「全く、君のせいで酷い目にあった」
「あ? あの皇女が嘘をつくなんて誰が予想できんだよ?」
男子たちが浸かっているのは湯船。
この湯船は火山地帯のリパ島に染み込んだ地下水が湧き上がったことで生まれた天然温泉だ。別荘から直通で向かうことができ、大人数でも問題なく入れるほどの広さを持つ。
「ストッピーだぜ、ユーたち。過去のことなんてこの温泉に流しちまいな」
「うん、レクスさんの言う通りだと思う。カミル君があんなに怒ってる姿を見るの初めてだったし……ある意味、悪いことばかりじゃなかったよ」
「ヒュー、寛容だねぇジーノちゃんは」
「あなたは黙っててください」
レクスへの対応とは違い、辛辣な返答をパーシーに浴びせるジーノ。姉をナンパされたことが相当許せないのか、とカミルたちは苦笑する。
「ああそういえば……おじさんね、ヘレン嬢ちゃんが笑ってるところ多分見ちゃったぜ」
「あ? 多分って何だよ?」
「多分は多分なのよ。こう、なんていえばいいんだろうな? 形容しがたい何とも言えぬ笑い方と言えばいいのか?」
言葉にできず頭をひねるパーシー。カミルたちはまったく想像できていないどころか、パーシーの話に対して疑心を抱いているほどだ。
「ホントのホント! 『サメだからシャークって鳴くのか』って言ったら笑ってたの!」
「はっ? んな下らねぇシャレで笑うわけねぇ」
「僕もその話を信じることはできない。口の中に入った砂でも吐き出しただけだろう」
カミルとニコラスはまるで信じていない。
だがジーノだけは温泉を見つめつつも深く考え込み、顔を上げてこうカミルたちに伝えた。
「どうかな? 可能性はあると思うけど」
「おいジーノ、お前はこのおっさんの話を信用するのか?」
「うん、だって僕たちが知っているヘレンさんは、僕たちが勝手に想像している人物像だからね」
外面から予想できる内面は大きく異なる可能性だってある。
人間の本質などは温泉に立ち込める湯気のようなもので隠されているだろう。ジーノは二人を優しく諭すと自身の中で組み立てた仮説を語り始める。
「本当はよく笑う子だったけど幼少期の頃に経験した『辛い出来事』のせいで、笑わないよう振る舞う子になった……なんて、よくあることだから」
「ではヘレン・アーネットの本質は『下らない
「あくまでも可能性の話だよ」
「はぁ、パーキンス家のこいつがそう言うんなら少しは信用してもいいな」
パーキンス家は洞察力が長けている名家。
人の心理状態なども敏感に察知するためカウンセラーとして務めることがある。カミルとニコラスはその血筋を継いでいるジーノの考察を聞くと、抱いている疑心は半信半疑の状態へと移り変わる。
「もしあの皇女がほんとに笑ったんなら、何かしらは変わり始めてるってことになるだろうな──」
「わぁ~! すっごい広いね~!」
「「「──ッ!?」」」
何故か聞こえてくるティアナの無邪気な声。
カミルたちは一斉に温泉の入り口へ視線を向けると、そこにはバスタオルを巻いた女子たちが何食わぬ顔で次々と姿を現した。
「おい、隠れるぞっ……!」
「同意だっ……」
カミルたちが身を隠したのは温泉の中に置かれた岩の裏。
視覚的にちょうど全員が隠れられるポジション。全員で急いで避難をすると、岩の陰からカミルが少しだけ顔を覗かせ、ティアナたちの位置を確認した。
「何でアイツらがいやがる? 時間で入る順番を区切ったはずだろうが」
「カミルちゃん? おじさんたち、時間間違えてたんじゃないの?」
「それはねぇ。まだ入ってから十分も経ってねぇだろ。間違えてんのはアイツらの方だ」
そう、この天然温泉は混浴用。
男子と女子で仲良く入るわけにもいかない。そのためカミルは一時間交代で前半を男子、後半を女子というように入浴時間を区切っていた。
「あれ、それじゃあ僕たちは悪くないんだよね?」
