冬物語   作:くすはらゆい

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第五話 桐ヶ谷透真の憂鬱?

 2月14日。一年のうち最も忌々しい日はないと言えよう。

 

 バレンタインデー。婦女子が意中の男子にチョコレートを送る、という全くもって意味不明な行事である。クリスマスや初詣にも一定の理解を示した僕ではあるけれど、これだけは本当に理解できない。

 

 大方、夏場に溶けるからという理由で敬遠されたチョコレートの売れ行きを何とか回復させよう、という製菓会社の権謀術数(けんぼうじゅっすう)である。それを分かっていても尚、人々はこのバレンタインデーという行事に踊らされるのだ。

 

 艶福家(えんぷくか)はいいだろう。黄色い声援と甘味、二つの幸せに挟まれ、あまつさえ優越感に浸れるのだから。是非とも、チョコレートの食べ過ぎで鼻血を流し、出血多量で御臨終遊ばせ。

 

 それが、昨年までの僕のバレンタインデー観であったのだけれど、今年は些か事情が異なるのである。

 

 ここまでこの物語を愛読して下さっている御仁ならばご存知であろう。

 

 鳰原令王那。またの名をパレオ。成績優秀な学級委員長である。その優秀ぶりは学問という枠組みにも収まりきらない。巷間(こうかん)、もとい学校間(がっこうかん)に於いては、我が加茂川中央中学校の校則さえ、一言一句漏らさず記憶していると専らの噂である(我が校の校則の繁文縟礼(はんぶんじょくれい)ぶりは、それこそ半分覚えるだけでも一苦労である)。

 

 僕が恋慕を傾ける彼女は、誰かにチョコレートを渡す予定があるのだろうか。可能ならば、僕にチョコレートを恵んではくれないだろうか。

 

 例年のバレンタインデーとは別の意味で気も漫ろになる僕なのであった。

 

 さて、そんな心持ちで登校してきた僕は、普段よりも徐に下駄箱を開く。中は、僕の履き古した上履きが鎮座するのみである。

 

 ふむ。どうやら鳰原は、下駄箱にそっとチョコレートを忍ばせておくといった、小粋なことはしないようだ。大方予想はついていたけれどね?

 

 そう考えながら廊下を歩いていると、

 

「おはようございます。桐ヶ谷君」

「お、おう。おはよう、鳰原」

 

 鳰原とばったく出くわしたのである。鷹揚に挨拶をしてきた鳰原に対して、僕は努めて泰然自若に振る舞う。

しかし鳰原の続けた言葉が、僕の平常心を雲散霧消させたのである。

 

「そういえば……その……桐ヶ谷君って甘いものとか……好きですか?」

 

 今日の日に斯様な質問をしてくるとは。これはひょっとして、何かをくれる前フリなのか。だってそうとしか思えない。「甘いものはお好きですか?」と訊いておいて、首肯したら「じゃあ辛いものあげますね」なんて悪戯心を通り越して、ただの嗜虐心満載の奴なぞ、世渡りできないだろう。

 

 これはもう円滑にチョコレートの話題へと持っていくための、鳰原からのノンバーバルコミュニケーションで確定した(話しているけれど)。

 

「あ、ああ。勿論好きだぞ、甘いもの。毎日なにかしら食べているな。むしろ、三食甘いものでもいいんじゃないのか、とさえ思うね」

「それは流石に大袈裟ですけれど……」

 

 パレオは苦笑しながらツッコミを入れて、

 

「でも、安心しました。適度な糖分は、脳の疲れを取ると夙に知られていますから。RASの衣装のデザインを考えてくれているのはとても嬉しいですけれど、休憩も必要ですよ」

 

 と続けて、「では」と後にした。

 

 ─────ただ、甘いものの話題振っただけかい!

 

 その日は、結局鳰原からのチョコレートの贈呈はなく、下校時間と相成った。移動教室中に机に忍ばせておいたんじゃないか、とか。甘いものといえば食後なので、給食の後こっそり渡してくるんじゃないかとか。そんな淡い期待を抱いたりもしたけれど、それらも肩透かしに終わった。

 

 鳰原から近づいてきて何か話しかけてきたかと思えば、明日、またチュチュのマンションでミーティングをするという連絡のみであった(ちなみに今日は金曜日だ)。

 

 三々五々(さんさんごご)と散り、下校する子女の群れを掻き分け、僕も往来を行く。すると、こころなしか、肩をがっくりと落としながら歩を進める男子生徒の姿をよく見かけた。来たる勧送迎会の宴会芸として、首が落ちるマジックの練習でもしているのかと一瞬思ったが、すぐに真の理由に気付いた。

 

 彼らもまた、チョコレートを貰えなかった者たちなのだ。ああ、同志よ。今宵は街に漂う甘い空気を打ち消すように、涙の塩気を味わおうではないか。

 

 

 

