「──ッ! はぁはぁっ……!」
反射的に飛び起きる身体と意識。
汗で寝巻のジャージが濡れて心臓の鼓動がバクバクと全身に伝わる。異世界転生をしたはずの肉体は自室のベッド。俺は息を呑みながら辺りを見渡していると、
「兄貴、もう昼だから起きて──あっ、起きてたんだ」
「ふ、文香? なぁ、俺ってトラックに引かれたんじゃ……?」
「はっ? 何それ?」
白のフリルスリーブと青デニムの長ズボンを組み合わせた私服姿の文香が顔だけ覗かせてくる。俺の問いに対して軽蔑を含んだ視線を返すと勉強机に置かれたラノベへゆっくり視線を移した。
「異世界モノの読みすぎ。現実と夢をごっちゃにするのやめてくれない?」
「いやいや! 別に影響受けて聞いたわけじゃなくてさ!」
「厨二病とかマッッジでイタイから。死んだら異世界転生してなんちゃらら~……なんてあるわけないでしょ」
厨二病判定。
文香はドン引きしながら俺に対して軽蔑の眼差しを送り続ける。この反応からするに俺がトラックに引かれたことは無かったことにされているらしい。
「じゃっ、私は習い事行ってくるから」
「ああ分かった。行ってらっしゃい……」
扉を勢いよく閉める音と遠のいていく足音。
俺はすぐさま立ち上がると備え付けのクローゼットに貼られた全身鏡の前に立つ。トラックに
「今日は『二千二十二年』の『七月十六日土曜日』……。トラックに撥ねられた次の日だよな?」
自室に戻ってきたと思えば今度は異世界転生をしてまた自室に戻ってきた。正直何が起きているのかは分からないが、
「……アレクシアたちを、忘れたらダメだ」
アレクシアや本当の世界を忘れれば二度と戻れない。自身の肉体がそう警鐘を鳴らしているような気がした。ならば俺はこの世界の真相を探らなければならない、と何から手を打とうか考える素振りを見せた瞬間、
「とおぉいッ!!」
「うおわぁあッ!?!」
クローゼットから白髪の少女がぎこちない飛び込み前転で姿を現す。俺は不審者が紛れ込んだのだと叫び声を上げて一歩だけ後退した。
「まったくだぜい。ここは一体どこなんじゃらほい」
「……! シエスタか!」
が、立っていたのはシエスタ。俺は同じ世界を歩んだ唯一無二の味方と出会い、強張らせた頬を緩めてその場にしゃがみ込む。
「おう元気かやんちゃこぞーめ。ぼーっと妄想しとる場合じゃねぇー! わちきらがどういう状態かアンダースタンドしてるんかぁ?!」
「それが……俺にはさっぱり分からないんだ。列車で食屍鬼の自爆に巻き込まれてから俺はこの部屋で目を覚ましてさ。シエスタ、お前が知ってることは何かないのか?」
「うるせー! なっっんも知らねー!」
「ははっ、いつも通りで安心したよ……」
シエスタは両耳を抑えつつ上半身だけ左右に大きく揺らす。普段通りのワケわからないテンションに少しだけ心が落ち着き、力が抜けるように床へ座り込んだ。
「じゃがなぁ、俺様と貴様が会えるのは終幕の大図書館だけっちゅーわけやん? リアルでオフ会はノォーノォーなのよねぇ。つーまーりーだぞ? ここはリアルじゃないの確定確定確定ぃいぃ!」
「──! そうだよな、俺たちは終幕の大図書館でしか会えない! じゃあさ、ここはやっぱり夢の中なのか?」
奇術で生まれたシエスタと現実世界では会えない。
つまりここは現実ではなく夢のような場所という証明になるはず。俺は更なる情報を求めて、腕を上下に振りながら踊ってるシエスタにそう問いかける。
「夢はありえんだわよぉ。五感がウルトラスーパーハッキリデラックスしとるやん」
「えっ? 夢じゃないならここはどこなんだ?」
「ふっふっ、真相を告げようではないかエジソン君!」
「ワトソンな」
「ここは『自発的に生まれた世界』なのではない! おそ恐らく『外部の干渉によって見せられている世界』なのさ! 真実はいつも一つか二つ!」
自発的にみている夢ではなく何者かに見せられている世界。いつの間にか付けていた蝶ネクタイを口元に押し付けそう語るシエスタ。試しに俺は何度も自分の頬をつねってみる。
じんわりと伝わってくるのは痛み。痛覚がある事実と夢ではないという証拠。味覚や嗅覚も機能しているため謎は更に深まってくる。
「でも五感はしっかりとしてるしさ。夢じゃない別のナニカで俺はこの世界を見せられているのか?」
「じゃろうけんな」
「……シエスタ、この世界から抜け出す方法は分かるか?」
「ノォウッ! ノォウッノォウッ!」
両腕でバツ印を作り首を全力で振りながら否定するシエスタ。俺はため息をついてベッドの上に腰を下ろせば、
