「仁蔵!」
ある夏の日。その声で現実に引き戻された。
「…閃奈。子女である君がそう声を張り上げるな。そこまで言わなくても聞こえている」
「ウソ。絶対聞いてない」
机の前に立っていたその少女…双子の妹である閃奈の声に顔を顰めそうになった彼はまた説教が始まりそうになった。
「この学園内では気にしなくてもいいかもしれないが…本家の方では頼むから淑やかな子女でいてくれ。家の老人どもに抗議されるのは私の方なんだ」
「お生憎様。誰かに生き方を縛られるなんてアタシは大嫌いなの」
ベーッと舌を出して反抗期真っ盛りの妹はどうしようもなく兄の頭を悩ませている存在だった。
「それより、早く学食に行きましょ。樹が待ってるわよ」
「…分かった、それもそうだな」
彼女に説教など馬の耳に念仏を唱えているようなものだ。全然響かないし改める気もない。彼女はそういう星の元に生まれてしまったのだった。
────
「美味しいわよね、この学園の食堂って。家の堅苦しい食事より断然」
「ハハッ…そういうものなのかな」
「…気にするな。閃奈の言葉は正直あてにしないほうがいい。家の料理も間違いなく美味い」
東京聖城学園高等部のテラスに三人はともに卓を囲んで食事していた。
「樹、そのおかず交換しましょ、これあげるから」
「うーん…良いと思うかい?仁蔵」
「私に判断を仰ぐな、自分で決めろ」
男二人はその一人の少女に振り回されている存在だった。だがそれでも彼らの関係は決して険悪なものなどではなくごく普通の三人の若者の姿であった。
そして放課後。閃奈という少女は二人を連れまわし気まぐれに街を歩く。色々なものを買い、それを男二人に持たせてはまた新たなものを買う。ハッキリ言って都合のいい荷物持ちだが彼女の表情は楽しそうだからそれでいいかと男二人は彼女にとことん甘かった。
買い物も終わり児童公園にて閃奈はなぜか児童たちに交ざって缶蹴りで遊んでいる。よく飽きないものだなと閃奈のことを仁蔵は見つめながらも笑っていた。そんな彼の様子を親友は微笑ましい様子で見ていた。
「嬉しそうだね、仁蔵」
「ああ。嬉しいな…彼女がこうしていられる時間というものがあるだけで私は嬉しい」
仁蔵は親友の顔を見えてはないが意識はそちらに向けている。
「…やっぱり跡取りは彼女になるのかい?」
樹は微笑を浮かべた顔を無くし神妙な面持ちで仁蔵に尋ねた。仁蔵も最初から茶化す気なども無いが真剣な表情でその疑問に返す。
「…彼女は市井の人々が好きだろうな」
「うん。もちろん嫌いな人はいるだろうけどそれでも彼女はこの町で愛されてるね」
閃奈はその自由な生き様で反感を買うことはもちろん人を惹きつけることも多々あった。
「…彼女にとって冷泉寺という家はただの枷でしかない。そんな牢獄に彼女を閉じ込めたとしても彼女は暴れるだけだろうに…親もそれは分かっている…だがそれでも」
「…閃奈は君より強いから次期当主は閃奈になる、と?」
「そういうことだ。普通はストレートに言うものでもないだろう…だがその通りだ。彼女は強い…私よりもお前よりも」
「…それで、君はどうしたいの?」
「どうしたいの、とはどういう意味だ」
その問いに仁蔵は答えず問いを返した。
「…いや、君は彼女を当主にしたくないように思えるよ」
「たとえ思っていたとしても私のようなものが家の方針に逆らえるはずもないだろう」
「…でも…彼女なら違うんじゃないかな?」
二人の視線は缶蹴りで子供たちを大人気なく捕まえる閃奈の方に向けられていた。
「ああ。閃奈ならば無理も押し通して道理に出来るだろう…だがそれは血が流れることになる。彼女自身の血だけじゃない。たくさんの血がだ。そして…閃奈の手に一生落ちることない汚れが付く」
「なるほどね。君は…閃奈に人殺しなんかさせたくないんだ」