 翌15日。前日負った傷は完全に癒えてはいないものの、大事な仕事相手とのミーティングを無下にするわけにもいかない。

 

 僕は、重い足取りでチュチュのマンションへと歩を進める。その重々しさたるや、五臓六腑を鉛の塊と取り替えたのではないかと錯覚を覚える程である。

 

 いつか、僕をして高揚せしめたオートロックの装置も、最早ただの整然と並んだボタンと数字で(よくよく考えたら元々そういうもんだ)、バルティーゴを感じながら見遣る人混みの方が、まだ面白みがある。

 

「ちょっとトーマ! あんた何暗い顔してるのよ?」

「悪いな、チュチュ。僕はもう笑い方を忘れてしまったんだ……」

「あんた本当にどうしたわけ!?」

 

 チュチュの叫びが部屋の中で炸裂する。それを間近に受けて尚、僕の心はここにあらずだ。正直な話、この部屋に辿り着き、チュチュとのテータテートのミーティングを開始したという記憶が僕の脳髄からすっ飛んでいる。

 

 唐突に場面が飛んだことに関しては御宥恕(ごゆうじょ)頂きたい。

 

「トーマ。しっかりしてくれなきゃ困るわ」

「そうそう。こいつでも食って、英気を養いなって」

 

 言いながらマスキングさんが入室してきた。刹那、ふんわりと甘い匂いが部屋中を包み込む。僕の眼前に置かれたのは、紙のカップに入ったチョコレートマフィンだ。

 

「はいよ。一日遅れだけれど、私からのバレンタインチョコだ」

「どういうこと? Valentine's Dayは、男性がGirlfriendやWifeに愛の言葉やプレゼントを送る日じゃなかったっけ?」

「ああ! 向こうじゃ確かそうなんだっけ? でも、日本では女子が男子にチョコレートを送る日なんだよ」

「へぇ〜。逆転しているのね。面白いわ」

「あ! でも、これは義理チョコって概念だな。普段世話になっているからそのお返しにっていうやつ」

「ふ〜ん。日本では色々なところで気を使わなくちゃいけなくて大変ね」

 

 チュチュは呆れ半分といった様子で呟く。それを尻目に、マフィンに舌鼓を打つ僕。それを見てマスキングさんは、

 

「どうだ透真! 旨いか?」

「あ、はい。とても」

「そうか。そいつは重畳(ちょうじょう)だな」

 

 こう言っては失礼かもしれないけれど(というか絶対失礼だけれど)、マスキングさんは下手な男──それこそ僕みたいな奴よりもよっぽど鯔背(いなせ)っぽいので、料理が得意だというのは至極意外だった。

 

「いやー。二日連続でバレンタインチョコとは。タラシだね、こいつ」

 

 マスキングさんは僕の肩に回して言う。なんだか聞き捨てならない言葉があった。

 

「二日連続って。昨日僕がチョコを貰ったことを前提に話が進んでいますけれど、そんなことありませんよ……」

 

 僕が申し訳なさそうに言うと、マスキングさんは「え?」と驚き、

 

「パレオに貰ったりは……」

「いやいや。傷口を抉るようなことは辞めて下さい。折角のマフィンが塩っぱくなっちゃいますから」

「あ、ああ。悪かったな。変なこと訊いて」

 

 それだけ言うとマスキングは何処かにしまった。どことなく、怪訝な表情を浮かべて。そして、それは僕の眼前に座るチュチュも同様なのだった。

 

 

 

 適度な糖分は脳の疲れを取る。パレオの言うとおり、夙に知られていることだけれど、果たして何か科学的根拠があるのか、はたまた心理的にそう錯覚しているだけなのか、僕は寡聞(かぶん)にして知らない。

 

 ただ一つ確かなことは、マスキングさんの差し入れの効果もあってか、チュチュとの話し合いに、冷静に励精できたことである。

 

 そうして、RASの新衣装に関して互いに仔細(しさい)もなくなったところで、以下の話題と相成った。

 

「トーマってパレオのことが好きなんだっけ? likeじゃなくてloveの方で」

「え? ああ。そうだけれど」

 

 唐突な質問に思わず瞞着(まんちゃく)もなく答えてしまった僕である。大々的に認めてしまうと、何だか恥ずかしいものがある。

 

「どうしてパレオを好きになったのかしら?」

「どうしてって言われてもなあ……。強いて言うなら、始まりはギャップ萌えって奴なのかもしれないな」

「Gap? どういうこと?」

「何て言うんだろうな。普段は折り目正しい委員長タイプなのに、街で会うと今めかしく着飾った快活な女の子ってこれはもうギャップだろ?」

 

 僕の返答に相槌を打ちながら、「何となく分かった」と言ったチュチュは少し声のトーンを落として、

 

