時刻も日が沈む時間帯。私はキリサメの部屋を後にし、男子寮の廊下を歩いていた。夕暮れ時に近い時刻のせいか、生徒とはあまりすれ違わない。
(……異世界か)
キリサメが住んでいた世界は、この世界の戯言をそのまま具現化させたものに近いだろう。吸血鬼共が実在しない世界だ、と過去に聞いてはいたがここまで文明も発展しているとは思いもしなかった。
「ねぇねぇ、可愛い子ちゃ~ん?」
(吸血鬼共が原因でこの世界の文明は……)
吸血鬼共が存在するか存在しないか。たったそれだけの違いでこの世界はここまで文明が遅れている。私はその事実に表情を曇らせながら黙々と歩き続ける。
「ちょっと無視しないでよ~! 俺のこと見えてるでしょ~?」
「……」
「あれ? 俺って、もしかして見えてない系?」
もしくは文明を発展させる方向性の違い。この世界ではどれもが吸血鬼へ抵抗するための発展ばかりだ。
(……その可能性が高いな)
自問自答で結論を出した私は数秒だけ歩みを止め、男子寮から外に出るために前を向いて歩き出したのだが、
「見えてないなら~……ほいっ!」
「……」
先ほどから私の周囲をウロウロとしている
「ねぇねぇ~! これからどこ行くの~?」
「……」
「あ、そうだ! 俺と一緒にご飯食べようよ~! お腹空いてるでしょ~?」
「……」
私は蠅のような男をズルズルと引きずりながら、男子寮の廊下を歩き続けた。当然だが、すれ違う男子生徒から注目を浴びてしまう。
「……誰だお前は?」
「あっ、やっと目を合わせてくれた?」
私は男子寮の出口が見えたところで足を止め、抱き着いている男に声を掛けた。恐らくこの男は、私が反応を示すまで何が何でも離れようとしない。
「俺の名前は
ロイと名乗った男は小麦色の長い髪を後頭部で一つ結びにしている。キリサメよりも背が高い上、顔も美形の部類に入るだろう。しかし制服の着こなしはだらしなく、何よりも性格と言動が気に食わない。
「プレンダー……お前は
「うんうん~! 君の言った通り、俺はあの名高いプレンダー家の人間だよ~!」
プレンダー家は"東の命題"と呼ばれる
『"嫌われ者"、いつ吸血鬼になってくれんだ?』
『"自信家"、私は吸血鬼にはならない。なったとしても――お前が吸血鬼に殺された後だろうな』
キース・プレンダーは初代十戒の中で私を最も嫌っていた。"生意気な態度"と"協調性の無さ"が気に障るらしい。
「名家だから顔立ちも整ってる方でしょ~? 俺と仲良くすると良い事あると思うんだけどな~」
アベル家やレインズ家の人間は多少なりとも始祖の面影を感じる。だがこの男に限っては面影を微塵も感じさせない。
「あ、でもさ~! 君も負けず劣らず美人さんだよね~。俺と君が二人並んで歩けば美男美女の完成じゃない~?」
「下らん」
「あっ、ちょっと待ってよ~!」
私はロイの手を振り払い男子寮から外へ出たが、この男は諦めるどころか更に気合いを入れて、こちらに絡んでくる。
「俺の話を聞くのもつまらないでしょ~。君のことも色々と教えてよ~?」
「お前に話すつもりはない」
「えぇ、そんな強い当たりしないでさ~! 名前ぐらい教えてよ~!」
このままでは埒が明かない。私はアカデミーの正門近くで立ち止まると、追いかけてくるロイと視線を合わせた。
「教えるのは名前だけだ」
「うんうん、それでいいよ~」
「……アレクシア・バートリ」
「アレクシア・バートリ、とってもカッコイイ名前だね~」
ロイは慣れた口ぶりで姓名を褒め称えると私の右手を握ってくる。
「じゃあじゃあ、これからは"サディちゃん"って呼ばせてもらおっかな~」
「……サディ?」
「それは君が"ドSな可愛い子ちゃん"だから。……あっ、俺は君のようなタイプも全然ありだから安心してよ~! むしろバッチコイって感じだし~」
ニコニコしながら私の前に顔を近づけるロイ。Sの正式名称は
「私は名乗った。その手を離せ」
「ごめんごめん~! サディちゃんの肌はツルツルしてるから、ついつい触りたくなっちゃってね~」
「……離せ」
「冗談冗談~。そんな睨まないでよ~」
蔑みの視線を送るが、ロイはむしろ喜んでいるように見えた。相手をする時間が無駄だと考え、私は早足で女子寮へ向かう。
「バイバ~イ、サディちゃん~!」
「……」
「今度は
後方で愉快にそう叫ぶロイ。私は振り返ることもなくそのまま歩を進める。
(……あの男、後をつけていたな)
ロイが最後に放った「俺の部屋にも」という言葉。私がキリサメの部屋に入る瞬間か出ていく瞬間を知らなければ、自然と口からは出てこない。
「あれでもプレンダー家の端くれか」
気が付けなかったのは私が警戒を怠っていたこともあるが、あの男が自らの気配を殺していたことも理由の一つだ。
「……まぁいい」
私は厄介な蠅を追い払えたことに安堵すると、女子寮へ戻って身支度を整えてから、本校舎で手短に食事を済ませることにした。
――――――――――――――――――
夕食を済ませた私は、一人で自室へと戻る。食堂でクレア・レイヴィンズとジェイニー・アベルを見かけたが、私は気が付かれないように二人から最も遠い席に座り、食事を摂った。
「……盗人のように身を潜めて過ごすのは面倒だ」
独りで過ごしたいというのに面倒な人物に絡まれてばかり。私はどうしたものかと、着ていた制服を脱ぎ捨て、寝間着が置かれた洗面所まで向かう。
「はぁ……」