「当たり前だ。どこに肉親に手を汚せと願う人間がいるか。…いや、居るかもな。冷泉寺には」
樹が覚悟を決めたように仁蔵に言った。
「…ねぇ、仁蔵…。君は…」
言葉に詰まる樹だが向き合って真剣に瞳を見つめてくる親友の姿に覚悟を決めた彼は言った。
「…君は二度と閃奈に会えなくなったとしても…それでも彼女が幸せになるなら良いって思える?」
「…どういう意味だ」
「意地悪だな、君は…知っているだろう。僕が彼女に惹かれていることくらい…」
仁蔵は言葉を返さない。確信はあったとしてもそれは言わない程度の情けの心はある。
「…彼女は僕が絶対に幸せにする。だから…だから、閃奈のことは…僕に任せて欲しい」
その親友の言葉に仁蔵がどう返したか…それは語るまでも無いことだ。
────
それから何年も経過したある日のこと。冷泉寺家の当主となった仁蔵はその日も激務を終え、常に当主として気を張り続ける毎日を過ごしていた。だがそれだけでいい。彼女を託したあの男ならば大丈夫だと常に心の片隅には妹と親友の姿があった。
寝所に手紙があったのだった。その得体の知れぬ手紙を彼は迷わず取った。仁蔵はそれを直接受け取り至って普通の手紙であることを確信してその中身を読む。
その得体の知れぬ手紙には兄妹しか知らぬ暗号が刻まれていた。これを寄こしたのは妹だという確信が彼にはあった。だが冷泉寺から逃れた彼女がどうしてわざわざ手紙を送ってきたのか、それだけは晴れない疑問だった。
『仁蔵へ』
手紙の書きだしはそれで始まっていた。相も変わらず彼女という人間は揺るぎないようだ。
『あなたに全てを押し付けて逃げた私がこんな手紙を出す資格など無いとそう思っていますがそれでもこの手紙を書かせてもらいました。貴方には伝えておきたいことがいくつかあります』
『私は今、辺境の地で樹といます。彼はこのろくに電気も通らぬ地で集落の人々を業呪から守り感謝される日々です。それと彼が学生時代から言っていた業呪の解明なども進めているようで、碌な設備も無いここでは亀の歩みより遅いようですがそれでも彼は精力的に活動しています』
どうやら親友は正しく生きているらしい、仁蔵にはそれだけで安堵した。
『そしてもう一つ報告したいことがあります。それは私のお腹に新しい命が宿っているということです。貴方にとっては甥か姪かということになりますね。ここでの暮らしは不便でしかありませんがそれに文句を言う資格は私にはありません。けれどもそれでも幸せに生きているということを伝えたくてこの手紙をしたためました』
『最後になりますが、貴方にだけは私たちの場を教えておきます。もし仮に私に何かあった時のために遣いをこの手紙に宿しておきます』
「…閃奈の式か…」
彼女の祓術によるその手紙は実体をやがてなくし散っていく。だがその残滓がそこに残り続け、紙で折られた鳥のようなものだけが残った。…その残滓が彼女が送ってきたものだということをただ確信した。
「…これを知られるわけにはいかんな」
仁蔵は紙の鳥をその体内に取り込むという行為によって閃奈のことを隠し通し続けた。
────
そしてその知らせは突然届いた。仁蔵は閃奈から送られたそれを体内でずっと保持し続けたがそれが突然と体内で動いた。そしてしっかりとした言葉が彼の内部だけには響いた。
『…娘…をお願い……あの人から…守って…』
聞き間違えるわけもない閃奈の声。そしてそのビジョンがありありと浮かんだ。
燃え尽きる集落に崩れる屋敷…そして絶命する閃奈の姿。
それだけで彼が動く理由は十分だった。冷泉寺の当主としての責務をその時全て投げ出し、彼は閃奈の潜伏する集落へとあらゆる手段を使って向かった。だが向かった時にはもうすべてが遅く。
「…閃奈」
久しぶりに見た妹は既に腹を引き裂かれ絶命していた。だがそれでもその腕に赤ん坊を抱いていた。ただし眠っているのか泣きもせず骸となった母に抱かれていた。
