今回の舞台は『母親と赤子』がテーマです。その関係上『生々しい描写・過激な描写』などが多く含まれております。それらに不快感を覚える方は自主的にブラウザバックをお願いいたします。
二時間ほど馬を走らせて辿り着いたのは、旧ドレイク領でもある母還の森の入り口。近くには『立ち入り禁止区域』と刻まれた木製の看板が立ててある。
「……母胎館とやらはこの先か」
私は馬から降りるとその異様さに表情を思わず曇らせた。まだ日中だというのにあまりにも森の中は薄暗い。中と外での境界線がくっきりと分かるほどにだ。
「お前はここで待っていろ」
「ブルルルッ……」
「明日までに帰ってこなかったら自由に暮らせ」
林檎とハチミツの瓶が入った袋を切り株の上に乗せ、フレデリカにそう伝える。そして禁止区域の境界線を越え、母還の森の中を突き進む。
ずぐっ、ずぐっ──
(……何だこの森は?)
踏み入れた瞬間、異様さが増した。
まず先ほどまで聞こえていたはずの鳥のさえずりは消え、代わりにくぐもった心音のようなものがかすかに聞こえてくる。
(木の枝や根も、奇妙な形をしているな……)
木々の枝は真っ直ぐに伸びず、互いにねじれるようにして絡み合う。更に土に張り巡らせられた根も、地表へ浮き出るようにして絡み合い……
「母胎館の方角はこの先か」
どうも気分が悪い。
長居するべきではないと私は母胎館へと早足で歩を進めることにした。一歩、二歩と前進を繰り返すたびに、森の歪さが露呈し始める。
「この臭いは……何だ?」
森の奥から漂ってくる奇怪な臭い。
腐った果実の臭いのようで、私は嫌悪感に満ちた表情で半目になる。だがしばらく嗅いでいると
(引き返すべきだな)
このまま進むと危険だ。第六感が激しく警鐘を鳴らしている。私は一歩だけ後退りをすると、来た道を引き返すことにしたのだが、
「そう易々と帰してはくれんか」
数歩だけ戻った段階で理解が及んだ。
歩いてきた道が変わっている。木々のねじれ方や地面に映った影の方向。まったくと言っていいほど異なる風景を見れば、道が変化しているのは明らかだった。
「……進むことしかできんな」
もうこの奇怪な森に囚われている。恐らく進んだところで母胎館には辿り着けない。延々とこの森を彷徨うことになるだろう。
(元凶を始末するしかないか)
この森を狩り場とするナニカがいるはずだ。食屍鬼か吸血鬼かはまだ分からない。眷属の可能性もある、と私は鞘に手を添えながら周囲を警戒しつつ前へと進む。
「この模様は、胎児か?」
ふと視線に入ったのは大木の幹。どこからどう見ても胎児の丸まった姿にしか見えない。私は気のせいだ、としばらく目を閉じてからゆっくりと瞼を開く。
「何が起きている……」
しかし消えなかった。
消えないどころか位置が移動している。下側に浮き出ていた胎児の模様は、私の目線まで上がっていたのだ。私はどういう原理なのかを調べるため、その胎児の模様へ右手を重ねてみると、
ドクンッドクンッ──
「……呼吸を、しているのか?」
樹皮がゆっくりと上下に動いていた。
硬いはずの樹皮は皮膚のように柔らかく、呼吸をするように一定のリズムを刻んでいるのだ。その時、
ねちゃっ、ぬちゃあっ──
「……?」
足元から聞こえたのは不快な音。
ブーツを確認してみると透明な粘液がいつの間にか付着していた。よく見てみれば、地表に浮き出た木の根から粘液が染み出ている。
「この感触が、懐かしい? ……いや、変に考えるべきではないな」
深く考えれば考えるほど混ざってくるのは余計な感情。私は今だけ思考を捨て、脚を動かし前へ進むことだけに専念する。
しかし木々の根を踏むたびに粘液の生暖かい感触がブーツに伝わってくるうえ、どこを目にしても木々の模様が胎児に見えてしまう。
「私は、この場所を知っている……」
同じ道を延々と繰り返して歩いているうちに、自分が生前この場所を知っているかのように思えてきた。そんな不思議な感覚を抱いていれば、木の幹に一冊の手帳が挟まっていることに気が付く。
「……手掛かりがあるかもしれんな」
母還の森についての情報が記されているかもしれない、と私は手帳を手に取ると中を覗いてみる。そこには日記のようなものがこう書かれていた。
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森の空気は湿っていて、生温かい。
耳元で「おかえり」と囁かれて振り返ったが、誰もいない。気のせいだろう。
それよりも、ここは静かすぎる。仲間の足音がもう聞こえない。
進んでも進んでも、同じ木がある。枝に刻んだ目印も消えていた。
赤ん坊の声がする。遠くで誰かが泣いている。あれは……弟だろうか?
