『時刻は8時14分になりました、東京FM交通情報。道路交通情報センターの鈴森さん、お願いします』
『お伝えします。本日は文化の日、祝日ということもあり、各地で混雑が多く発生しています。始めに、東京都内の情報です。首都高速湾岸線は東京湾アクアライン入り口を先頭に上下線とも1キロの渋滞、首都高速1号羽田線は天空橋を先頭に上下線とも2キロの渋滞です。続いて、都内箱崎ジャンクションで発生した車両故障により、環状2号線では・・・』
「ああー、渋滞始まったか」
運転席でハンドルを握る輝良がぼやいた。
「ねえねえ、渋滞ってなに?」
後部座席で美鈴と一緒に座る翔也が前のめりになった。
「ん?今日は木曜日だけどみんなお休みだろ。だからショウたちみたいに、千葉へお出かけしたい人がいっぱいいて、道路がワイワイしてるんだ」
好奇心旺盛な息子の様子をバックミラーで見ながら、輝良が微笑みつつ答えた。助手席では響子がため息をついた。
「だからもっと早く出ようって言ったじゃない・・・」
日頃の激務からなのか、半夜勤明けによるものなのか、消え入るような声でつぶやく響子。
「悪い悪い、まさかこの車借りるのに土壇場で手続きもたつくとは思わなかったんだ」
輝良は苦笑いした。近所のレンタカー店舗には1週間前から予約していたのだが、明け番を担当していた若い男性がもたつき、出発が遅れてしまったのだ。
「でもまあ、いいじゃないか。貴重なお休みにこんな良い天気でお出掛け日和なんだから」
フォローするようにニコニコする輝良だったが、響子は深いため息をついて目を閉じた。
「ほらみーちゃん、スマホばっか見てないで、外見てみな。ホラ、お台場がよく見えるし、この先のトンネル潜ったら羽田空港だ。飛行機の真下走るぞお」
みーちゃん、と呼ばれた美鈴は「ちょっと待って」とややうざったそうに答える。同じクラスの友人たちで作ったLINEグループでの会話に参加中だったのだ。
ちょうどトンネルに入る前、眼前に迫ったフジテレビを撮影してグループに投稿すると、数人から反応があった。
《いーよな、美鈴は》
真っ先に梅澤和樹が反応してきた。
《カズんとこ、お休みの日って忙しいもんねえ》
阪口那月が割り込んできた。
《ナツも今日お出掛けって言ってなかった?》
美鈴が返すと、
《うん。ママが3時までお仕事だから、夕方アリオでお買い物して晩御飯》
《アリオとかwそれお出掛けっていうか?w》
和樹が茶化してきた。
《カズはお出掛けもできないでかわいそーですねーw》
負けじと那月が茶化すと、噴飯やる方ないといったスタンプを投稿してくる。
やり取りに微笑みながら、美鈴は仲良しグループに唯一参加していない久保深結のことが気になった。既読数からすると、どうやら会話には目を通しているようだった。
声をかけるか迷ったが、タップをやめた。深結のことだから、きっと大丈夫、気にしないでと言うだろうが、きっと本心ではないだろう。
「お父さん、音楽聴きたい」
気分を変えるように、美鈴はスマホを差し出した。
「ん?そうか。えーと、ちょっと待ってな。これスマホに接続するのは・・・」
輝良が接続されているコードを引っ張り出した。
「お姉ちゃん、エグゼイド聴きたい!」
翔也が右腕にひっついてきた。
「えー、また?昨日も10回くらい聴いたじゃん」
「今日も聴くの!」
ブンブンと美鈴の手を揺らす翔也。
「美鈴、お姉ちゃんなんだから、譲ってあげなさい」
響子が目を閉じたまま言った。うるさいから静かにして、と言いたげな雰囲気だった。
美鈴が面白くなさそうに顔をしかめると、「まあまあ。よし、たまにはみーちゃんのリクエストに応えよう」と輝良は言った。
