへ向かったビクトリーレオは、区画を分ける隔壁の正面に立ちはだかって行く手を塞ごうとするブラッカーの姿に出くわすと、仕方なく歩調を緩めた。
医療ポッドから解放されたばかりらしいブラッカーの剛健な身体には、すでに目立った怪我はない。しかし衰弱ぶりは隠しようがないらしく、肩で吐く呼吸のリズムは乱れて苦しげだ。ただ、戦場で敵を竦ませる刃のような眼光に翳りがないのは幸いだった。
ブラッカーは途切れがちになる自身の声に、極力平静の音程を与えて告げた。
「総司令官が、ホーク達の捕縛命令を出したのは聞いた。だが俺達は軍人なんだぞ。従えない命令の為に総司令官を裏切るってのか、お前は」
「―フェニックスもあいつ等も、俺のかけがえのない友人だ。誰にも傷付けさせないように、俺達が出来るだけの手助けをしてやりたい」
「判ってるのか!」
発した怒声にブラッカー自身が顔を歪め、首を振る。
「ビクトリーレオ、お前はスターセイバーが誰よりも頼りにしてる合体パートナーだ。今の状況でお前がいなくなったら、あいつは誰を信じて―」
「お前がいる」
と胸を突かれて、ブラッカーはビクトリーレオを凝視した。
幼い頃から宇宙に四人きりのブレインマスターとして育ったブラッカー達の間には、友情や信頼と呼ぶ以上の強固な絆が存在してきた。スターセイバーが単機Vスターを与えられ、ブラッカー達三人がロードシーザーの合体機能を持たされても、絆の重みが変わったことはない。変わったのだとしたら、それはブラッカーの心境だった。
ゴッドジンライが命を以てスターセイバーの危機を救い、ビクトリーレオに転生した時―スターセイバーが彼との合体機能を分け合った時、ブラッカーはそれまでの場所を己の意思でビクトリーレオに譲ったのだ。
スターセイバーが一番の信頼を置く相手は、もう自分ではない、自分ではいけない、と。決して、それが本心だった訳ではないのに。
「スターセイバーにはお前がいる。ブラッカー、総司令官を支えてやってくれ。総司令官が無条件に心を許せる相手はもう、お前やブレイバー達だけだ」
「ビクトリーレオ‥‥!」
「心配するな。総司令官との合体機能は凍結する。元々、一方の意識だけでは合体できないように、リミッターがかけられてるからな‥‥俺はジンライの所へ行くが、この先、何が起こっても手加減するな」
「戦うことになると思ってるのか?」
「戦わずに済むと思うのか?」
「‥‥そうだな」
隔壁から力なく離れてビクトリーレオへ道を譲ると、ブラッカーは鷹揚に片手を振りながら、酷く重く感じる身体を引き摺って歩き出した。
振り返ってしまわないように、通路の果てだけを睨み付けながら。
―2029/7/6 10:13 California―
イルカ達が悠然と泳ぎ回る巨大な白い生簀の縁に腰掛けて、ダイバーは降り注ぐ陽光を全身に浴びながら、傍らで自分の代わりに生餌を撒き与えているキャンサーと秀太を黙って眺めていた。
秀太はともかくキャンサーの手際は堂に入ったもので、ぱっと散った餌は水面で均等に分散し、イルカ達の口に不可分なく収まっていく。
ちらとダイバーの脳裏を掠めたのは、キャンサーを養子に取って共に暮らした時期の懐かしい記憶だった。あの頃、海洋生物学を学ぶように仕向けていたら、この研究所の主はキャンサーになっていたのかもしれないと思うと、少しばかりの後悔があるのも本当だ。地球で暮らす以上、息子をもうける事など現実にはありえないからこそ、キャンサーへの愛おしさは得難い歓びだった。
「ダイバー、傷、痛むのか?」
穴が開くほど向けていた視線にキャンサーが気付き、手を止めて不安げな問いを投げかけた。眉根を寄せたその顔に驚いて、ダイバーは慌てて否定する。
「まさか、身体は何ともないさ」
ロンドンから傷だらけの―実際は洋服のかぎ裂きの方が酷かったのだが―格好のままロードキングに連れられて戻ったダイバーを見て、真っ先に半狂乱になったのはキャンサーだった。マスターフォース戦役以来、近しい者が傷を負うことに人一倍敏感な質になったキャンサーは、プリテンダーにとって見た目の怪我が本来の肉体に比例しないことなど理解していたはずなのに、ダイバーの様子を目の当たりにした途端、動転してしまったのである。
