拝啓、最古の魔法使いはじめました。 作:ヤムライハさんの胸の貝殻になりたい
太陽が照り付ける。風が遊ぶ。鳥が歌う。
人が営み、日を歩み、この神代の世で原初の人々はその生を謳歌する。
天の突き抜ける程に蒼い空は、未だ神の領域。
そこには畏れがあり、敬意があり、そして絶対があった。
そんな天空を眺める影が一つ。
ウルクの中心に聳え、地に営む人々を見下ろす堆い神殿ジグラット。
その最上より、少年王ギルガメッシュは明朗な頬笑みを浮かべていた。
幼いながらにこのウルクを治め、そこにある繰り返される人々の営みを慈しむ善王。
神によって楔の役割を与えられ生まれた、人と神の子。
それがギルガメッシュであった。
「──あれは?」
彼の紅玉の双眸が、一つの風を捉えた。
ふふと笑い、腰掛けていた窓辺から立ち上がる。
招かれざる客の来訪に、何だか今日は愉快な日になりそうだと、心が弾んでいた。
運命の魔法使いと、人の歴史に名を刻む幼き原初の王。二人の邂逅がそこに迫っていた。
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人は極限状態になると、危機感よりも先に諦観が込み上げてくるのだな、とぼんやりとした意識で青空を見上げる。
青白い貫頭衣に布が巻かれたような不思議な格好の優男は、ウルクの入口付近の裏路地で行き倒れていた。
路地の入口からは子供達が奇異の目を向けている。
「……ぅ……う」
まるでゾンビの呻き声のようだ。自分の声なのに遠くに感じる。
もういつから食事を摂っていなかったっけ、五月蝿く泣きわめく腹の虫から半ば現実逃避するように、男は乾いた笑みで蒼天を見上げながら記憶を手繰った。
ことの始まりは、そう。確か人と神との間に人類の王が誕生したと、風の噂で耳にした時だった。
王の名はギルガメッシュ。神と人の世とを繋ぎ止める神々が産んだ楔の子。
それを耳にした時、これまで生きる上で消えることの無かった疑問を解消する時が来たのだと思った。
思い立ったが吉日。それまでは宛のない旅……という名の放浪から、
……長い時を生きた。数えるのも馬鹿らしくなるほどの、呆れた長い時を。
時間にすれば優に数千は超えるか。確かそうだ。
我ながら良く生きられたものだと、自然と口角が上がった。
持てる限りの全てで抵抗した。
人類を庇護する神々とともに、自分は魔法という神秘を使って、人々と共に抗ったのだ。
地表が燃えた。文明らしきものは全て踏みつぶされた。
世界が燃えた。知性あるものは隷属さえ許されなかった。
早すぎる、と予言者はおののいた。
戦うのだ、と支配者はふるいたった。
手遅れだ、と学者たちはあきらめた。
でも、魔法使いたる自分は屈さなかった。
自分だけではない、共に居た人々も。
もしかしたら、自分はあの時の為に、人類を存続させる為だけに、運命を選定する魔法使いとして生まれ直したのかもしれない。
今となっては、憶測や予感の域を出ない最早唯の妄想にしかならないだろうが。
そこから巨人を退けて数千と余年。当時を知るものとして生きている者は、今では自分だけになった。
何を考え、何を思ってここまで生きていたのかは……正直自分にも分からない。
気が付いたら、長い年月が経っていた。
けれど、だからといって生きる目的がなかった訳では無い。
数千年前の巨神襲来より、自分はいつか訪れるであろう日の為にここまで来たのだ。
それは人類最古の英雄王と会うこと。
もしその王が自分の識る姿の王だったのならば。もしそうだったのなら……。
確信を持ってこの世界が、嘗て前世で読んでいた、見ていた世界なのだと断言できるから。
果てにはその確信が、新たな自分の生きる意味になるかもしれないから。
そう思って旅を続けて、数年をかけてようやくこのウルクに辿り着いた。食事はおそらく、ウルクに着く二週間前からしていなかった。
──よし。と、感傷を終え四肢に踏ん張って力を入れる。
こてんと転がる杖を支えに、子鹿のようにプルプルと震える足で立ち上がろうとした。
世界がガタつく。栄養失調により視界が安定しないのだ。
一歩……二歩……三歩、歩みを進めるのに一々体力を振り絞らないといけない。
もし人が男の顔を見れば、まるで枯れ木のようだと思うだろう。
水分自体は魔法で何とか補給出来ているが、体力を作る肝心な食料はろくに口にしていないのだから、それも当然であった。
錬金魔法で食料を作って食べる方法もあるにはあるのだが、どんな見た目をしても味は同じで飽きる上に、腹は満たされるが厳密には本当の食料では無いので栄養を摂取することが出来ないのだ。
「ひ、ひもじい……」
ちゅぱちゅぱと、何を思ったかついに自分の親指をしゃぶり始めた。
いよいよ持って限界が来たのか、バタンと倒れ込んだ。
「死んだのか!?」
「死んじゃった!?」
か細い息が聞こえないのだろう。
遠巻きに見ていた子供達がびっくりして、近付いて木の棒やら指らやらで突っついたり髪の毛を引っ張ったりしてきた。