「えー?」と、今度は翔也が残念そうに顔をくしゃくしゃにした。
「翔也、たまにはお姉ちゃんに譲ってあげなさい。帰り道は翔也の好きなエグゼイドたくさん聴こうな」
「んー・・・わかった」
釈然とはしない様子だったが、翔也は輝良の提案に納得した。またため息をついた響子が気になったが、美鈴はお気に入りの楽曲リストを開いて輝良に渡した。
「♪握ったメッセージ that`s rising hope♪」
曲と一緒に美鈴が口ずさむ。急に車の速度が緩まった。
「あちゃー、渋滞伸びてるなコリャ」
前方で車の流れが詰まり始めた。ちょうど羽田滑走路トンネルの手前で、飛び立つべく移動中の日本航空機が眼前にやってきた。
「ホラ翔也、飛行機だぞ」
「うわー、でっかい!」
目を輝かせる男子2人とは対照的に女子2人はしかめ面になる。
「ちょっと静かにして、聴いてるんだから」
口を尖らせる美鈴。響子はうざったそうにため息を吐くと、体勢を変えて目を閉じた。
「あれ、なんだ?事故?」
輝良が前方の電光掲示板に目を向けた。
【東京湾アクアライン 事故通行止め】
東京湾アクアライン、海ほたるパーキングエリアのカフェでシフトリーダーを務めていた真崎典子(45歳 当時)は、後に日本存亡の危機となった事件の発端を間近で目撃した1人だ。
「真崎さん、なんか海の様子が変だよ!と、パート仲間の名瀬さんが声をかけてきたんです。あの日は朝からコーヒーメーカの調子が悪くて、出勤前の店長に電話してやり方教わりながら修理してもダメだったんですね。仕方ないから店長出勤までアイスコーヒーと紅茶だけで営業してて、お客様からお叱り受けて気分が萎えていたんです。そんなときですよ、外の人たちが海にスマホ向けてて、私も名瀬さんに言われて海を見たら、真っ白い煙がもくもくと上がってて」
ー当初、海底火山の噴火ということで沿岸に避難勧告が出されたそうですねー
「ええ。あそこに勤めて長かったですけど、緊急放送なんて初めて聞きました。パーキングの警備員がやってきて、避難勧告が出てるからお客さんを避難させて、て言うんですね。そんなこと言われても、て気分でしたよ。カフェを運営してる会社で防災訓練やってたみたいですけど、店長が参加しただけで私ら知りませんでしたもの。緊急時のマニュアルも事務所にありましたけど、読んだことなんてありませんでした。時間あるときに読んでおいて、とは言われてましたけどねえ」
ーお客さんの様子はどうでしたか?ー
「火山噴火で避難、て言われても、いまいちピンときてない人がほとんどだったと思います。第一、アクアラインが両方向通行止になって、車動かせなかったんですから。しばらくして警察と消防がきて、徒歩での避難を誘導してましたけど、ここに来るお客さんはほとんど車で来てるわけでしょう。車置いてけない、って足が動かない人ばかりでしたよ。あとはスマホで写真や動画撮ってばかりで、警察の人も怒鳴りつけてましたね」
ー噴火、というか爆発は10分ほどで収まったそうですねー
「ええ。いえ、ね。私は噴火なんかじゃなくて、最初はタンカーか何かが爆発事故起こしたんじゃないかって思ったんですよ。火山ていったら、灰色っぽいようなきのこ雲が昇るものじゃないですか。でも海を見ると水が赤く染まり始めて、これは赤潮かも、て考えになりました。実家が館山で漁師やってまして、海が赤くなる赤潮の話は父からきいたことがありましたから」
ーそこから、海面を割って尻尾が現れたのですねー
