鼓膜が震えんばかりの咆哮。私はルクスαを右手に握りしめながら、ケルベロスの三つ首まで距離を詰める。
「無謀だ、人間」
「無意味だ、人間」
「無駄だ、人間」
右前足の鋭利な爪で薙ぎ払いを仕掛けてくるが、私はその場で飛び上がり、中央に位置する頭部の
「小賢しいぞ、人間」
「効かぬぞ、人間」
「噛み砕くぞ、人間」
「お喋りな犬だ」
左右の頭部がこちらに噛みつこうと首を伸ばしてきたため、リボルバー銃を発砲し、四発の弾丸で両眼玉を的確に撃ち抜く。
「「「ガルァアァアァアァッ!!」」」
「……!」
咆哮を上げながら大きく身体を揺さぶるケルベロス。その声量に顔をしかめると、私はルクスαを頭部から引き抜き、キリサメたちの元まで飛び退いた。
「アレクシア、ここから逃げた方がいい! あんな化け物は倒せない!」
「あの犬は血を流した。だから殺せる」
「そんな脳筋みたいな理由で……!」
キリサメは僅かに恐怖し、何よりも焦っている。私は不信感を抱きつつもリボルバーの弾倉へ弾丸を込め、
「どちらにせよ、あの犬からは逃げられない。私が相手をしている隙に、お前たちは今すぐこの場を離れろ」
「待てよ、アレクシア……!」
今度こそ仕留めようと斬りかかった。キリサメが後方から呼びかけてくるが、無視をして中央の頭部に向かって、ルクスαを振り上げる。
「近づいたら駄目だ、もっと離れて戦わないと! だってそいつは、ケルベロスは――」
こちらから接近すれば茶色の毛を逆立て、ケルベロスは鼻息を荒くさせた。キリサメは未だに呼び掛けてくるが、私は足を止めない。
「――炎を操れるんだよ!」
「……ッ」
しかし最後に叫んだその言葉を耳にした瞬間、反射的に後方へと飛び退いた。
「「「我らの獄炎を味わうがいい、人間」」」
咆哮と共にケルベロスの巨体が発火し、灼熱の獄炎に覆われた。周囲に吹き荒れる熱風と共に、迫りくる獄炎が私の肉体を包み込む。
「この炎は……」
「アレクシアさん!」
血塗れの地面に転がりながら、羽織っていた制服のコートを他所に投げ捨てた。獄炎によって炎上したコートはあっという間に塵へと成り果てる。
「……あの犬」
私はすぐに態勢を立て直すとケルベロスの両目玉を撃ち抜いてから、傍観するキリサメの胸倉を掴み上げた。
「何故あの犬が炎を操れると分かった?」
「あ、いや……そ、それは……」
「サディちゃん! あの化け物は怯んでるから今のうちにここから逃げよう!」
「同感だね! こんな状況で言い争いして、あの猛犬の餌になるなんてごめんだよ!」
キリサメを問い詰める私の背中を軽く押してくるロイ。アビゲイルやアリスもキリサメから私を引き離し、森の中へ強制的に連行する。
「見えぬな、兄弟」
「追えぬな、兄弟」
「案ずるな、兄弟」
(……やはり傷は再生するか)
後方を振り返れば、ケルベロスに負わせた傷は徐々に再生していた。あのとんでもない図体で、吸血鬼共特有の再生能力まで持ち合わせているらしい。
「ふぅ、ここまでこれば今は大丈夫だよね~」
数分ほど森林地帯を全力で駆け抜け、ケルベロスを撒くことに成功する。私たちは木々の近くで腰を下ろし、荒い呼吸を整えた。
「アレクシアさん、その火傷は……」
「問題ない。熱湯を被った程度だ」
露出した両肩の皮膚が酷く腫れている。制服も焦げ臭く最悪の気分。私はその場に立ち上がり、俯いているキリサメの元まで歩み寄る。
「もう一度問おうか。何故あの犬が炎を操れると分かった?」
「……」
「なら聞き方を変える。何故あの犬が炎を操れると
私に追及されたキリサメは唇を歪ませ、片手で額を押さえながら、ぽつりぽつりとその理由をこう語り始めた。
「……この世界に転生してくる前、読んでいた小説があったんだ。その小説は、俺が前に話した
「それで?」
「他の異世界転生モノと違ったのは、主人公は悪役として人間相手に無双する物語だってこと。
「それとこれとで何の関係が――」
「使役する眷属の中にも、ケルベロスがいたんだ」
キリサメが強調するように言い放ち、私は言葉を止めてしまう。
「……何だと?」
「これは偶然じゃない! 小説の中のケルベロスとあいつはそっくりなんだ! 炎を操る前の予備動作とか、本当にそのまんまなんだよ!」
「嘘はついていないな?」
「嘘じゃない、本当だ!」
必死に訴えかけるキリサメの瞳を覗き込む。感じ取れるものは焦りと混乱。あの獄炎を予測したことも踏まえ、この男は嘘をついていない。
