※このお話はクレア・レイヴィンズの物語です。
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アレクシアが食屍鬼と遭遇した時刻。一人の少女が小麦パンの詰められた絹袋を抱え、たった独りで薄暗い廊下を走っていた。
「早くイアンのところに行かないと……!」
少女の名はクレア・レイヴィンズ。目的地はイアンが監禁されている地下牢。走る理由はお腹を空かせているであろう幼馴染にパンを上げるため。
(夜の礼拝堂ってこんなに怖かったっけ……?)
おそるおそる礼拝堂の両扉を開けば、夜空に浮かぶ三日月がステンドグラスから姿を覗かせ、祭壇を月光で照らしていた。周囲の不気味な空気にクレアは息を呑む。
「この階段かな?」
ゆっくりと歩を進め、地下へ降りるための階段を見つけたクレア。更に深い闇に包まれた階段を、少女は明かりも無しで降りていく。
(扉、イアンはどっちに……)
最下層で漂う冷気に身を
「イ、イアン……?」
しかし扉の向こうから反応はない。クレアは深呼吸をして、今度は右の扉をノックしてみる。
「イ、イアン、そこにいるの?」
「……ん、クレアか?」
「イアンの声!」
地下牢の奥からイアンの声が微かに響き、クレアは冷たい鉄の扉に片耳を押し当てた。
「大丈夫? 怪我とかしてない?」
「大丈夫だって! 俺はこう見えても丈夫なんだ!」
「そっか。それなら良かった……」
イアンの普段通りの無邪気な声を聞き、クレアは胸を撫で下ろし
「何も食べてないでしょ? パンを持ってきたから食べて」
「お、おい! この事がバレたら神父に怒られ――」
「私のことはいいから!」
地下牢の扉に付けられた小窓から、クレアはパンを「えいっ」と放り投げる。イアンは飛んできたパンを拾い上げ、じっと見つめると、
「……なぁ、このパンはお前の分だろ?」
小窓を見上げながら扉の向こうにいるクレアへそう尋ねた。
「私はあんまり食べなくても大丈夫! イアンが食べて!」
「本当かよ?」
「本当だもん! いいから黙って食べ――」
そう言いかけた途端、クレアのお腹が「ぐぅ」という情けない音を鳴らす。地下牢に響き渡ったことで、クレアは顔を真っ赤にしながらその場で沈黙していると、
「……ほらよ」
「わっ!?」
イアンが半分に千切られたパンを小窓から投げた。急に飛んできたパンに動揺しながらも、クレアは慌ててキャッチする。
「半分、いいの?」
「ほんとならぜーんぶクレアに食べてほしいけどさ。ぜーんぶパンを投げたら、どうせこっちにぜーんぶ投げ返すだろ」
「で、でも……私のせいでイアンがひどい目にあって……」
「クレアが無事ならいいんだ! そんなこと気にすんなよ!」
二人は地下牢の冷たい扉に背を付けて座ると、半分に分けた小麦のパンを各々で
「……ねぇイアン」
「んー?」
「あの時、どうして助けてくれたの?」
「どうしてって……」
イアンはクレアの問いかけに戸惑いながらも「うーん」と唸る。そして一分ほどの静寂の後、思い返すようにこう答えた。
「……放っておけなかったから。クレアの助けを求める声を聞いたら、居ても立ってもいられなくてさ。多分、俺の親父がすげー"騎士"だったから身体が勝手に動いたんだよ!」
「イアンのお父さんが騎士……?」
「そうそう、たくさんの人を守ってたんだぞ! 吸血鬼なんてもうバッタンバッタン倒してさ!」
興奮しつつも自身の父親を自慢するイアン。クレアはそんな元気な声を聞いて、少しだけ笑みをこぼしたが、
「……けどな、親父は俺を守るために死んだ。最期まで騎士として誰かを守ろうとしてた。ほんとにすげーよ、親父は」
声を
「……私のおかーさんもね、とっても優しい
「へぇーそうだったのか! 村一番の力持ちってすげーな!」
「でしょ? それにね、おかーさんはきれいな"赤髪"だったんだよ。私の髪はこんな色だけど……」
クレアは齧り付いていた小麦パンを握る手に力を込め、目を瞑りながら話をこう続ける。
「でも私のおかーさんは、生きてるのか分からないの」
「ん、分からない……?」
「私が逃げられれるようにって、おかーさんは吸血鬼と一緒に村から出て行っちゃった……」
