とっ散らかりました
———これは、夢ではない。
これは記憶だ。
忘れていた、否、思い出さないようにしていた、昔の記憶。
ニンゲンに成った私には必要無いと切り捨てた、幼い私の凄惨な記憶。
声が聞こえる。
大勢の声、それも100人を優に超える。
老若男女を問わず、そのバラバラな声がしかし同じ旋律を紡ぎ、同じ意味の言葉で世界を揺らす。
これは唄だ。
直感的にそう思った。
どこの言葉かはわからないが、同じ言葉を何度も何度も繰り返している。
不協和音の合唱が世界を支配して、内に込められた
不思議と煩くはなかった。
それでも重いまぶたをこじ開ける程度には効果があったようで、私は目を開いた。
皆一様に黒いフードを被り、一様に手で祈りの形を作り、一様に同じ唄を発する。
宗教のようなそれを小さな私が見下ろしていた。
狂乱するかのように絶叫するもの、祈るように静かに唄うもの、枯れた声を必死に絞り出すもの、啜り泣きながら飛び飛びの歌詞を紡ぐもの。
それは祈りのようであって、狂気のようであって、断末魔の叫びにも似ていた。
そこで、ふと気がついた。
身体が動かないのは、私が四肢を鎖で縛られていたからだった。
彼らを見下ろしていたのは、私が何か祭壇ようなものに備えられていたからだった。
祭壇とは名ばかりの磔刑台だった。
身体は動かせないのに、不思議と霞む視界は見たいものを見ていた。
祭壇はまるでこの世の黒という黒を掻き集めて岩に封じ込めたような漆黒であり、そのシンプルな直方体のフォルムとはかけ離れた異様さを誇っていた。
不可思議なのは、そこまで漆黒に染め上げられているというのに、そこに刻まれた絵画と言葉はくっきりと目に映る事だった。
黒い龍。
首は異様に長く、さながら大蛇だ。
全身を漆黒の甲殻で覆い、背からは巨大な翼。
胴体からは鋭利極まりない双爪が生え、長大な尾はトグロを巻くようにうねっている。
龍だと認識できたのが不思議な程だ。
例え古の龍達の中にもこんな異様な姿をした者はいない。
異質。異様。異常。
それはまさにお伽話に出てくる
刻まれた文字の意味はわからないが、おそらくはこの龍を称え、あるいは恐れる文章であることに疑いはなかった。
強大な存在を恐れ敬うのは宗教の原始的な姿だ。
視界を人々に戻すと、いつのまにか唄は止んでいた。
フードを被って覆い隠していた顔が晒されている。
私はそれをただ見下ろしているだけだ。
何の感情も湧かない私と対照的に、人々の顔は歓喜に満ち溢れていた。
今にも死にそうなヨボヨボの老人、まだ恋も知らない少女、顔に傷のある男、耳のない女、足を失った少年。
それら100余りの表情が、全て歓喜に染まって私を一様に見つめている。
折り重なった人の海をかき分けて、1人の男が何かを掲げながら現れた。
黒いフードを外し、狂喜を滲ませた表情で。
海を割ったように列になった人々の間を、男は歩いて行く。
掲げた
瘴気が人々に触れると、それは意思を持っているかのような動きでその四肢に絡みつき、顔を覆う。
男が歩く。
狂気の合唱が再び響き渡る。
男が歩く。
声が一つ消える。
男が歩く。
声が二つ消える。
男が歩く。
声が三つ消える。
男がようやく私に辿り着いた頃、声は一つになっていた。
屍の海を背にして、劇的なまでに大きい声でその唄を口ずさむその姿は、正気ではなかった。
いや、最初から誰一人正気ではなかったのだ。
ほとんど叫ぶように唄う男は、ついにその物体の正体を露わにした。
黒い霧に覆われたそれは、『檻』だった。
鉄格子の隙間からは何も見えないが、この瘴気を生み出す何かを封印しているのだということは嫌が応にも理解させられてしまう。