「もうね、自分の目が信じられませんでした。煙が収まったねーとお客様の老夫婦と話してたら、いきなり海を破って尻尾が上がったんです。最初は尻尾だとも思えなくて、自分は何を見てるんだ、疲れて寝て見た夢なのか、わけがわからなくなりました。その頃には、トンネルから避難してきた人たちが泥だらけでやってきて、トンネルに何かいた、だの、象みたいな足音した、だの話してました。そんなバカな、とはそのとき思いました」
ー巨大不明生物が東京・蒲田に上陸した頃には、木更津方面への一方通行で避難が開始されたのでしたねー
「ええ。爆発起きたときは避難に躊躇してた人も、ひきつった顔でした。駐車場の車両がすべて出るまで時間はややかかりましたけど、列を乱すような人はいませんでした。お客様がある程度避難したころには、私たちも自宅へ戻るように、と指示がありました。その日店長は11時出勤でしたから、シフトリーダーの私が音頭取って、パートさんやバイトの子たちを帰して、私も職場を出ました。ただ、私は自宅が木更津だったから良かったけれど、東京や川崎から通ってる人もいましたから、木更津へ出たところで行き場に困ったみたいで。その日休みで自宅にいた夫と相談して、戻れない職場の仲間を自宅に迎え入れることにしました」
ー全員が千葉から来た人ばかりではないですからねー
「ホントそれですよ。高速降りたコンビニやスーパーはどうして良いかわからない車が集まって、ものすごい混雑でした。電話もつながりづらかったですね。みんな一斉に電話してたんでしょうから。ゴジラが上陸した蒲田や大井町の被害は取り沙汰されましたけど、避難者が集まった木更津もけっこうな騒ぎになってました。県や市でも休みなのに動きがあって、町内会長務めてた夫にも連絡ありました。避難者を収容させたいから、地区の公民館を開けてほしいって」
ーアクアラインはその後、3日に渡って通行止が続いたと聞きましたがー
「はい。行楽時期なのにもったいないねって話をしてました。11月7日、木更津から海ほたるまで限定的に開通して、私も職場に戻れました。仕事なくて毎日夫の顔見るのも飽きてきましたから(笑)、やっといつもの生活に戻れたね、て、その日の朝話していたんです・・・・・」
「お腹空いたあ」
翔也が運転席に手をかけた。
「うん、そうだな。お父さんもお腹空いた。一緒にもうちょっと我慢しよう」
「ちょっとってどれだけ?」
「ちょっと」
「えー、お父さんのちょっとっていっつも長いじゃん」
「翔也、いい加減にしなさい」
響子がピシャリと言い、翔也は頰を膨らませて下を向いた。
「おい、そんなに冷たく言わなくても良いじゃないか」
動きの悪い前方から、助手席の響子に顔を向ける輝良。
「前から思ってたけど、あなたは美鈴と翔也に甘いんじゃないの?」
「それ言うなら、お前だって普段から・・・」
「ちょっとお父さんもお母さんもやめよう」
娘に窘められ、輝良も響子も膨れ面で黙り込んだ。
美鈴のスマホにはひっきりなしに臨時ニュースの通知が入ってくる。
【巨大不明生物、蒲田から南大井に侵入】
【大田区、被害拡大も「被害状況の正確な把握が困難」】
【速報 小塚東京都知事が巨大不明生物駆除を目的とした治安出動を自衛隊に要請】
【品川区全域に避難指示】
【大河内内閣、戦後初の災害非常事態を布告か】
【野党民共党・蓮井党首「武力行使には慎重な審議を重ねることを望む」】
続々と押し寄せる号外通知に混じり、同級生のグループラインからも通知が相次ぐ。
《みーちゃん、大丈夫?いまどこ?》
久保深結からだった。
「お父さん、いまどこ?」
「ん?若洲に入ったから、もう江東区だぞ。あともうちょっとなんだけどなあ」
美鈴はスマホをタップした。
《若洲ってところまできた。江東区だよ》
すると即座にレスポンスがくる。
《大丈夫?》
《うん。お父さんとお母さんといるし、巨大不明生物?もまだ遠いみたいだから》