平時ならば共に戯れもしようが、今は息をすることすら億劫なのだ。
やめなさい、と声を出す気力などある訳がなかった。
ふと、啄く感覚が消えた。
「──大丈夫ですかお兄さん?」
──
そこには、黄金律を体現した紅顔の美少年が立っていた。
「あはは、いい食べっぷりでしたね。こちらまでお腹が満たされてしまいそうな勢いでした」
天蓋に覆われた日陰の下、見慣れぬ風貌をした優男が笑顔を浮かべる。
彼の眼前には空になった食器類が並んでおり、先程まで食事をしていたのがわかる。
路面に倒れ枯れ木のように萎れていた男は、僅かばかりの間にすっかり元気を取り戻していた。
「いやぁ、余りにも美味しくてね。助けてくれてありがとう。……こんな食事を摂ったのはいつぶりかな」
恥ずかしそうに後頭部を掻きながらはにかむと、話を聞いていたのか家の奥から中年の女性が嬉しそうに笑った。
男に食事を提供した女性だ。
何でもこのウルクでも腕がいいと専らの噂で、それを知っていたこの少年王が周りの民に言ってここまで運んでくれたのだ。
突然のことに嫌な顔をせず食事を作ってくれた女性には頭が上がらない。
言い換えれば、優男の命の恩人とも言える人物であった。
「それで、お兄さんはあんな所で何をしていたんですか?」
一拍置いて、好奇心に顔を覗かせる美少年は、さながら一枚の絵画のように美しい。
この時代に並ぶ者無きその双眸を見つめ返しながら、男はふっと笑う。
「そうだね、一目見に──君に会いに来たのさ、ギルガメッシュ」
その笑みはまるで捉えどころの無い風めいていて、しかしどこか年輪を重ねた大樹のような静謐さを持ち合わせていた。
この時の顔をギルガメッシュは永劫に忘れることは無い。
陽光のようにこちらへ向けられたその顔を大きくなったギルガメッシュは、後にこう言葉を残した。
──「後にも先にも、上から見下ろされたのはあの時だけだ」
と。
いずれは傲慢になるであろう少年は、しかし今この時はまだその顔の意味を余り理解出来ないでいた。
全てを見通す眼を持っていながら、それを知り得ることが出来なかったのは、一重に積み重なった時間の桁が外れていたから。
男は単身で、これから人が歩むべき時間の蓄積を既に持っていたから。
故に今はまだ幼き少年王は、その深淵を見通すことが出来なかった。
これが後の英雄王であったのなら、話は変わったのかもしれない。
友を亡くした艱難辛苦の果てに至った賢王だったならば、また見えた度合いが違ったのかもしれない。
後の世において全てを見た人と称されることになるであろう王には、この男が見せた、この時の顔の真意を知る事は終ぞ訪れることはない。
「あはは、それはそれは。また面白いことを言いますね」
一瞬だけ目を見開く。
そして次には思慮深く目を細め、その言葉の意味を探ろうとしていた。
「知っていますかお兄さん。この世には一人、今よりも遥か古い時代から生きている人間が居るらしいです。巫女達は確か、始まりの魔法使いと呼んでいましたね」
それは僅か数ヶ月前、このメソポタミアにあってウルクの庇護がギリギリ届く辺境の村で聞いた御伽噺。
その村で古くから伝わる、一風変わった昔話であった。
聞けばこの話の起源は、村の近くで地中より発見された一枚の羊皮紙らしい。
言語を記す媒体として粘土板が当たり前なこの時代において、羊皮紙は大変珍しかった。否、珍しい所の話ではない。羊皮紙が出来るのは、今よりも後の時代なのだから。
またそこに記された文字がこの時代のものでは無いと分かった日には、それを発見した村の長共々、巫女達は嬉々として解読したという。
もしやこれは、神からの天啓なのでは? と。
しかしそこにあったのは、一人の人物について語られていた、言わば叙事詩であった。
曰く、其は始まり。
曰く、理から外れし放浪者。
曰く、凶星を退けし者。
──曰く、時代の王を選定する魔法使い。
書物によれば、その者は古き時代に訪れた
神々と肩を並べ、その時代の王を選び、人々と共に滅びに抗った魔法使い。
ここまでならばただの昔話。聴いて心躍る一つの英雄譚だ。
しかしさらに興味深いのはここから。
記された文字の中に、こうあったのだ。
曰く、その者は不死者である。故に、今もまだ生きているであろう、と。
「その時代の王を選定する魔法使い。もし本当にいるのなら見てみたいものです。ところで、珍しい事にお兄さんの格好は余り見慣れないものですね。……
思慮深さを感じる紅の双眸からは、幼さよりも王としての資質が姿を覗かせている。
それに応じて、彼の周りを飛ぶ光の鳥──ルフが騒めく。
それは世界に愛されている証。嘗て七海の覇王と呼ばれた男がそうだったように、運命を……世界の舵を取る器の証左。
紛れもなく、目の前の少年は人類の転換期の中心となる英雄王なのだと、男は改めて痛感する。
激しく鳴動するルフを視界に収めて嬉しそうに顔を緩めた。
「……世界の節目に
「……?」
「うん。……僕の名前はユナン。旅人さ」
ルフがその邂逅を祝福するように、二人の周囲を飛び回っていた。