豊穣の女神が母性を爆発させた話   作:蛙飛び込む沼の中

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第三話

「本当にイシュタルのもとへ行きたいか」

 

 父王の言葉に王女は目を瞬かせた。熱も下がり、この調子であれば明日か明後日にはイシュタルに王女を引き渡すことができると医者は言った。体調不良を盾に猶予を延ばしているがイシュタルの我慢にも限界が近い。その癇癪による被害も増すばかりだ。

 

「お前が望まぬなら、我の娘をイシュタルめにくれてやる道理はない」

「イシュタルさまのところにいったら、おとうさまにあえない……?」

「それが奴の示した条件の一つだからな」

 

 王女を捧げたのちの接触は許さないとイシュタルは言った。あの強欲な女神らしい言い分ではあるが周囲はその要求に不安を隠し切れないでいた。

 愛が多く、一方でそれが冷めたときの残忍さも群を抜いている女神イシュタル。彼女の名声に目が眩み夫となった前王ドゥムジは今や冷や飯を食わされている。それでも生きているだけ僥倖と言えるだろう。人間ながらに一時イシュタルに気に入られた者たちは獣に姿を変えられたり、戯れに命を差し出させられたりととにかく悲惨な目に遭っている。そんな女神のもとに王女を差し出せばどうなるか、すっかり王女の可愛さに魅了されている世話係の者たちは心配で仕方なかった。

 

「あれはお前が思うより残虐だ。愛が冷めれば殺される」

「……」

「行きたくないのであればそれで良い。我とエルキドゥであの女は黙らせよう」

 

 物理的にな、とギルガメッシュが心の内で呟く。神を魅了する性質を持つこの娘ならばあるいはと思う気持ちもあるが、何よりギルガメッシュ自身が娘を手放すことを快く思っていない。

 王女が強い魅了の力を有していることはもはや疑いようがなかった。神性持ちに強く作用するが人間に対しても効果があることもここ数日で確認している。エルキドゥによれば動物にも好かれやすいとのことなので知性体であれば効果があるのかもしれない。ただその力は万能ではなく、効果としては幼子を見たときに感じる愛情や庇護欲が増すというもの。無条件に愛され続けるわけでもないことは生母の扱いからもよくわかる。だからこそ何かのきっかけで愛情が反転する可能性も十分考えられた。

 

「……いしゅたるさまは、わるいめがみさま?」

「悪も善も併せてあの女を構成している。だが人間にとって傍迷惑な存在であることに違いはない。飛蝗の群と砂嵐、子供のかんしゃくが混ざったような女だ」

 

 吐き捨てる父に娘はしょんぼりと肩を落とした。父やその友人が何度も語って聞かせたイシュタルの残虐性を娘はいまいち実感できないでいる。あの日あの時、生母に縋って泣くことしかできなかった自分を救ってくれた美しい女神。優しく抱き締め娘とまで呼んでくれた女性が悪い存在だとは思えなかった。

 ギルガメッシュは俯く娘の頭を撫でた。自分そっくりの顔立ちで無邪気に懐いてくる娘に絆されている自覚はある。

 

「あれを理解できる存在などいないだろうが、もしもの時に被害を被るのは他ならぬお前自身。よく考え――」

「ギルガメッシュゥゥ!! いい加減にしなさいよあんた! 早く私の娘を渡しなさい!」

 

 何の脈絡もなく凄まじい破壊音を響かせて父子のいる部屋の壁が破壊される。土煙が立ち上る中、娘を守るようにギルガメッシュが立ち上がった。剣呑な視線を開いた穴へ向けるとそれに負けない強い視線が返ってくる。煙が晴れたその先から瞳を金色に輝かせたイシュタルが天舟を携えてギルガメッシュを睨み付けていた。

 

「誰が貴様の娘だ阿呆。さて、今すぐ帰るというのならここを破壊したことは大目に見てやらんこともないが」

「ウルクは私のものなんだからどう扱おうと私の勝手よ! いいから早く私の娘を──」

「おとうさま……」

 

 イシュタルの言葉に被せるように幼子の声が響く。イシュタルはその声を聞いて蕩けるような笑みを浮かべたが、視線を向けた瞬間に硬直した。

 ぐすぐすと涙目でギルガメッシュの背に隠れている幼子は間違いなく数日前に見初めた王女だ。しかしその瞳に自身に対する怯えを宿していることに気付いてイシュタルは数秒息ができなくなった。慌ててギルガメッシュの背後に回り込み、小さな体を抱き締める。あまりの素早さにギルガメッシュも反応することができなかった。

 

「ご、ごめんね、私の愛しい子! まさかこの部屋にいるとは思わなくて……泣かないで、ね?」

「いしゅたるさま……」

「なぁに、私の可愛い娘。ああ、この前より随分血色が良くなっているわね。安心した」

 

 目尻を緩ませてイシュタルが呼び掛けに答える。愛しいという感情のままに頬や額に口付けると王女は擽ったそうにしながら笑みを浮かべた。笑顔を近距離で喰らい悶絶しているイシュタルから先ほどまでの怒りはまったく感じられない。

