ある無名のアトリエ 〜名もなき絵画の錬金術士〜 作:メルヴェイユ市民
モノクロに溺れる
自分の存在がとても無価値だと気づいた日。
私はそれを忘れることにした。
だって、私より立派なお母さんが居る。
だって、私より優しいお父さんが居る。
どちらから見ても下位互換な私。どうしようもなく居る意味がない。
私は本当に、不当に愛されている。
そんな訳無いのに。
人が人を愛するのに理由は要らないし。
人が人の愛を受け取るのにも、資格なんて要らない。
それは分かってるのに。
私はあの溢れるような愛に相応しくないって思ってしまう。
そんなことを思っている子は、悪い子だから。
だから忘れることにした。
誰かの記憶が流れ込んでくる。
これは私の記憶じゃない。
私は、こんなことを考えたことなんてないんだ。
だから、違う。
———本当に?
違う。
———目を逸らすのはもう無理よ。
違う。違う!
それは、私じゃない!
———そんなことはない。あなたがそれを忘れているだけ。
忘れている?どうして。
———あなたが、愛されるために。
愛されるために?
———あなた、愛されているでしょう?
———とてもとても深い愛…溺れそうなほど、深い愛。
———何もかもを照らしてしまう、眩い愛。
やめて。
———だから、あなたはあなたになった。
———忘れているなら教えてあげる。貴方は———。
やめて。
———あなたの親に、嫉妬したの。
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「やめて!!」
恐怖に駆られ、叫び声とともに跳ね起きる。
いつの間に寝ていたのだろう。ひどい汗だ。
「っは…はっ…はっ…はぁっ……!」
そうだ、結局風呂にも入っていない。
まずは、一階に降りてお風呂に……。
「…ぇ…?」
立ち上がろうと手をついた感触に、硬直する。
草だ。…いや、花だろうか。
———!?
俯いていた顔を上げて、周囲を落ち着いて見渡せば———そこは、まるで自室などでは無かった。
「なに、これ…」
広がっていたのは、二値化されたモノクロの光景。
左にどこまでも続く花畑———右に湖———後ろに草原の丘———その遠くに見える森———その全てに、色がない。
命の息吹に満ちたはずの、自然の光景の全てが…モノクロ。
鉛筆で描く芸術も、それはそれで味があるものだ。けれど、これは違う。生身で見る白黒の世界が異質だというだけじゃない。
この絵は、狂っている。
「う…うぇっ…うゔっ…」
気持ち悪い。世界から受け取る情報の全てが、生命を、色を否定している。
ふと、恐ろしくなって手のひらを眺める———肌色だ。やや色白な、いつもの肌色。
この白黒の世界で、私だけが色を持っていた。
この世界は、
「どこなの…ここは、どこ…」
“ここはどこなのか”。その疑問を頭に浮かべた瞬間…答えが
———この世界は、名もなき世界。
———かつてあった色も、名も、全ては塗りつぶされて隠された。
「この…感覚って」
———ここは《不思議な絵》の世界。
———かつて《不思議な絵》だった世界。
———塗り潰されるために生み出された、壊れた「檻」の世界。
ああ…そうだ。思いだした。
あの、黒い絵だ。あの黒の向こう側に、何か綺麗なものが見えた気がして…もっとよく見ようと集中して…。
そうしたら、いつの間にか、ここで寝ていた。
ただまあ、ここが《不思議な絵》だとしたら、出るのは簡単だ。『アンフェル大瀑布』に取り残された時とは違う。出る方法はアルトさんに教えて貰ったのだ。
ただ、出たいと念じれば、出れる———。
———ドウシテ…?
「あうっ…!?」
頭が…割れるように痛い!なに、今の声!
まさか…外にも出れない?
