ある無名のアトリエ 〜名もなき絵画の錬金術士〜 作:メルヴェイユ市民
白色の追憶〜アルトとプラフタ
試験管に入った《蒸留水》の中に、少量の黒い泥が沈んでいる。
一滴、薬剤を垂らす。
薬剤に触れた黒い泥は、蠢くように水の中で転がり…極彩色に光を反射する、油のような液体が僅かに滲み出て、水の表面に膜を張る。
「…混沌としているな」
難溶性、油分を含む、試薬Dに反応あり…と。
今、
ひとまず、あの得体の知れない力が直接的に有害なものなのかどうか。それを、錬金術と魔術、そして薬学の面から検査していた。
結果としては…何とも言えない。
まず、薬学的な分析の結果として、これを飲用することは自殺と同義だと分かった。
非常に粘りが強い上に、化学的に検出できる主な成分は不乾性油だ。そして少量の炭化水素系の化合物と、多種の重金属成分を含む…。
例えるなら、石油と多色の
重金属成分を多量に含むこの泥は、強い毒性を持っている。この真っ黒でドロドロした液体を誤飲したが最後、喉を詰まらせ、粘膜を焼き、数々の呼吸器系の不調、更には多臓器不全、脳機能の致命的な障害を引き起こすことになるだろう。
ソフィーほどの錬金術士であれば治療可能だが、通常の薬品類での治療はまず不可能だ。
ちなみに、不乾性油は空気中で乾かず、永久に粘体のままだ。それ故に、あのような”泥”の形態での運用が可能だと考えられる。
…とまあ、化学的には至って普通。危険ではあるが、未知の物質は含まれていなかった。
問題は、錬金術、魔術による分析の結果だ。
「なんなんだ、これは…《アルケウス・アニマ》に似ているようだが、何もかもを飲み込んでいく」
最近の双子が戦闘で多用する『バトルミックス』という技術。これを支える《アルケウス・アニマ》は、調合中の錬金釜に似た状態を常に維持しているという、謎多き物体だ。
そこに素材となる物体を混ぜ込むことで、新たな物体を調合できる。双子は、”即席調合”と呼んでいたか。
この《黒の絵の具》も、それに似た性質を示す。
…ただし、より正確には
混ぜ込んだ物体は内部で分解、変容し、その概念的特徴のみを抽出される。
そして、新たな物体へと再構成されようとして…急速に勢いを失い、全ては泥の中へと消えて行く。
そうして、泥は質量を増すのだ。
絵の世界を侵食するというのは、恐らくは…その世界を構成するエネルギーが《アルケウス・アニマ》と似た性質のものなのだろう。
似た性質のものは、混ざり易い。だから絵の世界の構成成分と《黒の絵の具》は混ざり合う。
そして黒は全ての色が混ざり合った色だ。これと混ざり合ったものもまた黒い絵の具となって…分解され、泥の中へ消える。
そういう仮説が立てられる。
しかし、仮説は仮説。間違っている可能性も十分にある。
…分からない。果たして、本当にあの力は害のあるものなのか。
僕がかつて振るった力は、その地の力を枯渇させる副作用があった。
だが、この泥はただ在るだけの物体だ。絵の世界では取り扱いに注意を要するが、現実にある分には然程問題はない。
生み出すためにティティの霊魂を消費するのは問題だが…酷使し過ぎれば無理が祟るのは、身体の筋肉だって同じことだ。
「しかし、何故…この泥は、こんなにも恐ろしく見えるんだ?」
ただの心理的な反応、とは思えない。
見ているだけで、心の奥がざわつくような、不快感と忌避感がある。…その理由はまだ分からないな。
…行き詰まった、か。
「そういえば、あの絵を持って帰ってきたのは
フィリスのアトリエ、行ってみるか。
僕の正体がバレないといいが———。
———あなたが幸せにしたいと願うみんなの中に、私たちは必要ありません。
…ハッ。
今更、何を取り繕うつもりでいるんだ。オレは。
アイツを傷つけたのは、他ならないオレだっていうのに。
「繰り返させる訳には…いかないよな」
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メルク庭園の片隅に、小さな円筒のテントが張られて久しい。
その内部の空間は錬金術の絶技によって何倍にも拡張されており、外からは全く想像がつかないほど広くなっている。
———フィリスのアトリエ。
腕の立つ錬金術士のアトリエは、たとえテントであっても客が絶えない。