ドクン、ドクンと脈動の音が聞こえる。
その正体はすぐに眼前に現れた。
硬く閉ざされた鍵をガチャリと開き、その中身に手を触れた男は、瞬時にして千年の刻が経過したかのように老け込んだ。
歓喜を浮かべる顔は夥しい程の皺で埋め尽くされ、
老け込んだという程度のものではない。
命の根源たる何かを一瞬にして食らい尽くされたのだ。
それでも男は掠れた声で唄い続ける。
掴んだ
心臓だ。
ドクン、ドクンと力強く脈打ち、死そのもののような霧を生み出し、触れたものを瞬時に死に至らしめる。
心臓だというのに生命の象徴たる血が通っているようには感じられず、
むしろ死に満たされた邪悪なナニカがそこにあった。
段々と私に近づけられるそれを見ながら、ようやく私は気がついた。
小さい私の薄い胸に、孔が開いている。
心臓どころか、辛うじて肩と腹が繋がっている程大きい孔だ。
何も感じなかった。
痛みも、苦しみも感じない。
ただこの光景が白昼夢などではなく、現実であるということだけが確かだった。
こんな状態で私はどうやって生きているのだろう。
そうぼんやりと考えている間に、ゆっくりと近づいてきた黒い心臓はもうすぐそこにあった。
心臓は邪悪な脈動を続けながら、私は虫の息になってもまだ唄う半死人の声を脳裏に刻まれながら、やがて二つの死が交わった。
ポッカリと空いた孔に黒い心臓が静かに置かれる。
とうの昔に限界を超えていた男の肉体はその場で灰になって散った。
唄はもう聞こえないというのに、頭の奥に刻まれた意味もわからない歌詞だけが響き続けている。
それでも何も感じない。
身体に押し込まれたナニカが失われた私の心臓にとって変わり、その邪悪な瘴気を全身に巡らせてくる。
何も感じない。
全身に力が漲る。
細い身体を大理石の磔刑代に押し付けている、鬱陶しい両腕の鎖を無理やりに引きちぎった。
腕に走ったのは黒い閃光だった。
筋肉が断裂する音。
骨が軋む音。
肌が引き裂ける音。
全身を巡る黒い力がその全てを修復していく。
より硬く、より強く。
相変わらず痛みは感じなかった。
いいや、感じないのではなく感じ方も知らなかっただけだ。
泣き方も知らなければ苦しみ方も知らない。
笑い方も、哀しみ方も、怒り方も、この私は何も知らないのだ。
両脚の鎖も力任せに引き千切った私はふらつきながら祭壇の間をトボトボと出て行った。
幸い歩き方は知っていた。
どうやら儀式が行われていたのは地下だったようで、長い長い階段を登るとそこには大空が広がっていた。
私のよく知っている青空と白い雲とはかけ離れた、黒雲が立ち込め、太陽があるべき場所にはポッカリと黒い孔が開いている空。
ちょうど私に開けられていた孔のように。
世界という一つの白い羊皮紙に、泥水の一滴を垂らしたらちょうどあのような景色になるだろう。
収まるべき心臓が無い空はやがて苦しみの絶叫に身を唸らせ、暴風と雷を撒き散らした後に文字通り霧散して消えた。
残ったのは本来あるべき青空の姿。
不快になる、という感情もこの時は無かったのだろう。
意味のわからない苛立ちが心の底から湧き上がってきて、全てをぶち壊してしまいたい衝動に駆られる。
逆に、私にはあの黒雲立ち込める不気味極まりない空こそあるべき姿に見えたのだ。
小さい私は青空の下をしばらく歩いた。
腹が減っていた。
黒い力が訴えかけてくる。
喰らえ、喰らえ、喰らえ。
何でもいい。
生物を喰らえ。
獣を喰らえ。
虫を喰らえ。
草を喰らえ。
魚を喰らえ。
竜を喰らえ。
うるさい程に語りかけてくる心臓に急き立てられ、私は走り出した。
細い脚からは信じられないような俊足で野山を駆けた。
目の前を横切ったコバエを放り込んだ。