つまり…閉じ込められた…って、ことに…。
…じっとしていても何も解決しない。とにかく、行動しよう。幸い、ファルギオル討伐のために用意した旅装はそのままだから、食料と水はまだある。
何とかなるはずだ。
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手始めに私は、自分が目覚めた場所…花畑を調査することにした。
ここには、色とりどり———だったであろう花々が、ある一方にのみ地平線の果てまで広がっている。
全ては灰色だ。ただ、濃淡だけがある。
生きているのか…死んでいるのか。よく分からない。
花の一輪に手を触れれば、確かな瑞々しさがある。風もそよぎ、目を閉じてさえいれば…または色彩を認識しなければ、決して居心地の悪い空間ではない。
ただ…奇妙なことに、ここの花は摘み取った瞬間に崩れてしまう。サラサラとした風化ではない。ドロドロとした、気味が悪い汚泥のようになって、地面に吸い込まれていく。土も同様だ、掬い上げても泥になって落ちてしまう。
そして、その泥は花や土には粘性を示さない割に…手や服、道具には驚くほどにしつこく粘りつく。
とても、採取なんてできたものじゃない。この泥を持ち帰りたいというなら、話は別だけど…こんなおどろおどろしいものはあまり扱いたくはない。
しゃがみこんでいた身体を起こし、空を見上げる。
空は灰色に澄み渡っている。
雲一つない晴天だ。
「何も、ないな…」
双子たちが行っている《不思議な絵》の調査は、後に入る錬金術士たちのための安全確認のためのものだ。だから、一通りの環境を調査し終わったら脱出していい。
こんな風に、脱出するための手がかりを探すことなんて、『アンフェル大瀑布』ではしなかったな。
どうしよう。
「ォ…ォ…」
「な、なに?」
突然湖の方から聞こえた”声”に振り向くと、そこには何とも言えない形をした魔物がいた。
プニを模したような形状の、スライム状の魔物。その身体はまるで…さっきの泥のような物体と同じもので構成されているように見える。
実は『アンフェル大瀑布』でも、遠巻きに何体かを目にしていた。現実のどこでも見たことがない魔物の存在は、矛盾を実現する《不思議な絵》ならば不思議ではない。少々、言葉がややこしくはなるが。
ただ、他に動くもののないこの世界で、この不気味な魔物だけが現れるのは…何か、意味があるのだろうか。
とにかく、考え事をしている場合ではない。今は私ひとりしか居ないんだ。戦いの準備をしないと…。
「あ…そうだ。今はもう、何も…」
ファルギオルとの戦いで、爆弾は全て使い切っていたんだった。
まさか、こんなことになるとは思わなかったから…まるで補充なんてしていない。
だめだ。今の私には、攻撃手段と呼べるものが無い———。
…いや。一つだけある。
本当に出来るのかは分からない。けれど、ここが『絵の中の世界』だっていうなら…賭けてみるしか。
———“メタモルミックス”…
「…あれ?」
…なにか、おかしい。
あの魔物。どういうつもりなのか、襲ってくる気配がない。
金属のような石のような、謎の質感の仮面に、十字型の目を二つ緑色に光らせて、その黒い魔物はただこちらを見つめて佇んでいた。
こちらが数歩後ずさると、同じ分だけ距離を詰めてくる。が、それ以上は近づいてこない。ずっと、10歩分くらいの距離を保っている。
その身体の波打つようなゆらめきが止まったわけじゃないけれど、全体として…敵意、と呼べるようなものが感じられない。
ただ、何かを待っているような。そう…餌付けされるのを従順に待っている犬のような。
とりあえず、警戒は解かないけど…あまり派手に動いて、敵対されても怖い。今は無視しておこうか。
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『黒の色彩』———仮に、この絵をそう呼ぶとしよう。
花畑から見えた限り、『黒の色彩』の世界で目指すべき場所は、大きく4つに分けることができそうだ。
それぞれのエリアを極めて大雑把に地図に描くなら、横に長い菱形のような形で並べることができるだろう。
最初、私が目覚めた時に向いていた方向を北として…北に、湖。西に、花畑。南には草原の丘。そして東には大きな森がある。花畑と森は、それぞれ湖と草原を外から囲っており…外側には、際限なく広がっているようだ。
そして、ここからは私の
あの黒い魔物も、花も木も、全て外側だけのハリボテのような存在らしい。今、この世界で本当に生物と呼べる存在は、私だけということになる。当然、この世界でサバイバルをするようなことはまず不可能だろう。
正直、この世界は空気ですら完全に無害なのかどうか怪しいところだ。
しかし、この世界も元からこうだったわけではない。
詳しくは分からなかったけれど、その原因…いや、象徴と呼べるような何かが、森の深くにあるらしい。とりあえずは、それを目指して進もうと思う。
そういうわけで、現在地は草原の丘だ。湖はそれほど深くないようで、そこを通る選択肢も無いことはなかったんだけど…まあ、わざわざ足をびしょびしょに濡らして踏破することもないだろう。その水が果たして、真っ当な《水》なのかだって怪しいのだから。
「やっぱり、何もないか…」
この世界に対して、精一杯に感覚を研ぎ澄ませた上で得られた情報がさっきのものだ。この
一応、草を調べたりはしてみた。
ここに生えている草の中には、《トーン》*1のような薬草として使える種のものは無い。というか、ハリボテというだけあって、全て草っぽい何かだ。世の中に名も無き雑草というのは無いというが、これらは正真正銘、作者が空想でモブキャラのように描いた”名も無き雑草”と呼ばれるべき草だった。
