1月7日。加茂川中央中学校の越冬気力充電期間────もとい冬休みが昨日を以って終了したので、本日は始業式が催される日である。
通学路では、重い足取りの子女たちが、世紀末もかくやと言った顔つきで列を成している。
その横を、まるで踊るかのような足取りで通り過ぎてゆく男が一人。乾燥するという季節柄を微塵も感じさせないほどに肌は艶を保ち、よく耳を澄ませば、鼻歌まで歌っているではないか。
さてその男、名は桐ヶ谷透真といって、この冬物語の綴り手を務めているのだけれど。畢竟、僕のことである。
▼
桐ヶ谷透真の冬休みは、実家である呉服屋「桐ヶ谷」の跡取り修行を強いられた、地獄のようなものであった。
成程、左様な苦痛から解放されたから冬休みが終わったと言うのに欣喜雀躍しているのか、と思った御仁よ。半分正解、半分不正解である。
僕が地獄と擬えるその二週間を隠忍自重できたのかといえば、二つ結びの“救世主”の存在があったからである。
彼女が手を差し伸べてくれたから、僕の心は救われた。
だが、同時に、
彼女が手を差し出してくれたから、僕の心は巣食われた。
恋という、桐ヶ谷透真が十四年間出会うことのなかった、未曾有の病魔に。
可憐なものを見て、彼女を空目してしまう。可憐なものを見ずとも、時折彼女のことを考えてしまう。ふと手の中に、彼女の指の形を作ってしまう。その度に胸に痛痒が走る。
誰に聞くまでもなく、解してしまった。これを恋と呼ぶのだと。
▼
僕は意気揚々と教室の扉を開け放つ。まだ朝が早い所為か、がらんどうとしている。だがしかし、座した影がたった一つ。トレードマークの二つ結びが矢張り印象的だ。
噂をすれば彼女である。僕は努めて鷹揚に挨拶をする。
「よう、パレオ」
「きっ……桐ヶ谷君!?」
彼女は、手に持っていた小説を放すと、パタンと音を立ててページが閉じられた。どうやら式が始まるまで、これを読んで時間を潰すつもりだったらしい。だが、相当読み耽っていたようで、僕の登校にも気付かなかったみたいだ。周章狼狽ここに極まれりといった様子である。
「ここで、その名前で呼ばないで下さい」
彼女は両頬を仄かな桃色に染めながら、人差し指を唇にあてがう。
「おっと、悪い悪い。失念していたよ」
「もうっ。新学期早々心臓が止まるかと思いましたよ」
言いながら、アンダーリムの眼鏡の位置を直す彼女こそ、鳰原令王那。この2年7組の学級委員長である。清く正しく、折り目正しく、
ところで、彼女には裏の顔がある。それは、悪の組織と血で血を洗う闘争の渦中に我が身を置き、人知れず無辜の民の笑顔を守る魔法少女─────というのは嘘であるが、魔法少女と見ても遜色ないフリフリでフワフワな洋服に身を包んだ、渋谷の街闊歩系少女であるということだ。
その姿の彼女のことをパレオと呼ぶのだけれど、彼女はあまり学校の生徒にこの事実を知られることを良しとしていないらしい。
彼女の希望に追従し、真面目委員長な彼女を“鳰原”、サイケデリックな彼女のことを“パレオ”と使い分けて表現することになるけれど、どうか御宥恕して頂きたい。
「ああ、そうだ。桐ヶ谷君。あのですね……」
何やら淀みながら言ってくる鳰原。僕は首を傾げて言い終わるを待っていると、他の子女たちが雑談を交わしながら僕らの教室に近づいてきた。
「や、やっぱり後で良いですか? すいません」
そう濁されるととても気になるけれど、詮索はしない僕である。
▼
始業式がいとも厳粛に、しかも滞りなく終わった後は、担任教諭の謦咳に接した。
もうクリスマスもお正月も終わったのだから、心機一転して勉強に精を出せ。2年生の3学期は、3年生の0学期だ。
敷衍すればこれだけの趣旨の話を、何故に長々と話せるのだろうか。甚だ疑問でならない。その話術をもっと別に活かせる仕事に就いたら良かったのに。まあ、斯様な縷々綿々とした話しぶりじゃ矢張り駄目か。
そんなことを思いながら聞き流していると、その日はこれで解散と相成った。
「久々の学校マジで疲れた〜」という旨の同窓生諸氏の会話をBGMに、早々に帰り支度を済ませた僕だったが、教室を出る直前にパレオに呼び止められた。
もしや、彼の妖怪──長話野郎がまた僕たちに何らかの雑用を押し付けてきたのか、と身構えたが、どうも違うらしい。
「体育館裏に来て下さい。話したいことがあるので」
