次の日の朝。
私は寝間着姿のままベッドの上で横になり、書庫で借りてきた本を読み漁っていた。今は各々が派遣任務をこなす期間の為、既に任務を終えた生徒は自由な時間を過ごせる。
「アレグジアざぁあぁん!」
「……」
扉の部屋をどんどん叩く音。鼻を啜って泣きじゃくるようなアリス・イザードの声。嫌な予感がし、寝返りを打って扉側へ背を向ける。
「だずげでくだざぁあぁい!」
「……」
「おねがいでずぅうぅ!」
「……」
「アレグジアざ──」
耳障りで読書に集中できない。私は不快な気分で扉を勢いよく開くと、そこには寝間着姿のアリス。顔は案の定、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「何だ?」
「出たんでずぅ!」
「何が?」
「"ネズミ"がぁ!」
「どこで?」
「わたじの部屋でぇえぇ~!」
「そうか」
事情だけ聞いて扉をすぐに閉めると、アリスが再び扉をドンドンと激しく叩く。
「何だ?」
「部屋に戻れないんですよぉ! ネズミを退治してくだざいぃ!」
「自分でやれ」
「ごわいから無理なんですぅ!」
ネズミの一匹すら殺せないなら食屍鬼を殺せるはずもない。なぜアカデミーに入学してきたのか。私が呆れて物を言えない状態でいると、
「あんたたち、何をしてるんだい?」
「アビゲイルざぁあぁん!」
「うわっ、何だいその爆撃を食らったような酷い顔は!?」
扉の外でアビゲイルが駆け付けたのか、泣き顔のアリスに驚きの声を上げていた。
「ネズミが部屋に出たんですぅ!」
「ネ、ネズミ?」
「そうなんですよぉ! 怖くて怖くて部屋に戻れなくでぇ!」
「は、はぁ……だからあんたはアレクシアの部屋を尋ねて……」
「断った」
「まぁ、だろうね」
私が扉越しにそう言えば、アビゲイルが苦笑交じりに納得する。アリスは相も変わらず泣きじゃくったままだ。
「ん~……協力してあげたいけどあたしはまだ車椅子の状態だし、ネズミの一匹も捕まえられないよ」
「お願いじますぅ! 一週間後には大事な派遣任務があるんでずよぉ!」
「アレクシア、気に入らないだろうけど手を貸してあげな。アリスがこのまま部屋に入れなかったら、色んな意味でアカデミー生活がおしまいだよ」
「チッ……」
私は塞いでいた扉を開き、すぐ隣にあるアリスの部屋へと乗り込む。
「どうりでネズミが徘徊するはずだ」
とてつもなく部屋が汚い。洋菓子やらのカスが床に落ちていたり、部屋の隅に埃が溜まっていたりとアリスの無能さが窺える。
「酷い部屋だね」
「……お前の部屋でネズミが出たことはあるか?」
「ないよ。あたしの部屋はここまで酷くもないからね」
私は窓際の本棚を動かし棚裏を確認してみると、丁度ネズミ一匹が通れる穴を見つけ、床に落ちていた布切れを拾い上げた。
「ど、どうしてそこに穴があるって分かったんですか?」
「私の部屋にもその女の部屋にもネズミは出たことがない。廊下側にも穴はない。なら通り道となるのは窓際の壁だが……」
穴の前にあるネズミの足跡、僅かに覗かせたビニール袋。私は天井を見上げる。
「天井に住み着いている」
「て、天井に?」
「この穴はダミーだ。ここを潰したところでまた別の場所に穴を作る。お前よりも賢いネズミらしい」
「ガーン……」
ショックを受けているアリスを無視すると天井へ右手をかざし、血涙の力の一つであるフラクタルを発動する。
「あんた、その力は……」
「察しの通りだ」
細い蔓を天井裏へと忍ばせ大雑把に捜索を開始すれば、すぐにそれらしきものを蔓で感知した。血管を蔓へと変化させているせいか、感触や気配がこちらへと伝わってくる。
「……」
「ど、どうですか?」
「子持ちのネズミだ」
「え、えぇえぇッ!?」
感じ取れた気配は大型のネズミが一匹、小型のネズミが二匹。恐らくは母親と子。アリスが声を上げている他所で、私は蔓を三匹のネズミの首へと巻き付ける。すると天井裏でドタバタとのたうち回った。
「おぉ、暴れてるみたいだね」
「このまま首の骨を折って殺した方がいい」
「それに同感だよ。このまま天井裏をネズミ共の巣窟にされたらあたしらも困る。駆除できるうちに駆除した方がいいね」