そして、それらの草たちもまた…ひとたび掘り返してしまうと、土ごと溶けて泥になってしまうのだった。
「この絵は、どうしてこんなになってしまったんだろう…」
直感的な印象としては、やはり始めから何もなかったというよりも、何かを枯渇させた結果、このような不毛の世界になったように思う。
枯渇したそれが、「何」なのかは全く分からないけれど…一つ、気になることとして。
この絵では、《アルケウス・アニマ》が手に入らないということに気がついた。
というのも当然の話で、《アルケウス・アニマ》は絵の中で素材を採取した時に、いつの間にか手に入っているという謎の
しかし、素材が無いから《アルケウス・アニマ》が手に入らないのか。それとも、《アルケウス・アニマ》が無いから素材を採取できないのか。その因果関係には、疑問の余地がある。
それと、もう一つ。
そもそも、私はこの絵になにかの力があると…それを手に入れられると感じて、『黒の色彩』を持ち帰ってきた。けれど、実際には出入りも難しく、危険で、素材もとれず…今のところ、この世界の有様と同じくらい不毛な行為だったとしか言えない。
私に語りかけてきたあの”怨嗟の声”は、たしかにこの絵から発せられていたと思う。それはこの絵の状況を見てもある程度納得できることではあるし、間違っていなかったはずだ。一体、あの声はなんだったのだろうか。
全ての答えが、この先の森にあると信じて…。
「歩くのみ、か」
清々しく、灰色の風が吹き渡っていく。
目を閉じれば、黒々と伸びゆく草の香りが鼻をくすぐる。
「……」
不思議と。この絵は、気持ち悪いのに…綺麗だとも感じる。
腐り落ちた死の黒の向こうに…全てを塗りつぶした黒の下に…作者が願いを込めた、今もまだ、何かが描かれている気がして。
それが、たまらなく悲しくて…虚しいんだ。
「ォ…ォ…」
「…まだ、着いてきてたんだ」
警戒はする、と決めていたけれど…人間、いつまでも気を張ってはいられないもので。気がつけば、意識から外れていた。
人間の私よりずっと小さな体格で、少しずつ泥をこぼしながら、決して傾斜の緩く無いこの丘をよじ登って着いてきている。…残念ながら、やや遅れ気味ではあるけれど。
不気味で、気持ち悪い淀んだ黒色だけど…こうして旅の供みたいに着いてこられると愛着が湧く。
「少し、待ってみようかな…」
2、3分ほど待ってみると、モゾモゾ、ウゴウゴとした動きで…
「……あれ、増えて…」
何気なく後ろを…進行方向となる森の方を見ると、いつの間にか別の黒い魔物がこちらを見ていた。
「…ひっ!?」
よろめくも、後ろからは2匹の魔物が来ていることを思い出して何とか尻もちはつかずに堪えた。
3匹目、となるのだろうか。森の方からやってきたと思われる新手の魔物は、大きかった。
それまでのプニのような見た目ではなく、人のような上半身と、蛇のようににょろりと伸びた下半身がある。顔は
そして、しかし。これまでと同じように敵意がない。
「なんなの、こいつら…」
そういえば。
コイツらの顔には、緑や青の”色”が付いているんだよね。
…よく分からないなあ。この世界。
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黒い魔物を2匹と1人…1体?というよく分からない
相も変わらず白と黒だけで彩られた世界だけれど、森の薄暗い環境はとりわけ黒の成分が多くて目に良くない。目を凝らしても凝らしても、足元にあるものが枝なのか石なのかも判然としないからだ。
けれど…森の奥に、この灰色の世界の理由があるというのだから、行かないわけにはいかない。その原因を取り除くことで、この絵がもし元通りに———正常な《不思議な絵》になるのなら、『アンフェル大瀑布』と同じ方法で外に出られるかもしれないからだ。
暗くてよく見えないけれど、この森もまた自然豊かであったことが窺える。木々は豊かに果実を実らせ、腐葉土をかき分ければ若々しい何かの新芽が顔を出す。朽ちた倒木には苔とキノコが生えており、腐り落ちて空洞になった内部には、よく観察すると何かの小動物が齧ったような跡のある果実の残骸が残されている。
前に、エドが何か言っていた。ええと、そうだ…。
そう、自然の循環。輪廻だ。役目を終えた木々は小動物の住処となり、落ちた葉は新たな芽吹きの肥料となる。思えば、この森は薄暗いとはいえ白黒でも視界が失われない程度には陽が差し込んでいる。木々の間隔も適切であり、この森では非常に多くの命が息づいて———。
———息づいて、いた、のかもしれない。
今となっては、それらの全ては灰色に沈み…いずれは泥となって失われてしまう定めにある。
もし、この先にある何かが、それらのエネルギーを堰き止めているだけで…それを解決してやれば、ここにあったであろう光景が戻ってくるというのなら。どれだけ良いことか。
「いや…今は自分のことよね」
歩く。歩き続ける。
森を歩く、というのは骨の折れる重労働だ。足場は常に不安定で、時間に比して距離はほとんど稼げない。
———広大なキャンバスに、遠大な野望を抱いて描く時…自分がこれまでに描いてきた工程を思い返してはいけない。
———これから、未だ広く残された白い地に、どれだけ緻密に筆を入れられるのか。
———描き上げた時、そこにどれだけ素晴らしい世界が広がっているのか。それだけを夢見て、ひたすら筆を動かすことだ。
「……わかったよ。お母さん」
先の見えない作業に、屈してはならない。甘んじてはならない。…それが、職人の芸術だからだ。
森は、未だ深い。