3月7日。土曜日。夜のことである。
僕は、従姉である桐ヶ谷透子に架電していた。
いつか僕が綴った桐ヶ谷透子像。あれをこの場を以て訂正させて頂きたい。
僕の従姉は謹厳実直を絵に描いたような真人間である。
しかも、容姿端麗でもある。金糸の如き御髪をたなびかせ、通り過ぎる者の視線を釘付けにしている。
更に、それだけではない。夜分遅くに架電しても全く怒りを露にしないとは。その海の如く広い寛容な心。素直に脱帽だ。
「な〜んておべっか使っちゃって、一体どういう要件なわけ?」
「ホワイトデーでのお返しの品が決まりません。助けて下さい」
本人には見えていないだろうけれど、額を地に付け懇願する僕であった。
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透子からの隔意なき意見を反映した結果、「ハンムラビ作戦」の発動がここに決定された。
目には目を、歯には歯を。ならば、手作りチョコレートには、手作りチョコレートを以てお返しをしよう、という至極単純明快な作戦である。どんなハンムラビ法典だ。
ともかく、同作戦の遂行に於いては、僕が手作りチョコレートを作るスキルを有していることを前提としている訳だけれど、残念ながら僕は厨房に立った経験が殆どない。
そこで、透子のバンド仲間が仲良くしている先輩に、“チョコレートの専門家”がいるようなので、その御仁から直接助言を頂こうではないか、という運びとなった。
“チョコレートの専門家”だなんて、とてつもなく胡散臭い雰囲気が漂うネーミングだったけれど、藁にも縋る思いだった僕は宜しくお願いした。
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翌8日。
「ごきげんよう。広町七深です」
鷹揚にそう自己紹介してきたのは、今回“チョコレートの専門家”と僕とを取り次いで下さった、透子のバンド仲間である。サーモンピンクの髪をツーサイドアップに結った女性だ。
「……こんにちは。牛込りみです。今日は宜しくね」
続いて挨拶してきたのは、チョコレートの知悉ならば他の追随を許さない由の専門家。少しハネた癖のある黒髪を、短く切り揃えた少女である。年は透子や広町さんの1歳上らしいけれど、体格は小柄かつ、
しかしながら、本日限りとはいえ御教示下さる相手である。僕は深々と頭を下げて、
「こんにちは。桐ヶ谷透真と申します。この度は、“チョコレートの専門家”と名高い先生の謦咳に接する機会を頂き、誠に光栄でございます」
「え、ええ!? “チョコレートの専門家”!? 私、そんな仰々しい二つ名付けられたことないよ?」
僕は透子に手招きして、二人から少し距離を取った位置に移動する。
「なあ、どういうことだ。牛込さんとやら、“チョコレートの専門家”だなんて呼ばれたことないって言ってるけど」
「あれ? そうなの? 会う度いつもチョコレートを食べてるから、そうかな〜って思っちゃってたわ」
「『思っちゃってたわ』じゃねぇよ! 何処か専門家だよ? ただのチョコ好きな人じゃねぇか。どうすんだよ。計画が頓挫しちまったぞ」
がなる僕の後ろで「あの〜」と申し訳なさそう声が耳朶を打ち、振り返ると案の定申し訳なさそうな表情を浮かべた牛込さんは、
「私、“チョコレートの専門家”とかじゃないかもしれないけれど、クッキーなら作ったことあるから、もし良ければ、一緒に作ろう?」
ふと透子の方を見遣ると、何故かしたり顔で胸を張っていた。
お前こそもっと申し訳なさそうにしろ!
