1967年7月11日。
エチオピアの首都アディスアベバにて労働者が蜂起。
エチオピア革命が発生した。
革命軍はわずか3日で王宮を攻め落とし、国王を処刑。
エチオピア人民共和国の建国を宣言した。
これは、隣国であったケニア共和国に大きな衝撃を与え、ウガンダ=ケニア相互防衛協定締結のきっかけとなった。
そして、1967年11月13日。
エチオピア軍がケニアに侵攻を開始。
同時にケニアと同盟を結んでいたウガンダ共和国がエチオピア人民共和国に宣戦布告。
これを好機とみたタンザニア共和国がエチオピアに侵攻。
さらに、東パントゥー連邦がエチオピアへ侵攻。
東アフリカ戦争が始まった。
早速、エチオピア軍はケニア方面での大規模攻勢を開始。
トゥルカナ湖の近くでケニア=タンザニア連合軍と衝突。
トゥルカナの戦いが勃発した。
トードンヤング上空
エチオピア陸軍第4空挺団第32ヘリ空挺部隊
「総員降下!!」
司令官の合図と共にエチオピア空軍のヘリコプター<AP-34>から空挺部隊が降下。
トードンヤングを僅か6日で占領し、国境付近のケニア軍部隊を背後から奇襲。
さらに、トードンヤング・ロードを用いた補給を不可能にした。
背後からの奇襲によって大混乱となった国境付近のケニア軍部隊は瞬く間に壊滅。
その後、トードンヤングに降下してきた部隊と越境してきた部隊が合流。
体制を整え、ロウェアンガックへ進軍。
ロウェアンガックにはケニア軍2個師団が待機していたものの、新式の装備を揃えたエチオピア軍には歯が立たず、僅か12日でロウェアンガックは占領された。
1968年1月6日にはトゥルカナの戦いはエチオピア軍の勝利で終結。
しかし、ロドワルでの戦闘でエチオピア軍が敗北。
戦線は膠着状態となった。
この膠着状態は1971年の春まで続くこととなる。
その頃、東京では・・・
大日本帝国 東京
国防省ビル 指令室
「状況は?」
「はい。モロッコ方面の防衛は見事成功し、フランス軍の進軍を止めることができました。しかし、東アフリカ地域にて不穏な動きが・・・」
「ああ。分かっている。エチオピア軍によるケニア侵攻だろう?」
「はい。ヨーロッパでも不穏な動きがあります。まず、ポーランドについて。ロシアに奪われた東部地域にて共産主義勢力の動きが活発化しています。スペインについては、アナーキスト、共産主義、ネオナチ、カルリスタ王政主義、民主主義、超国家主義の6つの勢力が混在していて、政治内紛の状態です。最後にポルトガルについて。ポルトガルでは、民主主義のポルトガル共和国、王政主義のポルトガル王国、超国家主義のポルトガル国家共和国、国王の親衛隊による親衛隊騎士団国、警察による警察騎士団国、軍によるポルトガル軍政府、ネオナチのポルトガル鉄衛団に別れ、内戦が始まりました。さらに、それに便乗して、ポルトガル各地にソビエト評議会や赤軍組織が乱立しています。現在は赤軍組織である<リスボン=リバタリアン赤軍司令部>が優勢とのこと。」
「ヨーロッパの状況もあまり芳しくないようだな。」
ポルトガル鉄衛団
ナチスの思想を受けたファシズム政党。
この組織は1936年から存在していたが、あまりのヤバさにナチスよりヤバいルーマニア鉄衛団もドン引きした。
次話で茶番みたいなことをします。誰を出しますか?
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スターリン
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知らないおじさん
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隣の町田さん