覚る母が子育てします   作:小鈴ともえ

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天馬行空の舞

いつもは水を汲みに来るだけだから知らなかった事だが、母さんの後について歩く湖は思っていたよりも広かった。だが母さんが言うにはこの湖でもかなり狭い方らしい。ふもとにはこの百倍もの大きさの湖があるという。

近江にはそのさらに何十倍かの湖が…………と考えるとそれはもはや海と何が違うのだろうと考えてしまう。

 

「あ、さとりは何か勘違いしているようだから一応言っておくけどね、この湖は本当に狭いのよ。それこそ池と呼ばれるくらいには。広く感じるのはそうさせられているからよ。今どれほど歩いたか分かる?」

「もう一里は歩いた気がするけど。日も少し傾いてきているし」

「ざーんねん。まだ二町*1ほどしか進んでいないわよ。そもそもこの湖は多く見積もっても一周が四半里程度しかない。私たちが歩き始めた場所はほら、すぐそこでしょう?」

 

 母さんが指さした方を見てみれば、確かに私たちがいつも水を汲む場所は目と鼻の先のように感じた。あり得ない。こんなにも長く歩いたというのにほとんど進んでいないなんて。

 

「じゃあさ、お母さん、あそこに戻るのにもまた長い時間がかかるの?」

「そうじゃないのよね。戻るときは見た目通りの距離になるわ。()()()()に近づこうという意志がある時だけ、この湖では距離が見た目通りでなくなるの」

「? 私とこいしはあの場所が何処かも知らないのにそうなるの?」

「そう。その意思のある者とともにいる者にもこの術は影響を及ぼす。この湖が白駒の伝説を作ったのもこの性質があったからなのよ」

 

 そんな便利な術式があるのならあの山でも使えば良かったのに。そうすれば人間に襲われる心配も無かったし、鬼が全滅することも無かったはずだ。鬼が人間ごときに負けるはずなど無いと慢心していただろうことは容易に見て取れるけれど。

 

「あらさとり、これはそんなに簡単な術ではないのよ? この術を使ったのはおそらく石長姫様。私の知り合いで他にこれ程の大掛かりな術式を組めるのは紫くらいのものね」

 

 紫というのは母さんの知る限り一番の妖怪。つまりとても高度な術だから簡単には使えないというわけか。

 何故わざわざこの湖にその術を施したのかというのは不思議なところだが、一番不思議なのはどうして母さんがあの場所とやらを知っているのかだ。いくら歩いてもほとんど進まない上に目的地がどこにあるのかも分からない。そんな場所をどうして母さんは知っているのだろうか。

 

「あら、そんなの簡単なことじゃない。ただ歩き続けたのよ。昔、まださとりが生まれるよりも前かしらね。この辺りを散歩している時にふと周りの景色が一向に変わらないことに気づいたのよ。それでも少しずつ進んでいるのは分かったから歩き続けたというわけ」

「つまり暇だったのね。で、あとどのくらいで着きそうなの?」

「今丁度半分といったところね。距離だけで見れば案外近いのよ」

 

文字通り距離だけを見れば、か。実際はまだ半刻ほど歩かなければならないらしい。こいしはまだまだ元気そうだけど…………私には辛いわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故この場所が白駒の池と呼ばれるようになったのか。それを語るには今からおよそ400年前にまで遡らなければならない。丁度やまこが初めての妖怪の山で暮らし慣れてきた頃だ。

 かつて大層な栄華を極めた道士に飼われていた馬が一頭、石長姫の住む八ヶ岳に迷い込んだ。過去の栄光に縋り、今なおその没落に耐えられない様子だったその馬に手を差し伸べたのは他でもない石長姫だった。

 

 彼女が珍しく自ら関わった理由には、既にやまこという存在を目の当たりにしていたというのもある。しかし、一番はやはり昔に一度その馬を見ていたからにほかならなかった。

 

『お前は既に人の考える馬ではない。妖と呼ばれる存在に変じてしまったお前を受け容れてくれるであろう道士ももう死んでいる。お前はもう人と関わるべきではない』

 

 他人というモノにほとんど興味を示さない石長姫にしては珍しく、かなり厳しい発言だった。石長姫が以前その馬を見たのはさらにその100年前。馬が妖となっているのはもはや確定的であり、その時に乗せていた道士がいない所からその者が死んでしまっただろうことも容易に読み取れた。

 彼女が馬にこう忠告したのは馬のためでも人間のためでもあった。少なくとも今の彼女がどれほど危険な存在であるのかを石長姫は正しく理解できていた。

 

 しかし声をかけられた方からしてみればこれは困惑以外の何物にもならない。なりようがない。尊い道士の下で動物としての第六感を極めたとも言える神馬にとって、気配すら感じないがまるで隣にいるように聞こえる声は不気味でしかなかった。

 威嚇しても何処にいるのか分からないのだから効果的なのかどうかも分からない。人語を解する彼女ではあるが、生憎馬の口では人語を話せない。

 

 馬が唸り神が笑う。そんな会話とは言えない構図が出来上がっていた。

 しかしやはり、その無為な時間を終わらせるのも石長姫だった。

 

