「…思考が乱れておるのう、愛奈。」
…非常に重い空気が流れる和室。彼女の視線の先には一人の老婆が居た。
「…やはり貴女には全て御見通しですか。御祖母様。」
愛奈は正座したままその老婆の顔を見据えた。ここは冷泉寺家本邸。千年続く名家中の名家である冷泉寺家の本家であり、その冷泉寺を支配する老人たちが闊歩する屋敷でもあった。そんな冷泉寺邸に愛奈は戻り、一人の老人…老婆と会っていた。
「呵々。お前のような小娘の猜疑心などワシからすれば雛のような物だ。」
「…それで。御祖母様。そろそろ私を呼び出した理由についてお話頂けますか。」
「…よかろう。ワシとて可愛い孫娘を虐めるのは本意ではない。だがこれも冷泉寺のため、分かってくれると信じでおるぞ?愛奈よ。」
「…御祖母様。」
そう答える愛奈の声は底冷えしたものだった。
「呵々。実の祖母に殺気を向けるものではないぞ、愛奈。まぁよい。お主に一つ話が合ったのだ。」
「…聞きましょう。」
愛奈は眼を閉じ、殺気を落ち着かせ言葉を促した。
「愛奈、お前は冷泉寺が誇る中での飛び切りの最高傑作だ。仁蔵も才に溢れていたがアレの隆盛を超えるほどの出来をお前はしておる。」
「…お褒めの言葉を頂き恐悦至極です。」
「故にだ、ワシはお前には期待しておる。そこで一つ提案があるのだが、まさか祖母の頼みを無下にはせんよなぁ?」
「…話によります。」
愛奈は嫌な予感がした。こういう時の勘ほどよく当たってしまう。
「ワシはお前が冷泉寺の次を担うものだと思っているが、じゃが更にその次を見てみたいと思っておる。」
「…御祖母様の伝えたいことが分かりかねます。」
「呵々。ならば直球で言おう。愛奈よ、子供を産め。ちょちょいとまぐわって子供を産んで来い。男子が善いな。」
「…なっ…。」
それまで無感情に努めていた彼女の顔色も流石に変わる。
「…御祖母様。冗句としてもそれはとても性質の悪いものです。」
「呵々。ワシの言うことが冗句に聞こえるのならば耳医者へ行くがよい、愛奈。…ワシはこのような冗句は言わぬ。疾く子供を産めと言うておるのだ。」
「…私には相手が居ません。」
「お前の立場ならばどれでも選び放題じゃろ。…それにお前が教えを付けているというあの石動という少年、どうにも将来有望なようじゃないか。ワシの目が曇ってない限りはなぁ。」
「…もうそこまでご存じなのですね、御祖母様。」
「ワシの目や耳に入ってこないことは殆ど無い。それで、愛奈よ。お前は私の頼みをどうする気じゃ?」
そして愛奈の表情はより一層底冷えしたものとなり目には明らかな敵意と殺気が浮かんだ。空気が変わる。それは常人には出すことのできないオーラ。
「…私はまだ学生の身です。そのような気はありませんので御祖母様の頼みは聞き入れることは出来ません。」
「—--ほう。冷泉寺の核たる『私』に刃向かうか?」
…老婆の空気が一変した。それまで飄々としていた空気は鋭く、肌に刺さる…そのように錯覚されるほど緊迫した重い空気が流れていた。だが愛奈は眼を閉じ、一瞬の間を空け、そして再び目を見開き言い放った。
「私は誰にももう縛られるつもりはありません。それはどんな例外もなく…貴方もです、御祖母様。」
そして老婆の目を見据え、視線が貫いた。
「石動くんは私を信頼してくれています。…ならば何故私が彼の信頼を裏切れますか?」
そして当然のことだと言い切ったのだ。
「…良かろう。」
空気が急激に軽くなった。重圧感が一ミリも無くなり飄々とした雰囲気が戻ってきた。
「ワシとて可愛い孫娘の成長を喜んでおる…呵々。ああ、何とも良いことじゃ。」
その発言の真意を彼女は理解しえなかった。…が、それでも子を産めという強制は無くなっと考えてよさそうだと判断した。
「…御祖母様。寛大な御心に感謝します。…けれどもあまり出しゃばるような真似はお父様が黙ってはおられないと思いますよ。」