「ああ、俺はアイツらへ時間配分を伝えておくよう頼んだからな。そうだろニコラス」
「……」
「あ? お前、何を黙ってやがる?」
ニコラスは表情を曇らせ俯いたまま。
冷や汗をかいた様子と彼らしからぬ頬の引き攣り。カミルは徐々に眉間のしわを寄せ、焦燥感に駆られていく。
「おい眼鏡。まさかお前、忘れたわけじゃねぇよな?」
「当然だ。忘れたわけではない」
「はぁ、んだよビビらせんな。俺たちが悪いわけじゃ──」
「ただ前半を女子、後半を男子と伝えただけだ」
安堵していたカミルへ告げるのは無慈悲な一言。
つまり女子側の認識では前半が女子、後半が男子という配分。口をポカンと開いて唖然とした後、カミルは物凄い形相でニコラスの両肩を勢いよく掴む。
「何してくれてんだこの眼鏡ッ?! こんな時に連絡ミスしやがってッ……!!」
「言わせてもらうが普通は女性優先だろう! カミル、君の常識がおかしいと僕は結論付ける!」
「しっ、しぃー! お二人さん、声のボリュームをちったぁ抑えろ……!」
パーシーが口論を始めた二人をなだめればカミルはニコラスの両肩から手を離し、舌打ちをしてからティアナたちの様子を岩の陰から窺う。
「伝達ミスは尚更マズいじゃねぇか……」
「ユー、何がマズいんだい?」
「考えてもみろよ。アイツらの立場からすりゃあ、俺たちがあえて時間を指定したのは『意図的に覗きをするため』だって思うだろ」
状況を悪化させるのは伝え忘れではなく伝達ミスという点。
伝え忘れなら多少は罪が軽くなるだろうが、伝達ミスとなればもはや仕組まれた覗き行為だと認識されるのがオチなのだ。
「ちッ、これでアイツらの裸を見ちまったら俺たちが大悪党かよ」
「僕たち男子が裸を見られる側になっても向こうは悪くはないのにね。むしろ見せた僕たちが悪いって言われるだろうし」
「んで俺たち男がどうあがいても悪になるんだよ。世の中どうなってやがる?」
男女の格差に不満を漏らすカミルとジーノ。
ティアナたちの裸を見ても変態、自分たちの裸を見せても変態。どうやっても変態扱いを受けるこの世界に五人は絶望する。
「ふぅ、久々の温泉です」
「あなたは初めてじゃないのね、ティア」
「ええ、前の世界にいたとき……何度か入ったことがあります」
「……前の世界?」
「いえ、何でもありません」
ティアとエリザは石の床へ座りながら温泉に膝丈まで浸かっている状態。身体に巻いたバスタオルの下辺りからチラッと見えるのはほどよい肉付きの太腿。
「フ、フローラ殿はその、随分と胸の発育が良いのだな」
「えへんっ、寝る子は育ちますから!」
「なるほど、睡眠は発育のきっかけになると……」
「……私も早く寝ないと」
温泉の中で堂々と豊満な胸を見せつけるフローラ。
エレナとルーナは自身の小ぶりな胸と見比べてからごくりと息を呑み、やや妬ましそうな視線をフローラの胸に送っていた。
「えぇっ!? ヘレンの肌、いくら何でも綺麗すぎない!?」
「君とそう変わらないと思うが」
「ううん、ぜーんぜん違う! はぁ、いいなぁ……女の子の天敵って紫外線だから羨ましい~」
「……? 君は吸血鬼の話をしているのか?」
アーネット家の血筋を証明するかのようにヘレンが露出するのは白く透き通った素肌。隣に座っていたティアナは彼女の左肩を触りながら、湯船から自身の左脚だけを浮上させて見比べる。
「で、どうすんのよこれ。おじさん、まだ捕まりたくねぇぜ」
「ここからバレずに抜け出すしかないと結論付ける」
「ちッ、それしかねぇな。幸運なことに脱衣所は男と女で別れてる。辿り着けりゃあこっちのもんだが……」
彼らの目標はティアナたちに見つからず脱出すること。
全員が声量を抑えつつ同意するとカミルは岩陰から脱衣所の方角を確認した。
「だがどうする? 脱衣所まではそこそこ距離もあってアイツらのそばを通らなきゃいけねぇ」