『お前が言いたい事は分からない。それが分かる妖は今別の場所に行ってしまったから。だが私としてはお前をこの山から出すわけにはいかない。麓に被害が出れば怒られるのは私の方だから。大人しく、湖の底で眠っていなさい』

 

 

 そうして眠らされた先は白駒の池の湖底よりさらに下。そのころはまだ名前も無かった湖だがこれを機に伝説が生み出され、それにちなんで命名された。

 

 それから丁度二百年ほど後、暇だったからと歩き続けてやって来たやまことその馬の少女、驪駒早鬼は出会った。そのころには既に人型を得て言葉も自由に操れるようになっており、さらに馬だった頃には無かった翼まで生えてすっかり妖怪らしくなっていた。

 はじめはやまこをあの得体の知れないモノの使者かと疑っていた早鬼も、いくらかの会話をする中でどうやらそうではないと判断したのか徐々に心を許し、何故この場所にいるのか、如何にしてこの湖の伝説が生まれたのかを彼女に語った。

 

 

 

 如何にして白駒の伝説が生まれたのか。それはまだ彼女がここに来てすぐの事だった。見知らぬ洞穴で眠りから覚めた彼女は一先ず自分が何物にも縛られていない事を確認した。馬である彼女にとって、人間に手綱を握られているのかどうかの確認は半ば習慣付いていたことであり、妖となって数十年という彼女もまだその癖が抜け切れていなかった。

 自分を縛る物が何もないと確認した彼女は次に洞穴の出口を探し始めた。当然だ。昨日の誰かの言葉が本当なのならば自分は湖の底で眠っていたことになり、しかし周囲は水ではないので何処かに地上へとつながる穴があると考えたのだ。

 

 幸い彼女は第六感だけでなく五感も人間とは比にならないほど鋭かったので、ごくわずかな風の吹きこむ方向を肌で感じ取ることができた。

 ようやっと地上に出た彼女が目にしたのは小さな湖と湖畔で倒れている男だった。不思議に思いつつ近づいてみると男はその馬を神の遣いか何かと勘違いしたのか、彼女にこうなってしまった理由を語り出した。

 

 曰く彼は近くの里でこれまでは平和に暮らしてきたが、ある女性と恋仲になったことをきっかけにして彼女の父親からひどい扱いを受けるようになった。自分は下賤な農民だから彼女とは釣り合わない、と彼は語った。慈悲のあるならばどうかお助けください。どうか彼女と永遠に添い遂げたい、とも。

 

 彼女が男を哀れに思う事は無かった。神の遣いでもなければ赤の他人の恋愛の手伝いなどする気も起きなかった。ただ馬を相手に神に祈る愚か者だとしか思わなかった。

 

 

 だから彼女は男を蹴り飛ばした。彼女の自慢の脚力で蹴られた男は何も理解できないまま、身体が湖面と接するその前に絶命していた。

 元来彼女は人間を憎んでいた。嫌っていた。あれほど素晴らしかった聖徳の道士を死へと追いやった人間たち。幾歳が過ぎ去っても彼女がその怨みを忘れる事は無かった。その心が彼女を妖怪へと押し上げたのだ。

 

 その夜、今度はその男と恋仲だった女が山へやって来た。親を欺いてまで山に入ってしまった女。彼女が道中妖怪の類に出会わなかったのはただの豪運であろう。男を追って迷った先にたどり着いたのが湖だったのは幸か不幸か。

 

 新月。月も無い夜に、しかも頭上を木々が覆う山の中でただ一つ、星の光を反射する湖面が彼女を導いた。周囲よりも少し明るい湖を背に佇む真っ黒な馬を女は上手く見ることができず、娘を追ってきた父親もそれは同様だった。

 かつて甲斐の黒駒とも呼ばれた彼女は四肢と尾、髪だけが白かった。真っ暗な中にボヤっと映るその白を見て白馬であると判断してしまった親子を誰が責められようか。

 

 娘は神の親切だと思い縋り、父は神の怒りだと思い平伏する。

 それを見るや馬は女を背中に乗せて走り出した。父も勿論追いかけるが一向に距離は縮まらない。だが引き離されることも無い。やがて疲れ果て、立ち止まってしまった父親に対して馬はまだ走り続けた。男の目にはどう映ったのだろうか。

 静止している自分に対して走り続けている馬はほとんど離れているようには見えない。だが少しずつ確実に距離は開き、ある場所で女を降ろすとその女は導かれるように入水して湖に沈んでしまい、馬は地下へと消えていった。

 

 

 その後どうにか里に帰った男がこの話を里中に広め、不思議な伝説として湖の白馬が語り継がれていくことになったのだ。

 

 伝説の中では白駒のおかげで男女が池の中で結ばれたように語られているが、実際には黒駒のせいで男女ともに池の中で永遠の時を過ごすことになってしまったのである。

*1
約200メートル




白駒池は凡そ0.11km^2
諏訪湖は凡そ13.3km^2
琵琶湖は凡そ670.4km^2
カスピ海は凡そ374,000km^2
日本の国土面積は凡そ377,835km^2

世界は広いものです

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