アダールランバ最前線。
時間は遡ること一時間前。クレスは刺客として現れた八ノ罪
(ちッ、迂闊に近づけないな……!)
追尾する
「すごいね月の皇子さん! 身体がすり抜けちゃうなんて!」
「この奇術を間近で拝みたいと思わないか?」
「あははっ、ごめんね! 僕は思うけど私はそう思わないみたい!」
駆除しても駆除しても飛蝗の数は減らない。クレスは黒の大剣による斬り払いで処理しきれないと判断する度、奇術の
だがその攻防は起死回生の一手になるはずもない。ノエルは自身の身を投じずに安全な距離を保つ。結論から言えばクレスと飛蝗と戯れるだけの時間に過ぎず、いつ集中力が切れるかの消耗戦でもあった。
「お前がゲームのボスならとっくに下方修正済だろうな……!」
「ん、ゲームのボス? ……あっ、分かった! チェスの駒のキングのことだね! でも月の皇子さん、下方修正ってどういう意味かな?」
「キングをナイトの性能までッ……下げるといえば伝わるかッ!?」
「どうして下げるの?」
「お前が
クレスの脳裏を過るのは手下を操り遠隔で攻撃を仕掛ける敵キャラ。こちらから近づけば距離を置き、小賢しい手下で牽制をする。更にその手下はどれだけ撃破しても数秒経たずに追加される始末。
ニコニコとした笑みで見下ろすノエルに不満を吐きながら、クレスは上空から降り注ぐ
「へー、身体がすり抜けるのもズルいけどね」
「お前の方が優勢なのにッ、不服を申し立てられてもッ、俺が困る!」
「ここから形勢逆転もあり得るかもよー?」
「じゃあ素直に斬られてくれるか!?」
「素直に無理かな!」
クレスが強引に距離を縮めてくるとノエルは
「わぁーお」
「やっと会えたな」
無敵判定を強引に発現した。
守護する
「あっはは! 近くで見るとカッコイイね月の皇子さん!」
「──ッ!」
刃が触れる直前、無数の飛蝗として分裂するノエルの肉体。クレスは目を丸くすると分裂した飛蝗が背後へと回り込み、
「
「……お前は、誰なんだ?」
両腕を前に回して抱き着くと艶めかしい少女の声を耳元で囁いた。別人のような雰囲気を醸し出すノエル。まるで原罪がもう一人増えたような感覚に、クレスは額に汗を一滴だけ垂らしつつそう尋ねた。
「ふふっ、月の皇子様……私はノエル・イザードよ?」
「……ッ!」
ノエルが見せたのは鋭い牙で噛みつこうとする素振り。クレスは振り返りざまに大剣で後方を薙ぎ払うが、ノエルの姿はそこにはもうなかった。前を横切るのは桃色の真珠のような羽を持つ可憐な蝶たち。
気が付けば周囲を飛び回っていた飛蝗の肉体が次々と裂け、内側から桃色の蝶が空へと羽ばたいていく。その異様だが美しくもある光景にクレスは唖然としてしまう。
「素敵な夜に貴方と会えてとても嬉しい。だから特別に見せてあげるわ月の皇子様──」
視線の先に降り立つノエル。
白と桃色が混ざる短い髪は伸びて長髪となり、紅く染まっていた吸血鬼の右目は桃色へと変化していた。少年か少女か分からぬノエルの容姿が少女へと近づき、
「──私と僕の
(何だ、この感覚は……?)