「あ、あの? 先ほどから、何の話をしているんですか?」
「うんうん、異世界がなんたら~……っていうのはどういうこと~?」
「皆に俺のことを教えるよ。信じられない話だけど、聞いてほしい」
キリサメは話についていけないロイたちへ、自身が違う世界に住んでいた過去、ケルベロスと小説の関係性を説明する。
「そ、そうだったんですか。キリサメさんは、そんな変わった世界に住んで……」
「ん~、やっぱりカイトくんも色々と事情を抱えていたんだね~」
「にしても、信じ難い話だね。吸血鬼が存在しない世界ってのが」
ロイたちはキリサメの話を聞き、納得したり不審がる様子を見せた。私は三人を押し退けて、キリサメに自身の顔を近づける。
「あの犬を殺す方法を教えろ」
「それが、分からないんだよ」
「分からないだと?」
表情を険しくさせるキリサメ。地面に生えた雑草を握りしめ、異世界転生とやらが記された本に付いてこう話す。
「言ったろ、主人公は異世界で無双するって。従える眷属はどいつも強くてさ。弱点らしきものも一切出て来なかったし、劣勢になったことすらないんだ」
「つまり私たちが相手にしているのは──『幼児が考えた敵なしの眷属』ということか」
「まぁそんな感じだよ」
私は子供が妄想したような設定を教えられ、呆れながら側の大木に右手を突いた。どんな者も踏み倒す敵なしの眷属。こんな馬鹿げた存在と戦うことは、ほぼ無謀に近いだろう。
「……あの犬は炎を操る以外にも妙な力を持っているはずだが?」
「あぁうん、アレクシアの言う通りだよ。炎を操る力と『範囲内の音を消せる力』を持ってるんだ」
「やはり音を消せるのか」
座り込んでいるキリサメは顔を上げ、残弾を確認する私に視線を送ってくる。
「確か小説の設定だとケルベロスの位置から『半径十五メートル内』の『声以外の音を消せる』……って書いてあったはず。ついでに鼻も利くってさ」
「どうりで銃声が聞こえないわけだ」
あの馬鹿げた犬が現れる直前、木の葉の擦れる音や風の音がまったく聞こえなかった。当然、ケルベロスの足音も荒い鼻息も耳には届いていない。
「あの犬が接近すれば周囲の音は聞こえなくなる。それを目印に犬の接近を察知しろ」
「で、でもどうしましょう? 倒し方も分からないので、逃げることしかできませんよ?」
「ん~、朝になるまで待てばいいんじゃない~?」
「駄目だ、ケルベロスは日光じゃ死なない! 朝になっても、俺たちを殺そうとどこまでも追ってくる!」
朝になってもケルベロスが灰にならない。立ち上がって反論をするキリサメに、ロイは「そっか~」と顔を俯かせた。
「ならこの森であの犬を始末するだけだ」
「どうすんのさ? あたしらの武装であんな化け物を殺せる火力なんて出せるの?」
「……考えがある」
「考えって何ですか?」
私はリボルバー銃に弾丸を補充すると、腰に携えていた鞘に左手を触れる。そしてアリスたちへ作戦を伝えた。
「あんた、それマジで言ってんの?」
「冗談だと思うか?」
その内容を聞けば聞くほど、四人は神妙な面持ちへと変わっていく。すべてはケルベロスを確実に始末するため。多少は無理をしなければならない。
「うん、俺はやってみる価値はあると思う。このままやられっぱなしもムカつくし~」
「……はい、私も覚悟を決めます! やりましょう!」
「あーはいはい分かったよ。あの化け物から生き残るためだ。あたしも協力する」
三人は渋々賛成したがキリサメは同意しようとしない。未だにケルベロスについて考え込んでいる。
「そんなんで、本当に勝てるのか?」
「決まるのは勝ち負けではない。生きるか死ぬかだ」
「……あぁそうだよな。この世界は、異世界転生ほど甘くないんだろ?」
問いかけるキリサメに私が小さく頷いた後、全員で顔を見合わせ、作戦を実行するための下準備を始めた。
「音が聞こえなくなった。作戦通りに走れ」
「オッケ~! いこっかみんな~!」
「はい、絶対に生きて帰りましょう!」
そして周囲の音が聞こえなくなったタイミングで、全員が別々の方角へ走り出す。ケルベロスは三つの頭部を不規則に動かし、私たちが逃げていく後ろ姿を眺めた。
「また逃げたな、人間」
「臆病者だな、人間」
「滑稽だな、人間」
作戦開始の合図。私はディスラプターの銃口を、黒雲が立ち込める夜空へ向け発砲すると、森林地帯を駆け抜けた。