「ここには温泉のスモークがあるだろ。温泉から上がって遠回りすればノープロブレムさ」
「ん~、確かに湯煙は濃いけど上がるのは良くないよ。お風呂に入ってるときの視線って、正面から真上にかけてが多いから……見つかりやすくなると思う」
脱衣所までの距離とティアナたちの位置。
レクスは解決策を提案するがジーノは人間の心理を例に挙げて否定する。
「僕に良い策がある」
「言ってみろ眼鏡」
「温泉内には同じような岩が並んでいるだろう? 僕らは一人ずつ潜水し、水面下を泳いで岩陰を経由すれば──脱衣所まで見つからず辿り着けると結論付ける」
円形状の天然温泉を上から見れば脱衣所は北の位置。
カミルたちの位置は脱衣所から最も離れた南の位置。
ティアナたちが集まっているのは東側の位置。
がらんとしているのは西側の位置には身を隠せる岩がぽつんぽつんと並んでいる。ニコラスは温泉に潜って時計回りに岩を伝いながら脱衣所を目指すと提案した。
「オー、グッドアイデアだぜニコラスっち!」
「アホみてぇな策だが覚悟決めてやるしかねぇな。……んなら最初は誰が行く?」
「ふっ、おじさんに任せときな。これでも泳ぐのが得意なのよ」
目指すのは一つ目の岩。距離は一メートルにも満たない。
誰が最初に泳ぐのかを話し合う前に、パーシーは余裕の笑みで真っ先に手を挙げ先発を希望した。
「おい、マジに大丈夫なんだろうな?」
「まーまー、ちっとばかし待ってな。おじさんが青少年の救世主になってやるから」
「ならいいんだが……」
「じゃっ、行ってくるぜ」
不安を募らせるカミルを前に意気揚々と潜水するパーシー。
幸運か不幸なのか、潜水していても分からないほどに温泉はやや白く染まっていた。カミルたちの視点からもパーシーがどこを泳いでいるのかは分からない。
「……なんか、遅くねぇか?」
「うん、もう姿が見えてもおかしくない頃だけど……」
だがおかしなことに一分、二分と経過してもパーシーは予定の岩陰に浮上しなかった。カミルとジーノは互いに顔を見合わせ辺りを散策していると、エリザとティアの前の水面がブクブクと泡立ち、
ザブンッ──
「ぶっはぁあぁぁッ!! 目が、目が染みるぅうッ!!」
「「きゃああぁっ!?」」
「何してんだあのおっさんはぁあッ……!?」
パーシーが勢いよく浮上してきた。
岩陰どころかエリザとティアの目の前に。二人は驚いていたが少しずつ頬を赤らめていくとゆっくりと立ち上がり、
「殺します」
「ええ、殺しましょう。男の尊厳も一緒に」
「じょ、嬢ちゃんたち、ち、ちっと話を聞いてくれ──おぐわぁあぁあぁッーー!?!」
エリザはパーシーの股間を全力で蹴り上げ、ティアは左脚による旋風脚をパーシーの頭部へ打ち込む。パーシーは勢いのまま吹き飛ばされると多数の桶が重なった場所で華麗な衝突を見せ、流れるように再起不能。
カミルたちは色々とお
「で、どうなってやがる。あのおっさんは泳ぐのが得意じゃなかったのか?」
「そういや、パーシーは『目が染みる』ってスクリームしてたぜ」
「……! まさか『目が染みる』というのは」
ニコラスは何かに気が付けば指先に付いた温泉の一滴を舐めた。
すると「やはりか」と表情を険しくさせてカミルたちを一望する。
「この天然温泉には塩分が含まれているようだ。それも海水より染みる塩分が」
「ちッ、そういうことかよ。つまりあのおっさんは目が開けられねぇまま、方向も分からなくなったからあんなことに……」
天然温泉に溶け込むのは塩化成分。
目を開けてしまえばとてつもない苦痛と共に方向感覚が失われる。パーシーがなぜ犠牲者となったかを理解したカミルたちはごくりと息を呑んだ。
「よし、僕たちは目を閉じて進もう。方向を見失わないように気を付けながらね」
「ああ、それしかねぇな」
「それなら早くゴーだぜ、ユーたち!」