ミネルバやライトフットになだめられてようやく落ち着きはしたものの、時間が経っても幼子のようにダイバーの側を離れようとしなくなった。まるで、姿が見えなくなるのを恐れてでもいるように。
「そんなに心配してくれるなよ、キャンサー。それよりもイルカ達にちゃんと餌をやってくれ」
「そうだぞ。ほんっとに重労働だよな、これ」
秀太が茶化すように言い足して、えいっとばかり、残りの餌を盛大に水面へぶちまける。若いくせに腰を伸ばして呻いたのは、笑いを誘うためばかりではなさそうだ。
「デスクワークが祟ってるよなぁ。俺も超竜拳の道場に通うか」
「秀太ならいつでも歓迎するよ。月謝も特別割引で」
「なんだよ、しっかりしてるな」
「一応、これで食ってんだもん」
「ダイバー、立派に育てすぎだよー。キャンサーの方が俺やキャブよりしっかりしちゃうなんてさ」
言って、からからと笑っていた秀太の目が急に、生簀と隣り合った駐車用の敷地に引き寄せられた。
大型トレーラーでも軽く十台以上は停車できる駐車場に、一台のバイクが滑り込んでくる。大型で馬力のありそうな単車は日本製の二輪車を自分好みにカスタマイズしたものらしく、モダンな黒一色の塗装に銀の排気トルクが良く映えて、ワインレッドのライダースーツを着込んだ背の高い乗り手の個性的なセンスをうかがわせた。その隙なく決まった姿は遠くからでも浮き立つほどに目立つ。
「え、あれ、ワイルダー?」
秀太が、久しぶりに目にしたその姿に、懐かしさの混じった声を上げる。
フルフェイスのヘルメットが颯爽と外されると、エッジの強いナイフを思わせる精悍な顔が露わになった。すでに二児の父親であるにもかかわらず、少年時代のどこか危なげな雰囲気を未だに漂わせたワイルダーは、ヘルメットをダブルシートの上へ置くと軽く手を上げて来訪を告げ、首まで留まったライダースーツのジッパーを鎖骨の辺りまで引き下ろした。
その途端である。押し込められていた籠から逃げ出す小鳥のような素早さで、小さなものがひょいっと地上へ飛び降りたかと思うと、身体に不釣合いなほどの甲高い声を発しながら駆け寄ってきた。
「たッ、大将~ッ!!」
「ブローニング!」
キャンサーが差し伸ばした両手の中に跳ね飛んできたのは、マスターフォース戦役の折にメガから与えられて以来キャンサーのかけがえない家族の一員となった、小さなトランスフォーマーであった。
その名の通りブローニングM1920に変形すれば、今やキャンサーの片手にもすっぽりと収まってしまうほどのブローニングは、敬愛する主の掌でへたり込むと、当時から変わらない独特な拍子で早口に捲し立てた。
「大将、大将ッ、危ない事に首突っ込んだらあかんッ。姐さんかてホンマは、心細ぅてしゃあないんやで!わてかてそうやッ」
「お前‥‥エリカの傍に居ろって言ったのに、」
「姐さんが来られへんから、わてがワイルダーの兄さんに頼み込んで、一緒に連れて来てもろたんや。早よ帰ろ」
「帰るって、どういう―」
事態が飲み込めず、キャンサーは必死に懇願するブローニングから、悠然とこちらに近付いてくるワイルダーに目を向けた。ワイルダーの凛とした眦に、苦い色が浮かぶ。
「良く来てくれたな、ワイルダー」
キャンサーが問いを投げるより先に声をかけたのは、生簀の縁から腰を上げたダイバーだった。
ワイルダーは一瞬だけ複雑な表情を作り、両手を腰に、できるだけの威厳を保った不遜な態度を取る。虚勢はばればれだが、かつてキャンサーの養育を巡ってダイバーにこっぴどく打ちのめされた身としては譲歩の最低ラインなのだろう。
「‥‥あんたに頼まれちゃ、嫌とは言えねぇだろ。それも朝っぱらから、今にも倒れそうな声で電話してこられりゃあ」
「俺の作戦勝ちかな」
「まあ、いずれは呼ばれると思ってたよ。ニュース見る限りじゃ随分とヤバそうだし。‥‥しけた面してんなぁ、秀太」