「どうしてここから出たいの?」
「──!」
勉強机の上に気配もなく少年が座っていた。
中世で見かける裕福ではない庶民服。目元を隠すほど長いパッツンの黒い前髪。その奥にある瞳は閉ざしているが、しっかりと俺の方を見据えている。
「またてめーかおいッ! うちの三百七人目の子分にアタックする愚かしい阿呆はよぉッ!」
「……っ! お前がこの世界を……!」
「ねぇホントにキミは誰なの? ボクの邪魔できるヤツなんて初めて見たんだけど?」
「ドントアンサーにゃん!」
少年に向かってビシッと指を差すシエスタ。
俺はシエスタの言葉から干渉している人物が少年だということを汲み取り、ベッドから勢いよく立ち上がって後退りをした。
「俺にこの世界を見せているのはお前なんだな……!?」
「まぁまぁ、そんなに怒らないでよ。ボクはキミに嫌なものを見せてないんだから」
「見たいとも言ってないだろ!? そもそもお前は誰なんだよ!?」
少年は欠伸をしつつ勉強机で脚を組みなおす。俺に問い詰められても余裕な態度。その態度から人間の血を継いだ少年ではなく、少年の姿を模ったナニカだと察する。
「ボクが何者かなんてどーでもいいよ。今大切なのはキミが見たい世界でしょ?」
「……は?」
「元の世界に帰りたいと望んだからごく普通の日常を歩ませた。ラノベのような異世界転生をしたいから甘い異世界に飛ばした。でもキミは現実を思い出そうとする……それはどうしてなのかな?」
潜在意識を読み取って描かれた理想の世界。
不思議そうに問いかけてくる少年の顔は好奇心に満ちた純粋無垢なもの。俺はしばらく口を閉ざしてから少年を睨みつける。
「まだ、何も終わってないからだ。アレクシアのこともあの世界のことも、まだ何も片付いてないだろ」
「終わらせる必要はないよ。キミにそんな天命はないんだから見たいものだけ見てればいい」
「ああ天命はないかもな。けどアレクシアたちと交わした約束がある」
「……まっ、好きにしたらいいさ。キミはここから抜け出せない。そしていつかこの世界を現実だと思い込んでいくから──」
少年を見上げシャドーボクシングをするシエスタ。少年を睨んで険しい顔をする俺。そんな俺たちを愉快だと言わんばかりに微笑むと少年の姿は徐々に薄れ、
「──どーでもいい約束を一つずつ忘れながらね」
言葉と共にその姿を跡形もなく消してしまう。
窓の外へ視線を移せば二匹の
「……シエスタ、この世界から目を覚ます方法を探したい。手伝ってくれるよな?」
「よかろう。だがしかーし、時間があまりあるまいぞ!」
「ん? 時間がないって?」
「ワタクシの領域まであのチビ助が侵入してきとるんやよ~! 今は耐えとるけどさぁ、いつかあちきも消されちまうぜぇ!」
両腕を平行に広げ片足立ちしながら俺の顔を見上げるシエスタ。時間がないことを告げられ、俺は両頬を何度も叩いてから勉強机からノートを取り出す。
「アレクシアたちやあの世界のことを忘れないようにメモして……。これから一日ずつ日記として記録しておこう」
「いいじゃないの~」
「……そうだシエスタ! 今の俺じゃ奇術は使えないのか?」
「むぅーりぃーぽっぽー! ここは肉体の内側の精神のなんちゃらちゃらじゃからなぁ。補正値ごそごそ弄るのも補正値をごっそり変換するのも不可能!」
つまり奇術に頼ることはできない状況。
自分自身でアレクシアたちのところに戻る方法を見つけ出すしかない。俺はアレクシアたちの世界に関する情報をノートに書き記し、
「必ず、戻るんだ」
元の世界へ帰還するための情報収集が始まった。
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『2022年 7月16日土曜日』
今日は外を出歩いて何か手掛かりはないかを捜索したけど収穫は無かった。取り敢えずまだ一日目だ。今の状況を整理してみる。
・外部からの干渉を受けていることでこの世界を見させられている。
・少年らしき人物が元凶。多分人間じゃない。
・五感は現実と変わらずハッキリとしている。
・奇術に頼ることは不可能。
・シエスタ曰く時間に限りがあるからもたもたしてられない。
明日は存在が消えた『例の異世界モノのラノベ』と『雪兎の父親』について探ってみようと思う。抹消したということはあいつにとって都合が悪かったからに違いない。とにかく手掛かりとなる糸の先を見つけないと……。