「ではカミル、僕、ジーノ、レクスの順番で一つ目の岩陰を目指すぞ」
決められた順番。
先発となったカミルは大きく息を吸い込むと目を瞑りながら潜水を始める。
(こりゃあ自分の感覚だけが頼りだ)
視界は真っ暗。
かすかに聞こえてくるのはティアナたちの声。信じられるものは自分の感覚だけ。カミルは手を前に伸ばしつつ慎重に泳ぎ進めれば、
「ぷはっ、こんぐらいの距離なら見えなくても問題ねぇな」
無事に一つ目の岩陰へ浮上する。
そしてニコラスたちへ視線で合図を送ると一人ずつ潜水を始めた。
「まったく、こんなに緊張する瞬間など二度と無いかもしれないな」
「うん、ある意味では命がけだからね」
「後はレクスだけか」
何事もなくニコラスとジーノは無事に泳ぎ切る。
最後に残ったのはレクス。最初の岩陰で「オーケー」と余裕の親指サインを見せれば、彼も潜水を始めた。
「アイツ、辿り着けると思うか?」
「大丈夫だと思う」
「まだ顔を見せねぇのにか?」
二分経過しても浮上してこない。
何か嫌な予感がしたカミルは岩陰から少しだけ顔を覗かせ、ティアナたちの方角を観察してみる。するとフローラとルーナ、エレナの間が泡立ち、
「オーウ、マァーイ、ゴォオォオッドッ!! マイ、目ん玉、イズ、クレイジィイィッ!!!」
「「うわゃあぁあっ!?!」」
「話を聞いてなかったのかてめぇはぁあッ……!?」
染みてしまった目を押さえながら思い切り浮上した。
フローラとエレナは悲鳴をあげ、ルーナは首を傾げながらレクスの姿を見る。
「うおぉ、前がブラックアウトだぜ。な、なにか掴むものは」
ふにっ──
「ひゃあぁっ!?」
「な、なんだこりゃあ? ベリーソフトなもの触ってるような……」
どういう状況なのかを理解する為に右手で掴んだもの。
それはフローラの豊満な胸。触感を確かめるために何度も揉まれると、みるみるうちにフローラは両頬を赤くし、
「わ、我が主よ、私に
「おっ、その声はフローラっちか?! ソーリーなんだが手を貸してくれ──」
「エイメェンッ!」
「ジィザァアァァスッーー!?!」
そばにあった桶を薙ぎ払い、思い切りレクスの顔面にぶつける。
波動を込められた強力な一打によって積まれた桶のある場所まで吹き飛ぶと一発でノックアウト。パーシーの隣で気絶した。
カミルたちはラッキーでもありアンラッキーでもあるレクスへ手を合わせ黙祷を捧げる。
「で、次の岩までの距離は──おい待て、どういうことだアレは!?」
「お、驚きを隠すことはできないと結論付けるっ……!」
「う、嘘だよね……?」
次に向かう岩陰までの距離は同様に一メートル。
しかしそこはとても小さな岩陰。三人など到底隠れることはできず、一人分の頭だけが隠れられる大きさ。更にその先は湯煙によって何が待ち受けているかは分からなかった。
「な、なるほど、ここからは言葉による連携が取れなくなるみたいだ。僕らの間でサインを決めておかなければならないな」
「んなら、こうしよう。指を一本立てた時は『先に進め』、指を二本立てたときは『潜って身を隠せ』、指を五本立てたときは『一度待機』だ。分かったな?」
「了解した」
「うん、分かった」
カミルはハンドサインを決めると一番最初に潜水をして小さな岩陰まで泳ぐ。そして無事に辿り着くと頭部だけ浮上させ、後方の岩陰で待機しているニコラスたちへ視線を送ると、五本指を立てて『一度待機』の指示を出す。
(問題はこの先だが、だいぶ距離があるな)
岩陰は十分だが距離は三メートル。
あまりにも遠すぎる。先に呼ぶことはできず、かといって先に進んでしまえば後続へのサインも送れない。カミルは一度戻るべきだと振り返ったとき、
「ねえ、あっちにも行ってみようよ」
「そうですね。向こうの方が景色も良さそうです」
(まずい、アイツらのところに向かってやがる……!)
