目が覚めるとそこはーー知らない天井だった。
その部屋は、窓から差し込む月光と心もとないロウソクの淡い朱色だけで照らされていた。
「ここはーー」
やけに回らない頭では、何も考えることができなかった。
とりあえず現状を確認したいが身体を起こすのすら億劫だ。正直、このままこの身体の重みを忘れさせるようなマットで、もう一度眠ってしまいたい衝動に駆られる。かろうじて開けられた瞳に映る天井には、見るからに高級そうな布が吊るされるようにかけられていた。
「天蓋…… って言うんだっけか」
「貧民が寝るには、さぞもったいない寝具であろう。今のうちに、二度とないこの機会を堪能するが良いぞ」
凛と鈴のなる声が部屋に響く。
行儀が悪いと思いながらも首だけで視線を向けた。すると、そこには棘のある言葉とは裏腹に愉快そうな笑みを浮かべた紅の姫がいた。
「よぉ。こんな、夜分遅くに奇遇だな」
「奇遇? 妾の屋敷で、貴様のような下賤の者に会おうとは奇妙の間違えであろう」
腕を組み傲慢不遜に見下すプリシラ。そんな彼女は、色こそいつもの赤を基調としながらもシースルーを多めに使用した衣服に身を包んでいた。
控えめに言って…… その露出度は少ないとは言えない。あと、腕組んでいるからお胸が控えることを知らない。お世辞にも外出先で着用する物ではないとするならば、なるほど彼女の屋敷だと言う話も本当のようだ。
さて、ところで俺はなんで彼女の屋敷にーー
「俺は…… そうだ、俺はラインハルトに斬られてーー」
「そうじゃな。身の程を弁えず、飛び回ってははたき落とされ、それでも甲斐甲斐しく妾を楽しませようと虫のように惨めに這い回る姿は、それはもう滑稽であったぞ」
プリシラは語りながらその様子を思い出したのか、もはや愉快を超えて愉悦に浸るように表情に熱が帯びる。
「しまいには、妾を彷彿とさせる赤き鮮血をその身から披露するのじゃから、いくら妾の余興になれるそのこと自体が褒美とはいえ、労いの一つでもやらねばと思ってな」
「なるほど…… な」
俺の疑問は、プリシラの言葉を最後の鍵に解消された。
だからあの時……
「前に、俺の宗派について気にしていたことがあったよな??」
「なんじゃ急に。宗派…… あぁ、妾が貴様を火葬してやろうとした時じゃな」
「もう、ごまかさなくていいんだぜ。本当は今日の為に聞いたんだよな?」
「……貴様は本当に何を言っておるのじゃ??」
プリシラはまるで本気でわからないと言いたげな表情を浮かべた。
ーーったく、照れやがって。かわいいところもあるじゃないか。まぁ、こういうことを女性から言わせるってのは、それこそ不作法ってもんだからな。
「安心してくれプリシラ。俺の宗派は『婚前交渉』にも寛容だ」
「ホントに何を言っとるんじゃ!?」
「何って…… お前が俺の頑張りをねぎらう為にエッチなご褒美をくれるんだろ??」
「そんなわけなかろう」
上流階級にあるまじき怒りで歪み切った表情でプリシラが否定する。とはいえ、コッチだってもう後には引けない。
「クソッ、騙したのか!?」
「騙すもなにも、どういう思考を辿ればそのような下劣な発想に至れるのじゃ」
「こんな夜に、男の部屋でそんなエロい服着て腕組みからのデカ乳強調させといて良くいうぜ!!」
「全部ッ、貴様の勘違いじゃッ!!」
「な、なんだって…… チクショウ。くそぉ、くそぉぉぉ…… うぅぅぅぅ」
「な、泣くでない!! 鬱陶しい!!」
恨めしげに睨む俺をプリシラは一蹴した。
ラインハルトに敗れた時だってこんな涙は流れなかった。それほどまでに悔しい。男の純情を弄んだプリシラが許せない。
「これが…… これが貴族の遊びだとでもいうのか。持たざるものを嘲笑い、これみよがしに見せつけて、結局は取り上げる。間違ってる…… こんな世界は間違っている!!」
「間違っているのは貴様の方であろうに…… 人として」
ここまで言っても折れないとは、照れているとかではなく、どうやら本当に俺の勘違いらしい。
「じゃあ、なんで俺はお前の屋敷なんぞで寝てるんだ??」
「じゃから言うたであろう。妾から貴様に褒美をつかわせると」
「エロくない褒美ってなんだよ。悪いけど金品の類ならいらないぜ。俺はそんなもんで動くような安い男じゃねぇ」
「安いというより浅ましかろう。貴様は自分の言葉の前後で矛盾しておることもわからぬのか…… まぁ、よい」
プリシラは頭痛を抑える素振りを見せた。しかし、すぐにいつもの傲慢な彼女へと戻ると、まるで「ーー喜べ」言わんばかりに言葉を投げてくる。
「咽び泣きながらに感謝するとよい。貴様には、この妾に仕える権利をーー」
「いや、いらねぇ」
「なんじゃと??」
プリシラは、彼女を遮って返した俺の答えに心底信じられないと驚愕を顔に貼り付けた。どんだけ自信あったんだよ。
「いらぬとはなんじゃ、人権をか??」
「そんなわけないだろ。ナチュラルに奴隷にしようとするな。使用人ですらないのかよ」
「貴様は妾に虐げられることに至高の喜びを感じていたではないか」
「ねぇよそんなの。なんだ、その『裏切られたッ』みたいな顔は」
「何を今さら。でなければ、妾を悦ばせる為に斬られたりはせぬじゃろうが」
どうやらプリシラは本気で自分の為にラインハルトと闘ったと思っていたらしい。