レスポンスを返したが深結の家庭事情を思い出し、《お父さんお母さん》のくだりは書かなきゃ良かったと美鈴は唇を噛んだ。
《でも気をつけて。品川あたりまで来てるみたいだから》
《マジ?ありがとう、気をつけるよ》
そう投稿するが、なかなかLINE上に反映されない。投稿に時間がかかっている。
「テレビの映りが悪いな」
輝良がつぶやいた。美鈴にはよくわからないが、よくニュースに出てくる官房長官が何かを会見しているようだが、画面も音声もフリーズすることが多い。
「お父さん、あたしのスマホも何か変」
美鈴が言うと、「たぶん、みんなスマホ使ってるせいだろう。こういうときは通じなくなることがあるんだよ」と輝良が答えた。
「お腹空いた!」
我慢できない、といったふうに翔也が大きな声を出す。
「静かにしなさい!」
響子が怒鳴ると、うっすらと涙を浮かべ、やがて翔也は泣き出した。
「ショウ、ほら、お姉ちゃんのスマホでエグゼイド聴こう」
美鈴はイヤホンを取り出し、声を上げて泣く翔也をなんとかなだめる。
「もうすぐお家着くから、お姉ちゃんと一緒に我慢しよ」
そう言う美鈴も、本当は空腹がピークに達していた。東京湾で爆発があってから首都高速は全線通行止となり、仕方なく家族旅行は中止にして帰路についたが、東京ゲートブリッジを過ぎた辺りから深刻な渋滞が発生し始めた。1時間に500メートルも進まないノロノロ運転の最中、持ってきたおやつもすべて食べてしまっていた。
「もっとおやつ持ってくれば良かった」
イヤホンから流れる音楽にようやく機嫌を直した翔也に少しホッとした美鈴がつぶやいた。
「だいたいお前がおやつは少なくしようって言ったからだぞ」
いよいよ映りが悪くなったテレビに業を煮やし、ラジオに切り替えた輝良が響子に口を尖らせた。
「はあ?あたしのせいなの?」
「お昼バーベキューだから我慢しようってのが裏目に出たな」
「あたしのせいみたいな言い方やめてくれる?だいたいこうなるなんて思わなかったんだから」
「いや別に責めてるんじゃないけどよ」
「責めてるじゃない。あなたっていつもそう!責めてないって言って責めてるじゃない」
「あーもうわかった!ごめん、私がおやつ持ってくれば良かったって言ったの取り消すからもうやめて」
美鈴が言うと再び黙り込み、顔を見合わせない輝良と響子。空腹で機嫌が悪いのはみんな同じだが、不用意な一言でケンカしてしまった両親も両親だし、自分も自分だ。美鈴は頰を膨らませて、窓の外を見ながら吐き出した。
少しずつだが前が動き出した。ここぞと輝良も続く。しばらく先にパトランプが見えてきた。
「あそこで事故ってたから遅かったのか。お母さん、みーちゃん。あそこを抜ければだいぶ早いぞ。もうちょっと辛抱だ」
輝良がそう言ったとき、輝良のスマホがなる。普段鳴らない、しかし聴けば即座にわかるようにしてある通知音だった。
「非常呼集だ」
それまで自分や翔也、響子に向けていた朗らかな顔から、急にキリッとした怖い顔になった輝良をルームミラー越しに見た美鈴。
「お母さん悪い。とうとう非常呼集かかっちまった。行かせてくれ」
輝良が言うと、不機嫌な顔ながらもシートベルトを外して再び車列が詰まったタイミングで響子が運転席に収まった。
「みーちゃん、ショウ、お父さん行かなきゃいけない。お家までもうちょっとだから、お母さんの言うことよくきいて、気をつけて帰るんだぞ、な」
いつものように優しい口調だが、顔は怖いままだ。家庭では滅多に見せない父の顔に気圧された美鈴は、無言で頷くしかなかった。輝良は手を振ると車列の隙間から走り出し、どこかへ電話をかけながら離れていった。
「お父さん、どうしたの?」
