白薔薇の使徒No4──全能の第五列ナトラ。
シャーロックホームズを想像させる衣服を身に纏うこの女性は自分のプロフィールを大型モニターに映すと、腰に手を当てて俺の顔をジロジロと観察する。
「無知な上に冴えない顔。もしかして貴方、頭が
「は、はぁ……? スカってるって何だよ?」
「頭の中身が
薄茶の瞳に好奇心を宿しながらブツブツと呟き続けるナトラという女性。俺はそんな言動に頬を引き攣っていると、対面に立っている井上は私欲に満ちた笑みを浮かべ周囲のカメラを見渡す。
「み、皆さん、なんともう一人の特別ゲストが現れました! そのゲストはあの世界的に有名な白薔薇十字団の……白薔薇の使徒本人です!」
「あ、映ってる映ってる。やっほー」
ナトラは周囲からカメラを向けられると手に持っていたスマホに映り込む自分を確認し、慣れている様子でカメラの向こう側にいる視聴者へ手を振る。
「キー坊、手を貸してあげましょうか?」
「キ、キー坊? それに手を貸すって……」
「言葉の意味、分からない? 私は貴方に『勝たせてあげようか』って聞いてるのよ」
「……! 頼む、手を貸してく──」
俺の名前がキリサメだからキー坊。
勝手にあだ名を付けたナトラが提案してきたのは白側への協力。起死回生の一手になりうる提案に俺は有無言わずに受け入れようとしたが、
「あー、そうだった。貴方はどんな対価を払ってくれる?」
「対価?」
「対価は私の信条。だから等価交換、もしくはそれ以上の価値があるものを払う。オススメは……全能の第五列にとって未知の情報とか」
ナトラ側から対価を求めてきた。
推奨されたのはナトラにとって未知の情報。この世界に関する情報量はナトラの方が確実に上。俺は少しだけ考えた末、自分の世界についての情報を対価として払うことにする。
「じゃあさ、俺たちが住んでいる世界の情報はどうだ?」
「無し。もう聞き飽きてるから」
「ならアニメとか漫画のデータ。俺のスマホも対価として払う」
「これが見えない? 私、スマホは所持済みなの」
けどナトラに軽くあしらわれてしまう。
よく考えてもみれば俺以外に異世界転生者なんてごまんといる。俺だけが特別な存在じゃない。対価として提示すべきなのは『俺だけが知っている情報』だろう。
改めて考える素振りを見せた後、俺はふとある対価を思いつく。
「……俺に関する情報だったらどうだ?」
「へぇ……」
「生まれから家族構成。通ってた小学校に黒歴史の小説……何もかもを対価として払う。これならお前にとって未知の情報になるだろ?」
その対価とは俺が歩んできた人生そのもの。
ナトラにとって価値があるかは分からないけど俺自身しか知らない情報なのは確か。俺からの提案を聞いたナトラは少しだけ微笑む。
「いいじゃない、乗った。交渉の材料に個人情報を差し出してくるなんて貴方が初めてよ」
「それじゃあ……」
「交渉成立。キー坊、貴方に手を貸してあげる」
交渉成立の一言。
ナトラは俺にそう伝えるとその場で振り返り井上たちの方へ視線を送る。
「ねえ」
「は、はい、何ですか?」
「私もこの議論に参加してもいいでしょ?」
「え? そうですね、それは……」
そして井上たちへそう尋ねた。
井上は返答に困り果てながらも自身のスマホで視聴率を確認する。やや驚きに満ちた表情を浮かべる井上。恐らく白薔薇の使徒が現れたことで視聴率がグンッと上がっていたのだろう。
「視聴率、命……視聴率……命、視聴率……」
「おい、おっさん! まさかあの女を参加させるんじゃ……!」
「静かにしていてくれないか! 今、考えているんだよ……!」
しかし白薔薇の使徒が参加させれば井上自身が有利なこの状況が覆る可能性もある。だからこそ井上は独り言のようにボソボソと呟く。