不味かった。
道端に生える花を食んだ。
不味かった。
水中を元気に泳ぎ回る魚を噛みちぎった。
虫よりは美味かった。
森を疾走して逃げ回る鹿を食い散らした。
美味かった。
草原を群れで奔る草食竜を喰らい尽くした。
もっと美味かった。
大空の彼方から火を吹いた飛竜を叩き落として貪った。
とても美味かった。
とにかく食った。
満たされる為に、失った何かを取り戻すように。
思えば何が足りなかったのかもよくわかっていない、単なる気まぐれの暴食だったのかもしれない。
それでも飢えと渇きは小さい私を苛み続けた。
湖を飲み干し森林を消し去り竜を手当たり次第に喰らい、それでも飢えは収まらない。
何がそんなに足りないのだろう。
そう考える余裕すら無い程に飢えて、ただひたすらに食らった。
やがて同じ形をしたヒトが私を狩りに来たが、彼らをも私は食らった。
繰り返し繰り返し同じような服装の男共が来るものだから、やがて私は食らうのをやめた。
正確には食らう前に、様子を伺うようにしたのだ。
度重なる捕食の影響か、段々とニンゲンは強い者が現れるようになっていた。
獲物を横取りされたことも数知れずだった。
ニンゲンが言語を使って意思疎通をしていることを理解した私は、やがてそれを真似て学習するようになった。
3年が経つ頃には、すっかりヒトの言語についての知識が身についていた。
繰り返し遭遇する強いニンゲン達が狩人と呼ばれることも、その目的も、なんとなくだが理解するようになった。
奪った衣服を身につけて擬態することも、わざと話しかけて不意を打つことも、ヒトの行動パターンを盗み見ている内に覚えていった。
衝動のままに襲いかかるだけでなく、表面を覆い隠し殺意を押し殺す術も身につけていた。
黒い力で破壊と再生を繰り返し続けた肉体はもはや少女のそれを遥かに超える域に成長していた。
黒い力を用いて戦闘を行えるだけの骨格と筋肉は、この時点でほぼ完成していた。
ある日のことだった。
蒼い服を来た2人組を食っていつも通り装備品を剥ぎ取った私は、背後からの奇襲を受けていて背に一太刀を入れられた。
僅かだが反応できたおかげで真っ二つになることは防げたが、それでも致命傷には違いなかった。
振り返ると、男がいた。
今まで食ったニンゲン達より遥かに歳を食っていた。
その佇まいから放たれる気迫は今まで戦った竜ともニンゲンともかけ離れた、遙か高みにあるように思えた。
身の丈を優に超える大刀を構え、黒白の毛皮に身を包んだ男が狩人の眼光でこちらを見据えていた。
この時ばかりは流石に避けられないと思った続く一太刀は、何故か直前でその動きを止めた。
好機とばかりに黒い力が私の身体を再生した。
一声吠えた私は太刀を叩き落として無防備な首筋に喰らい付いた。
迸った血が私の身体と男の防具を汚したが、私は構わず貪り食らうように肉をかき分けて骨を砕き折った。
やがて男はこと切れたが、何故かその最期の表情だけが気になっていた。
悲しみなのか、諦めなのか、後悔なのか、それとも絶望なのか。
それは今になってもわからない。
◆
大刀を奪ってより容易に竜を狩る方法を身につけた私は、やがて古の龍にまで手を出すようになった。
姿の見えない龍に翻弄されて毒に侵され、火炎の龍に全身を焼き尽くされ、暴風の龍には遙か天空から叩き落とされて死にかけたものの、それでも私は諦めなかったらしい。
極寒の雪山、燃え盛る火の山、荒れ狂う大海、天空に近い峰、果てしない砂の大地、緑豊かな森。
あらゆる世界を駆けずり回り、足りない何かを探し求めた。
……結果は推して知るべし、だが。