 それを見てギルガメッシュは珍しく驚いていた。父神アヌをはじめ、多くの神々に甘やかされてきたイシュタルは我儘で気分屋で自分の思う通りに事が進まなければ癇癪を起こすような女神だ。腐っても都市神なので人間への愛はあるだろうが、それは神視点のものであり人間という種に対するものだ。気まぐれに個人を気に入ることはあれど「女神である自分が特別に目にかけてやった」という考え方で、当然イシュタルが上の立場の一方的な関係になる。対等など望むべくもなく、気まぐれ以外の理由で人間側の要求をイシュタルが受け入れることなどあり得ないはずだった。

 人どころか神にさえ尊重されて当然、尽くされて当然と考える傲慢な女神。そんな女神が自分の娘には素直に謝り、猫撫で声で機嫌を窺い、あまつさえ体調の心配をしている。衝撃的な出来事にギルガメッシュは驚き固まり、その後は気持ち悪さで総毛立った。

 

「さあ、貴女が本当に帰るべき場所に帰りましょうね。巫女たちも貴女が来るのを待っているわ」

「疾くその口を閉じよ。我は了承しておらんぞ」

「は、妻子の生死にも頓着してなかったくせに今さら父親面? これだから責任感のない男って嫌だわ〜」

「……貴様」

「なに? 図星突かれて怒りでもした?」

「いしゅたるさま……もうおとうさまにあっちゃだめですか?」

「────」

 

 一触即発の空気を破ったのはまたも王女だった。今にも泣き出しそうな、哀しそうな声音で問われてイシュタルが言葉に詰まる。たっぷり三十秒は腕の中の王女を見つめ、やがて諦めたようにため息を吐いた。

 

「……一年に一度くらいなら」

「…………」

「そ、そんなに哀しそうな顔をしないで? なら半年に一度……だ、だめよ、これ以上は……ああっ、泣かないで、泣いた顔も可愛いけれど、せっかくならさっきみたいな笑顔が……」

 

 一人慌てふためくイシュタルにギルガメッシュはいよいよ言葉を失った。あのイシュタルが、傲慢が人間の形を取ったらこうなるだろうという女が、自らの意見を曲げてまで他者の機嫌を取るなど前代未聞だった。

 

「うう、可愛い娘の頼み事はなんでも叶えてあげたいけれど……ああ、そうだわ! 私の娘、可愛い貴女の名は——メラム」

「!」

 

 哀しそうな顔が驚きに変わり、やがて喜びに満たされる。その表情にイシュタルも頬を緩ませて王女の髪を撫でた。

 

「気に入ってくれてよかったわ。私の可愛い子」

 

 柔らかく、慈しみに満ちた声音で幼子に話しかける姿。それはまるで、と考えたところでギルガメッシュはかぶりを振った。イシュタルが付けてくれると言ったからとギルガメッシュに名付けられることを拒んだ娘は幸せそうにはにかんでいる。

 ——あらゆる未来を見通す赤い目が、一瞬だけ見開かれた。

 

「…………おい、イシュタル」

 

 嘆息しながらギルガメッシュはイシュタルへと言葉を掛けた。つい先日求婚してきたときの表情はどこにいったのか、今は娘との時間を邪魔するなという敵意満載の視線を向けられる。いっそ清々しいまでの変わり身の早さにギルガメッシュも一周回って愉快な気持ちになった。

 

「我の出す条件で誓約を交わすというのなら認めてやらんこともない」

「………………とりあえず、聞きましょうか」

 

 怒りを押し殺したような声と表情でイシュタルが言う。感情を爆発させない理由はただひとつ、メラムと名付けた娘に怖がられたくないためだ。腕の中できょとんと両者のやりとりを見つめる娘を、ことさら優しくイシュタルは抱え直した。

 

 そうして、ギルガメッシュはいくつかの条件を突き付けて娘を都市神に捧げることに同意した。

 不自由なく生活させること、心身を害することを禁じること、愛が覚めたときは即刻ギルガメッシュに身柄を引き渡すこと、三ヶ月に一度はギルガメッシュと過ごす時間を設けること。母親の真似事をしたいらしい女神はどの条件にも不満げで、特に面会の期間については娘がいなかったら間違いなく殺し合いに発展していたとギルガメッシュはのちにエルキドゥに語った。最終的には神殺しの宝具をチラつかせるギルガメッシュと、王女の涙目に負けたイシュタルが折れて決着がついた。

 

「いしゅたるさま……?」

「なんでもないわ。ああ、ようやく可愛い貴女を私のものにできるのね」

 

 ギルガメッシュと誓約を交わす間も不満げだったイシュタルだが、娘に接するときだけはそれを微塵も感じさせなかった。緊張が切れ、殺伐とした空気のなくなった部屋で王女がうとうとと船を漕ぐ。その様子に目尻を緩めてイシュタルは優しくその頭を撫でた。


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