ある無名のアトリエ 〜名もなき絵画の錬金術士〜 作:メルヴェイユ市民
充実したおやつタイムを過ごし、双子を帰した後、私はアルトさんをそのまま自室へと招いた。
…別に、変な目的じゃあない。
「さて…これがその、『黒の色彩』という絵か」
折角家に招いて、さらに両親ともに居ないのだ。この話をするには絶好の機会だろう。
それに、この中なら…多少《黒の絵の具》を出しすぎて汚してしまっても、問題は無いはずだ。サンプルの回収には適している。
「はい。…そのうち、額縁を変えてやりたいんですけどね」
「今は変えないのか?」
「重くて…」
何とか1人でも持てるサイズではあるけれど、腕を横にいっぱいに広げてようやく抱えられる大きさだ。それも、部分的に崩れかかっている。
中にある『黒の色彩』自体には、《不思議な絵》の特性なのか、それともこの絵の作者が何かの細工をしたのか、特に損傷は見られないのだけれど。
300年間あの場所で放置されていたと考えれば、むしろ原型を留めている額縁の方にも細工がありそうな気もする。
「今の額縁を壊してもいいなら、出来そうなんですけどね」
「…現状を変えてどんな変化があるかも分からない。その判断は間違いではないだろうね」
じゃあ、ここからは本題だ。
「これからこの絵に入るにあたって…何か注意点はあるかい?」
「ええと…それなんですけど、アルトさんにはこの絵、何色に見えてます?」
ここだ。私には、元の色彩を取り戻したように見えている。
これが、私の色覚異常の性質によるものなのか。それとも、この絵は本当に色がついていて、この絵だけは私にも本来の色が見えているのか。
「何色…と聞かれると答えに困るな…彩りがあっていいんじゃないか?『黒の色彩』という名前には合わないけれど」
「ああ…その名前は絵の中を見て私がつけたんです。元々の名前は真っ黒になってて分からなかったので…」
しかし、そうなんだ。ちょっと、意外。
(何が意外なのよ。貴方が塗ってくれたんでしょ?)
(いやだって…結局、使えるようになった力がアレじゃない)
『黒の色彩』の力が《黒の絵の具》だと言われたら、そりゃあ中の世界だってまだ黒いままだと考えるものだろう。
(今のこの絵は、ちょっと不自然なのよ。レンプライアに完全に侵食されきった状態で、なのに悪影響は受けていなくて、色がついている。黒色の上から上塗りされているの)
ふむふむ。
(そして、貴方が使っている力は厳密には『黒の色彩』の力というより、レンプライアの力と呼ぶべきもの。だから、この絵に色がついていようと、レンプライアが《黒の絵の具》である限りその性質は変わらないわ)
(じゃあ、今のこの絵の中は、他の絵と同じような色のある世界が広がってるんだ)
(見かけ上は、ね。採取とかもできるけど、その素材を生むエネルギー源は…)
私の霊魂、というわけか。
何だろう、自給自足っていうのかな。それ。
とりあえず、アルトさんに今の情報を伝えてみる。
「…こんな感じらしいです」
「《黒の絵の具》…レンプライア。何か、どこかで聞いたような気がする言葉だけど…思い出せないな」
《不思議な絵》と《黒の絵の具》は切っても切り離せない関係だ。《不思議な絵》を保全するために、誰かが研究していたことがあるのかもしれない。
「今は宿題にしておくしかないな…それじゃあ、入ろうか。やり方は普通でいいのかい?」
そういえば、私も入るのは2回目だ。色がついてからは入ったことはない。
「たぶん…?《不思議な絵》としての機能は戻っているので、それで大丈夫なはずです」
アルトさんと私、2人の身体がそれぞれ光となって解け、集まり、球を成して吸い込まれる。
前とは違う、明るい光…ただし、私の姿は妙に違っており。
光と闇が入り混じったような、マーブル模様の球体となって、吸い込まれていったのだった。
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———『黒の色彩』、内部。
(『花を敷いた
初めて入った時と同じように、私たちは春の花が咲き乱れる花畑に現れたらしい。
「ほう、綺麗なものじゃないか」
「そうですね。とても…初めて来た時と同じ世界とは思えません」
外の世界で『黒の色彩』を展開した時と同じように、この世界では私の色覚は復活する。
「ん…いや、でも…何かが違います」
「違う?」
「はい…上手く言えないんですけど」
この世界の色は、その色がついた経緯からして、私が認識できた色だけが使われているはずだ。
人間の色覚は、完璧ではない。世界にある真実の色は、時に、私たちの認識の限界の外にある。
私の色彩感覚は、画家としての訓練と母から引き継いだ才覚によって、一般的な人間のものよりも繊細になっていたはずだ。しかし、それでも、物体が持つ色のグラデーションや、境界線や、混ざり具合、光沢の加減など…全ての世界をありのままに捉えることは出来ない。
「この世界の色は、断片的というか…閉じているというか…」
この世界にある色は、そのうち、私が認識できていた部分までに限られているのだろう。
きっと、この世界の景色から…少なくとも、色づかいの部分から私が感銘を受けることは、無い。
この絵が真の”色彩”を取り戻すまでは。
「ようこそ。『黒の色彩』へ。…歓迎するわ、我が
「わあっ!?だ、誰!?」
振り向くと…そこに居たのは一人の少女。
その髪、その瞳は夕焼けに燃える空の色。黄色から赤へ、炎のように移りゆく色あいは、日の暮れ、或いは夜の始まりであり、優しさと激しさを併せ持つ。
ショートのボブのようにくるっと毛先を纏めた髪型が、小さな体格と合わさってキュートだ。