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『2022年 7月17日日曜日』
今日はネットや本屋を捜索して『例の異世界モノのラノベ』と『雪兎の父親』について調査してみた。シエスタが町中を走り回って迷子になったり、俺の服に自作の『特売シール』を貼ってイタズラしたりと大変だったが……その結果、収穫らしきものがあったからまとめておこう。
・雪兎の家族自体の存在が無かったことにされている。つまり例の異世界モノの存在も抹消していた。やっぱり知られたくない何かが記録されていたんだ。
・元凶であるあいつは一切姿を見せない。多分あいつは俺たちに直接手を下すことはできない。次に姿を現したら俺たちから仕掛けてみよう。
明日は学校がある。校内を調査したりクラスメイトから情報を集めたりして、とにかく先へ進まないと。
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『2022年 7月18日月曜日』
学校を軽く調べてみたが特に変わった様子はない。誰かの存在が消えていたり、教室が一つ少なかったりとか……そういうのは全くといって無かった。
あとシエスタが学校まで付いてきたけど、どうやら俺とあいつ以外にシエスタの姿は見えないらしい。だから昨日周囲から変な目で見られていたのかよ……。
くそっ、今日は手掛かりが掴めなかった。時間がないのに学校なんて行ってられない。明日は学校をサボって『例の異世界モノのラノベ』に似たモノをネットでとにかく検索して、手掛かりを見つけてみるしか……。
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『2022年 7月19日火曜日』
一日費やしてネットの海から似ている異世界モノを探そうとした。けど似ている小説があまりにも多すぎる。どれも同じ構成でどれも同じ展開。ここから見極めるなんて無謀に近い。
最近シエスタも大人しくなってきた。前までは叫んだりぐるぐるその場で回転していたのに今は仰向けで天井を仰ぐことだけ。そろそろシエスタも限界が近いのか……。
それでもまだ希望は捨てていない。学校をサボって親父に怒られたとき『例の異世界モノ』に似たラノベを知らないかと聞いた。本来あのラノベの編集は親父が担当しているはずだったから。
親父は学校をサボったこんな俺の話を真剣に聞いて『学校にちゃんと行くのなら調べてみるよ』と答えてくれた。俺はもちろん条件を呑んで承諾した。なぜならそれが最後の頼み綱に思えたから。とにかく明日にかかっている。今日はもう寝よう。
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『2022年 7月20日水曜日』
ダメだ。親父に一筋の希望をかけていたけど例の異世界モノに関する情報は何も得られなかった。それにシエスタの身体も半透明に消えかけている。早くどうにかしないと俺の仲間が消えてしまう。
でもこんなのどうすればいいんだよ。俺はどうすればこの世界から出られるんだよ。頼みの綱が考えても思い当たらなくなってきた。
ああそうだ。学校の課題、やらないとな。
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『2022年 7月21日木曜日』
シエスタが消えてしまった。
俺が何にもできなかったからシエスタは消えたんだ。俺はシエスタを救うことができなかったんだ。頭がおかしくなりそうなほどイライラする。俺は、望んでいない。この世界を望んでいない。早く、早くこんな都合の良い世界から抜け出さないと。シエスタの為にも諦めるわけには……。
そういえば体育祭が近いんだっけ。クラス用の出し物で一人一案出さないといけないから何か考えとくか。んー、定番なのはやっぱりクラス全員で仮装してダンスとかか……。まぁ他のやつがいい案出してくれるし妥当なの考えればいいか。
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『2022年 7月22日金曜日』
今気が付いた。なんだよこれ。
書いた覚えのない文が記されている。体育祭のことなんて俺は昨日書いていない。もしかしてあの子が消えたから次は俺の記憶を書き換えているのか。 だめだ、忘れるなよ俺。こんな世界を俺は望んでいないんだ。あの子の為にも……あの子? あの子って誰だ? あの子の名前ってなんだっけ? 何で、思い出せないんだよ?