「い、いいですとも! 是非ご参加ください!」
「なッ、正気かよおっさん!? 不利になるかもしれないんだぞ──」
「わ、わははっ……後少し、後少しでこのモノクロウムを過去最高視聴率まで持っていけるんだっ……」
「ちッ、こんなおっさんに付き合ってられねぇ! もう一人で勝手にやれよ!」
自身の命と視聴率を天秤にかけた結果、井上は視聴率を選択した。圭太は舌打ちをすると巻き込まれないように舞台から降りる。
「さ、さぁさぁッ! 特別に白側へ追加のお時間をさしあげましょう! 名高い白薔薇の名に相応しい主張を聞かせてください!」
「……じゃ、まずは表面上の真実を剥がすことにしましょ」
主導権を渡されたナトラは持っていたルービックキューブの右端を奥側へ縦に二度回転させる。大型モニターはナトラのプロフィールから例の動画へと切り替わった。
『はぎぃあッ、だ、だずげでッ……!! だずげでぐれぇえ"ぇえ"ぇッ!!』
『ま、まっで、まっでぐれぇえ"ぇえ"ぇ!!』
「最初の神父を見捨てる部分。傍から見れば容疑者アレクシア・バートリが無慈悲かもしれないわ」
最初に映された部分は助けを請う神父を見捨てる幼少期のアレクシア。ナトラはその動画を流しながら今度はルービックキューブの左端を手前側に三度回転させる。
『神の遣い、お前はいい取引材料だった! 愛想よくしてやったのも全部カネの為だ! 私の為にわざわざこの豚小屋に足を運んでくれて感謝するぞぉ!』
『折角だ! お前たちが無様に殺される姿を、ここで見届けてやろう!』
「なッ……どうやって巻き戻しただと……!?」
どういう原理なのか動画が勝手に巻き戻されて、神父が小袋を片手にアレクシアと男へ下衆な笑みを見せている画面に切り替わる。そのやり取りから神父が吸血鬼と取引していたことを窺えた。
井上は想定外の展開に司会から素の状態に戻りながら驚きの声を上げる。
「どう? このスカってる神父を助ける価値を見出せる?」
次に映し出されるのは圭太を刀剣で斬り捨てるアレクシア。ナトラは先ほどと同じようにルービックキューブを手前に回転させ、
『がはっ……ぐぁ……ッ』
『私が八体の食屍鬼を殺す。それまでにその男が走れない容態だったら――覚悟を決めろ』
「この部分も削られた箇所を繋げれば負傷の原因が食屍鬼だって分かるわ。容疑者は裏切ったのではなく、食屍鬼の群れと単独で交戦をし命を紡ごうと試みたのよ」
圭太が食屍鬼に襲われる場面とアレクシアが食屍鬼を食い止める場面が補足として映し出された。ナトラはルービックキューブで動画を切り替え、カットされた箇所や巻き戻した場面を補足し、淡々と虚偽であることを説明をしていく。
『私たちのバートリ卿を惑わせた
『ぐぇッ、がッ、うぐほぉあぁあぁッ!?!』
『あのヒョウリって異世界転生者も消してあげたわッ! バートリ卿の大切な子に斬りかかったからッ!!』
「この時キー坊を殺した犯人は……魔女の馬小屋に所属する信者」
動画の終盤にある俺がミネルヴァに殺される場面。足りない箇所をすべて補足してナトラは犯人を証明して見せる。
『……せめてもの弔いだ』
「容疑者が杭を撃ち込んだ時、既にキー坊は死んでいたわ。死体に杭を撃ち込む理由は単純。放っておけば死肉として現世を彷徨うから。死体の処理とも取れるけど……これは人としての尊厳を守るために必要な弔いとも捉えられる行為ね」
一度死んだ後のことは何も知らない。
大型モニターに映るアレクシアの酷く疲弊しきった顔。初めて目にした俺が何とも言えぬ顔で立ち尽くしていると、ナトラは周囲に配置されたカメラへ一つずつ視線を送り、堂々とこう断言した。
「この番組を見ている貴方たち。黒側が突き出した証拠は嘘に塗れている。この私、全能の第五列ナトラが保証するわ」