彼女の姿を見て、アルトさんが驚いたように狼狽える。
「き、君は…ネージュ…!?いや、色が違う…別人なのか?」
「ネージュ…?…ううん、違うわ。私は”叶えるもの”。そんな人は知らない」
ネージュ、って…ネージュ・シャントルイユ?でもそれって、300年前の人物だよね。
どうしてアルトさんは、彼女の”姿”からネージュだって思ったんだろう。何か、肖像でも見たのかな。
「いや、違う。…会ったんだ、本人に」
「………いやいやいや。
「どちらかと言うと、
歴史上の人物が住んでいる世界…そんなものまであるんだ。
「もう調査は終わっているから、今度行ってみるといい。リディーの友達だと言えば、門前払いはされないだろう。…たぶん」
なんか、歯切れが悪いけど…気が向いたら行ってみようかな。
けど、今はこの子…”叶えるもの”を名乗る少女について考えよう。
「この姿は、一人だけ覚えていた人間の姿を象って作ったの。髪と瞳の色は、ティティが塗ってくれたのよ」
「…あ、あの時の!」
———なら、夕焼け空の色をお願い。
こんなことを言われた気がする。あの、落書きの中に吸い込まれた後のことだ。
「まあ…くれるって言うから。貴方の好きな色を選んでみたわ」
「あはは…」
そこで、”好きな色”をいの一番に持っていく性格は、果たしてどう読み解くべきなんだろうか…。
「で…姿を現した理由なんだけど。《不思議な絵》の中に入って《黒の絵の具》を出す時は、注意して欲しいことがあるのよ」
「それって、どんな?」
「《黒の絵の具》は、放っておくと絵の世界をどんどん侵食する。絵の世界にも抵抗力があるから、ちょっとくらいなら問題ないけど、沢山出しっぱなしにしたり、元から侵食が進んでいたりすると悪影響があるから、気をつけて」
「悪影響…この絵の元々の状態から推察するに、まさか絵の世界が《黒の絵の具》に乗っ取られてしまうのか」
「そう。だから、できる限り《黒の絵の具》は回収してあげて。それと、侵食が進んでいる絵ではあまり多用しないことね。…外部から《黒の絵の具》を回収したら、その分だけ霊魂も回復できるから」
それは…重要だ。
色がつく前の『黒の色彩』のような絵を量産するわけにはいかない。そこら辺、しっかり気をつけておかないと。
「貴方たち、この絵に《黒の絵の具》を採取しに来たんでしょう?無遠慮に絵の具を撒き散らされて帰られたら、大変だもの」
「あはは…うん。気をつけるね」
「分かってもらえたなら、私は帰るわね。…また会いましょう、友人」
そう言うと、”叶えるもの”は黒い燐光になって散り、姿を消した。
「さてと、じゃあアルトさん。出しますから…今度は離れていてくださいね?」
「あ、ああ…済まなかったよ」
「あ、いえ。汚すと悪いので」
とはいえ、触れていれば操作できると分かった以上、そんな心配もする必要は無いだろう。
「よし…出ろっ!」
「うわっ…結構出したな。それで、どれくらいの消耗なんだ?」
「うーん。分かりませんね。今のところ、目眩とかは無いです」
自分の霊魂なんて存在すら知らなかったし、感知なんてできない。こればっかりは使って慣れていくしかなさそうだ。
ただ、回収すれば回復はできるというから…出しっぱなしにしなければ、いくらか長持ちするんじゃ無いだろうか。
ファルギオル戦の時も、出した《黒の絵の具》が床に残っていなかったのは『黒の色彩』の領域を通して知らず知らずのうちに回収していたのだろう。
「で、これを…」
アルトさんが両手に一つずつ持っているビーカーに、相応の量の絵の具を注いでいく。
千切れた部分は制御を離れてしまうから、注ぎ切る時がちょっと難しい。…よし、こんなものだろう。
「こうして見ると…真っ黒だな。それに、かなり粘り気があるようだ」
「ですね。何に使えるかは分からないですけど…」
「それを調べてみるのさ。ふふ…これは、中々に研究しがいがありそうだ…!」
もしかして、私を研究対象として見てる…?
いつか解剖とか…されないよね…?
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絵の世界を出て、アルトさんを帰して。
気がつくと夕方だ。
そろそろお父さんとお母さんが帰ってくる頃かな。
明日からは、いよいよ『夜明けの大地』到達へ向けて動き出すつもりだ。爆弾を作って…薬を作って…旅程の計画を練って。
ああ、移動手段も考えて見ないとね。ドラゴネアに乗って行けたら良かったんだけど、絵の世界でしか使えない『メタモルミックス』は、長距離移動には応用できそうにない。
もちろん、エドにも声をかけよう。相変わらず、彼も読書と鍛錬、店番の日々を送っているようだ。
あ、でも装備が壊れてるんだっけ?うーん、何とかこっちで作れないかな…。
そろそろ、お父さんが作った折り畳み槍じゃあ太刀打ちできない相手も出てくるだろうし…というか、たしか夜明けの大地ってドラゴンが出るし。
…ついに、かあ。
確信にも似た予感があるんだ。『夜明けの大地』には、必ず精霊の女王が居るって。
「ふいー、ただいま〜」
「あ、おかえり!お父さん、お母さん」
「うむ、ただいま」
帰ってきた。
考え込むのはここまでかな。
「今日はどこ行ってたの?採取?」
「そうそう、エレンの絵の
フィールドワーク…そうか。
今の私が外の世界の色を知ることは、不可能じゃない。
人目が無いところでなら、『黒の色彩』を展開して…スケッチを取ることだってできるよね。
やっぱり、夜明けの大地に行く時はいつもの画材を持って行こう。きっと、描くべき光景があるはずだ。