拝啓、最古の魔法使いはじめました。 作:ヤムライハさんの胸の貝殻になりたい
あ……ありのまま、今、起こった事を話すぜ。
目が覚めたら全裸でベッドの上だった……!
な、なにを言っているのかわからねーと思うが、俺も何をされたのかわからなかった……。
というか、理解出来るわけがなかろーて。
会社の帰り久々の残業をこなし疲労困憊の中、ギリギリで間に合った終電に揺られながら家路に着く。
その最中乗り過ごすまいと重くなる瞼と格闘をしていると、夢現の境に大きな音と衝撃を感じてみれば、その直後に視界は暗転し目が覚めるとあら不思議。なんとそこには見知らぬ天井があったとさ。
混乱に陥る頭で手足を動かすと、視界に移るのは愛らしいまるっとしたお手手じゃありませんか。
上体を起こそうにも頭が異様に重く、体は言うことを聞きません。
こうなりゃ最終手段だ! とばかりに助けを呼んだが、口から出てくる言葉は「あうぅ」だの、「あいういやー」だのまるで異星の言葉です。
少しの沈黙の末、そこまで出来の良くない我が頭脳はある一つの答えを導き出しました。
──あれ、これ……転生じゃね?
そう考えると辻褄は会うのだ。
まともに喋れない口、丸々とした人形の様な手、全裸の体に異様に重い頭。
これはもう赤ん坊の特徴だろう。
自分の全身像を見る事は叶わないが、きっと鏡が目の前にあったのなら愛らしい赤子が死んだ目で映るに違いない。
もし仮に生まれ変わったとして、死因は恐らく乗っていた電車の脱線事故とかだろう。
あの時感じた大きな揺れと轟音は、普通に走っていれば聞こえてこないものだ。
もしかしたら睡魔に負けて夢を見ている可能性もあるが、そうだった場合はいつか夢から覚めるので問題ない。
今考えるべきは、これが夢や幻じゃなかった時の場合だ。
転生したとして、ここはどこで知っている時代なのか。それとも違うのか。正解はどれだろうか。
小説や漫画では異世界などに転生しているのが、腐るほどに見たテンプレというやつなのだが……。
「────」
奥から誰かが来たようだ。
黒い髪を束ねた一人の女性だった。
何かを話しているみたいだが、何語か分からない。まるでスペイン語とフランス語の中間のような言語だ。
あ、いや、スペイン語とフランス語を喋れるわけでもなく知っている訳でも無い。何となくそういう雰囲気だと思っただけである。
と言うよりも、服装が簡素だ。
トルコの民族衣装カフタンに近しい、布一枚を上から被っただけの格好をしていた。
女性の方を見ていると、そっと首に手を添えられながら持ち上げられた。
この体はまだ首が据わっていないのだろう。
持ち上げられた際に女性の全体像を見る事が出来たが、その女性は裸足だった。床は天井と同じく石造りで、現代の石材加工技術を知っている身からすれば、ただの岩と変わらない程度の粗さだと言うのに。
だと言うのにその女性は裸足だった。
痛くないのだろうか、と思いつつ段々この世界の時代感が掴めてきた。
「────」
また女性が何かを呟いた。
そして次には服をはだけさせて、その黒髪の女性は胸を露出させる。
マジか……。
ああ、どうやら自分は生きる為に数年は女性の胸を吸い続けるという羞恥ぷれいに耐えなければならないらしい。
見るものが見れば「ご褒美だろうがぁ!」と叫ぶかもしれないが、性欲も何も無い赤ん坊の状態で、しかもシラフな精神状態でそれをしなければいけないのはただの罰ゲームと変わりないと思う。
いや、赤子の自分の為にしてくれている母親にその言い方は悪かった……。反省である。
けど、恥ずかしいものは恥ずかしいなぁ、と思わずには居られなかった。
まあ、結局吸ったんですけどね。え、お腹いっぱい吸いましたが何か?
1
天を向く黄金の穂波が揺れる。ゆらり、ゆらりと舞のように。
麦は風に煽られて踊り、大地の匂いを内包した気流は緩やかに世界を駆ける。
頂点へ至った太陽が万象を照らし、汗水を流して人は時の中を生きる。
時代の名は「──」。
有史以前、まだ神々が存在し、真に人の時代が訪れていない遥か古代。
先史神話文明とも呼ばれるその時代の渦中、麦の海の中に一人の少年が生きていた。
少年の名はユナン。
別世界の遥か未来、その時代の記憶を保持した幼き少年だ。
ユナンの背には、こと切れた小さな獣が背負われていた。
如何に小さいと言えども獣には変わりなく、子供が背負うには少々苦労する。
だが、そんな事に文句をたれることも無く、黙々と麦の波を掻き分けて家へ進む。
少しすると、小高い外壁に包まれた一つの村が見えてきた。
あれがユナンの住む村。神々の庇護下にありながら、その辺境さ故に神の加護が薄い人の住む場所だ。
「今日は随分と大きいな」
村に入ると、出迎えてくれたのは嗄れた一人の老人。
ユナンの背負う一匹の獣を見ながらそういう。
仕掛けた罠が上手くいったんだ、とだけ言うと最低限の挨拶だけしてその場をあとにする。
村の奥に進むに連れて、見知った顔の住人達が次々と声を掛けてきた。
一人一人に雑に応えながら歩みを止めず、重い背中の食料を背負いながら母と暮らしていた家を目指す。
ユナンの住む家は、村の入口から東の方にあるのであと少し歩けば着く頃合いだ。
あと少しで着くという所で、一人の女性を見つけた。
「ご苦労さま、あんたも大変だね。どうだい、良かったら今晩は家で食べていかないかい?」