物的証拠が何一つない状況下で捏造された映像を不思議な力で解明し切ったナトラ。アレクシアの肉体に吸血鬼の血が流れている事実には一切触れず、編集による捏造部分だけを指摘し劣勢な状況を一変させた。
「はぁはぁっ……す、すごい、視聴率が、視聴率が過去最高のっ……!」
「白側の主張は以上よ。投票、始めないの?」
「え、ええ! やりましょう! 投票、投票のお時間です!」
しかし井上はそんな状況も主張もどうだっていいのか、ただ自分のスマホを見ながら不気味な笑みを浮かべる。彷彿とさせるのは視聴率に囚われたプロデューサー。
大型モニターでは集計中という表示や白黒の投票率を表すゲージ枠がアニメーションと共に現れる。
「……七十と三十ってところね」
「え?」
「さ、さぁ、集計が終わったようです! 結果を見てみましょう!」
ナトラがボソッとそう呟いた後、最後の投票結果が表示される。ナトラが予想していた通り白側が七十パーセント、黒側が三十パーセントという結果。
踏まえれば俺たちが勝利し井上は敗北した。だが井上は絶望する様子も焦る様子もない。ただスマホを高らかに掲げ、
「わ、わっははははッ!! どうだ、どうだこの視聴率は!? 見ているか局の無能共め! 私をクビにした保身ばっかの臆病な連中がッ!!」
「「……」」
「私になんて言ったんだかなぁ?! 『過激なものは苦情が来るからやめましょう』だったかぁ!? わははっ、その結果視聴率はどうなった!? 世間体ばっかを気にした番組の視聴率はどうだぁ?! 私のモノクロウムよりもさぞかし低いだろうねぇ!」
溜め込んでいた愚痴を吐きながら勝利を確信した笑みを浮かべた。その勝利は投票結果に対してではなく過去に働いていたテレビ局に対してだろう。俺とナトラは一人で愉悦する井上を黙って眺める。
ガタッ、ゴゴゴゴゴゴッ──
辺りに伝わる地響き。
塔自体が揺れているかのような振動に俺は立っていられずその場へ片膝をつく。
「おめでとう二人共! 君たち白側の勝利だ!」
「くッ……お前、何をしたんだよ!?」
「キー坊、この塔崩れるみたい」
「は!? 崩れるって……!」
天井に吊り下げられた照明が次々と落ちてくる中、井上は愉快に笑い声を上げるだけ。俺はふらつきながらも何とか立ち上がる。
「わはは、スリル満点の幕引き! これだけ視聴率を出したなら最期も派手に締めないとねぇ!」
「っ……! 最初に負けた方が死ぬって言ってただろ……!」
「教えてあげようキリサメくん。大人の言葉は滅多に信用しない方がいい」
死なばもろとも。
井上は自分が負けたら最初からこうするつもりだったのだと悟った。俺は「ならば」と右足を一歩だけ踏み出してこう問い詰める。
「答えろ井上! データはどこにある!?」
「データ?」
「お前が持っているアレクシアのデータのことだ! どこに隠している……!?」
「ああ、なるほど。君は動画のデータが欲しくて私を探していたのかぁ」
納得する素振りを見せる井上。
けど次に口を開いたとき頬を吊り上げたあくどい顔を見せながら、
「自分で探してみるんだねぇキリサメくん! わははッ、わはははは!」
「お前……!」
「わははッ、わッはははははははッ──」
居場所を教えることもなく落下してきた大型のモニターに押しつぶされた。肉塊が弾け飛ぶ嫌な音を耳にした俺は一瞬だけ瞼を閉ざした後、すぐに目を開けて舞台を染め上げる血だまりを見つめる。
「……出てきなさいニーナ。久々に顔が見たいから」
ナトラは前方の暗がりへそう呼びかけるとニーナ・アベルが姿を現す。そして圭太の隣へ歩み寄るとナトラを警戒するように右手に紅の杭を数本だけ具現化させた。
「へぇ、興味深いわ。頭がスカってる吸血鬼の割に……生前の原型を留めてるなんて」