「おや…?珍しい来客ですね。ようこそ、アトリエへ」
このアトリエの主であるフィリス・ミストルート自身、かなりの腕利きだ。公認錬金術士の資格を持っており、彼女に任せれば大抵の問題は速やかに解決する。
それに加えて、今、このアトリエにはソフィー・ノイエンミュラーが居る。
フィリスの師である彼女の腕前は、この僕をすら唸らせる。
そんな彼女にも、まだ果たせない目標があり、それはこの僕、アルトにも関わりが無いとは言えない事なのだが…。
それはまた、別の話だ。
「すみません、プラフタさん。急に押しかけてしまって」
「いえいえ、構いませんよ?いつもソフィーがお世話になっております」
白い髪の浮世離れした美貌の少女が、来訪者の僕に接客に出てきた。
「フィリスに御用ですか?それとも、ソフィーに?済みませんが、2人とも作業中なのですが…」
「ああ、いえ。今日は貴方と話がしたくて来たのです。プラフタさん」
「私…ですか。良いですよ、ではこちらへ…お茶に砂糖は入れますか?」
「お心遣い、ありがとうございます。…ああ、ストレートで大丈夫です」
プラフタ。彼女もまた、このアトリエに滞在する者の一人だ。
ソフィーと常に旅を共にし…そして、今となってはこの僕が知る数少ない人間の一人。
諸事情あって、彼女の方は僕を知らない。
しかし、僕にとっては懐かしく…そして同時に、胸を抉られるような気持ちになる相手。
できることなら、あまり顔を合わせたくは無い相手だけれど…今回は、例外だ。
「はい、どうぞ。レモンティーです」
「ありがとうございます。…良い香りですね」
「ふふ…そう言って頂けるとソフィーが喜びます」
「ああ、ソフィーが淹れたのですか?」
ソフィーのお菓子や紅茶は、美味い。
しばらくぶりだが、腕は衰えていない…どころか、ますます上達しているようだ。
「ところで、私に話というのは…」
「はい。…プラフタさん。ティトラ・メルローという少女を知っていますか?」
「ティトラ…ああ、あの娘ですか」
ふむ。どうやら知っているか。
2人の間には接点は無いと思っていたが…やはり、プラフタも。
「詳しくは存じ上げませんが、あの娘がどうかしたのですか?」
「はい、確かあの時、絵を持ってきたのはプラフタさんでしたよね」
「ああ、その事ですか。ええ、そうですよ」
お茶をひと口啜る。
「あの絵は、ひどく傷んでいたようですので。2人がかりで運ぼうとしている所に、私が助力を申し出たのです」
「そうなのですね」
「…あの絵が、何か?」
さて、どうしたものか。
大した接点もないティティのことをすぐに思い出せるほどはっきり覚えている以上、きっとプラフタもティティのことを気にかけてはいるのだろう。
あの時の黒い絵からは、誰が見ても分かるような怪しい雰囲気が漂っていたからな。
仮に、呪いの道具だから処分します、と言われたら…まあ、信じていたかもしれない。
だが、恐らくは気にかけているだけだ。
現状、プラフタはティティの得た力を知らない。問題が起こるまでは静観するつもりなのかもしれない。
かと言って…ティティとの約束がある以上、その力についてプラフタに説明する訳にもいかないな。
よし。こういう時は…少しふざけてみよう。
「ええ、実は僕、呪いとか、幽霊とか、オカルトなものを集めていて」
「…はい?」
「例えば、怨念が乗り移った書物なんかがあったら、まさにそれです」
「だ、誰が怨念ですか!*1」
お、おっと…からかいが過ぎたか。
「プラフタさん…?いや、ただの例え話ですが…」
「あ、し、失礼しました…その、お、怨念だなんて決めつけるのは、その霊が可哀想ですから」
「ああ、そうですね…彼らにも、思うところがあって留まっているのでしょうし」
よし。
この方向でなら、きっかけを有耶無耶にして”非現実”な話題に持ち込めそうだ。
「ですが、何故?失礼ですが、あまり一般的な趣味では無いようです」
「はは、間違いありませんね。いや、僕もただ趣味だけで集めているのではありませんよ。解呪のためです」
「解呪、ですか」
「はい。そういう物品は、下手に素人が触ると呪われたり、とり殺されたり…或いは、よく分からない力を与えられて、暴れ回ったり。とにかく危険が付き物です」