おかしい、弟なんていないはずだ。
「お母さんが待ってる」って声がする。母さんはもういないのに。
でも……でも、声が懐かしくて、涙が出た。
ずっと、こうして誰かに名前を呼ばれたかった。
だけど、腕の中はとても温かそうだった。
彼女が言った。「もう頑張らなくていい」「帰っておいで」って。
わたしを、抱きしめてくれた。
なんて優しい手だったんだろう。
母さんじゃなかったけど、母さんだった。
なにもかも、許された気がした。
────────────────
「やはりナニカがいるのか」
日記の持ち主が指すあの人。
これが母還の森に潜んでいるナニカなのだろう。私は他にも情報がないかと最後のページを捲れば、黒ずんでいる紙に赤いインクでこう書き記されていた。
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体が重い。
目が見えない。
声が聞こえる。
どく、どく、どく。
――わたしは、今、おなかの中にいる。
やっと、帰ってこれた。
もう、出なくていい。
外は冷たくて、苦しくて、怖いから。
ここはあたたかくて、しずかで、ずっと……しずかで……しずかで……
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残されていた不気味な文章。
手帳の内容に最後まで目を通した後、私は無言のまま俯いてこう確信した。最後のページは手遅れになった状態で書き記したものだと。
──おぎゃあっおぎゃあっ
「今のは、赤子の声か……?」
突拍子もなく聞こえてきた赤子の泣き声。
私は手帳を懐に仕舞い、泣き声が聞こえた方角へ身体の向きを変える。
──おんぎゃあおんぎゃあ
「方角は向こうか」
私は泣き声の根源を突き止めるため歩き出す。
誘導されているようにも思えるが、どちらにせよこの森を抜けるには潜んでいるナニカを始末しなければならない。
──んぎゃっんぎゃああ
(……? 声が遠ざかっている?)
声のする方角へ歩き続けていれば、いずれ泣き声は大きくなるはず。しかしむしろ声は遠ざかっていく。奇妙な現象に、私は思わず足を止めれば、
「おんぎゃあぁっ」
「……っ」
自身の足元から赤子の泣き声が聞こえた。
私はすぐさま視線を下ろしてみるが赤子の姿はどこにもない。更には今まで聞こえていたはずの赤子の泣き声がピタッと止まってしまった。
(……今のは幻聴だったのか?)
無音の世界。
自身の心臓の鼓動だけが私の耳に届く。何が起きているのか、未だに理解が及ばない。
「おぎゃあ"ぁあ"ぁあ"ぁぁあ"ッ!!!!」
「──ッ」
と、思考を張り巡らせた途端──耳を
「下らん小細工を……」
大木へ突いた手に伝わるのは脈を打つ生命の鼓動。そこで私は何が起きているのか、ハッキリと理解した。
「……精神干渉か。どうりで感覚が狂っているわけだ」
迷い込んだ者を狂わせるのが母還の森。
私の精神は潜んでいるナニカによって汚染され始めているのだと。その証拠に、口の中の唾液が甘くなっている。
──おかえりなさい
「……?」
左耳に聞こえる囁き声。
どこかで聞き覚えのあるその声は、優しさに満ちた慈母のようなもの。誰がいるのかと振り返ってみるが、そこには誰もいない。
(今、出来るのは……前に進むことだけだ)
立ち止まると気分がより悪くなる。
私は鞘から刀剣を引き抜いてから、ひたすら前へ前へ歩き続けることにした。
「おかえりなさい」
「……っ」
しばらく歩いていると、すぐ背後から聞こえる慈母の囁き声。振り向きざまに刀剣で横払いをしたが、虚空を掠めるだけ。
「おかえりなさい。おかえりなさい」
「……あれが、元凶か」
ついに姿を現したナニカ。
数十メートル先に立っているそれは、白い
「おいで。おいで」
(始末するしかない)
私を手招きをする大柄の妊婦。
銃を逆の手で引き抜くとその銃口を向けた。その妊婦は隠れようともせず、ただ手招きだけを繰り返す。私は引き金に指をかけ、
パァンッ──
「帰っておいで。帰っておいで」
「……効かんのか」
発砲した。
だが何食わぬ顔で大柄の妊婦は居座っている。恐らく私だけが見えている幻影。本体はどこかに隠れているのだろう。
「おかえりなさい。おかえりなさい」
(この女、私が視線を外すと距離を詰めてくるな)
視界から外せば、すぐ背後に現れて囁き……視界に収めれば数十メートル先へと後退して、こちらへ手招きを繰り返す。この妊婦女は私を精神的にじわじわと追いつめようとしていた。
(……所詮は偶像に過ぎん。今はどう始末するかを考え──)
「
どう対抗しようとかと考えた途端、耳元でその名を呼ばれて歩みを止める。知っている声と、知っている名前。ゆっくりと振り返り、数十メートル先に立っている妊婦女を見れば、
