1952年6月7日。
アメリカの東海岸の街は最悪の朝を迎えた。
カナダ軍の爆撃機がアメリカの主要都市に次々と爆弾を投下し、都市は火の海と化した。
さらに、ニューイングランド戦線が崩壊。
アメリカ軍はずるずると後退し、ニューイングランド全域が占領されてしまった。
さらに、その後も後退を続け、ワシントンD.C.まで20キロの地点まで侵攻された。
これを受け、大日本帝国は船坂中将率いる第一混成機動師団をアメリカに派遣。
ワシントンD.C.まで2キロのところで、カナダ軍を食い止めることができた。
それから2日後の1952年7月2日。
ロシア連邦軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍がラブラドル半島南部に上陸。
カナダ本土戦が始まった。
さらに、1952年11月10日には南蒙古連邦軍15個師団と大日本帝国陸軍25個師団がアラスカから侵攻を開始。
北部に部隊を張り付けていなかったカナダ軍はアラスカ戦線を突破され、カナダ軍はタギシュ湖近くのタクまで撤退した。
タクではカナダ軍25個師団が日蒙連合軍の侵攻に対処するため、駐留していたが、アメリカ軍のB-51ストラトフォートレスの爆撃により、タクは火の海となった。
そこに、今村中将率いる大日本帝国陸軍北米軍団が侵攻。
この作戦は成功し、タクのカナダ軍部隊を排除。
占領した。
1953年1月6日にはアメリカ軍が国境付近のカナダの都市であるカルガリーに侵攻。
カルガリー攻防戦が始まった。
アメリカ軍は最新鋭の戦闘機であるYF-7Aを前線に投入。
これを受け、日本軍はジェット戦闘機«秋水改»をカルガリー攻防戦に参加させた。
秋水改は1945年1月7日に開発されたロケット戦闘機«秋水»を1949年9月14日に改良したもので、1946年の時点でロシア軍最強と呼ばれたMig-9との模擬空戦で25戦25勝という驚異の記録を出した。
カナダ カルガリー上空
アメリカ空軍&大日本帝国海軍航空隊&ロシア防空軍vsカナダ空軍
カルガリー上空では、日米ロ連合軍の戦闘機部隊とカナダ空軍が激しい空戦を繰り広げていた。
「こちら、カナダ空軍カルガリー防空隊! 敵が多すぎる!」
カナダ空軍は未だに改修したことのないグロスターミーティアを使っているのに対し、連合国軍側は第二世代型ジェット戦闘機を配備している。
技術面で大きな差が出たのだ。
これにより、カナダ空軍の戦闘機はどんどん撃墜されていった。
空戦は1953年1月7日5時25分に終わり、連合国軍の勝利であった。
その後、1953年8月4日にチャーチルが陥落。
4日後の1953年8月8日にオタワが陥落し、カナダは無条件降伏を宣言した。