吸血鬼に埋め尽くされる故郷の村。赤髪をなびかせ、独りで何体もの吸血鬼を引き連れていく母親の後ろ姿。クレアの脳内にそんな光景が映し出され、思わず両手で頭を抱えた。
「大丈夫だって! クレアのお袋はぜったいに生きてる!」
「……」
「クレアはこんな怖い場所に独りで来れるぐらい強いんだ! お袋はもっともっと強いんだろ!」
クレアが怯えているのに気が付いたイアンは、明るい声で扉の向こうから励ます。
「ううん、私はイアンよりもすっごく弱い」
「何でだよ?」
「あの時、私はイアンに助けてもらったのに……私はイアンを助けに戻れなかった。私が、弱いから」
けれどクレアはすぐに否定をする。イアンを助けられなかったあの夜から、クレアは延々と後悔していたのだ。
「アレクシアはなんて言ってたんだ?」
「『助けに行くなら一人で行け』って言われちゃった……」
「ははっ、あいつらしいな」
「だから私一人でも行ってやるって、そう思ったのに……。怖くて部屋を出れなかった」
葛藤の末、恐怖で身体が動かせなかった挙句、自分の不甲斐なさと罪悪感に押し潰される。クレアは想いを吐露しながら二粒の涙を頬に伝わせていた。
「ごめんねイアン。助けに、助けに行けなくてっ……」
「……クレア」
クレアは小麦のパンを上手く飲み込めず、何度か咳き込み、涎に塗れたパンの欠片を吐き出す。
「……大丈夫だ! クレアは悪くない!」
「えっ?」
それを見兼ねたイアンは明るく振る舞い、クレアへ慰めの言葉を掛けると、
「俺はクレアが助けられて嬉しいし、誇らしいんだ!」
「どういうこと?」
「親父が言ってたんだ。『女の子は男のお前が守ってやるんだぞ』って。その約束を守れた気がしてさ。あの時、少しだけ嬉しかった」
懐かしむように父親の話をする。クレアは涙を衣服で拭きとりながら、その話を静かに聞いていた。
「今はこうやってパンを持ってきてくれた! 俺はすげー助かってるぞ!」
「……イアン」
「だからさ、泣くなよ。俺はクレアが泣いてる姿なんて見たくないんだ」
慰められたクレアは小麦パンを一気に頬張り、両手で目を擦るとその場に立ち上がる。
「私、これから毎日パンを持ってくるからね」
「お、おい! 毎日は危なくないか?」
「いいの! 絶対、絶対に持ってくるから!」
「クレア、ちょっと待てって――」
そして鼻を
「イアンは、優しすぎるよ」
礼拝堂まで戻ってくるとボソッと呟き、寝室へと帰ることにした。恐怖ではなく、顔を赤くさせ胸をドキドキさせるような、そんな複雑な気持ちを抱きながら。
(神父様には気を付けなきゃ)
クレアは神父が徘徊していないのを確認すると、礼拝堂の扉を閉めて真っ暗な廊下を歩き出そうとした。
「キャハッ」
「あれ、今の声は……?」
が、どこからか子供の笑い声がどこからか聞こえてくる。クレアは辺りを見渡して、声が聞こえた方角へ向かう。
「あの部屋からかな?」
孤児が深夜帯に出歩いているはずがない。クレアは奇妙に思いながらも、声が聞こえてきた部屋の前まで辿り着く。
「キャハハッ!」
(あの子、どうしてこの部屋にいるの?)
扉の隙間から部屋の中を覗き込めば、そこには孤児が一人でガサゴソと何かを漁っていた。クレアはしばらく様子を窺うことにする。
(注意した方がいいのかな? けど私も人のことは言えないし……)
迷っているクレアの耳に届いたのは、何かが引き千切れる音。少女の視線の先では、孤児が大きく右腕を振り上げ、何かを扉まで投げ飛ばした。
「キャハハハハッ!!」
「――えっ」
扉の前まで転がってきた――人の足。部屋中に飛び散る血液。クレアは思わず呼吸を止め、扉から顔を離した。
(ひ、ひとだよね? 人の、人の足だよね?)
もう一度覗き込んだと同時に、孤児の顔が扉の方へ振り返る。青白い肌に、剥き出しの牙。その口元は血に塗れている。クレアは恐ろしい孤児の顔を直視してしまい、
「ひッ――」
「キャハハッ?」
小さな悲鳴を上げた。クレアの声に気が付いた孤児は、扉までゆっくりと歩み寄ってくる。
(に、にげないと……!)
我に返ったクレアはすぐさま廊下を駆け出した。襲われる、殴られる、蹴られる、と様々な恐怖が身体に浸透したが、最も浸透したのは"喰われる"という恐怖心。
(誰か、誰かに伝えなきゃ……!)