「…息はある…生きてはいる」
仁蔵は閃奈の亡骸から赤ん坊を抱きあげると生きてはいることは確信した。だがこの赤子からは何かが欠落したということは理屈ではない予感が感じさせていた。
「…こんな乱暴に扱われても泣きもしないどころか…目覚めもしない」
それでも生きているその赤子を彼は自分の庇護下に置くことにそう決めたのだった。それから暫く赤子は目を覚ますことは無かった。栄養は外部からの摂取によって何とか生きながらえていたがそれでも赤子は目覚めなかった。
「仁蔵よ。あの赤子のことが随分と気がかりなようだな」
そんな仁蔵の心を見透かす様に問いかけたのは彼の母…ということになっている冷泉寺紗代という老婆だった。
「…何も。貴方に話すことなどありません」
「まぁ聞くが良い。あの赤子は生き物として生きてはいるが肝心の魂がどこにもない。欠落しているなどということはお主とて気づかなかったわけではなかろう?」
「……」
「儂がそれを引き受けてやろう。ただし…儂の条件を呑め」
「…それは…何を」
「あの赤子を次期当主に据えろ。あれは閃奈の子だ。逸材と言ってもいい。冷泉寺の歴史の中で一番のモノよ。だから仁蔵、お前がアレを娘にして次期当主に据えろ」
「…私の娘は…沙耶はどうしろ言うのですか」
「好きにせい。だが沙耶はもう当主にはなれぬよ。絶対にのう」
「そんなことを私にしろとそう求めるのですか」
「応よ。答えられぬならこの話は無しじゃ。しかし良いのか?閃奈の形見をこのまま眠り姫にしていても」
「…私は…」
────
私は二人の娘に恨まれることになったとしてもそれでも…良かった。私には閃奈に託された愛を見捨てるほど非情になれなかったし、義務感で作った娘の存在も見捨てるほど冷酷な当主ではいられなかった。
それが愚かな結果に繋がったとしても私はこの選択が誤りであったとは思えない。
「…父さん」
すまなかった、沙耶。お前に謝っても許されるわけではない。お前への罪を何も償えなかった。償う前にお前が死んでしまった。
「…もう、いいんです。私は自分の最期に悔いはなかったのですから」
本当にそうだと良いのだがな…それから愛奈にも謝らなければならないとそう思う。
「…そうですね。私も…愛奈には謝らなければなりません…けれどもそれももうお互い叶いませんね」
ああ、本当に不器用でダメな男だったな、私は。
「でも、それでもよかったんじゃないの?仁蔵」
…閃奈。今更君に顔向けなど出来ないというのに
「死ぬ時くらい独りぼっちだと寂しいからわざわざ来てあげたってのに拒否するのは無しよ」
ああ、強引だな、君は。…でも嬉しいものだな。
「…愛奈に全て背負わせることになっちゃったわね」
…ああ、それも申し訳ないと本当に思う。けれども彼女は一人じゃない。
彼ならば愛奈を必ず助けてくれるだろう。若い二人に世界の運命を背負わせてしまうが…それでも私は彼らに託したんだ。
「それで、本当に良かったのね。兄さん」
無論だとも。そろそろ行こうか。
…去らばだ、愛奈。
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そして彼女はベッドで目を覚ました。…覗き込む顔と目が合って。
「愛奈さん…!」
「…翔馬君…」
愛奈の体は怪我だらけで応急処置気味だが包帯やらいろいろなものがまかれている。どうやらここは病院のようだ。
「…私は…」
愛奈はまだ状況を掴み切れていなく言葉が出ない。だがその前に、彼女の瞳から涙が流れてきたのだった。
「…愛奈さん…泣いてるんですか?」
「…貴方って言う人は…本当に愚かでしたね…父さん」
それは彼女の無意識から零れ出た言葉。ようやく彼女は全ての状況を把握したのだった。
彼女はまた誰かの命を使って生き延びた。それだけは愛奈は確信していた。