あぁ、そういえば。王の間でプリシラを怒らせたまま退出したんだった。それで彼女は、俺が自分の機嫌を取る為にあんなボロボロにされていたと勘違いしているのか。
「俺も大概だけどさ…… お前も大概だな」
「なんじゃ、それでは貴様は何の為にあそこまで醜く足掻いて見せたというのじゃ??」
「為に、なんて言ったら烏滸がましいけれど。それは少しでもエミリアの力になれたらなって思ったんだよ」
エミリアには味方が少ない。それどころか唯一の後ろ盾であるロズワールでさえ、エミリア自身はともかく、俺や、あとたぶんパックから言わせれば信用できたもんじゃない。
だからエミリアの味方に、この世界でも名高い『剣聖』と渡り合える人間がいると周知させられたらと思ったんだが……
目を閉じて、闘いを振り返る。
「まぁ、結果的には惨敗で終わったんだけどな」
見通しが甘かったと言わざるをえないほどに、ラインハルトの背中は遠かった。あれで真剣を抜かれて本気で立ち合われたらと考えると、それだけでぞっとする。
「…………」
ここまで話を終えて、プリシラからなにも言葉がないことに疑問を感じた俺は目を開けて視線を送った。
すると、そこには普段の彼女からは想像もできない、心の底からつまらなさそうな表情の抜け落ちた顔があった。
「おい。大丈夫か、お前??」
「妾を差し置いてあろうことに、あの半魔の娘の為とぬかすとは。ここまでの侮辱もなかなかにないわ」
「おっ、おう。なんかすまん」
反射的に謝罪が口を出た。
なんか、こう…… プリシラらしくないような。
言葉こそ強くてキツいものだけれど、いつものプリシラなら、もっと燃えさかる炎のような激情で捲し立ててくる気がするものだが。
「結局、貴様はあの半魔の騎士に就くつもりか??」
「いや、それは正直どうなんだろうな」
「なんとも煮え切らぬ返事よな」
「だって、そしたらお前とも敵同士ってことになるんだろ?」
「…………」
「エミリアのことは好きだし、できれば夢を叶えて欲しいって思う。でも、だからってお前やフェルト、それにクルシュさんや、あの紫髪の女の子の敵になれるかって言われるとな……」
「貴様は、自分の…… その言葉に恥は感じぬのか?」
そこで初めて言葉に感情が乗せられた。とても、とても静かな。しかし、どうしようもないほどの怒りの感情だ。きっと、誰を選ぶことも出来ない俺の言葉が逆鱗に触れたのだろう。
まぁ、そう思われても仕方がない。だけど、それでも俺は自分を曲げたりしないのだ。
「恥なんて感じないな、これが俺だ」
「妾の買い被りであったようじゃ。貴様には矜持も誇りもないらしい」
「おいおい、そんなもんはなから俺に期待するな。だから騎士なんて性に合わないんだって」
「もう、よい。話は終わりじゃ。これ以上は貴様のようなものと言葉を交わそうと思えぬ。虫唾が走るわ」
「そうかい。なら仕方ない」
プリシラは俺を殺すのを我慢するのもやっとだという様子で背を向け部屋を後にしようとする。
「まぁ、そんな立派なもんはないけどさ。信念ならあるぜ」
「…………」
プリシラは立ち止まると、その背で続きを促す。自分で『言葉は交わさない』と言った以上、気になるけど口にだして聞くのも癪だと言うことらしい。
その様子がなんだから愛らしく感じて、でも笑ってしまいそうになるのはなんとか堪えた。それこそ今笑ったら本当に殺されてしまうだろうから。
「俺はさ、全ての女の子の味方になるって決めてるんだよ」
「…………」
「たとえ、必要なかろうが嫌われてようがな。強いて言うならそれが俺の信念だ」
「……ふん、傲慢じゃな」
「まぁな、お前に似てな」
そのやり取りを最後に今度こそプリシラは部屋を去っていった。
最後言葉を交わしてくれたところからみるに、どうやら許してはくれたらしい。そんな不器用な彼女なりの表現は、やっぱりどこか可愛くて、誰もいなくなった部屋で一人笑ってしまった。
◇◆◇◆◇◆
煌びやかな自室の椅子に腰掛ける少女は絵画を切り取ったような美貌で物思いにふけていた。
片手に持つ本は、さっきから開いているだけで1ページたりとも進んではいない。今の少女には、文字が織りなす架空の物語りよりも夢中にさせるものがあったのだ。
「まったく、身のほどを弁えぬ虫ケラよ」
少女の脳裏に圧倒的な『黒』が思い浮かぶ。
全てを拒絶し、全てを無に帰す。この世界の摂理すら否定する絶対の黒。
それは少女の力であってもだ。
「この世界は妾の都合の良いように出来ておる。それが…… たとえ妾の望む形を無視しようともな」
少女の加護は、あまりにも強大な力ゆえに、時として少女の意向を無碍にする。たとえ親しい者のであっても、その利益を良しとすれば排除してしまうほどに。
「人とは、愚かにも損得だけで生きてゆけるものでもなかろうに」
儚げに遠くを見つめる少女の目には、誰が映っているのかなんて誰にも知るよしはない。
「さて…… 貴様の『黒』は、妾の『紅』を凌駕してみせるのか。なんとも興が乗る見せ物よな」
その言葉の意味が『親しき者』としてなのか、『自分を脅かす敵』としてなのかはわからない。
もしかしたら、それは彼女自身でさえ。
ただ、心の奥底に。
とても淡くて、小さな火が灯る感覚を…… 彼女は微かに感じていた。