幸運なことに後を追いかけては来ない。クレアは後方確認をしながら、明かりの点いた部屋へ飛び込む。
「……! 何だ、クレアだったか」
その部屋には絹袋を握りしめた神父が立っていた。クレアが咄嗟に飛び込んだ先は──不幸にも神父の部屋。
「神父様! 向こうで、向こうで人が死んで……」
「人が死んでいるだって?」
「は、はい! 向こうで子供が、子供が人の足を……」
「ほぉそうかそうか」
必死に訴えかけるクレア。神父は話を聞いて焦るどころか、むしろ喜ばしい出来事かのように笑みを浮かべる。
「嘘じゃないです! 本当に向こうで――」
「知っている。嘘じゃないことぐらい」
「ならどうして――えっ?」
神父のおかしな返答。クレアは拍子抜けな声を上げた。
「お前たちはな、ここで全員死ぬことになっているんだ」
「死ぬって、どういう……」
「哀れな少女だ。仕方がない。私がこの手で殺してやろう」
神父が机の下から取り出したものは薪割り用の斧。右手に握りしめ、クレアまでじりじりと歩み寄る。
「し、神父様……?」
「クレア・レイヴィンズ。お前はこの孤児院で最も可愛らしく清楚な女だ」
「や、やめてください!」
「私はずっと、ずっと考えていたよ。クレア・レイヴィンズ」
後退りするクレアに向かって、神父は悪魔のような笑みを浮かべながら斧を振り上げ、
「お前を強姦し、その細い四肢を引き裂き――泣き叫ぶお前の声を聞きたいと」
真っ直ぐクレアへ振り下ろした。
「きゃあぁあ……っ!?」
クレアは横に飛ぶと斧を寸前で回避する。神父はニヤニヤと笑いながら、逃げられないように扉の鍵を閉める。
「来ないでぇッ!!」
机の上に置かれていた本や花瓶を神父へ投擲するクレア。しかし少女の必死な投擲は軽々と避けられる。
「まずはその綺麗な両手から斬り落とそうか」
(どうすれば、どうすればっ……!?)
部屋を見渡し、何かないかと模索する。しかしクレアは冷静さを失っているため、思考回路が上手く機能せず、部屋の中を逃げ回ることしかできない。
「捕まえた」
「きゃぁあぁあッ! やめて、やめて神父様ぁッ!!」
「クレア、お前はどうせ死ぬのだよ。最後ぐらいは世話をしてきた私を――楽しませるつもりで死んでくれ」
クレアは胸倉を掴まれると机の上へ乗せられ、左腕を強く押さえつけられる。ジタバタと抵抗をするが、神父の手は離してくれない。
「暴れるな。右腕を綺麗に落とせないだろう」
「いやぁあぁあぁッ! 助けてイアンッ! 助けてアレクシアぁあぁッ!」
「ふっははっ、誰も助けにはこない。あのバカなガキも生意気なガキも、吸血鬼のエサになってるだろう!」
「いやッ、いやあぁあッ! 助けて、助けて──おかーさんッ!!」
最後に母親へ助けを求めた瞬間、過去の記憶がクレアの脳裏へフラッシュバックする。その記憶は昼下がりの時刻、村の協会にて母親と交わした会話。
『クレア、人間にとって大切なものは"
『せいぞーほんのー?』
『例えば、クレアがこわいこわーい吸血鬼に食べられそうになったらどうする?』
『えっ、ど、どうするって……怖いから何もできないよ』
想像するだけで怯えてしまうクレアの頭を母親は優しく撫でると、微笑みながら優しくこう教えを説いた。
『大事なのは……"死にたくない"って強く思うこと。生きることに執着する生存本能さ。人間が一番強くなれるときは──"生に執着するとき"だよ』
『そう、なの……?』
『そうそう、覚えておきなよクレア。もし大ピンチになったらこう念じるんだ。"死んでたまるか、負けてたまるか"ってね』
甦る母親の教え。クレアは神父の顔を睨むと全身に力を込め、
「――死んで、たまるか」
押さえられていた左腕で机を真っ二つに割った。木材の破片が飛び散り、クレアの周囲に衝撃が走る。
「なッ、なにが起きてッ……!?」
目を丸くさせた神父は思わずクレアから手を離し、持っていた斧を床に落としてしまう。この隙を見逃さず宙に飛び上がったクレアは、
「――堕ちろ」
紅く輝かせた瞳に生存本能を宿しながら、身体を回転させた回し蹴りを、
「ぐおぉおぉッ!?!」
神父の後頭部に叩き込んだ。あまりの衝撃に神父はそのまま気絶をし、前のめりに倒れ込んでしまう。
「……あれ?」
クレアは床に着地したと同時に、瞳の色が元に戻った。何が起きたのか分からず、呆然と辺りを見渡す。
「どうして、神父様が倒れて……?」
気を失っている神父。クレアは状況が理解できないまま首を傾げていたが、
「あっ、起きる前に早く逃げないと……!」
目を覚ますまで待つわけにもいかず、急いで扉の鍵を解除しドアノブに手を掛けたが、
「そうだ。地下牢の鍵……」
独り残されたイアンの顔が浮かんだクレアは、神父の衣服から地下牢の鍵を手に入れ、部屋の扉をゆっくりと開く。
「……ふぅ、待っててイアン。今度は私が助けに行くから」
部屋の中で目一杯の深呼吸に、自分自身への鼓舞。クレアはそれらを終えると、礼拝堂に向かって一気に駆け出した。
『SideStory : Claire Raiviens』 END