料理が並べられた食卓を四人で囲み終え、街中も静けさに包まれ始めた時間帯。私は入浴をするためにタオルやら寝間着やらを手にし、一階へと降りていこうとした時、
「あ、あの!」
「……何だ?」
背後からウェンディが声を掛けてきた。その手には入浴するための用具が抱えられている。
「よ、よろしければでいいんですが……」
「用件があるなら早く言え」
「い、一緒に入りませんか?」
「何に?」
「その、お風呂に──」
「あの男に頼め」
即答で誘いを断り一人で階段を降りようとしたが、ウェンディに衣服の裾を左手で掴まれたことで、再びその場に足を止めた。
「キ、キリサメ様とは、やっぱり、少し恥ずかしいので……」
「一人で入れないことを恥じろ」
あしらうようにそう伝えると、衣服を掴んでいる手を払いのけるのだが、
「ま、待ってください! お願いします……!」
頑なに諦めようとせず、今度は両手で衣服を掴んできた。
「働く場所は見つかったのか?」
「は、はい! 明日から花屋で働くことになりました!」
「そうか」
「それで、その……」
「……今日だけだ」
ウェンディの勤務先は私が以前働いていた花屋。約束通り今日中に稼ぎ場所を探してきたらしい。私は溜息をつきながら階段を降りていく。
「あ、ありがとうございます……!」
歳相応の無邪気な笑顔を見せ、私の後を意気揚々と付いてきた。私たちは脱衣所で衣服を脱ぎ捨て風呂場へと足を踏み入れると、桶のお湯で身体を軽く流す。
「いい湯ですね」
「どこの湯も大して変わらん」
「でも温かくて、どこか落ち着きませんか……?」
「考えたこともないな」
湯船に浸かっている最中、私が天井を見つめているとウェンディはこちらの顔色を窺ってくる。
「……」
(……そういうことか)
ウェンディの表情から読み取れる迷い。抱えているモノを吐き出そうか、それともこのまま抱えていようか。そんな迷いだ。
(……わざわざ私から聞いてやるほどお人好しじゃない)
特に会話も続かないまま湯船から上がると二人で髪を乾かし、時刻は床に就く時間帯へと変わっていく。キリサメは既に就寝しているようで、向かいの部屋から僅かに寝息が聞こえてきた。
「ア、アレクシア様!」
「……今度は何だ?」
ウェンディと二階の廊下で別れようとしたが、意を決したように声を上げる。私は自身の部屋の扉に手をかけながら、背後に立つウェンディへ用件を尋ねた。
「い、一緒に寝てくれませんか……?」
「私はこれ以上お前の子守をするつもりはない」
共に入浴するという頼みを聞いてやったというのに、今度は共に床に就いてほしいと頼み込んでくる。良心に縋りつかれている感覚に嫌気が差し、私は部屋の扉を開いてウェンディをその場に置いていこうとした。
「お、お願いしますっ……!」
「……」
が、寝間着の裾を両手で握られる。この娘の手は震えているのか、寝間着の布が私の肌に何度も擦れていた。どこかで見た光景だと、ふと過去の記憶が蘇る。
『おや、どうしたんだい? 明日も早いはずだろう』
脳内に過ぎる"アイツ"の顔。私は冷めた眼差しをウェンディへ送りながら一呼吸置くと、部屋の扉を開いた。
「……勝手にしろ」
私がベッドの上で横になればウェンディは部屋に足を踏み入れてから、扉をゆっくりと閉めてベッドへ潜り込んでくる。
「……」
「……」
街中は静寂に包み込まれ、部屋は時計の針だけがチクタクと鳴り響いた。そんな時間が一秒、一分、十分と限りなく続き、私が眠りに就こうと瞼を閉じれば、
「……私、怖いんです」
「……?」
すぐ背後でウェンディがぼそっとそう呟いた。
「また、この居場所も奪われるじゃないかって……」
「……」
「シーラ様も、アレクシア様も、キリサメ様も……デボラさんやエリゼさんのように、私の傍からいつか消えてしまうんじゃないかって……」
「……」
独り言か、それとも私に語りかけているのか。私は閉ざしていた瞼を開き、話に耳を傾ける。
「耳にこびりついて、今でも忘れられないんです。化け物たちの声や館を這いずり回る音、館を訪れた方々の悲鳴、植物の根が血を吸い上げる音。そして……ラミアの、ミアの歌声が」
「……」
「ずっと、ずっと私を追いかけてきているんじゃないか。この部屋の廊下に、あの化け物が歩き回ってるんじゃないか。そう考えると、音が、またあの音が聞こえてきて──」