急に矛先を変え、にやりと笑うワイルダーに、秀太は相変わらずの減らず口だと言わんばかりに肩を竦める。
キャンサー一人がまだあちこちと顔を見回して、ワイルダーが突然現れた意味を理解できずにいたが、その肩をダイバーが優しく叩いた。途端、無意識にキャンサーの全身が強張り、ダイバーを見つめる眸に動揺が走った。何を言われるのか、余りにも突然閃いたように驚愕が滲む。
思わず払い除けようともがいた肩先が強く引き戻されると、キャンサーの手から振り落とされそうになったブローニングが慌てふためいて襟元に跳び付き、首根へ這い上がる。
「キャンサー、ワイルダーとワシントンへ戻るんだ。ここに居れば必ずお前にまで害が及ぶことになる。だが離れてさえいれば、ヘッドマスター能力もないお前達にまでは誰も手を出さない」
「そんな事ぐらい、」
「エリカにはお前がいなくちゃいけない。ワシントンへ戻って、傍で守ってやれ。俺達なら大丈夫だから」
「俺だって、フェニックスを助ける手伝いがしたいんだよ!秀太もミネルバも、だからここに居るんだろッ?」
「気持ちは解るし嬉しいさ、もちろん。でもその為にお前達まで危険に晒すことはできない。これはホークやジンライ達と話し合って決めたことだ」
キャンサーは何度も頭を振り、縋るようにワイルダーを、秀太を見た。
秀太は短い溜息の中に全ての文句を押し込めると、わかった、と負けを認めたような調子でダイバーに同意した。
「俺とミネルバはカリン島に避難するよ。キャブのとこなら皆も安心だろ?」
「秀太!」
「キャンサー、お前だって解るだろ。悔しいけど俺達にできるのは、せめてホーク達の負担にならないようにすることなんだよ。くっついてても、絶対に地球人の俺達じゃ足手まといになる。フェニックスを助けたいなら、素直に手を引く方が皆の為になるんだ」
「そんな‥‥ッ」
首筋に縋ったブローニングが、真夏の熱気の下でも凍えるほどに冷えた身体を押し付けて、キャンサーに残りの言葉を途切れさせる。震えているのに気付いて手を差し伸べると、ブローニングはその指へ遮二無二抱き付いた。
キャンサーが戻るまで、と、エリカを守り励まし続けながら、ブローニングがどれほど心細い思いをしていたのか。電話口で明るく振舞っていたエリカも本心では、トランスフォーマー同士の戦いに再び巻き込まれかねないキャンサーの身を案じていたに違いない。押し潰されそうな不安の中で。
いつの間にか離れたダイバーの大きな手の感触が、ワイルダーの骨張った指の感触に代わっていた。子供の頃、言葉遣いとは裏腹のこの優しい手の温もりは、今と同じようにキャンサーの救いであり支えだった。
「俺と帰るな?キャンサー。ブルホーンも今日中に来る事になってるんだ。お前のこと、心配してるぞ。エリカをほったらかしにしてどうすんだ、ってな」
「‥‥ブルホーンってば、相変わらずだね」
もうガキじゃないっての、とキャンサーは笑うと、指にしがみ付いたブローニングをそっと肩の上に押し戻し、戸惑いがちにダイバーへ視線を戻した。微笑もうとしたが上手くいかなったらしく、泣き笑いの表情になる。
「あっちへ戻るよ。とにかく、怪我しないように気をつけて」
「ああ、心配するな。きっと何とかしてみせる。それじゃあキャンサー、秀太。急かすようで悪いが荷物を、」
照り付ける日差しに伸びた自分の黒い影を踏みながら研究棟へ踵を返したダイバーは、と、扉を蹴破る勢いでまろび出してきたジンライの姿に立ち止まった。
「ダイバー!ビクトリーレオがッ」
ジンライは大声を張り上げて晴天の、青が暗く見えるような空を指し示す。
重なり合う厚ぼったい積乱雲の間から垂直に急降下してきた黄と黒に彩色されたジェットブースターの機影は、ダイバー達から臨める数キロ沖の海面すれすれで直角に機首を持ち上げると、海面を左右に割り、鋭い飛沫を撒き散らしながら、音速に近い飛行速度を一度も緩めぬまま研究所へ向かってきた。機影は激突するかと思われた刹那、空中で弧を描くようにトランスフォームし、二機のカノン砲を背にしたビクトリーレオを軽々と地上に降り立たせた。