私は右手に力を込め、ネズミの首の骨を巻き付いた蔓で折ろうとする。
「ま、待ってください!」
「……何だ?」
が、アリスが焦った様子で私の右腕に掴みかかってきた。
「こ、殺さずに……外へ逃がしてあげませんか?」
「お前は何を言っている?」
「だってそのネズミさんにも、私たちと同じように家族がいるんです。ここで殺しちゃうなんてあまりにも可哀想で……」
「……甘いな」
「え?」
私はアリスと視線を交わしながらも再び右手に力を込め、ネズミ共の首を蔓で絞め上げていく。
「このネズミ共に情けをかけて、ここへ二度と戻ってこないと思うか? いいや、間違いなく戻ってくる。何度でもお前の情けに齧りつくだろうな」
「そ、そんなことは……!」
「合理的に考えろ。ここでネズミ共を殺す行為、このまま外へ逃がす行為。この先、どちらが自分にとって損をしないか」
「……」
「殺せば二度と戻ってこないが、外へ逃がせば戻ってくる可能性は高い。どちらを選ぶべきかは明白だろう」
この女はキリサメと同じく、この世界で生きていくのに向いていない。敵だろうが情を抱いてしまう愚か者。
「で、でも!」
「何だ?」
「信じてあげたいんです」
「信じるだと?」
「ネズミさんたちに"生きて欲しい"という想いが伝わって、二度とここへ戻ってこない。そう、私が信じてあげたいんです」
「……軽薄な女だ」
「信じずに後悔するよりも、信じて後悔した方がマシですから!」
かざしていた手を右から左へと振り払い、蔓で捕獲していたネズミ共を外へと投げ飛ばす。
「ネズミさん……!」
アリスは窓際へと駆け寄る。母親のネズミはこちらへ見向きもせず、子ネズミを率いてどこかへ走り去っていった。
「あの子はお人好しがすぎるね」
「お前もそう思うか」
「あたしだったらネズミは一匹残らず殺していたよ。それこそあんたの言った通り、この先のことを考えてね」
「……あの女は私が最も嫌いなタイプだ」
「それは見てれば分かるよ」
アビゲイルは車椅子の小物入れをガサゴソと漁ると、私へ手の平サイズの何かを手渡してくる。
「これは?」
「あんたの新しい眼帯だよ」
「眼帯なら今付けている」
渡されたのは黒色の眼帯。外見だけでは特に何の代わり映えもない。
「まぁまぁそう言わずにさ。一回つけてみなよ」
言われるがまま付けていた眼帯を外し、渡された眼帯で左目を覆ってみると、
「……これは」
今まで完全に塞がれていた左目の視界に良好な景色が映し出されていた。眼帯を付けていない状態と何ら変わりない。
「その眼帯はあたしが開発したものだ。まるで眼帯をしていないかのような付け心地だろ」
「どういう仕組みだ?」
「それは……まぁ"機密事項"ってことで」
「そうか。これは助かる」
瞳の秘密を隠しつつ、死角という欠点を補える。私はアビゲイルへ感謝の言葉を述べながら、辺りを見渡して視界に問題がないかを確認した。
「そういえば、アリスから聞いたけど……どうしてあたしへA機関を志望しろと?」
「理由はない」
「それは嘘だね。あんたは合理的だから何か理由があって行動するよ。あぁもしかして、A機関への募集枠が今年多いから?」
「理由はないと言っているだろう」
「……ふっ、そうかい」
アビゲイルは何かを悟ったかのように微笑む。私はこの女からわざと視線を逸らして、床の上に落ちている本を拾い上げた。
「あんたはどの機関に所属するつもりなんだい?」
「……考えていないな」
「だろうね。まぁあんたのことだからどこへでも所属できるよ」
拾い上げた本は『山頂のピーター』という幼稚な題。中身の内容も絵本に近しいもの。落ちている他の本も同じように幼稚な本。この何冊もの本が今のアリスの思考を構築したのだろうか。
「私は自分の部屋に戻る」
「そうだね。あたしも自分の部屋に帰るよ」
「あっ、それなら皆さんで朝ご飯を食べに行きま──」
「お前はまずこの部屋を掃除しろ」
「え、えぇ!? ちょ、ちょっと待ってくださ──」
バタンッとアリスの部屋の扉を力任せに閉めると、苦笑するアビゲイルを他所に私は自分の部屋へ戻ることにした。