グスッグスッと鼻を啜る音。私は体勢を変えるとウェンディの耳を背後から両手で塞いだ。
「……何が聞こえる?」
「えっ……?」
「よく耳を澄ませ。ラミアも寄生型の食屍鬼もすべて葬った。今のお前の耳には私の声と……心臓の鼓動だけが聞こえるはずだ」
ウェンディは私の言葉通り、耳を澄ませるようにして目を閉じる。
「残酷な話だが、その記憶は一生忘れられない。お前が死ぬまで脳内で
「忘れ、られない……」
「私にも忘れられない記憶は無数にある。その記憶がお前のように脳裏を過ぎることもある」
「アレクシア様にも……?」
「そういう時に、私はこうして心臓の鼓動を聞いていた。過去に囚われず、今を実感するためにな」
私が囁くようにして呟けば、ウェンディの一定の間隔で震えていた両肩が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「お前が過去に恐怖しようと未来に不安を抱こうと……心臓は今のお前を生かそうと鼓動を止まない。今だけを生きている」
「……」
「例え自ら命を絶とうとする寸前もだ。心臓は鼓動を止めない。寿命が来るまで生き続けようと必死になって……"その打音"を鳴らし続ける。さぞ健気な話だろう」
「……はい」
私はウェンディの耳から手を離し、体勢を仰向けへと変える。
「だからお前も今を実感し、今を生き続けることだけ考えろ」
「今を、ですか?」
「苦しみに塗れ、絶望に染まった過去は忘れられない。だが未来を歩むためには今を生きるしかないだろう。お前はまだ若い、今を生き続ければいつかはその恐怖に慣れる日が来る」
「……」
「それにだ。私はお前が想像しているよりも図太い。死ぬときは吸血鬼共を死滅させた後だ。ただ……あの冴えない男はその辺で野垂れ死ぬ可能性はあるがな」
完全に泣き止んだようでウェンディは私の言葉にクスッと笑うと、こちらへと振り返った。
「ありがとうございますアレクシア様。少しだけ、気が楽になりました」
「……そうか」
ドレイク家の館で散々な目に遭ったこの娘の瞳は、やはりまだ汚れていない。今を生きることができれば、希望や未来を見据えられるようになる。
「……アレクシア様は、意外に優しいお方なんですね」
「その"様"付けはやめろ。気に食わんが……お前とは家族になったはずだ」
呆れながらも背を向ける体勢となれば、ウェンディは自身の身体をくっ付けてくる。非常に暑苦しい……と、部屋の壁をじっと見つめ、過去の記憶が蘇った。
『……どうも寝られない』
『お前にしては珍しいね。どうして寝られない?』
『……』
『睡眠は人間の三大欲求の一つだよ。寝られなくても強引に欲求を満たすしかない。それじゃあ、おやすみ』
その日は吸血鬼の領土へ乗り込むことになった前夜。私はどうにも眠ることができず"アイツ"の部屋を訪れていた。
『……今日は一緒に寝ようか』
私は部屋に戻ろうとするアイツの裾を無意識に掴む。黙り込んだままの私に、アイツも何かを察したのか部屋へと招き入れてくれた。共にベッドへ入り、私はアイツに背を向ける体勢で目を閉じる。
『不安なんだろう?』
『……』
『気持ちは分からなくもないよ。だって明後日には死んでいるかもしれないから』
『……』
アイツは私の気持ちを汲み取ると、安心させるように後ろから抱き寄せてきた。
『お前は私にとって可愛い一番弟子だ。吸血鬼にはくれてやらない』
『……』
『もし吸血鬼たちを相手に"詰み"になったら……私がお前をすぐに殺してあげるから安心して。この時代の公爵は優秀な"ノア"や"十戒"たちに任せよう』
『……』
『大丈夫、死んでも次の時代でまた会えるから』
私は何も言えない。ただ抱き寄せられ、アイツの心臓の鼓動を聞いていた。今の私ならば「私が先にお前を殺すことになるかもしれん」と言葉を返せたが、あの時の私はまだ伯爵相手に余裕でいられないほどに……"未熟"だった。
(……らしくないことをした)
瞼を閉ざし、ウェンディに対する行いを恥じる。"アイツ"の記憶と状況が似ていたせいで変に情を出してしまう。
(甘さを捨てるべきだな)
近頃は他者に対して甘すぎる。自身を見つめ直し本来の思考に戻すべきだ。私は心にそう決めると眠りにつくことにした。