また2年程経ち、ヒトの生息圏に立ち入っても違和感なく溶け込めるだけの擬態能力を身につけた私は、海沿いの村に身を寄せていた。
近場の街に稼ぎに出たのか、ほぼ老人と幼い子供だけで形成される集落で、潜り込むのは容易だった。
既に錆びかけた刀は海岸の砂地に埋め隠し、捨て子を装って安全な寝食を手に入れた私は、夜が老けると近場の生命という生命を貪り食らった。
浜辺に隠した太刀を引き摺り出したその時、海中から何者かが姿を現した。
それは後に骸龍と呼ばれる古の龍———の仔だった。
いかに龍といえど仔など私の敵ではなかった。
襲い来る触腕を容易に躱し、捨て身で放たれた赫い閃光をも突き破って胴体を心臓ごと真っ二つに切って捨てた。
赫い閃光で焼かれた身体はしばらく火傷のように爛れて再生しなかったが、初めて龍を食らう感喜に勝るほどの痛みでもなかったらしい。
青い皮膚に覆われた肉を喰らい、赫い光と同じもので満たされる内臓器官を、薄灰色の血を一滴残らず飲み干した。
断った心臓の奥の奥から現れた、深淵そのものの具現のような玉も飲み込んで、私は食事を終えた。
その日から、私の身体は赫い光を放つようになった。
骸の龍を喰らったことで何かが変質したらしく、黒い光にとって変わったように生み出される力は全て赫い光を持つようになった。
その日から、5年もの間私を襲い続けた飢えはパタリと止んだ。
限界を迎えて折れた刀を海に放り捨て、私は村人に与えられた寝床へ戻っていき、泥のように眠った。
飢えに苛まれながら取る睡眠とは別格であった。
その日、私は初めて欲が満たされる快感を知ったようだった。
しばらく私はその村で平和に過ごした。
粗末な食事でも腹は膨れたし、何より襲われる心配なく眠りにつけることは私にとって最優先事項だった。
……しかしそんな暮らしは長くは続かなかった。
その日いつもと違ったのは、見慣れない2人のニンゲンが村に現れたことだった。
赤い飛竜の鎧を身につけた男と、紫色の鳥竜の鎧を身につけた女の2人組だった。
どちらもかなりの実力者であることは明白だった。
その日の夜、災害が村を襲った。
私の屠った仔龍を遥かに凌ぐ巨体の骸龍が、海より這い出てきて暴食の限りを尽くしたのだ。
暗闇の中、私はとにかくその双触腕から逃げ回り、捕らえられた人々の悲鳴を聴いていた。
そんな中、余所者のハンターたちが武器を取って立ち上がった。
火を吐く槍と軽弩で応戦した2人は抜群の連携で骸龍を的確に攻撃し、やがてかの古龍を討ち払うまでに至った。
———夜が明けると、そこには惨憺たる光景が広がっていた。
私とハンター達を除く住民は全てがその身体を生きたまま貪り食われ、村は廃墟ですらない木屑の集まりに成り下がった。
◆
私はあくまで捨て子の演技を続け、2人のハンターは私を自らの家に引き取り育てる事になった。
女の名前はラネル、男の名前はライズといった。
この少し前頃からニンゲンとの対話を行なっていた私は、漸くまともな感情、自我、といったものを獲得していたようだ。
今思えば、私はあの2人に我が子のように愛されていたように思う。
ニンゲンの街で見かける親子の所作が、どうにも私に対する2人の態度と重なって見える。
不器用に私の頭を撫でるライズ。
いつでも笑顔で私に振り向くラネル。
捕食の為、擬態の為に身につけたはずの
ただただ生物を貪り食らうだけの怪物は、根幹たる『飢え』を失って、空いた孔にはニンゲンの証たる『心』が収まった。
◆
皮肉なものだと思う。
ようやく飢えが満たされたというのに、新たに獲得した心はまた飢えを生み、同じように我が身を苛んでいる。
強くなりたい。
強くなりたい。
強くなりたい。
何故?
もう竜を食らう必要はない。
何故?
