豊穣の女神が母性を爆発させた話   作:蛙飛び込む沼の中

7 / 7
注意書きが必要な気もしますが適切な注意が思い浮かばないので、心の広い方のみお読みください。


第五話

「ああ……かわいいわ、本当にかわいい。私の娘……」

 

 愛おしさを詰め込んだ声でイシュタルは呟いた。緩みきった目は自らの胸に吸い付く娘に向けられていて、普段は気に入らないものを破壊する弓を撃つ腕は娘を優しく包み込んでいる。相好を崩して愛娘を溺愛するイシュタルの姿は世話係の巫女たちにとって見慣れつつあるものになっていた。

 

「あの、イシュタル様……」

「なにかしら?」

 

 王女の世話係に任命された巫女はみな信仰篤く、イシュタルのためなら命を投げ出すことも厭わない者たちだ。イシュタルが王女を自らの娘とすると触れ回ったときもイシュタルが望むならばと率先して迎え入れる準備をし、世話係に任じられたときは誠心誠意王女に仕える決意をした。

 だが、信心深い巫女でも予想外なことに、イシュタルは娘の世話を手ずから行いたがった。愛でたい時に愛でるだけではなく、日々の世話──食事を与え、体を清め、さらには排泄の世話までイシュタル自身が行うと言った。まだ一人で行動できる年齢ではない王女が排泄をするたびにイシュタルはそれを清め、優しくあやす。目が離せる年齢ではないのもあってイシュタルはとにかく王女にべったりだ。これまでは天上の世界にいることも多かったイシュタルだが王女を引き取ってからはウルクに留まり続けている。都市神がウルクの神殿に留まり子育てをしていることを巫女たちは誇りに思い、一層職務に励むようになった。そのおかげで王女可愛さで破壊性が落ち着いていたイシュタルの機嫌はさらに良くなり、最近はイシュタルの癇癪による被害を聞くこともない。

 数日で飽きるかもしれないという危惧もあったがすでにイシュタルは一ヶ月近くこの生活を続けている。王女への愛も減るどころか増える一方だ。その甲斐あって人見知りの王女はイシュタルにだけは肩の力を抜いて甘えるようになり、最近では信心深い巫女ですら驚愕する行為をするまでになっていた。

 

「王女は、その」

「ああ。胸に甘えるのが好きみたいなのよ。可愛いでしょう?」

 

 そんなことは知っている。王女がちゅうちゅうとイシュタルの胸に吸い付いている姿を初めて目にした時は世話係の巫女たちの間で激震が走った。今でこそ動揺することはなくなったが初見のときはその衝撃的な姿に全員が二度見をしていたくらいだ。

 だが、慣れてきたのも束の間、数日前から世話係の間である噂が立ちはじめている。その真相を明らかにするために巫女長はイシュタルに不敬を覚悟で伺いを立てていた。

 

「イシュタル様の美しさとメラム様の愛らしさがあわさり、まさに金星の如く輝いておられます」

「そうでしょう、そうでしょう。私が美しいのは当然のことだけど、この子が愛らしいのもまた当然のこと。なんと言っても私の娘だもの」

「仰る通りでございます」

 

 美の女神でもあるイシュタルはその美貌を褒められることを喜ぶ。別の人を褒めるときは「イシュタルがより美しい」ことを前提にしていなければ荒れることは間違いない。だというのに娘と称する王女にだけは自分と同等の賛美を求め、イシュタル自身も惜しみない賛辞を娘に贈る。巫女にとっても目を剥く出来事だった。

 巫女長に称賛されたことで鼻高々なイシュタルの機嫌は良い。しかしこのまま愛娘との触れ合いの時間を意味なく阻害してしまえば間違いなくイシュタルの怒りを買う。巫女長は覚悟を決めて本題に切り込んだ。

 

「その、イシュタル様。もしや授乳をしておられるのでしょうか……?」

「…………できたらとは思うけれど、無理でしょう」

 

 剣呑な視線に晒されて巫女長の身が竦む。イシュタルに王女の実両親の話題は鬼門である、ということは世話係の巫女の間で共有されている。一転して不機嫌そうに吐き捨てたイシュタルにそれでも巫女長は言葉を続けた。

 

「ですが、その、王女は何か飲んでいらっしゃるようなご様子なのですが……」

「……え?」

 

 巫女長の言葉にイシュタルが目を瞬かせる。胸に吸い付く娘の喉に視線を向けてみると確かに何か嚥下しているような動きがあった。唾液を飲んでいるにしては間隔が早く、指摘されてみればただ甘えているにしては執着が強いような気もした。

 

「……可愛い私の娘、ちょっと口を開けてみてくれる?」

「?」

「ええ、ありがとう。素直で可愛い良い子ね。……うん、もういいわ、大丈夫」

 

 ありがとう、可愛いという言葉を繰り返してイシュタルは王女をあやし始めた。やがて王女が再び胸を吸い始めたのを確認したイシュタルはどこか澄んだ瞳で巫女長を見つめている。恐々としながら巫女長はイシュタルの言葉を待った。