今朝、言い淀んでいた件であろうか。話とは一体全体どういう要件であろう。わざわざ体育館裏で話さなくてはいけない内容なのか。今日は始業式なので、部活動は押し並べて休みである。だから、他の人に聞かれたくない話をするにはうってつけの条件ではあるけれど。
かくて約束通り体育館裏を訪うてみると、案の定鳰原の姿があった。
「悪いな、鳰原。待たせたか?」
「い、いえ私もさっき来たばかりです……」
鳰原は恥ずかしそうな様子で言の葉を紡ぐ。恥ずかしいといっても慚愧とかそういうのではなくて、モジモジした感じ。
周囲をキョロキョロと見て、誰もいないことを確認したのか、「き、桐ヶ谷君!」と声を上げて、
「その……意を決して……言うんですけれど」
と、ここで漸く僕は察するのである。現代社会に蔓延る、恋愛を題材にした漫画やらドラマやらにおける、体育館裏という場所が持つ特殊な意味を。
そう。僕の予想が正しければ、次に続く言葉は、
「つ、付き合ってくれませんか?」
僕は思わず押し黙る。
そうか、鳰原も同じ想いだったのか。縁は異なもの味なもの、というのは先人の格言であるが、まさかこの身で体験することになろうとは。
いや、ひょっとすると初詣における祈りが届いたのやもしれないな。
いやはや、神様が左様な働き者であるなど思いも寄らなかった。諸手を合わせ、頭を垂れるばかりである。
僕は「こちらこそ、喜んで」と返事をしようとした。その刹那、
「パスパレのライブに!」
頭を垂れすぎて、顔からズッコケていった僕なのだった。
▼
「あれ? 桐ヶ谷君。心なしか元気がありませんけれど、どうかしましたか?」
「い、いや何でもないよ」
恋愛漫画、もといギャグ漫画の如くベタな戯劇に緞帳を下ろした僕らは、通学路にて歩を進めていた。
想い人と帰路を共にするというのは、ともすれば勿怪の幸いであり、あるいは奢侈であると言うべきなのだろうけれど、先程生涯の一大瑕瑾となってもおかしくない程の勘違いをしてしまって、意気阻喪となっている自分が居る。
「それよりも、僕みたいについ最近パスパレの存在を知ったような奴を誘っても良かったのか?」
「つい最近知ったからこそですよ! これを期に、桐ヶ谷君もパスパレファンに仲間入りですね」
どうやら僕はパスパレファンの末席を汚すこと請け合いらしい。まあ、鳰原と共通の話題ができると見れば吝かではないが。
「いや〜。桐ヶ谷君がお誘いに乗ってくれて本当に良かった」
「そういや、今週の日曜日って、また急だな。ドタキャンとかか?」
「え、ええ。そうなんです。本当はマッスーさん……もといバンドのメンバーの方とご一緒する予定だったんですけれど、外せない予定が入ってしまったそうでして……」
「ああ。いいよいいよ。気を使わなくても。僕、そういう代役的な感じで誘われても気にしないし」
そう言ってみせた僕ではあるが、一つ気になる発言を見つけてしまって、思わず喉奥から「ん?」という吐息が漏れ出てしまった。
「鳰原ってバンドやっていたのか?」
「おや? 言っていませんでしたっけ?」
「いや、初耳だよ」
「それは失念していました。そうそう。厳密にいえば、パレオというのはそのバンドに居る時のアーティストネームなんです」
近来、我が国の女子中高生を、音楽活動に誘引する潮流がある由である。人呼んで、大ガールズバンド時代。悲しきかな。鳰原のような生真面目な生徒でも、時勢の動きには逆らえないらしい。
「時に、何ていうバンドなんだ?」
「『RAISE A SUILEN』というバンドです。みんなからは略してRASと呼ばれていますけれど」
「ふむふむ。SUILENっていうのは畳水練の水練か?」
「全然違いますよ! 真っ先に連想するSUILENが畳水練の水練ってどれだけ斜に構えているんですか!?」
「悪い悪い。冗談だよ。花の睡蓮ってことだろ?」
「あ! 今の当てに行きました? でも残念。それもハズレです」
「嘘だろ?」
「最初から、斜に構えるならぬ蓮と答える、をしておけば慚愧を感じずに済みましたのに」
「こりゃ一本取られた」
気を取り直して、
「垂れた簾と書いて垂簾です。簡単に言っちゃえば、『御簾を上げろ』という意味合いですね」
「ああ。垂簾聴政の垂簾ね。『ラストエンペラー』で知ったよ」
気になったので、スマートフォンを取り出し検索エンジンにかけてみた。するとヒットしたのは、ライブ中に撮ったと思しきスチル写真の画像の数々である。黒髪の女性、金髪の女性、青髪の女性、小柄な女の子。そして、その中に混じるパレオ。