ラネルやライズに報いるだけの力はもう持っているはずだ。
———ああそうか。
要するに私は最初から解放されてなどいなかったのか。
黒い光は赫い光に消し去られた訳ではなく、ただ内に内に封じ込められただけだったのだ。
空の器だった私を黒い心臓が誕生させ、赫い光とニンゲンの心がそれを覆い隠しただけで、私の本質は依然変わっていなかったいうことだろう。
獣を喰らい、魚を喰らい、虫を喰らい、竜を喰らい、山を喰らい、海を喰らい、空を喰らい、龍を喰らい、やがては世界をも喰らい尽くす。
それが私が生み出された意味ではないのか。
喰いたい。
肉の一片まで残さず。
喰いたい。
骨の欠片すら残さず。
喰いたい。
血の一滴すら残さず。
私の胸に収まる黒い心臓が10年ぶりに強い脈動を響かせて、全身を支配していく。
黒い光が全身に満たされる感覚。
力が漲り、失った血と肉にとって変わるように埋め尽くしていく。
私の身体はいつしかこの黒い光に全て取って代わられてしまうのだろうか。
でも、そんなことはもうどうでもいいだろう?
私の生まれてきた意味、私の生きてきた意味、私の戦う意味、その全ては最初から
悩む必要など無かった。
押さえつける必要など無かった。
まして抵抗を加える必要など欠片も無かった。
これが私だ。
途方もない程の怪物で、ニンゲンの姿をしていることが不思議なぐらいのバケモノで、この世の全てを喰らい尽くす悪魔。
知っていた筈なのに、どうして押さえ込んでいたのだろうか。
それが私の心が望んだ事だから?ライズとラネルに貰ったニンゲンの心は、この黒い心臓を拒んだのか?
でも、もうどうでもいいだろう?
死に瀕しただけで開かれてしまう様な記憶の鍵は、最初から閉じていないのと同じだろう。
だから私はバケモノに戻ろう。
何も考えず暴食の限りを尽くすバケモノに。
こんな真っ白なだけの心は、真っ黒な力に喰わせてしまえ———。
◆
『———!——!』
なんだろう。
声が聞こえる。
記憶の旅を終えて真っ白に成った景色に、色が戻ってくる。
声の先を見上げると、光が見えた。
赫い光だ。
太陽の様に明るい輝きで私の身体を照らしている。
赤く、紅く、赫く。
白紙の心に光が差し続ける。
赫い髪を更に赫く染め、眼も、肌に走る血管もいつしか赫く染まっていく。
身体を覆い尽くしていた黒い光が後退し、色を取り戻していく。
これはなんだろう。
眩しい。
あまりの眩しさに目を瞑る。
そして再び開いた眼に飛び込んできたのは、満天の星空と———
「ロー……ラ?」
———相棒の泣き顔だった。
◆
「はぁ……っ!はぁ……っ!」
命辛々鏖魔から逃げ延びた私は、力尽きたローラを半ば引き摺る様にして抱き抱え、ベースキャンプへ向かった。
私とて満身創痍、加えて防具と武器の重さも加わるのだからたまったものではない。
イビルジョーの出現で小型モンスターが駆逐されているの幸運という他なかった。
見るも無残に砕かれた骸装甲、どこをどう負傷したのかもわからない重傷の山の様な身体、それでも大剣を握り締め続ける右手。
これだけでも凄惨な戦闘であったことが容易に窺い知れる。
満天の星空の下、私はひたすらに歩いた。
止まれば死ぬ、止まれば死ぬと自分に言い聞かせながら。
事実、今ここで立ち止まってしまえば身体を動かす全ての機能が停止するであろうことは自分自身の身体が1番よくわかっていた。
糸に釣られたようにギクシャクとした動きで小一時間歩き続け、ようやくその場所にたどり着いたのだ。
「ぁ……は、ぐっ」
ベースキャンプに入りローラを寝かせ、松明に火を点けたその瞬間、全身を吊る糸が一斉に断ち切られ、私は地面に叩きつけられた。
吐き出された息がいつになっても帰ってこない。
心肺機能が正常に機能しているかどうかすら怪しい。
骨折が炎症を起こしているのか、右の脇腹は焼鏝を当てられているかのような痛みが走っている。
どうにか右腕を腰に伸ばし、もう一つ残った秘薬を飲み込む。
秘薬と言っても所詮は短時間痛みを押さえつけ生命力を高めるだけの薬———要するに完全回復には結局適切な治療と時間が必要なのだ。
ローラ程の重症となれば緊急性は更に上がる。
少し楽になった身体を引き摺って、ローラの元へ辿り着く。
無理やり開かせた口から喉の奥に古の秘薬を放り込み、吐き出さないよう口を抑えた。