そこに息を切らせたジンライが駆け込む。ビクトリーレオはジンライに目顔で合図すると、巨体から落ちた影の下から呆気に取られて見上げるダイバー達へ叫んだ。
「今すぐに、ここから退避しろッ。上層部がプリテンダー全員の捕縛命令を出した。フェニックスの生死を問わず〈サイコ〉を殲滅する気だ!」
「な‥‥ッ―」
「そんな!!」
「無茶苦茶だよ!」
秀太とキャンサーの悲鳴を横にビクトリーレオをじっと睨め上げていたワイルダーが、おもむろにライダースーツの内ポケットを探って一枚のカードキーを取り出した。カードは特殊な加工を施してあるらしく、白一色で凹凸も文字の打ち出しもない。
「一応、預かってきて正解だったかもな―ジンライ」
呼びかけ様、ジンライの手にカードを投げ渡してワイルダーは頷いた。
「クラウダーからジンライ
「クラウダーが?―そうか、助かる。ダイバー、すぐに出よう。ライトフット達がもう準備を済ます頃だ。ビクトリーレオ達も一緒に来る」
ジンライが促すと、ワイルダーに背を押されたキャンサーと秀太が研究棟へ駆け戻った。ダイバーはその後に続こうとして、はっと立ち止まる。
「待て、ランダーがニューヨークに戻ったままだ。早く呼び戻さないと」
「ホークがいま連絡を取ってるはずだ。とにかくこっちはこっちで急がないと」
「時間がないんだ、ダイバー」
ジンライと同じ声をしたビクトリーレオがダイバーの頭上に焦りを滲ませ、低く、苦しげに呻く。その肩越しに広がる晴れ渡った蒼天が恨めしいほど、地面は焼け付いていた。
―2029/7/6 13:25 New York―
「あら、どなたからのお誘いかしら?」
通信機から漏れる緊急コールを無視して切ると、ランダーは、テーブルを挟んだ向かい席から答えをうかがうように興味深げな視線を投げかけてくる女性へ曖昧な笑みを返した。
ニューヨークのフレンチレストランとしては高級の部類に入る、マンハッタン中心街に位置する『ラ・ジャルダン』の店内は、ランチでも正装で訪れるのが基本のせいか、平日にもかかわらず、ある程度の品と財力のある客層で占められ、店内を彩る十九世紀の調度品に見合った落ち着いた雰囲気に包まれている。こんな場所に電子音は、いかにも耳障りだ。
「ちょっとした呼び出しだよ。仕事の」
「まあ、そう?」
ホルターネックの白のサマードレスから覗く細い肩から胸元へと、緩いウェーブのかかった赤毛が楽しげに踊る。歳は二十代の半ばと聞いたが、黄金色に近い茶の眸子に隠れた明敏さが気に入って、最近、数多い恋人の一人に加わった相手である。本名かどうかも判らないパトリシアという名と携帯番号しか知らない自由気ままな関係だが、寝物語に聞いた話では職業はモデルらしく、ランダーが他に付き合っている同業者のことは最初から良く知っていた。幸いそれが嫉妬につながるでもなく、むしろからかいの対象になることが多いのは、やはり性格なのだろう。
ロンドンで、目の前まで迫った〈サイコ〉をむざむざ取り逃がした悔しさと幾ばくかの自戒を抱えたまま、ダイバー達とは別行動で一人ニューヨークに戻ったランダーが、誰でも良かったはずの気晴らしの相手にこの新しい恋人を選んだのは、心のどこかで何も詮索せずに傍で笑っていてくれる存在が欲しかったからかもしれない。
「今日はもう仕事はパスするよ。朝から駆けずり回って、くたくたなんだ」
「大変ね。でもデートは別?」
「疲れはしないだろ?」
「そうね。食事をするだけなら、ね」
意味ありげにくすくす笑い、パトリシアはランチを締めくくるデザートを口に運ぶ。
「正直、急だったけど誘われて嬉しかったわ、マイケル。この前、あんな事件があったばかりでしょ?地下鉄の‥‥」
コーヒーカップを持ち上げようとしていたランダーは、その言葉に無意識に震えた指を疎ましげに睨んで、手荒くカップを戻した。パトリシアはランダーの狼狽に気付かなかったらしい。デザートを掬う速度は変わらず、口調には世間話程度の好奇心が覗いているだけだった。