何処か心配そうに声をかけてきたその女性は、ユナンの母と仲が良かった近所に住む女性だった。
数年前に流行病で母が他界してからは、忘れ形見のユナンを目に見えてわかるぐらいに気に掛けてくれている心優しい知り合いだ。
女性の家族も子供一人で暮らすユナンを案じて、日に何度か様子を見に来てくれる。
父のことは知らない。文字通り生まれたその時から顔を見たことがないのだ。
だからといって困ることはないので、気になったことも無い。
女性の言葉に、首を横に振って応える。
女性は答えが分かっていたのだろう、「そうかい」と苦笑いを浮かべた。
残念そうな彼女の顔に申し訳ないなと思いつつも、礼だけを述べて再び歩みを進める。
ユナンが女性の誘いを断ったのには理由があった。
もちろん迷惑を掛けたくないということもあったが、それよりもユナンには誰にも言えない秘密があったのだ。
実は他の人と食事をする約束をしていただとか、実は最近断食を始めたのだとかでは無い。
ただ人には言えない、少しばかり難しい秘密。
「着いた」
石造りの階段をのぼり辿り着いたのは、二階建てのこじんまりした一つの家。
ここがユナンの住処だ。家の中はサッパリしていて、ある物は最低限。
二人分の食器類と壁に立て掛けられた干物、夜の寒さを凌ぐ薪と農耕具。
娯楽らしい娯楽もないこの時代では、ユナンの家の中は一般的と言えるだろう。
仕舞ってあった大きな毛皮を床に敷き、その上に血抜きの終えた獣を置く。
これから解体作業に入るためだ。
今日の食事分を切り分け、食える部分を保存し、保存し切れない余った部分は近所に分け与える。
そうすることで今度は近所の住民がそのお返しに、次回は別のものをくれたりするからだ。
ある時は作物、ある時は道具、ある時は同じように獣の肉を。
さていよいよ作業に入るぞ、と立てかけてあったナイフを手にした時。
──ヒラヒラ。
光る小さな鳥が周囲を飛んだ。
またか、と小さな溜め息が漏れる。
邪魔にならないようにその鳥を手で優しく祓いながら、解体作業を再開する。
しかし直ぐにナイフで獣を切る事はなかった。
「
呪文を唱える。
直後、リィィンという甲高い音と共にナイフの刃が高速で振動を開始した。
スっと、強靭無比な獣の皮がまるで豆腐のように刃を通す。
その切れ味はまさに魔剣のそれであり、何処の家にもあるようなナイフが持っていていい鋭さではなかった。
ともすれば大きな岩をも一息の間に両断出来るだろう。例え素人が握ろうと、齎す結果は変わらないに違いない。
凶悪なまでの殺傷能力を秘めたナイフ──否、魔法。
杖を全てを粉砕する槌に、錆びたナイフを必殺の魔剣に、全ての道具に殺傷の力を与える攻撃的な魔法。
それを獣の解体作業を楽にするために、ユナンはナイフへ付与したのだ。
気が付けば獣はその原型を留めず、食料に早変わりしていた。
ふぅ、と額の汗を拭う。
一息ついて休んでいると、漂っていた光る小さな鳥がユナンの指に留まった。
キラキラと輝きを放つ、光の流動体。
それは生きとし生けるもの、全ての魂の故郷。魔力という概念物質を生み出し、この世のありとあらゆる自然現象を発生させている大いなる小さな存在。
その名を──ルフ。
人の目には、蝶の形をした光の流動体として認識されているが、魔法使いの才をもった者たち以外は、特別な道具を使用したり何らかの条件で高密度にルフが集合しない限りは、その姿を目視することはできない。
また生まれつき彼らと語らい、その力を使うことが出来るのはさらにひと握りだ。
……ここでは無い別の世界に、“マギ”と呼ばれる存在がいる。
マギとは魔法使いの最上級であり、自分以外のルフからも体力の続く限り魔力を集めて使う事が出来る特性を持っている。
通常魔術師、ないし魔導師は自身の保有する魔力のみを対価として、神秘の使用を可能とする。要は車における燃料が、魔術師の魔力という概念だ。
しかしマギはその法則から外れた存在。魔力を生み出すルフから、自身の限界が来るまで常に魔力を供給することが出来る。
すなわち理論上は際限ない魔力を有する、魔法使いの頂点と言っていいだろう。
また時代の節目に現れてその時代の王を選定する魔法使いでもある。
端的に言って規格外の存在なのだ。
さて、ここまでマギやルフについて語っていたが、それらすべては創作された作品の中に出てくる設定の話だ。
その作品の名は“マギ”。かつてユナンが現代で生きていた頃に読んでいた、書物に登場する存在たちのことであった。
しかし何故、想像上の概念でしか無かったルフが存在し、こうして実際に力を貸してくれるのか。
生きてきたこの十年、既にここが夢の中などではないと理解している。
ならばユナンが転生したのはマギの世界の中なのだろうか?
その答えはまだ分からない。
なぜなら、村の誰に聞いても“アルマトラン”や“ソロモン”について知る人物は誰もいなかった。
マギの世界に住んでいるなら誰でも知っているであろう、“ダンジョン”や“シンドバッド”の事もだ。
ソロモンはこれから生まれるのだろうか、それともここは似通っただけの別の世界なのだろうか。
ユナンがその判断を下すのは、まだまだ先のことになりそうだと、心の中で零した。
やがて指から飛び去ったルフに「ありがとう」と礼を言いながら、ユナンはお裾分け用の肉を持って外へ出た。
その日の夜、結局近所の女性の家族に捕まる形で、無理やり食事を一緒にすることになるのだった。