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アルケミスに構える城の王室。皇女であるヘレン・アーネットは広いバルコニーで、街の景色を眺めながら考え事をしていた。
「よっ、ヘレン嬢ちゃん」
「……!」
「おっと、おじさんだよおじさん!」
「パーシー……部屋に入るときはノックぐらいしてくれ」
背後から急に声を掛けられたヘレンは一瞬だけ睨みつけたが、その人物がパーシーだと認識し表情を緩める。
「おじさん、ここまで壁を登ってきたのよ。こうやって……ノックすれば良かったかな?」
茶化すようにバルコニーの手すりを軽くノックするパーシー。ヘレンは大きな溜息を吐くと、再度アルケミスの街並みを眺める。
「ヘレン嬢ちゃん、もしや乙女の悩みってやつかい?」
「大したことではない。それよりも城の壁を登ってきたということは、私に何か大事な報告でもあるんじゃないか?」
「ビンゴ! 実はそうなの、ちょっくら大変なことになっててな」
パーシーは報告書を取り出すとヘレンへと手渡した。そして葉巻を口に咥えると、オイルライターで火を点ける。
「ほら『吸血鬼たちの動向を観察する』という目的で建てたP機関の本拠地。ロストベアに一つあっただろ?」
「あぁ」
「壊滅しちゃった」
「何だって? 壊滅した?」
「ぶっ飛んでるだろ? 本拠地もキャンプ地もすべてだ。すべて跡形なく壊滅させられたのよ」
目を見開いているヘレンの横でパーシーは雲一つない満点の青空を見上げ、葉巻の煙をゆっくりと吐いた。
「生存者は?」
「ゼロ、誰一人としていない」
「……襲撃してきた敵の正体は?」
「不明。けど俺はな、ただの吸血鬼じゃないと睨んでいる」
パーシーは指先で自身の頭部を何度かトントンと叩き、ヘレンへ自身の推察をこう語り始める。
「知性の高い吸血鬼。P機関では『死ぬ間際でも痕跡として情報を残せ』とみっちり教え込んだ……にも関わらず、敵の情報らしき痕跡は見つからなかった」
「襲撃者が痕跡を抹消したと?」
「そうとしか考えられんのよ。情報を漏洩したくない原罪か眷属か、はたまたそれ以外のナニカか……これがおじさんの長年の勘ってわけ」
パーシーは咥えていた葉巻を指で摘まむと手すりに体重を乗せながら、ヘレンの方向へ身体の向きを変えた。
「そこでヘレン嬢ちゃんに一つご提案」
「提案?」
「おじさんね、P機関の汚名返上をしたいわけよ。百人以上も殺られて得られた情報はゼロ。P機関として情けないったらありゃしない。だから俺一人が吸血鬼の領土を偵察する許可が欲しい」
「……許可できない」
「ほぉ、どうしてだい?」
「今回の襲撃は予想外のものだ。パーシーの言う通り、P機関に大きな損失を与えた見返りは何もなかっただろう」
ヘレンは葉巻を摘まんでいる腕を掴み、パーシーの顔を見上げる。
「だが私はパーシーに責任を取らせるつもりはない。責務を感じて、損失への埋め合わせをしなくてもいい。君にはまだ生きて、十戒でいてほしい」
「ヘレン嬢ちゃん……」
「分かってくれるな──」
「ちょっくら胸が大きくなったか?」
二人の間に続く沈黙。しばらくするとヘレンはパーシーを脅すように右手を黙って振り上げた。
「ジョークよジョーク! 空気和ませるためのジョーク!」
「……」
「でさ、ヘレン嬢ちゃんの気持ちはよぉーく分かったけどな……やっぱり吸血鬼の情報網が途絶えるのはプロブレムだと思うのよ」
「一理ある。"寄生型"と呼ばれる食屍鬼がドレイク家に出没したと報告も受けた。新種が増え続けているとなれば、情報は少しでも欲しいところだが……」
「そこでヘレン嬢ちゃんへもう一つのご提案。その報告書を見てちょうだい」
ヘレンは先ほどパーシーに渡された報告書の黙読を始める。目を通せば通すほど、表情が険しくなっていく。
「どうよ? おじさんのご提案は」
「しかしこれは……」
ニヤニヤと笑みを浮かべるパーシー。報告書に書かれていたそんな彼からの提案は、
『ロストベアのクルースニク協会から情報を盗むため、アカデミーの生徒をスパイとして送り込む』
という内容だった。