「呵々、それもそうじゃな。老骨は暫くは黙っておくとするわい。お前もいつまでも従順な駒ではなく安心したぞ。」
「……。」
愛奈は相変わらず冷めた目だった。が…それでも何かを堪えるような視線を送っていた。
「…あまり私を舐めるなよ。」
そしてそれまでに無い以上に冷え切った声で言い、彼女は退出していった。残された老婆は呵々と笑う。…老婆の名は『冷泉寺紗代』…冷泉寺に住まう蟲であった。
―――――――
「…君は結局強くなったね、それこそ私を寄せ付けないくらいに。」
「…そうですかね、確かに強くなった実感はありますけれど、まだ愛奈さんを超えた自信はありませんよ?」
「謙遜しなくていいよ。君の力は世界を揺るがしかねないものだ。その気になれば多分世界のバランスを変えるくらいの事は容易いくらいには…けれども。」
「…ええ、俺はそんなこと望んでませんよ。これまで通り俺のやりたいことを続けたいですからね。」
「うん、そう言うと思っていたよ。それに君と離れ離れになるのは私も嫌かな。」
「嬉しいこと言ってくれますね。俺も今の生活を壊すのは嫌ですし、それに目立つのはもともと好きじゃないですしね。」
「フフッ、業呪戦役ではあれほど目立ったのに?」
「あれは…不可抗力ですよ。それに俺の事なんか75日後には忘れられてましたし。ずっと注目され続けてきたのは愛奈さんの方じゃないですか。」
「…元々名も売れていたからね。半ば諦めているよ。」
「別にいいと思いますよ。愛奈さんの場合立場上そういう名声は必要ですからね。それに…」
見知らぬ誰かを腕の中に抱き寄せる誰か。
「それにこの時の愛奈は俺の専用だから、な?」
「…全く君は性格が悪いな。…ああ、そうだよ翔。君だけのワタシだ。」
そして唇を…
―――――――
…翔馬は慌てて起き上がった。…時計を見る。…時刻は午前5時半。何時も起きるよりかなり早い。そして顔に手を当てた…熱い。
「…俺はなんて夢を。」
彼は一言だけぽつりとつぶやいた。思い出すだけれども恥ずかしい。…そして彼は「あれ」と呟く。
「…どんな夢を見ていた…?」
覚醒してから30秒。その間に夢は…彼の見ていた夢は記憶から雲散霧消していた。彼は起き抜けの頭を唸らす。…そして結論付けた。何か引っかかるようなところはあったが直ぐに忘れるような物では本当に大したことではないと。彼は布団を跳ね除け、起きる。そして服を着替え、今の時間ではあまり人もいない談話室へ向かった。
意外にもそこには先客がいた。談話室の机を占領し、何かを広げている愛奈だった。
「…冷泉寺先輩?」
翔馬はそんな彼女に声をかけたが…
「お…おや、おはようございます。石動くん、かなり早起きですね?」
「え…ええ、おはようございます。先輩、そういう先輩もかなり早起きに思えますが。」
「そ…うですね…私の起床ペースはもっと早いのですが…それはまたの機会にお話ししましょう。」
…何かぎこちない空気があると翔馬は感じた。しかも翔馬だけではなく、それはこの場に居る愛奈も同じだった。
「そういえば…昨日は一日見えませんでしたが何処かへ行かれていたんですか?」
「え、ええ…実は所用で冷泉寺の本家に戻っていました。流石に一日で東京から京都までを往復で移動するのは大変でしたけれどね。」
愛奈もその誤魔化しのような話に乗る。というよりも翔馬は驚愕の感情を覚える。
「京都ですか?しかも一日で…?」
「はい、そうです。とはいえ移動自体はそんなに難しいものではありませんでしたよ。ただ時間がかかったというだけで。」
「そうでしょうね…東京から京都ですもんね…。」
翔馬は賛同の言葉をかけた。いくら移動は楽だと言ったとしても時間がかかるのは明白だから。
「とはいえ本家からの呼び出しです。私に従わないという選択肢はまだありません。」