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四方八方を円く
「って薄力粉とアーモンドプードルをふるいにかけながら生地を練り混ぜてるだけなんだけどね」
「地の文を読むな」
透子と斯様な阿呆なやり取りをするのも冬休み以来である。
そういえば、前掲の透子の適当な発言の件だけれど、そもそも透子がいなければこの場はセッティングされていなかったわけだし、加えて桐ヶ谷家の厨房の使用許可も彼女が貰ってきてくれたので、論うのは止めにすることになった。またしょうもない理由で喧嘩するのも馬鹿馬鹿しいだろう。
そういうわけで、細部に修整が入ったものの、「ハンムラビ作戦」は次のフェーズに移行し、恙無く進行中である。
「うん。いい感じに纏まってきたね。それじゃあラップに包んで、四角く整えながら1cmくらいの厚さに伸ばしてね。後でまた伸ばすけれど、予めこうしておくとその工程がやりやすくなるから。その後は、冷蔵庫で30分くらい寝かせてね」
「「「はい」」」
牛込さんは、中々人に教えるという行為が上手であった。初対面の折は、先輩の風格がしないとの評価を下してしまったことを深くお詫びしよう。ビジュアルさえ無視すれば、僕たちの構図は、新米の教師と、それに従う小学1年生に見えると思われる。
「りみさんお休みですか? でも冷蔵庫で寝るなんて、風邪引きません?」
「透子! 安眠の条件なんて人それぞれだろ? 牛込さんはきっと、冷房毛布じゃ飽き足らず、冷蔵庫毛布じゃなきゃ寝られないんだよ」
「うん。ちょっと帰らせて貰うね」
「「いやいや、冗談ですってば!」」
僕と透子は、本気で怒らせてしまったのか、と少し焦燥感の色が混じった声を出した。刹那、牛込さんは綻んで、
「私も冗談」
と言って、僕たち二人は胸を撫で下ろした。
ふと、広町さんの方を見遣る。彼女は頷きながら、
「このどうしようもない、益体もないやり取り。これぞ青春だね」
──────こんな青春でいいのか?
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「それじゃあ
言って、牛込さんはオーブンに生地を入れてゆく。「大事をとってきちんと様子を見ながらね」と付け加えて。
オーブンを覗き込みながら、矢庭に広町さんが訊ねてきた。
「そういえば、トーマ君ってパレオちゃんのことが好きなんだって?」
「え? えぇ。この集まりも、パレオへのホワイトデーでのお返しの品を勘案した果てに開いたものですから」
「おお〜。恋かぁ。いいなぁ。青春の中の青春って感じだね〜」
コイバナの匂いに釣られたのか、透子も混じってきた。
「っていうか、透真。バレンタインにチョコ貰ったってことは、もう付き合っているわけ?」
「……そんなわけない……だろ」
「え、ウソでしょ!? まだ告ってないわけ!?」
「だってあれだよ……
「それ、外堀埋めきる前に、雨風に曝されて元通りになっちゃう人の台詞じゃん」
「うぐっ」
寸鉄人を刺す奴だな。そう思っていると、透子は僕の肩を叩きながら、
「思い立ったが吉日、って言うだろ? とっとと告っちまえよ」
「……でも、やっぱり良い返事を貰えなかったら怖いっていうか……」
「何だか、今のトーマ君。シロちゃんにちょっと似てたかも」
「あは。確かに、言えてるかも」
後に訊いた話だけれど、シロさんとやらは透子や広町さんのバンド仲間で、時々ネガティブモードに入ることがある由である。他人事だが、強く生きてくれ、シロさんとやら。
「う〜ん。話は色々聞かせて貰ったけれど」
牛込さんも会話に混じってきた。愈々
「私が思うに、恋ってこのクッキーみたいなものかな?」
「は、はあ。その心は?」
「あのね。生焼けのクッキーって食べられたものじゃないよね?
「だからって焼き過ぎると、焦げちゃって美味しくなくなっちゃうよね?