はぁ、まさか体育祭の案が通るとは思わなかった。絶対同じこと考えてた奴が他にもいたはずなのに、なんでよりにもよって俺の名前で通るんだ……。それにダンスとかしたいわけじゃないしさ。明日からの体育祭準備は気が重すぎる……。
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『2022年 7月23日土曜日』
忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな。
吸血鬼
テレシア、ヒュブリス、血涙、転生者……アレクシア? アレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアアレクシアッ──
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『2022年 7月25日月曜日』
俺は病室にいた。
先週の土曜日、俺は机に何度も頭を打ち付け血まみれになって気を失ったらしい。そんな俺を見つけた文香が救急車を呼んでくれただとか。何でそんなことをしていたのかまったく思い出せない。何か思い詰めていたのか……?
手掛かりがあるはずとこの日記を見返したら顔が青ざめた。俺は何を書いてるんだよ……。例の異世界モノだとかこの世界から抜け出すとかワケが分からない。俺は本当に厨二病をこじらせて狂っていたのか。この日記を見た親父の提案でカウンセリングを受けることになった。
でもどこか清々しい気分だ。何か頭の中がさっぱりしたような……。気がかりなことは最後の『アレクシア』という人物の名前っぽいの。脳内で創作したキャラを溺愛でもしていたのか俺は。まぁ今は治療に励もう。体育祭も近いんだし。
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『2022年 8月4日金曜日』
そういえば日記があったことを今思い出した。
ていうか何で日記なんて書き始めたんだっけ。特に書く必要性も感じないしこの日記はどこかにしまっておこう。えーっと、日記はこれで終わり!
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「んー、この辺にしまっておくか」
無事に退院した俺は早朝の自室の棚に日記をしまう。とんでもない黒歴史が記された日記だから燃やしてしまいたい気持ちはあった。けど遠い未来で話のネタにはなるだろうと保管しておくことにする。
「カウンセリングで『異常があるとは思えない』って言われたけど……。じゃあこの日記は何なんだ? 何でこんなこと書いてたのか記憶もないし」
もしかして二重人格だったりするのか……なんて考えた後、軽く鼻で笑ってみせた。この日記は厨二病を拗らせて書きなぐった小説の設定集。そういうことにしておこう。
「あ、そういえば体育祭用に買い出し頼まれてたんだった。てか数学の課題もあるじゃねぇか! はぁ、やることが山積みだ……」
今の使命は日記を忘れて平凡な学校生活を歩むこと。俺は取り敢えず勉強机に置かれたスマホを手に取ってベッドの上に腰を下ろした。
「ん? 委員長から連絡来てるな……?」
『お疲れ様です霧雨君。体育祭に必要な材料が書かれたメモ用紙を持っていますか?』
「メモ用紙……。んーっと、これだよな多分」
買い出しを頼まれるときに委員長から渡されたメモ用紙。俺は床に置いていたリュックを漁りメモ用紙を探し出す。そしてスマホの画面を見て返信をこう返した。
『あるけどどうしたの?』
『写真として保存しておくのを忘れてしまいました。そちらで撮影して送ってもらえないでしょうか?』
『了解!』
俺は返信をした後にメモ用紙を撮影してアルバムアプリを開く。上から下へ指でスライドして目に留まるのは先ほど撮影した写真……のはずが、
「ん? この写真って……」
少し遡った位置にある一枚に視線が吸い寄せられた。
画面に映し出されるのは母親らしき女性の幸せな笑顔。水色髪の少女の静かな微笑み。不愛想で猫目の青髪の少女。そしてなぜか焦っている俺自身の姿。撮影した覚えのない写真に俺は眉をひそめた。