「ご足労を掛けたわねナトラ。薔薇協議会の人間に……ああ、今は白薔薇十字団だったわね? とってもカッコよくて憧れるわ、白薔薇の使徒って名称」
「あー、口の利き方を忘れてるようだから忠告。私は目上で貴方は目下ね。念のため目下の類義語教えてあげる。格下、部下、手下、子分、弱者──」
目にも留まらぬ速度でナトラへ投擲される紅い杭。ナトラはルービックキューブの上の列を四階真横に回転させ、見えないナニカですべて弾き飛ばす。
「あっれ、まさか怒った?」
「手が滑っただけよ」
余裕な態度を取るナトラとニーナ。
しかし俺から見ればお互いに凄まじいプレッシャーを放っているようにしか見えない。それらは敵意というレベルではなく──明確な殺意。
「答えろ原罪。己の肉体を吸血鬼に自ら変えてまでして……何をしようとしているのか」
「答えると思う──」
ニーナがそう言いかけた途端、突拍子もなく首に斬り込みが入りそのまま首がボトッと床へと転がり落ちた。よく確認してみればナトラが持っていたルービックキューブは赤色の面が一面揃っている状態。
「ニーナ・アベル、貴方は吸血鬼に魂を売り渡した転生者の汚点。答える以外に択はないの」
「面倒ね、ああとっても面倒よ。これだから薔薇協議会の連中は気に入らない」
頭部だけの状態で苛立ちを見せるニーナ。
その肉体が影に溶けると転がっている頭部へと結合して元の状態へと再生する。ナトラはここでニーナを始末するつもりなのかもう一度ルービックキューブを動かそうとしたが、塔の崩壊がより激しくなったため手を止めた。
「それじゃあ、私はこの辺で退かせてもらうから。……あんたも行くわよ」
「ああ」
「……! 圭太ッ!」
「カイト、俺は裏切ったお前たちを許すつもりはねぇ。今度会った時は敵同士だからな」
ニーナの周囲に漂い始めるのは白い霧。
連れられている圭太は俺に怒りを込めた眼差しを向けつつそう吐き捨て白い霧と共にその場から忽然と姿を消した。
「圭太……」
「今は塔から脱出した方がいいわキー坊。……生き埋めになりたいなら別だけど」
「あ、ああそれもそうだよな! でもその前に動画のデータを回収したいんだ!」
「へぇ……まっ、頑張って。貴方からの対価はもう貰ったし」
他人事のようにエレベーターのある方へ歩いていくナトラ。対価と称するその手にはルービックキューブの青いパーツが握られていた。俺はしばらく呆気に取られた後、「待ってくれ」と呼び止める。
「どしたの?」
「いや、探すのを手伝ってくれるんじゃ……」
「私はあの異世界転生者に貴方を勝たせてあげた。それ以外は交渉のうちに入っていないから」
あくまでも手を貸すのは議論の間だけ。
ナトラは冷めた返答をしてそのまま背を向けてエレベーターまで歩いていく。俺は手を貸してもらっただけ有難いと自分に言い聞かせ、
「ありがとうナトラ。おかげで助かった」
「はーい」
感謝の言葉だけ伝えて奥に見える通路に向かって走り出した。
「……ここは編集部屋か?」
廊下の先にあるのはディスプレイやパソコンが至る所に置かれた部屋。ディスプレイに動画を繋ぎ合わせる画面が映し出されていたことから映像を編集する部屋なのだと理解する。
「データを見つける時間はない! 手当たり次第にパソコンを持っていくしか……!」
俺は補正値の変換をしてから氷璃の奇術『暴食の手』を使い、目に映った必要な機材をすべて奇術に収納した。
「ぐッ、そろそろ脱出しないとヤバイよな!」
左右の揺れは更に激しくなり編集部屋が大きく右に傾く。俺は部屋を飛び出して廊下を駆け抜け、エレベーターまで全力疾走をしたのだが、
「は、はぁ!? なんでエレベーターが使えないんだよ!?」
ボタンが全く反応しない。
ナトラが使っていたはずだと何度もボタンを押したところで一向に光が灯らない。俺は階段がないかと周囲を見渡すがそれらしきものは見当たらなかった。