「あの事件が解決していないから、みんな怖がって、あまり外出しないみたいなの。観光客もマンハッタンから次々退去してるんですって。レストランも軒並み売り上げダウンだって、今朝も新聞に載ってたわ」
「‥‥大変だったからな、あの夜は」
「ほんとよ。ああ、そう言えばあの日、『テッィチアーノ』で誰とデートだったの?貴方が夕方、店に入っていくのを見たって―ほら、ソフィがね、撮影スタジオで大騒ぎだったのよ」
ランダーは記憶を手繰るように目蓋を伏せて、一度戻したカップを慎重に持ち上げた。
最高の豆からしか抽出できない芳しいコーヒーの香りと、深い色が目を楽しませてくれる。その色に混じって、プラチナブロンドの髪と面輪が揺らいだ。トランスフォーマーである本来の自分の顔とはあまり似ていないようでいて、皮肉めいた表情だけは妙に似ている時があるその顔を、ランダーはまじまじと眺めやる。どこかに動揺が滲み出ているかと思ったが、残念なことに、自分で思うほどのものは何一つ浮かんでいない。そこにあるのはかつて嫌と言うほどに他者の眸の中に見た、無感動で無感情な、生きていない者の顔。
カップを満たした熱い液体を飲み干すと、ランダーはおどけたように笑んだ。
「あの日は結局、振られたんだ。すっぽかされてね」
「珍しい。そういう事もあるの?会ってみたいわねぇ、貴方を振るなんて、どんな人かしら?」
「別に。笑ったり怒ったり、無駄に忙しい奴さ」
「ふぅん‥‥」
形の良いパトリシアの紅い唇が拗ねた子供のようにすぼまり、軽やかに言った。
「それは、愛ね」
「え?」
「そんな言葉で誰かを説明するの、初めて聞いたから。変わってるけど、それが貴方の愛情表現なんでしょ?」
「‥‥よく、解らないな。そうなのかもしれないけど」
ランダーの戸惑った返答に笑みを深く刻んだパトリシアは、母親が歩き始めたばかりの我が子を見るような、ただ幸福そうな様子で黄金の双眼を細めた。
「貴方のこと、ますます好きになったわ」
「光栄だね。じゃあ折角だから、一晩かけてじっくり俺の正体でも探ってみる?」
「楽しそうだけど‥‥今日は止めておくわ。あんまり早く正体を暴いちゃうと、こうして食事する素敵な時間も消えてなくなっちゃうものね。でも、家まではきちんと送って?」
まったく、印象に違わず頭の冴えた女性だ。ランダーは心密かに感歎しながらパトリシアを伴って店を出、自ら設計した気に入りの愛車を止めてある地下駐車場へ入った。
午後の一番混雑する時間帯に当たって、フロアは隙間がないほど様々なデザインの車体で埋まり、さながらシャガールの絵のような抽象的な色彩の配列を生み出している。
「どうしたの?マイケル」
パトリシアは振り向いた。数歩後ろで、急に立ち止まってしまったランダーが弁解するように、頬に苦笑を浮かべている。つと手を振って、ランダーは言った。
「‥‥店に時計を忘れてきた。パトリシア、店の前まで車回すから、取りに行ってくれないか?」
「時計?―いいわ、取ってきてあげる。でも高く付くわよ?」
本気ではないと判る茶目っ気たっぷりの言い様を残して踵を返すパトリシアの滑らかな背に、もちろん、とランダーは声を張り上げた。
ヒールの音が次第に遠ざかり、やがてフロア全体が冷たく静まり返る。ランダーは区画の外れに停めた愛車に近付くと、ジャケットから取り出したキーをフロントグラスとワイパーの隙間に挟み、
「―俺の車をやるよ。好きに使ってくれ」
誰にともなくそう呟くと、熟れた舞台を踏む役者がするような倣岸さで、挑むように身を翻した。
突然、数台の車体からライトが放たれる。
照明の中心に捉えられたランダーはフロアを見渡し、呆れたように笑った。
「悪趣味だな。人のデートを見張るなんて、よっぽど暇なのか性質が悪いのか」
ぶぉん、と一斉に、停止していた車体が唸りを上げる。運転席が空のままの一台が、恐縮するようにするすると停止レーンを越えてランダーの眼前に進み出た。
「―ご同道ください。手荒な手段は、我々も望みません」