暴れるだけの力も残っていないのか、すんなり丸薬は喉を通り抜け、胃に落ちた。
どれだけの効果があるのかはわからないが、生きているのなら少なくともしばらく命を繋ぐことはできる筈だ。
「ローラ……!目を開けなさい……!」
砕けた鎧にしがみ付くようにして呼びかける。
少なくとも息はしているのだから、治療さえできれば目を覚ます筈なのだ。
最悪なことに、私は応急処置の心得はあっても医者ではない。
下手に治療行為など行えばむしろ命を縮めてしまうだろう。
何より、そんな力は今の私にも残っていない。
回復薬Gを飲み干しても、身体はまともに動かないままだ。
多少はマシになった腕で少しは楽になるだろうと装甲を取り外し始めた。
脚部の装甲はほぼ無傷だが、腹から腰にかけては大きく損傷し白い素体が覗いている。
胴体は所々が大きく欠け、背部の翼のような部分に至っては原型を留めなていない。
腕装甲も右肩はとてつもない衝撃で砕かれ、ほとんど肌が見えてしまっている。
「ローラ!」
胴の鎧を取り外せるだけの力は残っていなかった。
今の私にできることはもう、呼びかけることだけ。
ローラの目覚めを促す、或いは回復を信じて元気付けることだけ。
まるで余命僅かな老人だ。
妙なのは、彼女がやけに静かなことだ。
私のように痛みに呻いたり、身を捩ったりしない。
夜の砂漠とはいえ、体温の上昇も見られない。
ほとんど平静と言っていい状態なのだ。
医療の心得がない私から見てもこの状況は明らかに異常で、異質で、何より不気味だった。
一番重い傷を負っている筈の胴体は鎧に覆い隠されて、或いは夜の闇と揺れる視界が重なってよく見えない。
血の臭いはむせ返るほどにするというのに、それだけの反応がローラには見られないのだ。
「私は……どうすればいいんですか」
もう意味がわからなかった。
不敗の狩人なんて呼ばれていても、結局私はただの小娘に過ぎないと嫌になる程思い知らされる。
狩人としての本懐を遂げることも、ましてや父の跡を継ぐことなど、私にできる筈もなかったのだと言われているようで。
「助けてくださいよ……ローラ」
知らず呟きが漏れる。
力を手に入れても、結局私は弱かった。
いくら研鑽を積んでも、弱い私の心は鍛えられなかったのだ。
いつのまにかポロポロと涙が溢れ始めた。
嗚咽が喉を揺らし、定まらない視界は最早何を写しているのかもわからない。
「どうして私は……!こんなに……」
か細い力で振り下ろされた拳が、カツンと鎧にぶつかった。
———その時だった。
ざあ、と暴風のような音が聞こえた。
次いで、ドクンと何かが脈打つ音が響いた。
涙に濡れた顔を上げると、赫い光が視界を埋め尽くしていた。
赤く、紅く、赫く。
狭い世界が染め上げられていく。
美しい。
数瞬の後、放心した頭は漠然とそう思っていた。
紅より尚赫いその光は、ローラの長髪とよく似た色をしている。
身体を包み込んだ赫い光が左胸の辺りに集中していき———
———次に現れたのは悍しい黒い光だった。
「———っ!?」
瞬間、空っぽの頭に浮かんだのは『死』。
必死にローラから飛び退いた私は全身を襲う激痛に喘いだ。
それでも、何故だか私は安堵していた。
あの光の近くにいてはいけない。あの黒い光には決して触れてはいけない。
本能が下した判断は決して間違っていない。
ドクン、ドクン。と太鼓の音さながらに響き渡る脈動の音。
心臓の鼓動?それとも胎動?そんなことはどうでもいい。とにかく、アレは危険だ。
きっとこの世のモノではない。
もっと不吉で、もっと邪悪で、もっと悍しい———
「———ガッ」
「!?」
ローラの口から、
絞り出されたかのような音が出た。
黒い光は今やローラの全身を奔り、肌の表面を埋め尽くすかのように覆っていた。
さながら鎧、もしくは外套だ。
傍目から見ても、アレがローラにいい影響を及ぼしているようには見えない。
喉から出るのは呻きでも喘ぎでも無く、ただただ機械的な『音』で、全身からは何かバキバキと悍しい音が聞こえてくる。
表情は先程と打って変わって苦痛に染まり、脂汗を滲ませてガクガクと全身を振るわせている。
死に覆われた身体を見て、全身が震え上がるような恐怖に襲われる。
意味がわからない。
これは何だ?