今や何でもインターネットで調べられてしまうな。ユビキタス社会に生を受けた有り難みを噛み締めながら色々サイトを見ていると、やがて一つの単語が目に入った。
「あ! 桐ヶ谷君、歩きスマホとは頂けませんよ」
優等生らしく、鹿爪らしく注意してきた鳰原をよそに質問する。
「なあ、鳰原。RASって武道館でライブやったことあるのか……?」
「え、ああ。はい」
鳰原はあっけらかんと言う。
いつからだっただろうか。鳰原がやけに活気に溢れた顔をするようになったのは。最早思い出すこともできない。
だが理由はこれではっきりとした。武道館でライブをする胆力がついていたなら、そりゃ変わるはずだ。先程見た鳰原、もといパレオの画像。そこに映っていたのは、燦然と輝く笑顔でキーボードを弾く姿であった。
ああ、それともう一つ。
そのバンドには男の姿が無くて、胸を撫で下ろす僕なのだった。
▼
パスパレのライブ当日。この日、鳰原はパレオの姿でやって来た。休日だし、何より大好きなアイドルのライブという条件もあるし、案の定といった感じだけれど。
さて、人生初のアイドルライブを見に行った所感を、簡単にではあるが綴ろうと思う。
演奏は、楽器など碌に触ったことがない僕が口幅ったいことを言うようだけれども、レベルは高い部類に入ると言っても良いのではなかろうか。
特にギターとドラムはプロと比較しても遜色ないと思った(のちにパレオから聞いた話では、ドラムの娘は元々スタジオミュージシャンだった由である)。
ベースとキーボードは、精度こそ幾分か先の二人に見劣りするものの、それでも“魅せる”弾き方を心得ているといった様子であった。
ボーカルは……お世辞にも歌唱力が高いとは言えない。時折音も外していたみたいで、MCパートでこれをネタにされていた。だけれど、のびのびと心地よく歌っているのが印象的で、知らぬ間に聴き入ってしまった。
総じて、僕やパレオを含めた観客は、彼女たちの奏でる音に合わせ、ペンライトを奮ったのである。
しかし、その日何より僕をして驚愕せしめたのは、パレオとパスパレのメンバーが顔馴染みであったことだ。ライブ終了後に関係者のみが立ち入れる場所で歓談していたことが、何よりもその証左であった。きっと同じガールズバンド同士、奇縁があったのであろう。牽強付会かもしれないけれど、そう受け取っておこう。
そんなことを考えていると、ギターの娘(氷川女史というらしい)が、
「ねぇねぇ、君は令王那ちゃんの彼氏なの?」
「い、いえ違いますけれど」
斯様な突飛な質問を投げてきたものだから、少し吃ってしまった。まあ、僕が鳰原令王那こと、パレオに傾慕しているのは事実であるから、相思相愛の関係になれるのならば、願ったり叶ったりなことである。しかし、パレオの方は、僕のことなど、一同窓生としか見ていないのではないだろうか。ふとパレオを見遣ると、耳のあたりが朱を帯びている。僕と変な関係を疑われて狼狽しているようだ。
前掲のパレオの反応を見て面白がったのか、氷川女史は「本当に〜」などと訝しげな視線を飛ばしてながら言ってきたが、その辺りで勘弁しておやり、と言わんばかりに他のメンバーから宥められていた。
▼
そうして楽しかった時間はあっという間に過ぎていって、僕らは駅へと歩を進めていた。
「今日のライブ、どうでした?」
頓にパレオが問うてきた。
「すごく楽しかったよ。誘ってくれてありがとうな」
「いいえ。パスパレのかわいさを布教できたのなら、それだけで重畳です」
「なんだか、他のお客さんも笑顔でさ、何だか思い出しちゃったんだよな」
冬休みでの挿話である。
僕が跡取り修行に勤しんでいると、上品な老婦人が「桐ヶ谷」を訪うた。伯父さん曰く、お祖母さまの古くからの知己で、長く「桐ヶ谷」を愛顧して下さっている御仁らしい。
というわけで、僕は跡取り候補として紹介され、対応させて貰った。その帰り際に、「ありがとう」と鷹揚に謝辞を述べられたのである。
たったそれだけの出来事である。
断じて、パスパレのように大観衆を沸かせたわけではない。けれど、自分の働きによって、誰かを笑顔にできるのなら、誰かに感謝をして貰えるのなら、
「呉服屋の仕事も悪くないかなって」
「桐ヶ谷君……」
パレオは一歩前に踏み出して、僕の前に立ち塞がり、針のように真っ直ぐ僕の目を見て、
「それなら、私達の衣装をデザインしてみませんか?」