東の方角へ突き進むジョニーの船。何十分、何時間と経過しているというのに、
(……まだ着かないのか)
気を張り続けていた船員たちの疲労が垣間見える。ナタリアは警戒どころか甲板の上を犬のように駆け回り、クリスは欠伸をしながら木製の樽に座っていた。未だに警戒をしているのは帆柱の頂上で東の方角を眺めるティアのみだ。
「ジョニーさん、疑うわけじゃないんですけど……東の方角はこっちで合ってるんですよね?」
「あぁ、このコンパスはしっかり東の方角を示してんだ。間違いねぇよ」
自前のコンパスをキリサメに見せつけるジョニー。私は横目でそのコンパスを眺めてみると、確かに船が進む方角を東と指し示している。
「んー……こんなに時間が掛かるはずないんだけどな」
「本来ならどの程度の時間が必要になる?」
「東の方角をずーっと進んでいればさ、迷現の狭間までは二時間ぐらいで着くはずなんだ。けどもう二時間以上経ってるし、流石に着かないのはおかしいよな……?」
首を傾げるキリサメ。目的地に辿り着かないのも奇妙だが、カリブディスがこの船を襲ってこないのも奇妙だ。キリサメは「カリブディスに習性はない」と述べていた……にしても姿を見せない時間が長すぎる。
「坊主、船長室で話を聞いたときから気になってたんだがよ。何で坊主はこの霧やあのバケモンにそこまで詳しいんだ?」
「あー……それは、何て言えばいいんですかね。色々と今の状況に似ている本を読んだっていうか……」
「ほぉー、俺は『本なんて役に立たねぇ』と今まで読んでこなかったからな。坊主みたいに"ここ"はよくねぇんだ。今回の件を反省するために、これからはちっとでも本を読むとするか」
ジョニーはキリサメの返答に納得をしていた。だがその会話を盗み聞きしているナタリアとクリスは、キリサメが取り繕っていることを見抜いている。
(……しばらくは様子見だな)
それからまた一時間ほど船を進ませるのだが、やはり大きな洞窟などは見えてこない。何かが間違っていると確信したキリサメは、東の方角をじっと見つめながら思考を張り巡らせていた。
「くっそ、何が間違ってるんだ? 迷現の狭間は東の方角にあるはず……まさか俺の覚え間違いで、実は進むのは西だったとかか……?」
「坊主」
「あれ……西じゃなくて、北だった? いや、でも、南だった可能性も……」
「坊主ッ!」
自問自答を繰り返すキリサメにジョニーが声を上げる。キリサメは身体を一度だけビクッとさせ、ジョニーの方へと顔を向けた。
「いいか? この世界で図太く生きるためには、自分が一度決めた道を捻じ曲げたらいけねぇ。たとえ間違っていてもよ、とにかくがむしゃらに最後まで突き進むんだ。そうすりゃ、いつかは答えに辿り着けるだろ?」
「ジョニーさん……」
「まぁこの霧じゃあ、その答えまで辿り着けなさそうだけどよ! ガッハハ!」
「あの、それ笑いごとじゃないと思うんですけど──」
一度だけ喝を飛ばし、陽気な笑い声で空気を和ませようとするジョニー。キリサメが苦笑交じりに言葉を返そうとした時、
「じかんだ……じかんだ……」
(またあの男か……)
「東をめざせ……東をめざせ……」
あの不気味な男がよろよろとした歩き方で、船内から甲板までまた顔を出した。最初と同じように帆を制御するロープを握り、思い切り引っ張ろうとする。東の方角を目指し始めてから、あの男は数回も同じ行動を繰り返している。
「お前はあの男が本物のブラインド・ワークスマンだと思うか?」
「嬢ちゃんには分からねぇと思うがよ。この海では本物だろうが偽物だろうが、名が
「つまりあの男はブラインド・ワークスマンを気取った偽物だと?」
「あぁ、ブラインド・ワークスマンとして生きようとした悲しい男だと思うぜ」
船員に押さえ込まれる不気味な男。それでもロープを握ろうと手を伸ばしていた。私はその姿を目にし「そういうことか」と独り言を呟けば、
「そうか……!」
考え込んでいたキリサメが何かを閃き、押さえ込まれる不気味な男の側まで駆け寄ると、両手に持っているコンパスと懐中時計を取り上げた。
「ジョニーさん、コンパスを見せください」
「いいけどよ。どうしたんだ坊主?」
キリサメはジョニーのコンパスと不気味な男のコンパスを見比べる。私が覗き込んでみれば、二つのコンパスは指し示す方角が異なっていた。キリサメは「やっぱり」と一人納得をする。
「ジョニーさんのコンパスは壊れています」
「壊れてるって、俺のやつがか?」
「はい、正しい東の方角を示しているのはあの人が持っていたコンパスです」
あの男が持っていたコンパスが示す東の方角は真逆。懐中時計は"十七時前"を示していることで、キリサメはとある仮説をこう提唱した。