ティアナたちが場所を変えようと時計回りに歩いてきた。
既に最初の岩陰まで来ている状態。カミルは二本指を立て『潜って身を隠せ』とニコラスたちへ指示を出す。
「「……?」」
(ピースじゃねぇよッ!? 早く潜れっつってんだッ!)
だがニコラスとジーノは顔を見合わせてピースサインを送ってきた。
そう、温泉へ潜水したことと長湯が原因で二人の明晰な頭脳はアホそのものに低下しているのだ。カミルは二人ののぼせた顔を見て、すぐ原因に気が付くと何度も二本指を主張するのだが、
「そうか、彼は僕らの人数を結論付けている」
「そうなの?」
「そうだ」
(ちげぇよッ!)
サインの意味が全く通じない二人。
イラついたカミルは思わず二人に向け、侮辱の意味を表すように中指を立てれば、
「はっ、先に進めということだと結論付けた」
(これはサインじゃねぇーーッ!)
勘違いしたニコラスはハッとした様子ですぐに潜水を始めてしまう。
しかしジーノはまだ理解していないようで、自分の右手で中指を立ててその意味を深く考え込んでいれば、
「……えっ? ジーノ?」
「なぜここにいるんですか?」
(あのアホ、見つかりやがった……!)
後ろからティアナたちに発見される。
ジーノは我に返ったようでゆっくり振り返ると視線を逸らしたりして言い訳を考え始めた。
「彼も
「うん、
「あ、あはは、ちょっとはお手柔らかにしてもらえると──」
「エイメンッ!!」
「はぐぁあぁあッーーーー!?!」
冷めた眼差しで射貫かれながらフローラに叩き飛ばされるジーノ。レクスの左隣で積み重なった桶に衝突して見事にノックアウト。
カミルは優男の評判を落として最期を迎えたジーノに手を合わせ黙祷を捧げる。
「しかし彼らが三人も隠れているのは奇怪ですね。もしや全員どこかに隠れているのでは?」
「あり得るわね。この辺りを探してみましょ」
(ちッ、アイツら勘付きやがった……!)
ティアナたちが捜索態勢へ切り替えたため表情をしかめるカミル。まだ次の岩陰まで三メートルもの距離があるというのに、このままでは見つかってしまう。
スゥーッ──
(……ん? あれは?)
目を凝らしたのは東側。
そこにはまったく違う方角へ向かうニコラスの人差し指が水面から突き出ていた。カミルは一瞬だけ「何をしているのか」と思考が停止したが、
「まさか、あの眼鏡野郎……俺に『先に進め』って言いてぇのか?」
すぐにその意図を汲み取った。
そう、ニコラスはカミルへ『先に進め』とサインで伝えているのだ。同時に『自分が囮』になることも指し示して。
「げほっごほっ! し、しまった僕としたことが……!」
「見て、あそこにニコラスがいる!」
「背水の陣ですね。全員で
「僕一人で陣とは呼ばないと結論付けよう!」
ニコラスは西側の位置で一気に浮上するとわざとらしく声を上げた。ティアナたちは一斉に駆け出し、ニコラスは時間を稼ごうと逃げ回る。
(お前の意志は無駄にしねぇからな、眼鏡)
その隙に潜水をして三メートル先の岩陰まで泳ぎ始めたカミル。多少、浮上する位置がずれてしまったが、ティアナたちはの注目はニコラスへ向いていたためバレることはない。
「この桶を……
「ぐぉおっッ……!!?」
バタンッ──
しかし到達したと同時にエレナが桶を投げ、ニコラスの後頭部に直撃させた。ニコラスは前のめりに倒れ、その顔をティアが踏みつける。
(この隙に脱衣所まで──なッ?!)