「誰、なんだろ? こんな写真、いつ撮ったんだ?」
どうして俺が映っていて、どうしてこの写真があるのか。考えれば考えるほど伝わるのは頭痛と吐き気。思わず額を抑えて俺はふと顔を上げる。
「……」
「お前は──」
立っていたのは画面に映る青髪の不愛想な少女。左目を紅色に染めて俺を冷めた眼差しで見下ろす。何が何だか分からず、茫然と口を開いていると、
「……ッ!!?」
思い切り左頬を引っ叩かれた。激しい痛みが全身を駆け巡り状況が掴めずにいると、その少女は俺の瞳を真っ直ぐに見つめ、
「目を覚ませ」
「……!」
「お前のその目は──何の為にある?」
それだけ吐き捨てると忽然と姿を消す。何が起きたのか理解が及ばない。けれど俺の脳裏で走馬灯のように忘却の彼方へ消えていた記憶が蘇る。
『優しさは長所かもしれんが、優しすぎるのは欠点だ。新たな人物と出会う度に想いなどを背負っていくとなれば……いつか我が身を潰すことになるぞ』
『お前は……私を惑わす
『目的が果たされるまでは……お前が私の
俺はその少女に守られ、救われ、叱られ、罵倒されていた。今のが本物だったのか偽物だったのかは分からない。
「ははっ、まじかよ。こんな時にもあいつに助けられるなんて……俺ってほんとどうしようもないな」
でもとにかく自分がアホらしくて、みっともなくて、自然と涙が溢れそうになる。俺はスマホをベッドへ放り投げ、ベッドから立ち上がってゆらゆらと扉の部屋に手をかけた。
「そもそも違っただろ。俺の学校生活はこんなんじゃなかった。犬丸とは仲良くなんてないし、委員長には嫌われてただろ」
犬丸はクラスメイトという関係性。委員長の西条からは嫌われていた。本当の学校生活の記憶がぽつぽつと脳内で再生される。
『おっす、俺は霧雨海斗! こう見えて実はインテリ系だったりする……なんてな! アニメやゲームに興味がある人は俺のところに来てくれ! めっちゃ歓迎するぜ!』
『なぁ授業サボってカラオケ行こうぜ! ……大丈夫だって! ちょっとぐらいサボっても単位あれば卒業できるだろ!』
『最近流行りのドラマとか全然面白くねぇよなー! やっぱアニメとか漫画とかに出てくる女の子の方が推せるだろ!』
中学時代に冴えない性格だったから高校デビューに挑戦した。オタク文化は恥ずかしくないと堂々と振る舞って、陽キャみたいなちょい悪な性格を出して、最近の流行りを否定するこだわりの強いアピールをして、高校デビューに挑戦した。
『なぁなぁお前ら! 帰りに買い食いしてこうぜ!』
『すまん! ちょっと用事があるから』
『僕はお母さんがご飯用意しちゃってるしごめん』
『そ、そうか! また今度な!』
けど結果として失敗。
変な奴だと避けられてしまい陽の方にも陰の方にも所属できなかった。その時の俺は焦ってしまい、一生後悔することになる事件を起こす。
『今思ったんだけどさ。委員長って──髪が白いから雪女みたいだよな?』
『は? お、おいやめとけって海斗』
面白い話題を出せば盛り上がると思った俺は、委員長を『雪女だ』と敢えて大声で主張したのだ。そう、雪女とあだ名を付けたのは俺自身だ。西条も避けられ孤立をしていたから、自分が成り上がる為に丁度いい対象だと思った。
『いやいや! どこからどう見ても雪女だろ? あんなに髪が白くて、あんなに冷たい態度取ってくるんだからさ! 雪女以外の何者でも──』
『どうしてッ……!!』
焦りは正常な思考回路を奪う。席から立ち上がった西条は声を荒げて俺を睨んでくる。その瞳からは涙の粒がいくつも両頬に伝わっていた。
『私の髪が、そんなにおかしいですかっ? 私のことが、そんなに嫌いなんですかっ?』
『は、はははっ、怒りすぎだろ委員長。ちょっとした冗談だって! なぁお前ら?』
『『……』』
『な、なんか言えって! ほら、よく委員長の顔を見ろよ! 雪女にしか見えないだろ?』
自分は悪くないと言い聞かせて反論し、友人に同調を求めるが視線をそらされる。そんな俺に黙って近寄ってくるのはクラスメイトの犬丸で、