イヤホンを外した翔也が訊いてきた。
「お仕事に呼ばれちゃったんだって。みんなが困ったときにがんばるのが、お父さんのお仕事なんだよ」
運転席の響子が答えた。
「お父さん、いないの?」
幼いながら状況的に心細いのだろう。また涙目になる翔也。
「ショウ、大丈夫だからね」
美鈴が頭をなでると、袖にすがりついて泣き出した。
スマホの通知が一斉に鳴り出した。しばらく通じない間に、LINE上に動きがあった。同級生の那月のことを、みんなが慰めていた。
お母さんと連絡できない、そんな悲痛な内容だった。
「オフィスで撮影した写真です」
後にこのときの様子を語ってくれた阪口那月の母、阪口郁美はスマホに収められた写真を見せてくれた。ガラス越しに黒煙が線を引いたように立ち並び、土煙が第一京浜付近に立ち込めている様子を撮影したものだった。
当時IT系の派遣会社に勤務していた郁美はこの日、ニコニコ動画で知られるドワンゴのサテライトオフィスがある品川・天王洲にある天王洲ファーストタワーにいた。午後3時までの勤務を果たし、夜は家族揃って買い物と食事をする約束をしていた。
「ゴジラが蒲田に上陸した、11時頃だったと思います。東京湾から津波が迫っているとか、地震で大田区がひどいことになっているとか、よくわからない噂が流れて、パパに連絡しました。火山噴火が原因で地震起きたみたい、って。そうしたらちょうどパパから電話があり、お前は大丈夫か、避難勧告が出ているぞ、て言うんです」
ー最初は地震や津波が襲ってきたというデマが流れて、情報が混乱したそうですねー
「そりゃあ、いまでこそ思うだけで。あのときは災害っていえば地震や津波を連想するのが普通でしたから。まさか、あんな大きな生物が上陸して街を襲うだなんて、微塵も思ってませんでしたよ」
ーお勤めされていたオフィスの様子はどうでしたか?ー
「私はパパから聞いてましたし、スマホの号外でも品川に避難指示が出されたって通知きてましたけど、上司の反応は鈍かったです。非常時にはビル全体に避難を呼びかける放送があるから、放送で指示があるまで落ち着けって。後でわかったことなんですけど、誤報や訓練放送が多くて、ビルの警備室では区の防災無線を切ってて情報が遅れたみたいだったんですよ。ひどい話ですよねえ」
ー避難のときの状況は?ー
「この写真を撮影したすぐ後、ようやく館内放送で避難呼びかけがありました。私が働いてたオフィスは20階でしたから、非常階段で降りるまで時間がかかりましたけど、それでもビルを出るまでは整然と行動できました。みんな落ち着いていたっていうより・・・高層ビルだったから遠くばかり見えて、足元が見えてなかっただけでした。地上は大騒ぎになっていて、災害時の指定避難場所になってた天王洲公園は人でいっぱいになってたんです。どう考えてもこんなところ避難できないのに、警備員に誘導されて。同僚が他の避難場所へ行きたいって訴えたんですが、区の指定避難場所はここだけだからとにかくここにいてって怒鳴られるだけでした。そんなことしてるうちに、ヘリコプターの音がしてきました。報道のヘリかなと思ったんですが、レインボーブリッジスレスレに低く飛んでくる、見たこともないようないかつい3機でした」
ーこの後、当時の大河内総理がヘリ3機に攻撃を命令。しかし射線上に逃げ遅れた人がいたため攻撃を中止しますー