「それで、トーマはパレオのどっちの姿が好きなのかしら?」

「えーっと。質問の意図が分からないぞ。どういうことだ?」

「だから。その委員長タイプのパレオと、着飾ったパレオ。どちらが好きなのかと訊いているの」

 

 隣室に居るであろうパレオたちには聞こえないように注意しながらも、チュチュは声に苛立ちの色を混ぜて言った。それに対して僕は、

 

「いや、何でどっちかが好きみたいなことが前提なんだ?」

「え?」

「確かに、学校では鳰原と呼んでくれって頼まれてはいるけれど、どっちもパレオはパレオだろ。そりゃ確かに最初はギャップ萌えだったのかもしれないけれど、何もパレオの外見だけに惚れているわけじゃないぞ。あいつのしてくれたことに、無償の優しさに、僕の心は奪われたんだよ」

 

 そう強く断言した。チュチュは目を見開いて、でもその後すぐに細めて、「成程ね」と呟いた。更にひと呼吸置いて、

 

「私はね、パレオにBoyfriendなんて認めたくないのよ」

「それ、この間も言っていたよな。マスキングさんは嫉妬だって揶揄っていたけれど」

「嫉妬じゃないわよ。あの娘には幸せになってほしいと思っている。でも……」

「でも、何だよ」

 

 今迄の打てば響く問答とは違って、その問いかけにだけは何故か固く閉口するチュチュ。稍あって、彼女は虹彩に剣呑な光を宿して、

 

「質問に質問で返すようで悪いのだけれど、もう一度確認の意味も込めて訊かせて。パレオは、学校では呼び分けるように言ってきたのね?」

「ああ、そうだ」

「パレオは昨日、本当に貴方にChocolateを渡していないのね?」

「ああ」

 

 斯様な問答の後はチュチュは目を伏せて、再び沈黙を貫いた。何か逡巡しているのだろうか。そう思っていると、彼女は徐に口を開く。

 

「やっぱり直接は話すべきじゃないと思う。貴方がパレオを本気で想っているのなら尚更」

「何だよそりゃ……まあ、話したくないのなら、詮索はしないけれど」

 

 言いながら、僕も視線を落とす。紙のカップの底にこびり付いたマフィンの残滓が、やけに気になってしまった。

 

 

 

 最後は少し重たい空気になってしまったものの、話し合いは恙無く終わったということで、僕は帰宅することと相成った。

 

 パレオが階下まで見送りをしてくれるというので、その御言葉に甘えさせて貰った。

 

 やがてエントランスに着き、「じゃあ、また月曜に学校で」と別れの挨拶をしてドアを潜ろうとしたその時、

 

「桐ヶ谷君!」

 

 そう呼び止められ、僕は踵を返す。僕の虹彩に映ったのは、勿論パレオだ。しかし、その手に丁寧にラッピングされた、両手サイズの長方形の箱を持って、という注釈がつく。

 

 パレオはその箱を僕に差し出し、

 

「桐ヶ谷君。一日遅れのバレンタインチョコですけれど、受け取って下さい」

「マジ……でか?」

「マジ……です」

「あ、ありがとう」

 

 言って僕は受け取る。想い人からのバレンタインチョコ。本来ならば、諸手を挙げ、小躍りするほどの喜びなのだろう。しかし、この時の僕はあまりの唐突な出来事に、思考回路が完全にショートしていた。

 

「あ……あの。桐ヶ谷君」

「あ、ああ。どうした? パレオ」

 

 僕の顔を覗き込むパレオの声が耳朶を打って、漸く正気を取り戻した。

 

「よ、喜んでもらえましたか?」

「ああ、勿論。凄く嬉しいぞ」

「それは……良かった」

 

 薄く綻んで言うパレオ。しかしながら、ここで一つ疑問が残る。

 

「時に、何で昨日じゃダメだったんだ? 折角作ったなら、時間は極力空けない方が、良かったんじゃないか?」

 

 もし、昨日渡しておいてくれたのならば、僕は落胆せずに済んだのに。その問いかけにパレオは「え? だって……」と続けて、

 

「校則で、お菓子を持ってきちゃダメじゃないですか」

 

 いやはや。校則をも完全に記憶している完璧委員長。その鹿爪らしさよ。人の心すら無意識に弄んでしまうとは、末恐ろしや。と思っていたがどうも違うらしい。

 

「それに、今年から先生の監視の目が厳しくなったようで、私の周りでも、渡せなかったという人が多かったですね」

 

 そう言われて、僕は思い出した。肩を落としながら下校していた男子生徒たちを。成程。あれはそういうことだったのか。

 

 そんなことを考えていると、パレオは、

 

「それじゃあ、桐ヶ谷君……頑張って下さいね」

 

 そう莞爾と笑いながら、言った。

 

 ─────僕は、熱を帯び続ける自分の血潮が、手に持ったチョコレートを溶かしてしまうんじゃないかと、ただそれだけが心配だった。

 

 

 

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