『がはッ──!?!』
『犬丸君……?』
『……ごめんね委員長。こいつは一発だけ殴らせてほしい』
馬鹿な俺を殴り飛ばしたのも犬丸。机に背を打ち付けて情けない格好で尻餅をつく。犬丸は軽蔑の眼差しを俺に送りつつこう吐き捨てた。
『ッ……! お前、何をして──』
『きもいよお前』
『……は?』
『距離の詰め方も話題の振り方も何もかもがきもい。誰もハッキリと言ってやらないから俺が代わりに言う。お前は俺らにとって
クラスメイトが俺に向けてくる視線。そこに込められる感情は軽蔑と怒りだけ。誰一人として憐れみを持たない顔。
『お、俺はただ……クラスを盛り上げようと……』
『は? 女の子を泣かせておいて何言ってんの? むしろ空気が悪くなってるのが分からない?』
『まずは委員長に謝れって。……ほら早く謝れよッ!』
『ご、ごめん……』
『顔を上げて謝れないの? ほんっとどうしようもないぐらいキモイねお前』
その日から一生孤立することになった。誰からも声をかけられず、クラスメイトだけでなく他の生徒からも避けられ、俺の学校生活は早々に幕を閉じたのだ。本当の学校生活を思い出すと、険しい顔をしつつ俺はリビングへ顔を出す。
「おはよう海斗。そんな怖い顔をしてどうしたんだ?」
「……ちょっと、眠れなくてさ」
「また頭をぶつけるとかやめてよ兄貴」
妹の文香、母さん、親父が揃った朝の食卓。俺は所定の席に腰を下ろして、置かれたフォークをじっと見つめる。
「……俺の親父は家を出ていったきり帰ってこなかったんだ」
「海斗? 何を言ってるんだ?」
「出ていったあとはさ、俺だけ朝食も夕食も用意されなくて……。来客の時は部屋から出てこないよう言われて……。母さんは優秀な文香のことだけ面倒を見るようになったんだ」
「は? 何よそれ? 海斗、まだ怪我が完治してないんじゃない?」
この食卓はすべて空想。
親父が失踪する前は親父が朝食や夕食を用意してくれて、親父が失踪した後は与えられた小遣いで買い食いをしてやりくりをしていた。四人で食卓を囲んだ最後の記憶は小学生低学年の頃だ。
「親父が失踪した後の俺には……居場所なんてどこにもなかった。俺に期待して愛してくれた家族も、手を差し伸べてくれる友人も、いなかったんだ」
「海斗、本当にどうしたんだ──」
「だからさ、こうやって家族みんなで顔を合わせられて嬉しかったよ。例えこの世界が偽物だったとしても……本当にっ……」
涙がボロボロと溢れてくる。
母さんは心配なんてしてくれない。親父はもう隣にはいない。妹の文香が視線を合わせてくれることなんてない。
「ごめん、ごめん母さんっ……。期待に応えられないようなっ……出来損ないでっ……本当にごめんなさいっ……」
「ど、どうしたのよ海斗? 何でそんなに泣いて……!」
「文香も、ごめんなっ……。兄の俺が役立たずだからっ……お前に全部背負わせてっ……本当にごめんっ……」
「あ、兄貴? 何言ってんのか意味わからないから……!」
目の前の家族は偶像。
けれど謝らずにはいられなかった。その場で俯きながら拳を振るわせて嗚咽を漏らし、必死に謝罪をすることしかできない。
「親父も、本当にごめんっ……。俺が、母さんと文香を守るって約束したのにっ……俺だけ死んで、二人を置いてきてっ……約束を守れなくて、本当にごめんっ……」
「海斗……」
「俺、頑張るからっ……絶対に、帰ってくるからっ……帰ってきて、本当の母さんたちにこうやって謝るから……だからっ……」
右手に握りしめるのはフォーク。俺はゆっくりと顔を上げると家族と一人ずつ視線を交わす。
「そこで待ってて」
フォークの先を向けるのは自分の眼球。
あいつに問われた「お前のその目は何の為にある?」という質問。その問いかけで俺はすべてを理解した。この理想の世界を俺に見せているのは、現実からいつも背けていたのは──いつだって
「それじゃあ……母さん、文香、親父──」
何とか笑顔を作れば偶像の家族が優しく俺に微笑む。その光景を眺めながら握っていたフォークを振りかぶり、
「──
自分の眼球に突き立てた瞬間、意識が一瞬にして飛ばされた。