クレスの肉体に悪寒が駆け巡る。
彼の身で例えるなら自身が管理職として担当した企画に対し抱くような底知れぬ不安。過労死する寸前に自然と告げられた自身の死期。学生時代の頃、将来に希望を見出せず絶望した時期。様々な負の感情が一斉に込み上げてきた。
「我が主モロスよ。我らは汝へ罪を捧げ、汝より罰を授かりし罪人。我らが罪を阻むは栄光。かの者へ汝の災禍を与え給えば、我らが栄光ある愚者へ渇望を与え給おう──」
「……! この詠唱は加護のッ──」
聞き覚えのある詠唱。
嫌な予感がしたクレスは無意識のうちにノエルから距離を置く。襲来するのは身が凍えるほどのナニカ。クレスが手に持っていた大剣を大盾へと変形させ防御態勢を取った途端、
「八ノ罪──飢餓ノ災禍」
「ガッ……ググギィイィッ……?!!」
「ギギィアァアアッ……!!」
ノエルの周囲で待機していた鎧型の食屍鬼やタイラントが悶え始める。頭部を身体に打ち付けて飛んでいる蝶を掴んでは食い、掴んでは食いを繰り返していた。クレスは険しい顔でその光景を眺め、
「げほッ……!? 何が、起きてッ……!?」
喉を片手で押さえて片膝を突いた。
急激な喉の渇きと過酷なほどの空腹。生命の生死に関わる飢餓の状態へと突拍子もなく陥ったクレスは自身の肌が痩せこけっていくことに気が付く。
「大変よ月の皇子様。このままだとお腹を空かせて死んでしまう」
「何をッ……」
「是非ともこれを食べてから……私の血で喉の渇きを満たすといいわ」
ノエルは蝶と飛蝗を右手に乗せ、自身の血だまりを左手に作るとクレスの目の前に差し出す。本来ならそのようなものに手を出すはずがない。しかし過剰なほど肉体を支配する飢餓の状態はクレスの自我を揺さぶった。
「口にするはずッ……ないだろうがッ!!」
「あら?」
だが歯を食いしばって何とか耐え抜くと黒の大剣を力の限り突き上げ、目の前に立つノエルの肉体を貫く。ノエルは首を傾げて自身の胸に突き刺さる大剣を見つめた。
「飢餓は人間にとって辛いもので餓死は人間にとって避けたいもの。普通は喜んで口にしてくれるけど……貴方はとっても我慢強いのね」
「ぐッ……」
「けどとっても残念な気分よ。月の皇子様なら食べてくれると思ったのに」
後方で共食いを始める鎧型の食屍鬼とタイラント。ノエルはそんな抗争を他所に悲しそうな顔で睨みを利かせるクレスの顔を間近で眺める。
「さようなら月の皇子様。来世は『餅つき兎』になるのかしら」
(ここで……また俺は終わるのか?)
クレスを取り囲む蝶の集団。打開策を考えようにも飢餓状態では頭も回らない。誰も知らぬところで雪月花の月が欠ける寸前、
「面会中に失礼」
白い閃光が割って入るとノエルの頭部を掴んで地面に叩きつけ、回し蹴りを食らわせて遠方へ吹き飛ばす。クレスは俯かせていた顔を上げ、白き閃光の姿を目にする。
「──ヘレン・アーネット?」
立っていたのは血染めの皇女。何故この場にいるのかとクレスが目を丸くすれば、ヘレンは背を向けたまま吹き飛ばしたノエルの方角を見据えた。
「久しいなクレス。最後に会った時よりも少し痩せたか?」
「どうしてお前がここに……」
「アレクシア・バートリ、彼女を追いかけるよう命令されてここまで来た。けど偶然にも第二次終末聖戦が始まっていると聞いたものでね。君の為に加勢しに来たとも言えるだろう」
平然とした態度で説明するヘレン。
飢餓の影響を受けていない様子にクレスは怪訝な顔でヘレンを見上げていると、吹き飛ばされたノエルが衣服の汚れを払いながら砂煙の中から姿を現した。
「ふふっ、血染めの皇女様とお会いできるなんて光栄だわ」
「そうか。喜ばしい限りだよ」
「でも今は空気が読めないと思わない? 私と僕と月の皇子様の三人で楽しいお遊戯会をしていたのよ?」