「マリー、お帰りなさい」
「なぜ、貴様が現れる……?」
最初の人生で私を産んだ母親が立っていた。抱き抱えているのは赤子の私。あらゆる記憶が脳裏を過る。だがその記憶はすべてが母親との記憶ばかり。
「さあ、おいでマリー」
「……っ」
無意識のうちに足が母親の元まで歩き出す。右手に握っていた刀剣を手放し、左手に構えていたはずの銃を投げ捨て、一歩ずつ母親のところへ戻り始めた。
「あなたを産んだのは私よ、マリー」
「……」
「さあ、おなかのなかに戻りましょ」
「……」
母親の顔をした妊婦女もこちらへ歩み寄ってくる。大きな両腕を広げ、私の目の前まで辿り着くと、ゆっくり
「私のおなかに、還るのよマリー」
産着の下に肉体が徐々に呑み込まれていく。その感覚はとても安心するような、快楽に近いもの。私は呑み込まれながらも、今まで閉ざしていた口を開き、
「私は、貴様を──」
「おいでおいで。おなかに、おいで」
左目を紅色に染め上げ、両肩から蒼色の炎を纏わせると、
「──許していない」
「ンぎゃあ"ぁぁあ"ぁぁぁあ"あ"ッ!?!!」
獄炎を全身で包み込み、呑み込もうとした妊婦女を炎上させた。これはバートリ卿から受け継いだ血涙の力の一つ『インフェルノ』。眷属であるケルベロスのような獄炎を自在に操れる力。
燃え上がった妊婦女は、悲鳴にも似た赤子の声を森中に響き渡らせた。
「私を利用した貴様を……母親だと思ったことは一度もない」
最初の人生は生まれた瞬間から母親を恨む毎日。
その嫌な記憶が湧き水のように溢れ出してきた。
『私がこんなにしてあげてるのにって言わせないで。あなたの幸せなんて、私の手中にしかないのよ』
『泣いた顔が醜いわ。そんなの、誰が助けたいと思うの?』
『私に産んでもらっておいてまだ文句を言うつもり? ……愛してほしい? 寝言は棺の中で言いなさい』
『次は頑張る? そう言って何回裏切った? 努力なんて結果が出なければ嘘なのよ』
何をしても否定され続ける日々。
努力も容姿も何もかもあの女に貶され続けてきた。思い出すとあの女に殴られた右頬が熱くなり、何度も与えられた鈍痛が全身を駆け巡る。
『好きだの愛だの、そんなものは庶民の娯楽。あなたには選ぶ権利なんて最初からないわ』
『今さら反抗? いい加減にしなさい。自分の顔が私の若い頃に似ているからって、思い上がらないで』
『あなたは私の
『あの婚約者を見なさい。顔も血統も申し分ない。なぜ
色沙汰すらまともにできない人生。
自分の愛を否定され、政略結婚で好きでもない男と結ばれるよう強要された。思い出すと愛してもいない男に奪われた純潔と純情で、下腹部がキリキリと痛みだす。
『あなたって、
最後には期待外れだったと愛想をつかれる。あの女に最初の人生を壊された事実は揺るがないだろう。けれどあの女はもうこの世にいない。だから思い出すことを止めていた。
「……貴様は、私の禁忌に触れた」
「ギャァア"ァア"ァア"アッーー!!」
私は嫌な記憶を無理やり頭の中からかき消し、目の前で炎上しているあの女の顔をした怪物を見上げ、苛立ちのあまり獄炎の火力を更に上げる。
「ンギャァアッ!! 私、私はあなたの母親なのよぉお、マリィイィーッ!」
「違う、私の母親はシーラだけだ」
あの女の声を耳にするだけでも不快極まりない。
私は迅速にトドメを刺そうと、右手であの女の顔をガシッと掴み上げ、
「失せろ」
「ンギャァア"ァア"ァア"ッーー!!?」
地面へと全力で叩きつけ、頭部を粉々に砕いた。赤子の叫び声と共に妊婦女は、全身が乳白色の液体となって地面へ溶けていく。
「やはりすべて幻だったか」
歪んでいた世界が元に戻っていく。
元凶を始末したことで、木の幹に見えた胎児のような模様や、ブーツに付着した粘液は瞬く間に消えた。
「……私は、貴様のようにはならんつもりだったが」
自分の中に流れている血統。
何百と転生を続けていれば血筋は流れていない。だが少なからず、あの女から受けた影響は残り続けているだろう。
「マリアという名を継ぎ、テレシアを師にした……。貴様との因縁はどうも切り離せんらしいな」
未だに因縁は断ち切れていない。
そうなってしまっているのはあの女が最期を迎えるまで、私は言いなりの人形だったから。自ら決別を訴え、切り離そうとしなかった。だから今も何千年と引きずり続けてしまう。
「あれは……」
私は落とした刀剣と銃を手元に引き寄せて回収する。
そしてふと北の方角を見つめれば、数メートル先に見えるのはひっそりと佇む洋館。恐らく調査対象である母胎館だ。私が来ることを待ち構えていたかのように、鉄製の門が開いていた。
「……下らん余興だったな」
卒業試験の目的は母胎館の調査。
私はここからが本番だと回収した刀剣と銃を仕舞い、待ち構える母胎館へ向かうことにした。