食堂へ移動する前に、バスタブへお湯を張っておいた。私はまず身体をお湯で流してから湯船へ浸かると、ふと子爵との戦いを思い返す。
(……転生による肉体強化や前世の記憶に助けられてはいる。だが吸血鬼共の血に助けられたことの方が多い)
折れた刀身を突き刺された左肩に手を触れる。この怪我は吸血鬼共の血の影響もあり、たったの三日で完治した。本来であれば治療に一ヶ月以上はかかるはずだ。
(再生能力だけじゃないな。暗闇でも不自由なく戦える。身体能力も今のところは吸血鬼に劣っていない。今まで何度も助けられて――)
そんな言葉が脳裏を過った瞬間、私は湯船に勢いよく顔を浸からせる。
(……私は何を考えている)
吸血鬼共は人類の敵だ。滅ぶべき種族で、魂を売ってはならない存在。ほんの一瞬でも吸血鬼共の血に助けられたと考えたくはない。
「……二十一時か」
湯船から上がり、身体を拭いてから寝間着へと着替える。洗面所から部屋に戻ると、時計の針は二十一時を指していた。
(明日からアカデミーの生活が始まる。今日はもう床に就いて――)
「あ、あのぉ、す、すいませーん!」
初日に寝坊などもってのほかだ、と私が眠りにつこうと考えた途端、扉のノック音と聞き覚えのある女の声が私の耳まで届く。
「あのぉ、すいませーん!」
「……」
「ありっ!? もしかして留守だったりしますか……?」
私はその場でじっと息を潜め、居留守を使うことにした。扉の向こうにいる女は、何度も何度も扉をノックする。
「明かりは点いているし、誰かいるとは思うんですけど……」
「……」
「ま、まさか、中で倒れてるんですか!? そうだとしたら放っておけません!」
(何を言っているんだこの女は――)
そんな大きな独り言が聞こえれば、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「あ、ありっ? そこで何をしてるんですか?」
(……鍵をかけ忘れた)
扉の向こう側にいたのは"D308"で暮らす桃色髪の女。私が部屋の中で息を潜めている姿を見ると、キョトンとした表情で立ち尽くす。
「……留守だ」
「えっ、そ、そこに立ってますよね?」
私は指を差されれば、わざとらしく視線を逸らした。桃色髪の女は躊躇することもなく、こちらに詰め寄ってくる。
「あのぉ……」
「何だ?」
居留守を使ったことに関して文句を言われるのだろう。私はそう考え、僅かに身構えた。
「お風呂、貸してもらえませんか?」
「……何だと?」
しかしその女は文句なんて思いつかない様子で、申し訳なさそうに用件を述べてくる。
「私の部屋、お湯が出ないんです。我慢して冷水を浴びるのも嫌ですし、かといって不潔なまま明日を迎えるのも嫌で……」
「他を当たれ。隣の部屋はもう一つあるだろう」
私が顎で示したのはこの部屋と真逆の位置にある部屋。少女は頬を引き攣りながら嫌そうな顔をする。
「えっと、それはちょっと……」
「何か問題でも?」
「"D307"からは『よっしゃあー!』とか『私って天才!』とか、とにかく大きな独り言が聞こえてくるんですよ。だから尋ねるのが少し怖くて……」
"D307"の部屋には変人が住み着いているらしい。少女は私にそう理由を説明すると頭を下げてきた。慣れているのか、頭を下げることに躊躇がない。
「昼頃に助けてくれたのもあなたですし、頼れる人はあなたしかいないんです。どうかお願いします」
「……今回だけだ」
「あ、ありがとうございます! 明日からはどうにかして直します!」
私が渋々了承すると少女は自分の部屋まで駆けていき、入浴するために必要な衣類などを抱え、すぐに戻ってきた。
「あ、あの、私は
「……イザード? お前は
「ありっ、ご存知なんですね? ちょっぴり嬉しいです!」
イーストテーゼ出身のイザード家。始祖の名前は
『ハロー"外道"さん! 今日も資金を稼ぐために、お得意の死体漁りをしてるの?』
『その通りだ"無性"。神への貢献度稼ぎより、資金稼ぎをした方がよっぽど役に立つだろう』
『心も絹袋も貧しいのは悲しいね。僕がどちらか分けてあげよっか?』
『その"小さな脳"と"浅はかな経験"で分けられるのならな』
ノエル・イザードは私と"言葉遊び"をするために度々姿を現した。だが姿を見せる理由が暇つぶしなのか、それとも煽り合いがしたいのか。それだけは未だに不明なままだ。
「名家の一つだ。知っている人間の方が多い」
「それはそうですけど、やっぱり"落ちこぼれの家系"と言われてるので……」
「落ちこぼれだと?」
「今の十戒様の中にイザード家の人間がいないんです。イザード家の枠はレインズ家に取られてるので、周囲から名家の恥だとよく酷評を受けてまして……」
苦笑いをするアリス。私の知る時代ではイザード家が落ちこぼれの家系と呼ばれることはなかった。知らぬ間に歴史が変わっているのか。
「以前の十戒にはイザード家の血筋を継ぐ者はいたのか?」
「はい。それでも実力は十戒様の中では最底辺で、過去の選抜ではついにイザード家の人間が選ばれなくなりました。……あっ、す、すみません! 先に身体を流してきます!」
アリスは我に返ると洗面所へドタバタと駆けていく。私はその後ろ姿を見送り、ベッドの上へ仰向けに寝転がった。
「あ、ありっ!? これって、どこでお湯を止めるんですかーーッ!?!」
「……入学初日からこの有様か」
洗面所から聞こえてくるアリスの声。私は先が思いやられると溜息をついてから、重い足取りで洗面所まで向かうことにした。