「これは俺の予想なんですけど……この海域は方角が一時間ごとに変化しているんだと思います」
「方角が変わってんのか?」
「はい、コンパスと時計を見ていてください」
キリサメが持っていた懐中時計の短針が十七時を指せば、コンパスが示していた東の方角が先ほどまで北だった方角へ切り替わる。ジョニーは思わず目を丸くしながら、キリサメの顔を見る。
「ずっと気になってたんです。あの人が『じかんだ』って呟いていた意味が」
「そういや、確かにんなことをぼそぼそと呟いてたな」
「あの人は"一時間ごとに東の方角が変わることを知っていた"から、いつも同じタイミングで帆の向きを変えようとしていたんだと思います」
(……私たちは何時間も同じ場所を回っていたということか)
目印もない霧の中で東の方角へ進み続けるのに頼れるものは方位磁石のみ。それを逆手に取られ、何かしらの力で方角を変えられていたとなれば、何時間、何十時間進んだところで辿り着けない。
「んじゃあよ、このコンパスを頼りに東へ向かえばいいんだな?」
「多分……いや、絶対にこの方法で辿り着きます!」
「分かった! 野郎共ぉ、帆の向きを変えろぉ!」
ジョニーは不気味な男のコンパスを受け取ると正確な東の方角へ海路を変える。ティアは帆柱の頂上から二人の会話を眺めていたが、
(あの女、知っていたな)
ティアが向ける視線には「やっと気が付いたか」という意味合いが含まれているように捉えられた。
「知恵が働いたな」
「……」
「どうした?」
「少し、気になってさ」
「何がだ?」
私が声を掛けてみれば、キリサメは不安げな顔でこちらを見つめてくる。
「知っている物語と違うんだ。本当だったらさ、東の方角に向かうだけでいいのに時間が経つと方角が変わるとか、普通のコンパスが機能しないとか、全然知らない話で……。それにあの男の人だって物語には出てこなかった」
「……筋書きが変わっていると?」
「あぁ、まぁ、ちょっとだけなんだけどさ」
私は懐中時計を握りしめたキリサメと共に霧の先を見つめる。そして一時間が経過すればコンパスの方角が変化し、ジョニーは再び東の方角へ海路を合わせた。
「おい坊主! ありゃあ洞窟じゃねぇか!?」
見えてきたのは百メートルは優に超えるであろう洞窟。キリサメは甲板から身を乗り出して、洞窟の上から下まで何度も確認をする。
「はい、これが迷現の狭間です……! 入る前に船を停めてください!」
「よぉし野郎共ぉ! 帆を下げろぉ! 碇を下ろせぇ!」
洞窟の入り口前で船を停泊させると私やキリサメ、クリスやナタリアが自然とジョニーの周囲へ集合し、ティアも帆柱からすぐに降りてきた。
「坊主、洞窟の入り口が二つあるがよ。どっちへ進めばいいんだ?」
洞窟の入り口は左右に一つずつ。キリサメは入り口を交互に見ながら、私たちへ迷現の狭間について説明を始めた。
「左側の入り口はカリブディスの住処に、右の入り口はスキュラの住処に続いているんです。どっちへ進むかは……船内で話したと思うんすけど、どっちも倒さないといけないので──」
「二手に別れろ、ということですね?」
「……はい」
ティアは私たちを一瞥すると「いいでしょう」とキリサメに返答し、
「私一人でカリブディスを相手します」
「おい、何言ってやがる……!?」
たった一人でカリブディスの相手をすると言い出した。
「ジョン、この船には小舟の一つぐらいありますよね?」
「そ、そりゃああるけどよ……」
「貴方たちはこのままスキュラの元へ向かってください。私は小舟に乗ってカリブディスの元まで向かいます」
「キツネのねーちゃんの腕が立つのは知ってるけどな! あんなバケモンをちんまりとしたボートに乗って相手にするなんざ"不可能"だぜ!」
ティアは反対するジョニーへぐいぐいと詰め寄りながら、狐の面越しに顔を上げて視線を交わす。
「不可能を可能にするのが十戒です。それにジョン、貴方はまだ私の力をすべて見たことはないはずですよ」
「……」
ジョニーが項垂れながらも船員へ視線で小舟を用意するよう促す。そしてティアは次にキリサメの目の前まで詰め寄った。
「ではキリサメ・カイト、貴方にこの任務での指揮権を渡します」
「お、俺に渡すんですか……!?」
「ええ、指揮役に適任なのは貴方です。クリス・オリヴァー、ナタリア・レインズは引き続きこの二人の護衛を」
「ま、待ってください! 俺じゃなくてアレクシアの方が適任だと──うぐっ!?」
私はそう言いかけたキリサメの背中を加減無しでバシンッと叩く。
「
「アレクシア・バートリの言う通りです。貴方はこの中で最も成績が低く、経験が浅い生徒ですから」
「じ、自信も持たせてくれないんすね……」
「ドンマイだ、カイト」