「まさか私たちのすぐそばで、そんなこと始めるとは思ってませんでした。後でテレビでやってましたね、逃げ遅れた避難者への配慮をしたことで攻撃できなかったことが、結果として後日被害が拡大したんじゃないのか、ゴジラを退治できたんじゃないのかって。でも、あんな状態を避難したって例えるんなら、避難って何なんですかね。もしあそこで攻撃してたら、ゴジラを倒せたとしても、巻き添えで亡くなる人はきっといたと思います。あの老夫婦以外にも、避難できてない人はもちろん、私たちみたいに避難場所へ入れすらしないのにビルを出ただけで避難したって見なされた人も大勢いたはずですから。そうなったらそうなったで、批判が大きかったんじゃないですか」
ーこれは娘さんからもうかがいましたが、ご家族から心配の連絡が滞ったそうですねー
「そういう仕事してるからわかりましたけど、ああいうときホントに電話もネットも弱いんです。ちょうどゴジラが地震起こしながら天王洲運河を潜っていって、少し落ち着いた後でしたね。いくら電話してもLINEしてもパパにも那月にも連絡つかなくて。それはあっちも同じだったみたいです。1時過ぎて、とにかく今日は帰ろうってことになり、私も徒歩でなんとか砂町へ戻ったのが夕方6時をだいぶ回ってました。大丈夫だったか!って喜び半分、怒り半分怒鳴ってきたパパと、抱きついてエンエン泣く那月を見て、ようやく現実に戻った気がして、一気に疲れが出てへたり込みました。安心して家に入ってからです。大量の着信とLINEの通知が鬼みたいに届いたのは」
非常呼集に応じて車を離れた輝良の言う通りだった。事故現場を過ぎてから車は流れ始め、砂町の自宅へ戻れたのは午後2時をやや回っていた。レンタカーを返却に行ったのだが店頭に誰もおらず、仕方なく響子はメモを残して車両を敷地に置いた。
「おう、みーちゃん、ショウ!」
レンタカー屋から帰路につくと、近所で自動車整備工場を営む向井平太が手を振って声をかけてきた。
「キョウちゃんも、大丈夫だったか」
「うん。おっちゃんもおばちゃんも大丈夫だった?」
美鈴が答えると、ギッシリ詰まった買い物袋を見せてきた。
「おうよ。こんなことがあった最中だからな。いま愛ちゃんと買い出しにいってきたところだ。もう今日は工場休み」
重たそうな袋を持ち上げると、平太は工場兼自宅になっている母屋の中に袋を置いた。
「アキちゃんは、あれか?呼ばれたか?」
平太が訊いてきた。
「非常呼集。こんなときだからね」と答える響子。
そのとき、響子の電話が鳴った。しばらく話していたが、どうやら響子も仕事場から呼び出しがかかったらしいことは、美鈴にもわかった。
「平ちゃん、ごめん。蒲田に住んでる子が出勤どこじゃなくなったみたいで、あたしも呼ばれちゃった。急で悪いんだけど・・・・」
「いいってことよ!なあみーちゃん、ショウ」
ゴツくほのかにオイルの匂いがする手で、平太は美鈴と翔也の頭を撫で回した。それぞれが警察官と看護師、それも役職付きということもあり、輝良も響子も家を空けることが多い。そんなときは決まって、向井夫妻が面倒を見てくれていた。
「お母さんも行っちゃうの?」
翔也は響子にすがりついた。
「ごめんね翔也。おっちゃんとおばちゃんの言うことよくきいて、いい子にね。美鈴、翔也をお願い」
それだけ言うと、響子はそそくさとマンションに入っていった。
泣きそうな顔の翔也の肩に手を置く美鈴。事情を聞いた平太の妻、愛香が出てきた。
「ようし、みーちゃんもショウもお腹空いたろ?おばちゃんいっぱい焼きそば作るから、一緒に手伝って!」
様子を察して、いつものように明るく振る舞う愛香。「あんた、いまのうちにお風呂掃除してて」と平太をけしかけると、2人と手を繋いで家に入れた。
ようやく笑顔が戻った翔也。だが美鈴は対照的に表情を曇らせた。今日は普段と違うのだ。いくらおっちゃんとおばちゃんが一緒とはいえ、せめて今日は、お父さんとお母さんに一緒に家にいてほしい・・・ふいにそう思ったのだ。