「その脚本は書き換えた。誰かが死ぬのはベタ過ぎる」
ノエルは不快さの混じった笑みを浮かべると桃色の蝶を周囲に纏わせる。撤退するのだと察知したがヘレンは後を追う様子を見せない。
「血染めの皇女様と私と僕は相性がとっても悪いの。ここで退場させてもらうわ」
「それは残念だ。君の災禍を見せてもらいたかったよ」
「……ふふっ、やっぱり皇女様と私たちは相性が悪いみたい」
災禍を発現していることすら気が付かないヘレン。ノエルは更に不快さを増した笑みを浮かべてそう吐き捨てた後、
「また会えたらいいわね。月の皇子様と相性の悪い皇女様」
忽然とその場から姿を消した。
瞬間、残された鎧型の食屍鬼たちとタイラントはその場で侵攻を再開し、クレスの全身を支配していた飢餓の感覚も徐々に消え始める。
「君はアレクシア・バートリの居場所を知っているか?」
「……俺はそんなやつ知らないぞ」
「そうか、別に教えてくれなくても構わない。ただその賢い頭でよく考えてくれ」
嘘をついてアレクシアを庇おうとするクレス。しかしヘレンは少しだけ微笑んだ後、その場に膝を突いてクレスと顔の高さを合わせる。
「私がこの食屍鬼と怪物の集団を私が無視すればどうなるのかを」
「なに?」
「今の君は満身創痍だ。果たしてそんな状態でこの数を相手できるだろうか? 一匹も防衛線を突破されずに……すべて粛正しきれるだろうか?」
「何が、言いたい?」
「居場所を思い出してくれたら私が食屍鬼たちを一匹残らず粛正しよう。だが本当に知らないようなら……私は彼女が逃亡を図る前に他の場所をすべて探さないといけない。……たとえ君の国が滅んでも」
微笑んでいるが笑ってはいない。
笑顔なのは表面上だけでその声色で脅しをかけている。クレスは歯軋りの音を立てながらすぐそこまで迫る鎧型の食屍鬼たちへ視線を移した。
「君が好きな方を選べ。何故なら君は一国を背負う賢明な皇子だ。選択は決して誤らないはずさ」
「……ッ」
「アダールランバ付近で騎士団と食屍鬼たちが戦っているんだろう? 君がいかなければ大切な人たちは戦死するかもしれない──」
「アモンアノールだッ! アレクシア・バートリは、そこにいるッ……!」
「思い出してくれて良かったよ。場所が判明したのならこの食屍鬼たちも相手する時間ができた」
ヘレンに手を差し伸べられるがクレスは振り払いながら立ち上がる。込み上げるのは頼ることしかできない自身への腹立たしさ。そしてアレクシアの情報を売ってしまった申し訳なさのみ。
「……俺はアダールランバの援護に向かう」
「ああ、そうするといい。この場は私が相手をしておくよ」
「任せたぞ、ヘレン・アーネット」
「そんなに睨まなくても約束は守るさ」
怒りで瞳を真っ赤にさせて睨むクレスに対し、ヘレンは余裕な言動を振り撒いて返答する。その態度に眉を顰めながらもクレスは馬に飛び乗ってヘレンに背を向けた。
「言い忘れていたよ。エメールロスタに二人、アフェードロストに一人の十戒が援護に向かった」
「わざわざこの戦争に連れてきたのか……?」
「いいや、たまたま道端で会っただけだ」
援護に向かわせたと語るヘレン。クレスは偶然とは思えない手際の良さに何か裏があるのではないかと不信感を募らせる。
「しかし君は運が良かったな──生粋の
「──ッ! お前ッ……!」
「睨み合いをしていてもいいのか? 君の国が危機に直面しているはずだろう?」
ヘレンの一言に怒りを露わにしたクレスだったが急かされたことで、何も言い返せずに舌打ちをして馬を走らせる。独り残されたヘレンは鎧型の食屍鬼やタイラントを一望し、
「暇潰しにはなるが──この数は十分も持たないだろうな」
交戦前から物足りなさを感じてため息をつくとその場からゆっくり歩き出した。