「…お疲れ様です。」
「大丈夫ですよ、この程度は慣れていますから。」
にこりと笑う彼女は何時もの人を食った笑みだ。…だが話題が急に尽きると彼らの空気も変わる。
「…え、えっと…そうだ、冷泉寺先輩は本家が京都にあるって言っていましたから出身は京都なんですか?」
「は、はい…そうですね。私が生まれたのは京都です、で…ですけれどね、物心の付く前に東京に渡ったのであまり京都の記憶や方言はありませんね。」
「へ…へえ、そ、そうなんですね…」
…沈黙が重い。それを何とかして破ろうとしているのは愛奈も同じだ。
「…そ、そういう石動くんはどうですか?どこの出身ですか?」
「お、俺はですね。生まれたのは北海道です。」
「そ、それは少し意外でしたね。」
「えっと…母親が北海道の出身でしてね、出産のときは里帰りしたみたいなんですよ。ただ産まれてからすぐ東京に戻ったらしくて全然実感はないですけれどね。」
…さらに沈黙。翔馬はだんだんとやぶれかぶれになってきた。
「じゃ、じゃあ…先輩の誕生日は何時なんですか?」
「わ、私は…12月24日生まれですね。」
「へ、へぇ…クリスマスイブですね。」
「では、石動くんの誕生日は何時ですか?」
「俺は…10月14日です。」
…沈黙。やがて諦めたように翔馬は頭を掻いた。
「…すいません、何か今日はテンパっちゃいまして。」
「大丈夫ですよ…私も何だか本調子じゃないようです。意識していないだけで昨日の疲れが溜まっていたんですかね?」
「それならまだ寝ていた方がよかったと思いますけれど…。」
翔馬の言葉に同意しながらも愛奈は首を横に振った。
「…どうにも目が覚めてしまいまして。それに眼もさえてしまって…原因は多分夢見の悪かったせいだと思いますが…。」
「夢ですか?」
「はい…ただ内容に関してはすっぽりと抜け落ちてしまいましてね。起きてから感じたのは…何故か羞恥でした。」
「……。」
翔馬は内心驚愕した。これほどまで似たような経験があるのだろうかと。
「結局思い出せませんが…。」
「あの、先輩…少しいいですか?」
「…ええ?構いませんが。」
「風邪にでも罹りましたか…?すごく赤いですよ…?」
…そう、愛奈の顔が赤かった。それはもう赤かった。
「…本当ですね…どうしてでしょう…。」
愛奈は赤いのを自覚しながらもその原因に心当たりは無いようだった。ペタペタと自分の頬を触っていたが何故そんなにも赤いのか理解が及ばなかったようだ。
「本当に調子が悪いのかもしれませんね、自覚はありませんが…。」
「…先輩…。」
その視線は痛ましいものだった。憐れむ目だった。
「流石にその視線は少し来るものがありますね…ではなくて。特に体に異常はありません。活動する分には問題なさそうですが…。」
「ほ、本当に大丈夫ですか?」
「…少なくとも…いまは。」
歯切れが悪い愛奈の言葉。断言が出来るほどの確定材料が今の彼女にはなかった。
「…いえ、それよりも…石動くん、貴方に任せきりのようになりますが…鷺沼さんのことをどうかよろしくお願いします。」
「先輩が忙しいのは重々承知しています。…俺に任せてください。」
唐突に声を潜める愛奈。そしてそれに応えるように答える翔馬。
「…すいません、私の罪の象徴を貴方にお任せする形になってしまい。」
「先輩、それは…。」
「ええ…分かっています。しかし…彼女は私が殺してしまったようなものなのです…原因が直接ではなかったとしても…その後悔は…恐らく永遠に消えないでしょうね。」
「…先輩。」
それきり愛奈は黙り込んでしまった。翔馬もかける言葉が無かった。…たった一つを除いて。
「…まだ赤いままなんですね?」
「ああ…もう何でかしら…。」
見られれば見られるほど赤面していくという事に愛奈はまだ気づかない。