ですから、できる限り回収して、そのような事件を未然に防ぎたいのです———と、善意での活動であることを示す。
何故僕がそんな事をしなければならないのか、と言われれば、趣味と実益を兼ねた活動だ、と返せばいい。
さあ、どう来るか。
「なるほど…それで私に、あの少女の情報が無いか聴取に来たのですか」
「ええ。…ですが、良くご存知ないとのことで」
「はい。それに、仮に知っていたとしても…本人の了解なしに所在を教える訳には行きませんよ?」
「はは、おっしゃる通りですね。…ただ、気になる所があるのです」
ここだ。
“よく分からない力を与えられて、暴れ回る”…この例にあの絵をそれとなく当てはめて、話題を持っていく。
「そう言う事件について、僕はいくつかの例に立ち会ったことがあるのです」
「そうなのですか?」
「ええ。…これは、興味本位の質問なのですが…プラフタさんであれば、そのような物品に魅入られた友人などが居れば、どうなさいますか?」
止める———そのはずだ。
かつて、僕を止めようとしたように、きっと———。
「そう、ですね…」
「……」
幾ばくかの沈黙。
口元に手を当てて考え込み、そして一つの結論を見出したか、彼女は白い髪を揺らしながら顔を上げた。
「…奇遇なことに、かつて私も、そのような事例に立ち会ったことがあるのです」
「っ…へえ。それは、興味深いです」
「その時、私は彼を止めようとしました。必死に、様々な手段を講じて説得しようとし…時に、それを取り上げようとすらした」
…そうだ。
そして、僕は…彼女の手を振り解いたんだ。
「ですが、上手く行きませんでした」
「…もしかして、あまり聞くべきでない話題でしたか?」
「いいえ…貴方のような方に、ぜひ聞いて欲しいことです」
…。
「結果的に私は、ひとつの方策を以って彼を打倒し…その力を奪いました。詳しくは伏せますが…私も彼も、結局、無事では済まなかった。癒やし切れない痛みを、互いに負ったのです」
互いに、か。
僕のことなんて、どうだっていいだろうに。
「幸い、今は私も持ち直しています。恐らくは、彼も…。ですが、今、思い返すと。私はそこに、一つの教訓を見出すことができると思うのです」
「…それは?」
「静観する、ということです」
「見守る…ということですか?」
「ええ。そうです」
———バカな。
止めない、だと。そんな…そんなわけは…。
「これは、後から気づいた事なのですが…その時、彼自身もまた、その力を振るう事に疲れていたようなのですよ」
「え…?」
「目的のない力、ただ純粋な力…人間の心は、そういう変化のないものに”飽きる”ように出来ているのです」
「ですから、彼を止めることだけを考えるなら…私は、彼を止めるべきでは無かった」
矛盾しているじゃないか…。
…しかし…飽きる、か。
「誤解のないように言っておきますが。そのおかげで得られた出会いもありますから、後悔はしていませんよ?」
「それは…良かったです」
「ええ。ですが、あの時の私についてだけ反省するのであれば、そうなのです」
それからプラフタは、まるで気負う様子も無く、けろりとした顔で過去を分析し始めた。
「代わりに、その後始末を付けてやって…致命的な一線だけは越えないように、側でそれとなく誘導する。そうして、自然に気付くのを待つ。…目的があるのなら、それは必要なことですし、無いのならいずれは自然に止まります。むしろ、私が躍起になって止めようとした分だけ、彼も意地になってしまったのでしょう」
は、はは…。
全く敵わないな…この人には。
「ですから…もし、ティトラさんがそういう状態なのだとしたら、下手に止めずにそばで見守るのが良いと、私は思いますよ」
「…貴重なご意見、感謝します」
「いえいえ、私のような素人の意見で良ければ、いくらでも話してあげましょう」
「それは…魅力的な提案ですが、そろそろ私も次の予定がありますので」
プラフタの説教は、長い上にくどいからな。
…けど、その分物事の核心を突いているのも変わらないみたいだ。
「あら、それは残念…では、アルトさん。またいらして下さいね」
「ええ。いずれまた。今日はありがとうございました」
静観する、か。
そうだな…どうやら僕は、また焦っていたらしい。
見極めてみるとしようか。彼女が、どう変わっていくのか。