彼女は何だ?
何もわからない。
震えているのだから、動ける筈の身体は万力のような力で押し留められて、心はいつまで経っても硬直したままだ。
「あ……あっ、ぁ……」
それでも、何故か動かない筈の右手が伸ばされていた。
どうして?こんなにも恐ろしいのに?
どうして?こんなにも痛いのに?
どうして?こんなにも苦しいのに?
わからない。
それは私が未熟だからなのか?
身の程を知らない愚か者だから?
いや、何でもいい。
それでも、彼女をこのままにしておくのは許せない気がした。
右腕は黒に埋め尽くされた鎧に届き、辛うじて入れた力で身体を側に引き寄せた。
ドン、と振り上げた拳を振り下ろした。
半ば馬乗りになるような形で苦痛に歪む顔を見下ろすと、何度も何度も胸の装甲に拳を振り下ろし続けた。
「起きてください……!起きてください……!」
ほとんどうわごとだ。
気の狂った老人のように同じことを繰り返し繰り返し叫び続ける。
喉が張り裂けそうになっても、叩き続けた拳の皮膚が破れても、それでも呼びかけ続けた。
黒い光が下半身を飲み込んだ。
ヒ、と悲鳴が漏れる。
それでも繰り返す。
———起きてください!
動かない筈の拳を、殺しかねない勢いで叩きつける。
———目を開けなさい!
黒い光が腹に到達しても、繰り返す。
———ローラ!
喉が枯れて掠れた声しか出なくなっても、繰り返す。
心を埋め尽くしていたのは、たった一つの願い。
———置いていかないで。
父も、仲間も、誰も彼も私を置いて逝ってしまう。
貴女だけは、違うと思ってた。
———私を、置いていかないで!