私とティアに現実を突き付けられ、苦笑いを浮かべて両肩を落とすキリサメ。そんなキリサメをクリスが慰めていると「ですが」とティアがこう付け加えた。
「貴方は私たちが知らないことを知っている。その未知なる知識と原因を突き止められる考察力。その二つを司令塔として発揮できるはずです」
「未知なる知識と考察力……」
キリサメが深く考え込むとティアは用意された小舟まで向かう。カリブディスを相手にするのに恐怖を全く抱いていない。
「キリサメ・カイト」
「……?」
「この世界で生き残れるのは──己の利点を理解しそれを活かせる者だけですよ」
通り過ぎる際にキリサメの耳元でそう囁くと、ティアは海上に浮かんでいる小舟へと飛び降りる。
「それでは──幸運を」
迷現の狭間へと続く左側の入り口。ティアは小舟の上に立ちながら一人で進んでいくと、白い霧で後ろ姿すら見えなくなってしまった。
「ジョニーさん、俺たちも進みましょう」
「……あぁ! キツネのねーちゃんならきっと大丈夫だよな!」
碇を上げ、船は右側の入り口へ突き進む。洞窟の内部は百メートルを超える外観に見合わないほどの広さを持つ空洞。辺りには船が波を切る音だけが響く。
「スキュラってバケモンはどこにいやがるんだ……?」
ジョニーが辺りを警戒しているのを他所に、クリスとナタリアが私とキリサメの側まで近づいてくる。
「……お前さんたちに話がある」
「ん、話って?」
「実はですねぇ、カイト・ハルサメとアレクシア・バートリさんは私たちに隠していることがあるんじゃないか……ってクリスさんと話していたんですよぉ」
キリサメが助けを求めるようにこちらへ視線を送ってきたが、私は海上へ見つめながら無視をした。
「い、いや別に……隠していることなんて……」
「カイトがこの霧や怪物について詳しいのには何か事情があるんだろ?」
「それに、アレクシア・バートリさんもおかしかったですよねぇ?」
「私の何がおかし──」
ナタリアは私の右腕を力強く掴み、首を傾げる。
「──どうやって"あの植物"をこの腕から出せたんですかぁ?」
「……見ていたのか」
甲板の上でのシーアネモネとの戦闘。ナタリアは戦いに夢中で私のことなど気に掛けていないと思い込んでいたが、あの修羅場の中でこちらを観察していたらしい。
「お前さんたちの護衛を放棄するつもりはない。相手が怪物だろうが身を呈して守るつもりだ。けどな、何も知らずに死ぬのは御免だぞ」
「隠し事をされると気になって仕方がないんですよねぇ。なので教えてくださいよぉお前たち」
キリサメはクリスとナタリアに詰められ、隠し通せないと溜息をつく。
「あのさ、俺たち実は──」
瞬間、私が見つめていた海上からナニカが飛び出してきた。私はナニカと合うはずのない視線が合ってしまい、一瞬だけ思考が止まってしまう。
「──ミツ、ゲタ」
二つの眼球に長い茶髪、高い鼻に揃った
「──ッ」
「お前さん……!」
女の頭部は私に思い切り噛みつくと海中へと引きずり込む。よくよく観察してみれば、この女の頭部から本体へ繋がっている触手のようなものが伸びていた。
(この女……)
私がルクスαを右の眼球へと突き刺せば海中で振り回され、女の頭部は海上へとそのまま飛び出す。
「──インフェルノ」
「キィアァアァアァアァッ!?!」
そして血涙の力を発動し、悲鳴を上げる女の頭部を獄炎で焼き尽くそうと試みれば、
「っ……!」
途中で雑に放り投げられ、私は何とか船の上へ着地をする。
「アレクシア、大丈夫か?!」
「あぁ」
周囲の白い霧が徐々に晴れていくと空洞の隅々まで見渡せた。私たちはその光景を目の当たりにして表情を険しくさせる。
「これは、だりぃって言葉じゃ済まされないぞ……」
空洞の岩壁や海中には、あの大型のシーアネモネが無数に張り付きながら、触手をうねうねと動かしていた。クリスは二丁拳銃を構え、周囲を見渡す。
「"世間知らずの人魚姫は人の王子に恋をした"」
「この声は……」
「"姉妹の声を聞きもせず、魔女に騙され人魚姫は恋と共に泡となった"」
語り部のように響き渡る女性の声。
「あぁなんて哀しき──フェアリーテイル」
「……下らん童話だ」
姿を見せたのはタコのような下半身に、真っ白な肌を持つ人型の上半身を持つ怪物。下半身のタコの胴体には人間の女性の顔が何百人と埋め込まれている。
「ワタクシは四ノ眷属スキュラ」
「は? こいつが、スキュラ……?」
「……どうした?」
目を丸くしながら口を開けているキリサメ。私は何がおかしいのかと呼び掛けるが、
「アナタたちもワタクシの一部となって──」
海上から次々と上がってくる女性の頭部。無数の触手の先はすべて女性の顔。瞳孔を開き、こちらを睨みつけ、
「──美しく在り続けましょう」
大口を開きながら襲い掛かってきた。