脱衣所は温泉から上がればすぐ目の前。
しかし新たな問題に直面したことで目を見開いた。
(どっちが、男の脱衣所だ……!?)
男の脱衣所と女の脱衣所の区別。
赤と青で別れているわけでもなくまったく一緒の出口。カミル自身も長湯の影響を受けていたせいか、どちらが男の脱衣所だったか思い出せず額を押さえる。
(一か八かで入って確認するか? いいやダメだ、そんな時間はねぇ。チャンスは一度切り、間違えることなんて──)
「後少しでッ……」
(……この声、眼鏡の?)
完全に捕まったニコラス。
顔をティアに踏まれながら声を振り絞ってこう叫んだ。
「
「うわっ、サイテーだ……」
「ふんっ、アーヴィン家も落ちぶれたものだ」
「……ニコラス、私も貴方に一つだけこう結論付けましょう」
プライドと人間性を捨てた発言。
ティアナたちからは軽蔑されると、顔を踏みつけていたティアが淡々とそう述べ、
「覗きをする者に生きる価値なしと」
「ぐぬぁあぁあぁッーー!?!」
顔面に凄まじい蹴りを打ち込んで吹き飛ばした。
同じく桶が積まれた場所へ突っ込み、ジーノの隣でノックアウト。カミルは変態発言をしたニコラスに手を合わせて黙祷する。
(あの眼鏡の遺言は、右の脱衣所にアイツらの下着があるということ……。つまり右側が女の脱衣所だ)
カミルは温泉から上がると左側の脱衣所へ駆け込む。
離れているティアナたちとの距離と立ち込めた湯煙。視界が遮られカミルの姿に気付くものはいない。
(なんとか、抜け出せたな……)
こうして踏み入った脱衣所。
カミルはティアナたちにバレずに済んだ、と胸を撫で下ろしてから顔を上げれば、
「……」
「あ?」
目の前に立っていたのはバスタオルを身体に巻かず、あられもない姿をさらけ出したヘレン。カミルは冷静に辺りを見渡してみると、ティアナたちの脱ぎ捨てた衣服や下着が目に入る。
「君は、存外にやらしいんだな」
(あの眼鏡、出口じゃなくて入り口の視点で言いやがったぁあぁッ!!)
ヘレンが口にしたのは呆れと軽蔑が込められた言葉。
カミルはその言葉を耳にしながら理解する。そう、ニコラスの右側の脱衣所というのは入るときの話。出口としての正解は左側だ。
「カ~ミ~ルっ♪」
「ちッ……」
振り返ると立っていたのはニコニコしたティアナ。
その両脇にはニコニコしたティアとエリザ。後方にはニコニコしたフローラとエレナ。しかしその笑みから感じ取れるのは殺意と軽蔑。
「……私がやる」
処刑人を名乗り出るのはルーナ。
ニコニコとした笑みはない。いつも通りの無感情な声色で無表情な顔。カミルは頬を引き攣りながら覚悟を決める。
「はっ、顔面を殴り飛ばすか? 来いよ、覚悟はできてる」
「……そう」
「だが覚えとけ、俺はそう簡単にくたばってやらなっ──ごッはぁッ!?」
ルーナの右拳から繰り出されるのは無慈悲な腹パン。
カミルは不意を突かれた一打に腹を押さえながら膝から崩れ落ちる。
「……海でのお返し」
「てッ……めぇッ……ごふっ……」
「しゃーく、しゃーく……」
カミルもノックアウト。
ティアナたちは最期の最期で生き延びることができなかったカミルに向けて、手を合わせ黙祷を捧げる。ルーナは海で聞いたサメの鳴き声を真似して煽りを入れていた。
「これで獣たちは排除できましたね」
「良かった良かった。それじゃあ、もう少しだけ温泉に入ったらご飯にしよ~」
温泉に戻っていくティアナたち。
こうして男たちの尊厳を賭けた戦いは当然のごとく女の勝利で幕を閉じるのだった。