「確かに、相手の正直な反応を待つのは怖いと思う。
「でも、やっぱり待ち続けても絶対に結果にはならないよ。
「もしも、本当にパレオちゃんのことを想っているのなら、行動に移さなきゃ。
「ほら。きっと、もう頃合いだと思うよ?」
広町さんはオーブンを開く。
香ばしいクッキーの匂いが、僕の鼻腔をくすぐるのであった。
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はてさて、牛込さんからクッキーの作り方以上のことを御教示頂いたところで、「ハンムラビ作戦」も大詰めのところまで来ていた。
ところで、牛込さんの熱のこもった演説は見事に僕の心に響いたわけだけれど、牛込さん自身恋路に関して
そう考えたらところで、僕は勘繰るのを止めた。僕のような若輩者が推し量るのは恐れ多いことだ。況や詮索をや、である。
「はい、じゃあ最後の仕上げ。アイシングをやろうか?」
諸手を合わせ、今一度気合いを入れ直しながら言う牛込さん。百里を行く者は九十里を半ばとす、とでも言いたげである。
「アイシング? 折角焼き立てなのに、冷やしちゃうんですか?」
「トーマ君。それはスポーツ選手がやるアイシング。お菓子作りのアイシングっていうのは、ホイップクリームを使ったりして、お菓子をデコレーションすることを言うの」
「うん。七深ちゃんの言ってる通り」
「成程。でも、デコレーションって言ってもむつかしいですね」
「じゃあ、最初はシンプルに、アルファベットをクッキー1枚につき1文字ずつ書いていこうか」
「それならできそうですね。了解です」
「じゃあ、まずは『M』でいこうか?」
「最初が『M』ですか? てっきり『A』かと……」
「あ、『A』は次に書いてね」
「は、はい……」
「じゃあ、どんどん行くよ。次は『R』を二つに『Y』。そしてもう一度『M』」
「ふ、二つですか? まあ……できましたけれど」
「最後に『E』を書いて完成ね」
「次で終わりですか……『E』って……はっ!?」
「あちゃ〜。バレちゃったか」
僕がクッキーに書いた文字────
『M』『A』『R』『R』『Y』『M』『E』
────なんと、
「『バレちゃったか』じゃないですよ! 何て言葉書かせてくれてるんですか!?」
「トーマ君が、パレオちゃんに想いの丈を伝える一助ができればと思って……」
「いや、伝わりすぎだわ! そんな重たいクッキーなんて食べたら、一枚で胸焼けするわ!」
さっきまでの先輩の風格は、何処に旅立たれたんですか?
「ふふっ」
牛込さんは吹き出す。それに釣られて、僕たち3人も声に出して笑い出す。
稍あって、笑い止んだ後、透子が「あ!」といきなり大声を出して、
「りみさん。そういえば、ホワイトデーは1週間後なんですけれど、それ迄このクッキーもってます?」
「う〜ん。市販のものとは違って、手作りのクッキーは風味が落ちるのが早いからね。なるべく早く食べた方がいいかな?」
「あ、それなら大丈夫ですよ。作り方なら大体覚えましたし」
「透真って、昔から物覚えは良かったかんね」
「ああ、どっかの誰かさんとは違ってな」
「ちょっと! 別にあたしそんな物覚え悪くないだろ」
透子のがなり声が部屋を反響して、それが可笑しくて、また笑みが零れた。
「トーマ君。本当に大丈夫? 何か分からないことあったら、連絡してね」
牛込さんは矢張り不安が残るのか、斯様なことを言ってきた。
それに対して僕は、
「ええ。もう大丈夫です」
そう言ってクッキーを口の中に放る。
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3月14日。ホワイトデー当日である。
その日、パレオは休日ということでチュチュのキーボードメイドとして務めていたようだけれど、メッセージで呼び出し、一瞬だけお借りすることにした。
「はて? 桐ヶ谷君。何の御用事でしょう?」
「えーっとだな。パレオ」
ドギマギしながら、僕は包みを取り出す。
「1ヶ月前は、どうもありがとう。とても美味しかった。これは、その時のささやかなお礼だ。受け取ってほしい」
パレオは一瞬ポカンと口開けたままの状態で固まり、すぐに我に返ったかと思えば、頬を薄桃色に染め、
「桐ヶ谷君……ありがとうございます!」
その台詞の後、彼女は莞爾と笑う。その細まった瞳の色を見てしまうと、言おうと決めていた言葉が喉奥へと引っ込んでしまった。
我ながらヘタレである。
「え、えーっと。その、パレオさん!」
「はい? まだ何か? それに、パレオさんって、何故に急によそよそしく……」
「そのっ……と、10日。10日だけ時間をくれ。君に言いたいことがあるんだ。で、でもまだ準備ができてないから……その……」
ここに来て姑息な手段を採る僕である。
これを受けて、パレオは細めていた目を凛然とさせて、
「はい。待っていますね」
言いながら、僕を真っ直ぐと見つめた。
僕は、照れ隠しに、目を逸らすように空を仰ぐ。
白日が煌々と輝いては、僕たちを照らしていた。
▽
まるで、僕たちに迫る暗い影を濃くするように。