戻ってきて。
私を置いていかないで。
戦わなくていいから、強くなくていいから、
もう2度と———
———私を、独りにしないで。
◆
重い目蓋をこじ開けて、まず目に映った景色は、満天の星空と、相棒の泣き顔だった。
「ロー……ラ?」
泣いていた。
最愛の相棒が。
ポタポタと枯れる寸前みたいな小粒の滴が私の顔を濡らしている。
「何だ、お前だったのか……」
安堵。
そう、この感覚は安堵だ。
夢の中で見たあの赫い光は紛れもなくこの掠れた声ですすり泣く相棒に違いない。
重い身体を起こそうとして、激痛が走った。
右肩だ。
悪魔の角に貫かれて大穴が空いているのだから当たり前だろう。
肩と腕が繋がっているのが不思議な程だ。
「……!その鎧、今すぐ脱ぎなさい」
「え?」
激痛に喘ぐ私を見て、レインは血相を変えてそう言った。
定まっていなかった筈の視線は私の右肩を注視している。
今更気づいたが、胴以外の装甲は取り外されていて、素体と素肌が覗いている。
察するに治療の類を始める所だったのではないだろうか。
だが不味い。
レインは回復薬を通常の倍も持ち込む安全主義者だ。
身体に穴を開けられたなんて言った日には問答無用でクエストリタイアを選択するに決まっている。
あの剣幕で怒鳴られたら私は言い返す自信が全くない。
「いや……あの……」
「脱ぎなさい」
「落ち着けって、何か私が襲われてるみたいじゃないかこれじゃ」
「いいからさっさと脱ぎなさい!!!!!」
「は、はい」
……やはり、結果を予測できても回避できるかは全く別の問題だったらしい。
◆
「———」
鎧を脱いで患部を晒した私を見て、レインは絶句した。
私も正直、直接見たらあまりの酷さに目眩がした。
右胸がほとんど抉られたように穴が開き、右腕は辛うじてくっついてるようなモノで、神経が切れたのか全く動かせない。
というのに右腕は大剣を掴んで離さない。
角でカチ上げられた腹は肌の色とは思えないほどに変色し衝撃の強さを物語っている。
壊死だとか打撲だとかそう言ったレベルを遥かに超えている。
悪魔の一撃は命そのものを削り取るような力で私の肉体を抉っていた。
更には全身打撲と切り傷の山、至るところから出血し、冷え固まった血液が斑点のようになって肌を覆っていた。
「……」
「……」
気まずい沈黙が流れる。
先に均衡を破ったのは、予想通りレインの方だった。
「……リタイアしましょう」
「……」
これも予想通りだった。
命を最優先に考えるレインからすれば当然の判断だろう。
……だが
「断る」
「……ダメです。私の力では鏖魔に敵いませんし、貴女はもう戦うどころかハンターを続けられない程の重傷です。……もう決まってしまったことです」
一部の隙もない正論だ。
客観的な事実を基に構築した完璧な理論。
……それでもだ
「……お前が止めても、私は出るぞ」
「……どうしてですか?」
「……」
何せ、私にも全部わかってるわけじゃない。
私の中にあるナニカ、それを覆っていた赫い力、そして私の心……夢の中で見たあの記憶は全て真実だ。
だからこそ私は狼狽えるでもなくただ受け入れているのだから。
でも、私にはわからない。
衝動に全て任せるのが正しいのか?
心に任せるのが正しいのか?
それとも、他に方法があるのか?
それはわからない。
でも結局、私の道は戦いの中にしか無いのだと思う。
今ここで逃げてしまったら、私はきっと2度とその答えに辿り着くことができないのだと、そう思うのだ。
「さぁな。……でもな、一つだけわかるのは、答えは道の先にしか無いってことさ。進み続けなきゃ、きっとそれはわからないんだ」
「答え……?」
「要するにだな……」
ニヤ、と自然に口の端が釣り上がった。
いつのまにか、いつもの調子が戻ってきたのかもしれない。
「負けたくないんだよ!」
呆気に取られるレインを他所に、私は疲れに任せて眠りに落ちる。
もう夢は見なかった。
来る決戦の為に、身体を休める必要がある。
ただ、再び赫い光が胸に集まってくるのを感じながら、私の意識は闇に落ちていった。
———私の本質、私の辿るべき道、私の心の在り処。
この戦いを制すれば、少しは答えが出るのではないか?
心なきバケモノに戻るのか、心有るヒトとして生きるのか。
私の空の心から生まれるモノ、この先生まれ出てくるべきモノ。
その全てに、いつか答えを出す。
取り戻した記憶と、受け継いだ心に誓う。
『私は何者だ?』
『私は何のために生まれてきた?』
『私は何の為に生きるべきか?』
答えの無い問いは無い。
答えるべき時は、必ず来る。
だから、その時が来るまで私は逃げてはいけないのだ。
ただのニンゲンとして生きることもできた。
平凡な村娘として過ごす未来もあった。
だが私は再び戦いに身を投じたのだから———答えを出さなくてはならない。
最後の最後まで選んだ道を突き進んで、その先の景色を見なければならないのだ。