もう一度、ランダーはフロア中で憚るようにトルク音を上げている同胞の姿を見回して、地下駐車場特有の覆い被さるような低いコンクリートの天井を仰いだ。
ここにいるどのサイバトロン騎士よりも、自分のデザインした無機質な車体の方が、口を利かないだけ遥かに美しい。
そう思いながら。
(第三巻に続く)
●用語解説●
【アドルフ・ヒトラー】
ドイツ帝国総統。オカルト信奉者として知られ、「ティタンの末裔」と呼ばれる未知の力による帝国の繁栄を探求した。公式には一九四五年にベルリンの首相官邸地下で拳銃自殺した事になっているが、遺体がすぐに焼かれてしまい、証言に多くの食い違いがあるため、死因には謎があるとされている(妻エヴァは服毒死)。
【アラン・チューリング】
イギリス人。数学者。英国情報局のために活動し、現代科学に通ずるコンピュータ理論を提唱した天才。
【ヴァーチャーズ(聖騎士)】
アーク(叡智マトリクスに選ばれた後継者にして、その叡智と融合した精神体の総称)によって選ばれた指導者と、その意思体の総称。サイバトロン軍での最高位として扱われ、ロディマスコンボイ以降の総司令官はほぼ全員がヴァーチャーズと称される。また『守護者』と呼ばれる霊体となって生き続ける事もある。
【エニグマ暗号機】
元は商業製品だったが軍事転用され、世界を席巻するドイツ軍の軍用暗号機となった。
【クラウダー】
地球人。元ゴッドマスター。本名はクラウド・コールマン。
【元老院】
最長老と9人の議員からなる評議院。軍と異なる独自の形態を持つ。唯一、総司令官に拮抗できる機関であり、民主議会への介入もできる。また総司令官の最終任命権や、「オプティマス・コンボイ」の称号を下賜する特権も持つ。その直接的支配下には、直属艦隊、特務警備隊(サイバトロン・マクシマルズ)の他、かのプロトフォームXを生み出したファサード機関などが存在する。
【元老院最長老】
元老院の長。現在の最長老は、コンボイ不在時のサイバトロン全軍統率長官を務めた退役高官。氏名等は非公開。
【Psi(サイ)】
一部のTFが先天的に持って生まれる超能力の事で、彼等は特にPsi保持者と呼ばれる。
【『錫の兵隊』】
ジョーン・D・ヴィンジ著。ウラシマ効果によって孤独に生きる宇宙船員と、歳を取れないサイボーグの切ない恋を描く。「琥珀のひとみ」(創元SF文庫)収録。
【創造主】
クインテッサ星人を指す。
【ティタンの末裔】
地球各地に残る創世神話に度々登場する巨神、巨人の生き残り、もしくは子孫とされるもので、アレキサンダー大王や始皇帝も探索していた。その多くが有史以前に飛来したTFを指すのではないかと唱える学者が、近年現れ始めている。
【嘆きの部屋】
アセニアの宇宙軍統合本部にあると言う、総司令官のみが入室を許された部屋。総司令官自らが望む時、『ある意思体』が現れるとされる。
【バルサー】
フェニックスの養父。死に際に、たまたま居合わせたダイバーへフェニックスを託した。フェニックス(〝振り返らずに〟の意)と名付けた人物。妻はルシータ。
【プロトコル】
独立内乱直後セイバートロン星に創られた、現在のアセニア星立総合大学の前身。各分野の学者、科学者の専門研究室を一堂に建設して生徒を研究員として採用し、学習させた。
【マイダン事件】
一九四六年八月十六日、インドとパキスタンの分離独立に絡んで、カルカッタのイスラム教指導者達がマイダン公園で大規模集会を行ったことに端を発した事件。暴徒と化したイスラム教徒がヒンドゥー教徒に襲いかかったことで、暴動と化した。
【ミハエル】
ランダーが地球上でずっと使用している偽名、マイケルのドイツ語読み。ちなみに現在はマイケル・レイと名乗っている。ダイバーの偽名はエドリック・ファーム。フェニックスの偽名はフェニックス・レヴィン。
【ライカ】
ドイツ・ライツ社の高級小型カメラで、一九二五年から発売。デジタル機器が通常となった現代においては、逆にフィルムカメラは高級な趣味品とされる。