「あれは梯子……くっ、一か八かだ!」
唯一見つけたのは天井まで続く梯子。
下へ降りたいのに上がる手段しかない。俺は一筋の希望を抱いて梯子へ足を乗せると慎重かつ素早く梯子を上り始める。
「うおわッ……!?」
塔が傾いたことで急斜面になる梯子。俺は何とか踏ん張って着実に上へ上へと進んでいき塔の屋上へと何とか這いずり出た。
「うっ……た、高すぎるだろ……」
澄んだ青空、手が届きそうなほど近くにある雲。青の塔は雲を突き抜けていることで屋上から見える景色は壮大だ。けどそんな景色に対する感動よりも恐怖が打ち勝つほどの標高の高さをしている。
「そ、そうだ、生存補正を百パーセントまで振り切って飛び降りれば──」
そう言いかけとある可能性が過った。
もし地上でクレアたちが待っていたら俺に迫りくる死は間違いなくクレアたちへ乗り移る。迂闊に使えば俺以外の誰かが死ぬ。
「うあぁあッ……!?!」
考える猶予も当然与えて貰えず俺はガクンッという衝撃と共に塔から放り出される。その寸前、何とか煉瓦と煉瓦の隙間を掴んで落下せずに済んだのだが、
「や、やばいっ……このままだと落ちるっ……」
どんどん傾いていく青の塔。
屋上で耐えたところで完全に崩壊するのは時間の問題だ。打つ手なしの状況下で俺が苦虫を噛み潰したような顔をしていれば、四角い影が空からゆっくりと降りてくる。
「あっ、逃げ遅れてるキー坊発見」
「ナ、ナトラ……!? もう逃げたんじゃ……」
「そっ、もう逃げたわ」
宙に浮かぶのはナトラが座れる大きさのルービックキューブ。ナトラは下側の一面が青色になったルービックキューブの上で優雅に漂い、落下寸前の俺をまじまじと眺める。
「キー坊、ここからどうするの?」
「どうするって……お前と違って打つ手なしで困ってるんだよっ……!!」
「へぇ、私に助けてほしい?」
「そりゃすっげぇ助けてほしいよッ!」
何食わぬ顔で問いかけてくるナトラ。俺は塔から落ちないように両腕を震わせながら大声でそう返答した。
「ねえキー坊、私の弟子にならない?」
「は、はぁ? で、弟子……?」
「貴方は面白い奇術を身に着けている。でも完璧に使いこなせていない。もし完璧に使いこなせるようになったら……どこまで成長するのか気にならない?」
俺は何とも言えない顔で頬を引き攣る。
対してナトラは純粋な好奇心だけを瞳に宿し満面の笑みを浮かべ、俺のことを原石を見るかのような視線を送ってきた。
「どう? 私の弟子になることが対価。悪い条件ではないと思うけど──」
「今の状況じゃッ……弟子になる選択肢だけしかないだろっ……!!」
「はーい。じゃ、交渉成立ね」
断る選択肢なんてない。俺がすぐさま大声で対価を受け入れればナトラは俺の左手の甲に指先を触れ、ルービックキューブの輪郭をした紋章を刻み込んだ。
「今、貴方が抱えている問題……すべて解決したら私の方から迎えに行くわ」
「は、はぁ……?」
「そーだキー坊、私から逃げたり隠れたりしないこと。ま、どうせ逃げられないけど」
ナトラは俺の腰の高さまでルービックキューブを降下させ、その好奇心に満ちた瞳で俺の顔を覗き込んでくる。
「私はね、キー坊がいつ起きていつ眠ったのか。キー坊が今何をしていて何を考えているのか。キー坊が朝食のパンに何のジャムを塗ったのかすら……そのすべてが分かる」
「──」
本当に全てを見透かされているのではないか。
そんな錯覚に陥るほどの自信と探求心に満ちた表情に思わず言葉を失う。そんな俺の顔の前へ手に持っていたルービックキューブを近づけると、
「侮るなかれ──全能の第五列が掌握する見聞を」
そう囁きつつカチャッという音と共に中央列を縦に一度だけ回転させた。