 

「出てたわ」

「……左様でございますか」

「私にこんな権能もあったのね……はあ、ますます愛おしくなってしまうわ……」

 

 今までも甘かった声音がことさら甘くなる。一心に母乳を求めている王女に母心を募らせたらしいイシュタルは顔が蕩けるほど幸福そうな表情をしていた。

 豊穣や美、戦など様々なものを司っているイシュタルの権能は多岐に渡る。イシュタルの豊穣の神性は在るものを発展させる側面が強く、子を産み育てることを守護するのはニンフルサグ神だったが、ニンフルサグが自らの神性をイシュタルに譲渡してからこれらは同一視されるようになっている。今回の件でイシュタルは女性性よりも母性が強く表出されるようになったのかもしれないと巫女長は思った。

 とかく、神とは人智を越えた存在であり、その行為や理不尽さをヒトが理解することは不可能だ。巫女長も事実だけを確認してイシュタルから視線を逸らし、考えることをやめた。現実逃避では決してない。

 

「そう……なら、最近調子が良さそうにしていたのは」

「はい、イシュタル様のおかげかと」

「……ああ、もう、本当に……この子は……」

 

 満足したのか胸から口を離し、イシュタルを見上げて笑う王女。その表情はとても元気そうで、神殿に来てからまともな食事を摂っていない幼児の浮かべられるものではなかった。少食で偏食な王女の体重は増えるどころか減らさないようにすることが精一杯であり、イシュタルも巫女も随分気を揉んでいた。

 だが、最近になって食事の量は変わっていないにも関わらず体重が安定しはじめた。イシュタルにも理由はわからないらしく、喜びつつも一体なぜだろうと不思議に思った巫女たちはそれまで以上に王女の様子を見守ることにした。この点に関しては子育て経験などあるはずもない女神よりも人間の巫女たちの方が適役だ。そうして数日観察をした結果、

体重が安定した時期とイシュタルの胸に吸い付きはじめた時期が一致しているのではないかという意見が出た。まさか、と誰しもが思ったが、一度生まれた疑念はなかなか消えてくれない。日を追うごとに荒唐無稽に思えた疑惑が確信に近いものへと変化していったこともあり、ついにイシュタルへ確認することとなったのである。

 

 信頼する者へ向ける無邪気な笑顔は事実を知ったイシュタルの胸を明確に射抜いた。愛おしさで満ちた感情の赴くままに王女を抱き上げその顔中に優しく口付けを落とす。けれど、足りない。どれだけ愛を注いでも注ぎ足りない。とめどなく溢れる愛情を留めることができず、イシュタルはその口を開いた。

 

天の女主人(私の)の最愛の娘。貴女には私の最大の加護を与えるわ。私を信仰することは貴女を敬うことと同義であり、貴女に逆らうことは私に逆らうことと同義。貴女を侵すすべてを私は赦さない。私の最愛は常に貴女にあるわ──メラム」

 

 ごくり、と巫女長は息を飲んだ。イシュタルの放った言葉の重大さに体が強張る。神が気に入った人間に対し加護を与えたり力の一部を貸し与えたりすることは稀ではあるが珍しい話ではない。だが、今のイシュタルの発言はその範疇に収まらない。自らが一等優れていると疑わないイシュタルが王女は自分と同等の存在であり、仇為す者はイシュタル自身が討つとまで断言した。移り気な女神だが娘に対する愛は不変であり最大であるとも公言した。これから先、王女の扱い一つでイシュタルの機嫌が左右されることは間違いない。

 

「今の言葉を徹底させなさい。神殿内だけではなくウルク中に……いいえ、メソポタミア全土に知らしめるように」

「仰せの通りに」

 

 深く深く頭を垂れ、巫女長はイシュタルと王女の前から辞した。部屋の外に待機していた世話係の巫女にイシュタルの言葉をそのまま伝え、まずは他の巫女たちに周知を徹底させるように命じる。驚きで目を見開く部下に急ぐように告げ、自分は王権を司り、王女の実父でもあるギルガメッシュへ送る粘土板を作成する。王政の中にあって王権を司る王と都市神を優先する巫女所は仲が良いとは言い難いが、今回の一件から多少の歩み寄りをお互い見せるようになっていた。巫女長にとっては意外なことにギルガメッシュからは頻繁に王女の近況報告を要求する連絡や王女への贈り物が届けられいる。存外子煩悩な男なのかと見直し、その要求にはできるだけ応えていた。

 イシュタルの言葉を一字一句違えぬように粘土板を作り上げ、急いでギルガメッシュに届けるように指示を飛ばす。間違いなく荒れるだろうなと遠い目をしながら、巫女長はイシュタルと王女の世話に戻るべく再び歩き出した。




ニンフルサグは歴代シュメール王を自分の母乳で育てていたというので、そういうこともあるよね。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。